虹色浪漫譚

オウマ

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 一体、何がどうなったのか。自分の身に起きた一切のことが分からないまま目を開ける。
「……ん……あ……? っひぃいいいいい!!」
 目の前の光景に思わず悲鳴を上げた。
「あ、貴方……。髪……。髪が……」
 何がどうしてどうなってこうなったやら、頭を丸めた士郎さんがスゲー怖い顔で俺を凝視している。あの肩に掛かるくらいあった波打つ剛毛は何処へ消えたのか、なんで綺麗サッパリ坊主頭なのか、なんでそんなに怖い顔をしているのか……。
「っ……馬鹿者め!!」
 俺を真っ直ぐに見て士郎さんが怒鳴った。凄い声。わけも分からないまま身体がすくみ上がって、涙がいっぱい溢れた。
「此処は……、何処……? 俺、どうして……。此処は、冥土じゃないのか……?」
 俺は、哉代様と海に身を沈めたはずだ……。そんでそのまま死んだはずだ……。だとしたら此処は冥土のはず。だけど、此処はどう見ても何処かの病室だ。一体……。
「いっ!?」
 突然バチンとほっぺに電気が走った。……痛い。士郎さんが、士郎さんが、俺を、叩いた……!
「うっ……うああああああああん!! 痛いよー!! 痛いよおおおおお!! ああああああああん!!」
 どうにも驚いてしまって、ほっぺを押さえて、わんわん泣いた。男の人に手を挙げられたのも初めてで、いや、そんなことより何より、痛いってことは、生きてるってことだ。俺、生きてるんだ……!
「ああああん!! こっ、此処はどこ!? どうして……っ! あの方はどこ!? 士郎さっ……俺はどうして!? なんで!? あの方はどこ!? うわあああああああん!!」
 嗚呼、哉代様! 哉代様、哉代様、哉代様――!
「付き合いきれん!! こんな出来の悪い嫁などこっちから願い下げだ!! 離縁してもらう!!」
 怒鳴りながら士郎さんが俺の胸に何やら書類を叩き付けた。それから……優しく頭を撫でてくれた。
「士郎……さん……?」
「歩けるようなら、隣の部屋に行ってみなさい」
 士郎さんが優しい声で言って、大きな手で俺の頭をぽんぽんと叩く……。
「……あの方も、生きている……?」
 聞くと士郎さんは頷いて答えてくれた。
 哉代様も、生きている……! 良かった、生きている……!
 何より安堵したところで、叩き付けられた書類をよくよく見つめる。……これは、離婚届だ。もう士郎さんの名前も記入されてるし印鑑も押されてる離婚届……。
 何がなんだか、混乱して分からないから整理してみる。俺も哉代様も助かって、そんでもって俺は今、離婚届を突き付けられたわけだ……。
 ようやく、状況が、飲み込めて、きた。
「あっ、貴方……! 御免なさい……! 御免なさい……! わ、私……、寂しくて……寂しくて……! あの方が、そんな私を救ってくださった……! わ、私っ、辛抱足らぬ妻でした……! うわああああああああん!! 御免なさい御免なさいいいい!!」
 申し訳なくて申し訳なくて……。泣きながら何度も頭を下げた。そんな俺を見て士郎さんが大きく溜め息をつくのが分かった。
「もういい。これからは自由に生きていいんだ、水姫。……でも、俺は自ら死を選ぶことは認めない……! 強く生きなさい」
 言って、背を向け去っていく士郎さん。咄嗟に手を掴んで引き止めるも、お前が縋るべきはもうこの手ではないとばかりに振り払われてしまった……。
「士郎、さん……! お、お世話に、なりました! 今まで、ありがとう御座いました!」
 深々と頭を下げ、大きな背中を見送る。
 俺、士郎さんを、失ってしまった……。
 胸の奥に広がっていく空虚。遠ざかって行く下駄の音をぼんやり聞きながら、何故か初夜を思い出していた。
 あの寝室、士郎さんが蝋燭を消しちゃったら障子越しに差し込む僅かな月明かりしかなくて、殆ど真っ暗で、どうしたらいいか戸惑っていたら大きな大きな影が俺の上にのしかかってきたの。そんで目を閉じて黙って辛抱してろって、目を手のひらで覆われて……。
 貴方は事の最中、何も言わないの。ずっと黙ってるの。だから俺は余計にどうしていいか分からなくて、ただ裸にされてしまったことが恥ずかしくて、あそこが痛くて、貴方が怖くて、早く終わらないかなって思いながら声を上げないように歯を食いしばって必死に敷き布団を握ってた。
 それでも、俺はあの時、確かに幸せだった。愛してもらえて、幸せだったんだ。静かな営みの最中、貴方の爆発しそうなくらい大きな鼓動が聞こえて、俺、ちゃんと愛されてるんだって思って、幸せだった。
 本当は、分かってた。貴方は言葉にするのが、とても下手だから。何も言わないことが貴方の優しさなんだって、分かってた。
 どんなに料理が手抜きでも、どんなに味付けを失敗してても、そりゃ眉間に皺を寄せることはあってもいつも貴方は文句を言わずにご飯を食べ切ってくれた。俺が遊び歩いたって何も言わない、放っておいてくれる。街で変なもの買ってきたって文句言わない。何したって、大概のことは黙って許してくれた、それが貴方の愛だって分かってた。
 でも、俺は、言って欲しかったんだよ。
 正直に、飯がマズイ時は飯マズイよって、言って欲しかった。
 仕事が辛い時は素直に愚痴をこぼして欲しかった。
 黙って距離を開けて先を行ってしまう貴方はいつまで経っても遠い人。
 俺は、もっと貴方に近くに来て欲しかったんだ。もっと側にいて欲しかった。貴方が仕事に向ける熱心な目を、俺にも向けて欲しかった……。
 だけど、もう、本当に終わってしまったんだね。当然だね、俺が、それだけのことを、してしまったんだもの。
 涙が溢れて溢れて、止まらない。
「……哉代様……」
 胸の奥に広がった空虚。埋めることが出来るのはただ一人。足は自然と隣の病室へ向かっていた……。
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