恐怖日和

黒駒臣

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刹那の恋人






「はあぁぁぁ」

 夕日に染まる土手の斜面に三角座りし、滔々と流れる川を眺めながら深い溜息を吐いた。

 地味で冴えないわたしは生まれてこの方、恋人がいたことがなく、片想いする男性すら見つかったこともなかった。

「はあぁぁぁ」

 それでも二十代前半はまだよかった。仕事や趣味に没頭して、親や親戚が口癖のように言う『はよ結婚しい』も気にならなかった。
 だが、二十代後半が過ぎ、三十代に突入すると、この人生も悪くないと納得しつつも、心のどこかで物悲しさを感じていた。

「はあぁぁぁ」

 立てた両膝の間に顔を埋めて三度目の溜息を吐くと、「クスクス」と横から笑い声が聞こえた。
 顔を上げて隣を見ると、いつの間にか若い男が同じように座っている。

「おねえさん、めちゃくちゃ落ち込んでるやん」
「いやぁ落ち込んでるわけやないんやけどね」
「男に振られたん?」

 こいつ生意気やな。

 そう思いながら口には出さず、わたしは無言で川の流れを見つめた。

「ごめん。怒らしてもた」
「怒ってるわけやないけど……初対面の男のに言われたないなぁ思て」
「怒ってるやん」

 鼻筋の通ったなかなか美形の若者は悪びれもせずクスクス笑う。

 眼福づらしてる割にほんま失礼なやつやな。

「僕もね、振られたんよ。ショートカット似合うかわいいに片思いしてたんやけど……」

 初対面でいきなりそんなこと言われても……距離感わからん子か?

「僕もて、わたし振られてへんし一緒にせんといて――ていうかあんたウソやろ。こんな男前振られるわけないやん」
「フフフ、男前て――イケメン言うてよ」
「自分で言うな、自分で」
「おねえさん面白いな」

 面白いて……やっぱり、きれいとかかわいいとかみたいな形容詞は言われへんなぁ。当たり前っちゃ、当たり前やけど。

「僕、キスしたことないんよ……」
「いやいやいきなり……そんなん知らんし」
「おねえさんは?」
「え?」
「キスの経験あんの?」
「そ、そんぐらい、あ、あるわ。――って、訊くなっ!」
「フフフ、ないんやぁ」
「うるさいっ」
「いっぺんやってみる?」
「は?」
「恋人いうていで僕と」
「え……いや……え?」
「僕とキスして」
「いやいやいやむりむりむり」
「死ぬまで一回ぐらいキスしとかな」
「あ、あんた……死ぬまで一回ぐらいって、ほんま失礼過ぎるで。わたしかてまだまだチャンスはなんぼでも――ひゃっ!」

 いきなり目の前に顔が来て若者の唇がわたしの唇を塞ぐ。

 ひゃっこ――え? キスてこんなん? 

 まったく経験のないわたしが氷のようなやけに冷たい感触に驚いていると、唇が離れてにやにやした顔が見えた。

 揶揄われおちょくられたんや。

 頭に血が上り、抗議しようと思ったところで、何かに両足首を掴まれ、身体が斜面を滑り落ち、川へと引き摺られていく。

「きゃああっ、助けて」

 慌てて周囲に生えている雑草を掴んだが、ぶちぶちと簡単に引き千切れ、あちこち掴んでみたものの確実に身体を止めるためのものが何もない。

「いやあっ、なにこれっ、助けてよっ」

 若者に助けを求めたが、何の反応もなく。

 掴まれた足がじゃぼっと水の中にはまり込んだところで身体の滑りが止まった。男性の大きな手が脇を持って止めてくれている。

「遅いっ」

 さっきの若者だと思って怒鳴ってしまったが、違う青年が上からわたしの顔を覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?」

 青年は不躾を気にすることもなく、川から足を抜いて身体を起こしたわたしに手を貸しつつ気遣いも見せてくれる。

「あ……ありがとうございます」

 靴はびしょびしょだったが怪我もなく、ほっとしたと同時に、羞恥で顔が赤くなってくるのがわかる。

「す、すみません。怒鳴ってしもて……」
「いえいえ、誰か連れがおったんですか?」
「連れいうか、なんちゅうか……」

 周囲を見回してもさっきの若者はいなかったので、「ちっ、逃げたんか?」と舌打ちした。

「も、もしかして誰かに突き落とされたん?」

 青年は眉を顰め、ズボンの尻ポケットから出したスマホを操作しようとしたので、通報されては一大事だと、「ちゃちゃう」と慌てて止めた。

 確かに足を引っ張られたが、あの若者は自分の真横にいたので彼ではない。かといって、引っ張った者がいたのかと言えば定かではない。

 キスされたショックで滑ったとか?

 足首には冷たい手で掴まれた感触がまだ残っているような気がして納得できなかったが、そう思うしかなかった。

「いっくん、大丈夫なん?」

 土手の上からかわいらしい女性の声がした。

 見上げると若い妊婦が不安そうな表情でこちらを見下ろしている。

「大丈夫やで」

 いっくんと呼ばれた青年は手を振りながら優しい笑顔で返事した。

 わたしは夫婦水入らずの散歩を邪魔してしまったのだと気づき、奥さんに頭を下げた。
 安心を表情に乗せ奥さんも笑顔を返す。

 うわ~、めっちゃええ人たちや。

 さらに土手を上がろうとしたわたしの手を取り、青年が一緒に上がってくれた。

 申し訳なくて二人に何度も頭を下げ、奥さんはその度に笑顔でいえいえと首を横に振り、
「ほんまお怪我なくてよかったですね」

 奥さんの言葉に青年も頷く。

「ここ、親友が溺れてうなったとこなんです。そやかい滑り落ちてんの見て慌てました」
「親友……?」
「いっくんの親友やったんですけど、わたしとも友だちやって――」

 奥さんが悲し気に目を伏せた。

「溺れた? ここ泳ぐようなとこちゃうのに? かみのほうやったら遊ぶとこもあるやろけど……」

 わたしの疑問に、

「なんか悩みでもあったんか、突発的に川へ飛び込んだんやそうです。この川、割と深さあるし、丁度大雨降った後やったんで水嵩もあって……」

 青年は重く暗い表情で俯いてくうを見つめていたが、ふと顔を上げ、「おねえさんがどうもなかってよかったです」と微笑んだ。

「ほんまおかげで助かりました。ありがとう」

 わたしはもう一度礼を言い深く頭を下げると、彼らも会釈を返し、二人仲良く手を繋いでゆっくりと去っていった。

 いっくんとショートカット、、、、、、、の似合うかわいらしい奥さん。

 わたしは口に手を当て、氷のように冷たかったあの若者の唇を思い出していた。

                                了

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