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第三章
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薄暗い蛍光灯が事務室前の廊下をぼんやりと照らしている。
なんでこんなに暗いんだろう。
折り重なる死体や散らばる腕や脚などにつまずかないよう注意しながら文也は玄関に向かって廊下を進んだ。
さっきから数分しか経っていないが、もう何時間も経ったような気がした。感覚が麻痺し無残な死体もむせ返る血生臭さも慣れたと思ったが、血の海にぶちまけられた内臓を見ると吐き気を催した。
玄関ホールに着いた。ガラス扉にはぼんやりとした蛍光灯に照らされた死体の山と文也が映っていた。自分だと信じられないほどやつれた顔は、そこら中に転がる死体となんら変らないように思った。
電源が落とされているのか、自動ドアは近づいても開かなかった。手動で開けてみようとしたがびくともしない。
文也は外の様子を窺うためにガラスに張り付いた。
信号機も街灯もネオンもなぜか薄暗く、立ち並ぶビルやマンションの窓には明かりすら灯っていない。深夜でも交通量のある大通りだというのに一台の車も走っていないし、通行人もおらず、助けを求めようと思っていたが当てが外れた。
静かだと感じた時は男の気配ばかりに意識を集中していたのでその違和感に気付かなかったが、これだったんだ。
外でも何かが起こっているのか。お母さんは来られるのだろうか。
文也は不安でたまらなかったが、母との電話が繋がったことに希望を持った。
でも、あれからかかってこない。
その時ポケットの中で携帯電話が震えた。思わず声を上げそうになるのを耐え、血で濡れた手をズボンの尻で拭ってから電話に出た。
2
「もしもし。もしもし」
呼び出し音の途中だが、今にも消えそうな音を繋ぎ止めるように文也に呼びかけた。
早く出て。
薄暗い路地で大声を出す佑子を数少ない通行人が訝しげに通り過ぎていく。
後方から来た軽自動車のヘッドライトが祐子を照らし、容赦ないクラクションを鳴らす。
舌打ちしながら自転車を路肩に寄せ、車が走り去るのを待っていたら、呼出音が止まっていることに気付いた。
「文也? 文也?」
長い静寂が続いていたが祐子はあきらめきれずに大声で呼びかけた。
いきなり激しい引っ掻き音が鳴り、その向こうから、
「おか――さ」
ノイズに邪魔されながらも息子の声が返ってきた。
佑子は心の底から安堵し笑みを浮かべた。
「大丈夫なの?」
「だい――ぶ――だよ」
とりあえずはほっと胸を撫で下ろす。
警察が行くからと伝えると文也は安心したようで、祐子もほっとした。
だが、約束を破って用具入れから出たことを知って頭に血が上った。死体の山があると聞き、今度は足元に血が下がる。自転車ごと転倒しそうになったが、何とか踏ん張った。
「どうして、なんで出たの」
我が子が遭遇したことのない恐怖にさらされていることに耐えられず声が震える。
「とにかく早く外に逃げなさいっ」
玄関まで来ているという文也に祐子は叫んだ。
だが、ドアが開かないらしい。
それだけではなく、通りには誰もいないし、走っている車もまったくないという。
そんなはずはない。
ノイズが邪魔をしてそう聞こえるのだろうか。文也の言っていることがわからない。
「とにかく、どこでもいいから出口を探してっ、電話は切らないでこのままにしておくのよ」
祐子はいったん電話を耳から離すと自転車にまたがり勢いよく漕ぎ出した。
早くあの子のところに行ってやらねば。
3
出口を探せと言ったまま母の声は聞こえなくなったが、通信が途切れたわけではなさそうだ。
文也は携帯を耳に当てたまま、もう一度ドアが開かないか試してみたがやはり無駄だった。外の状況も確認してみたが、さっきと変らずパトカーが来る様子もない。
電話が繋がっているだけでも心強いが、本当に母は来られるのだろうかと心配になった。
はっとあることに気付き、文也は顔を上げた。
ドアが開かないってことは、あの男もまだこの中にいるんじゃないか?
その時、目の端で何かが動いたように見え、慌てて振り返った。
こんなところで見つかれば逃げることもできないし、隠れることもできない。全身の皮膚が粟立つ。
約束を破ったことが今になって悔やまれた。
だが、男の姿はなかった。何が動いたように見えたのかわからなかったが、文也はほっとして、母の言った通り出口を探そうと廊下を戻り始めた。
携帯に話しかけてもノイズばかりで母の声はしない。仕方なく繋げたままの携帯をポケットに入れ、死体につまずかないよう注意しながら一つ一つ窓の開閉を確認していく。
だが、クレセント錠を開けていても一ミリの隙間さえ開かなかった。
四年クラスの前を通り過ぎる。中では乱雑に転がる机や椅子と一緒にたくさんの死体が折り重なっていた。
宮島があの中にいるかもしれないが確かめる勇気もなく、そのまま五年クラスの前を過ぎ、廊下の突き当りまで来た。
非常口も期待はしていなかったが、とりあえずノブのつまみを開錠して回してみる。やはり開かず、きっと二階の非常口も同じだろうと思った。
なす術もなくとぼとぼと四年クラスの前まで戻っていくと入口に宮島が立っていた。
全身が血で真っ赤に染まっているが確かに宮島だ。
助かっていたんだ。
ともに逃げる仲間がいたことに喜び、文也の目に涙が浮かんだ。
「宮島――」
だが、呼びかけても親友はじっと突っ立ったままだ。
何かがおかしいと感じた瞬間、宮島の首がゆっくりと胴体から離れて床に落ちた。
首のない胴体が手を伸ばし、文也のほうに近づいてくる。
これは全部夢だ。だって、死んだものが動くはずないじゃないか――そう、僕は今教室で居眠りしてるんだ。で、もうすぐ先生に起こされてこっぴどく叱られて。
きっとそうだ。そうに違いない。なーんだ。はじめっから全部夢だったんだ。
笑顔を浮かべながら文也は靴越しに触れる何かを感じてうつむいた。芋虫のように蠢く一本の手指が血の付いたスニーカーの先を打診している。
これも夢だよね。
微笑んだままぼんやりと見つめていた文也だったが、靴をよじ登り足首に触れてきた指の感触にぞっとして思わず脚を振り上げた。
高く飛んだ指が音を立てて血溜まりに落ちる。
文也の意識がはっきりと戻った。
これは夢じゃないっ――
目の前にまで迫っていた首のない宮島を突き飛ばし、文也は玄関に向かって走った。
廊下に転がっていた死体も動き出していた。歩く死体に這う死体。腹から飛び出した内臓までもが意思を持つ生き物のように蠢き、すべて文也のほうへと進路を向けている。
事務室の前では割れた額から赤い粘液を垂らした河津が立ち上がって文也を待ち構えていた。
胸から腹まで縦に裂かれ腸を引き摺りながら塚田が事務室から出て来る。胴だけでなく顔も斜めに打ち砕かれ、左の眼球がぶら下がっていた。その背後に宮島と同じ首のない死体がついてくる。ネクタイの柄が佐野だと示していた。
文也は力の限り河津を突き飛ばした。
仰向けに倒れた河津を踏み越えて塚田がよろよろと両腕を伸ばす。それも思いきり突き飛ばすと真後ろにいた首のない佐野とともに血溜まりの中に倒れ込んだ。
文也は顔に跳ねた内臓の汁を手で拭った。
玄関ホールは死人たちであふれていた。立っているものは床を這うものを踏みつけながら所在なげに歩き回っていたが、文也に気付くと一斉に進路を揃えた。
その中に真奈香がいた。体の真ん中、頭の先から下腹部まで無惨な縦の切れ目が入っている。濁った左右の瞳がそれぞれ違うほうを向いていたが、文也を見ると焦点を合わせた。
一歩二歩と真奈香が近づいてくる。その度、分断された箇所がずれ、目の前に来た時には左右真っ二つに割れた。粘った音を立てて内臓が床に散らばる。真奈香の左右ばらばらの体は時計の針のように床をぐるぐる回り、それ以上こっちに近付いてくることはなかったが、それぞれの目だけは文也を見つめ続けていた。
押し寄せる死人を突き飛ばし、母の姿を期待して玄関から外を確かめたが、母どころか車も人通りもまったく見えず、さっきと何一つ変わっていなかった。
携帯電話を取り出し呼びかけても、ノイズばかりで母の声は聞こえない。
血と脂の臭いを撒き散らしながら次々と迫ってくる死人はいくら突き飛ばしてもきりがなかった。
ただ、映画で見るようなゾンビとは違い、噛みついて来ないのだけが救いだ。
でもこの先どうしていいのかさっぱりわからない。
どこもかしこも血で染まり、自らも死人と区別がつかないほど全身が真っ赤に濡れている。
「おかあさぁぁん。おかあさぁぁん」
文也は泣きながら電話で呼び続けていたが、ひっと息を飲んだ。涙に霞む視線の先に死人たちに混じって男が立っていることに気付いたのだ。
右手には鉈、左手には佐野の生首をぶら下げていた。佐野の目は狂った猿のようにきょろきょろと辺りを見廻している。
返り血のこびりついた顔を歪めて笑うと男は文也に生首を放り投げた。
とっさにそれを避け、男を睨みつけた文也は事務室に走り込んだ。蠢いている死体のパーツを蹴散らし、受付カウンターの壁に設置されている鍵掛から屋上の鍵を取ると、後ろから近付いてくる死人たちを突き倒して廊下に走り出た。
目前に来ていた男の鉈が音を立てて鼻先をかすめる。それに躊躇することなく文也は階段に向かって走った。
逃げられるだけ逃げるんだ。
上から落ちながら下りてくる死人たちを踏み越えて階段を駆け上り屋上を目指す。頬を流れていた涙はもう乾いていた。
後ろからは死人たちと共に男が階段を上がって来る。文也の心を弄ぶようにゆっくりと確実に一歩一歩前進してきた。
ここから出られるという確証はないが、とにかく屋上に行くことだけを考え、三階の階段ホールまで駆け上がる。
血の床を内臓を引きずりながら這う上半身だけの死人が手を伸ばしてきた。上手く飛び越えたつもりだったが、足首をつかまれ文也は転倒した。そいつが腹の上に這い上がってきて体を起こすことができない。
すぐそばまで男が迫っている。鉈を持つ手の甲が盛り上がるのが見えた。
死人をなんとか振り落として立ち上がった文也は屋上への階段を上がろうとした。
だが、再び足首をつかまれ動けなくなっている間に、死人たちに取り囲まれた。その中心に立つ男が凝った血のような赤い目を細めて嗤った。
4
祐子は薄暗い路地から塾のある大通りへと出た。色とりどりに輝いているネオンや行き交う車のヘッドライトが眩しい。
大通りにはたくさんの車も人通りもあった。
ほら、やっぱりわたしの聞き間違いだったわ。こんなに賑やかじゃない。いったい何をどう聞き違えたのかしら。
祐子は文也に呼びかけた。が、返事はない。
さっきから何度も呼び掛けていたが、ずっと応答がなかった。ノイズが聞こえているので通信が切れているわけではなさそうだ。
赤色灯の反射する北尾塾の外壁が見えた。歩道の街路樹の脇に所在無げな姿で健夫が立っている。路肩にはパトカーが一台止まっているだけで緊迫した様子はなく、祐子はとりあえず安心した。
「あなたっ、文也は?」
祐子は自転車のスタンドを立てながら訊いた。
「今、中を調べてくれてるよ」
靴音を立てて二人の警官が玄関の階段を下りてくる。
「あ、お巡りさんどうでした?」
健夫が尋ねた。
「お母さんが通報されてきたようなことはまったく起きてないんですが――」
二人の警官は顔を見合わせ、困惑の表情で北尾塾を振り返る。
「ですが?」
聞き返す健夫の表情が曇り始めた。
「その――誰もいないんですよ。先生や事務員の方たちも生徒さんも」
「誰もいない?」
「きょうはどこか別の場所に移動するとか、言ってなかったですか?」
腑に落ちない表情を浮かべた警官たちは健夫を通り越して、祐子を見た。
「そんな予定は聞いてません。
で、どうなんですか? 本当に殺人事件は起きてないんですか? 電話で文也が言ったんです。塾に男が侵入してきて先生や友達を襲っているって」
「うーん。おかしいな――さっきも言いましたけど、そんな事件があったようにはとても見えないんですよね」
大通りを走る車のヘッドライトが二人の警官の端正な顔を照らしては過ぎていく。
「でも確かに言ったんです。鉈で頭が割られるのを見たって――」
恐怖で堪えきれず祐子は喉を詰まらせた。
我が子の見たものがどんなに恐ろしいものなのか、想像もできない。
「受付のスケジュール表で見たんですが、きょう塾長さんは出張らしくて、一度そこに連絡を取ってみます。
お父さん、お母さん、もうしばらくお待ち下さい」
そう言うと二人の警官はパトカーのほうへと移動し、無線で報告を始めた。
それを眺めながら祐子は北尾の顔を思い浮かべた。丸顔の人の良さそうな塾長はいつもにこやかに微笑んでいるような人だった。
「大丈夫だよ。何にも心配いらないよ」
健夫が祐子の肩を抱き寄せる。
何の根拠があってそんなことを言うのか。
祐子は苛立ち、肩に置かれた手を振り払いたい衝動に駆られた。だが健夫は文也の声を直接聞いていないのだから仕方ない。それに自分を不安にさせない思いやりなのだともわかっている。不安でたまらないのは健夫も一緒なのだ。
手の中にあった携帯電話から微かな声が聞こえていることに気付いた祐子は慌てて電話に出た。
「文也っ」
叫ぶ祐子の手から健夫が電話を取り上げる。
「文也っ、どうした何があった」
その声に警官たちが振り向いた。
祐子は息子の名を何度も呼び叫んでいる健夫から電話を奪い返し、自分もその名を呼んだ。
だが、母に助けを求める文也の絶叫が聞こえ、その凄まじさに祐子の膝が我慢できずにくずおれる。
健夫が再度、祐子の手から携帯をもぎ取ったが「切れてる――」と言って項垂れた。
駆け寄ってきた警官たちも代わる代わる電話を確認してみたものの首を横に振るだけだった。
「お母さん助けてって、あの子が、お母さん助けてって――文也ぁぁどこに行ったのぉ――」
警官から返された携帯電話からは、ツーツーという音が鳴り続けるだけで、ノイズも風の吹く音ももう聞こえず、二度と文也に繋がらないのだとなぜか祐子にはわかった。
携帯電話が手からすべり、石畳の上に音を立てて落ちた。それを拾うこともせず祐子は北尾塾を見上げる。
蛍光灯が玄関や廊下を白々しく照らしていたが、どんなに目を凝らしても、そこには誰もいなかった。
応援ありがとうございます!
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