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奴隷、アルバイトを始める

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 その書類を受け取ったのはラフィエールだった。
 最初に見たときは目を丸くしたが、直後にくつくつと笑いをこらえた。ここ最近は笑いをこらえる事が多いな、とラフィエールは人知れず思った。
 デスクの上に置かれた書類を、軽く二度見した。しかし変わらない。今度は爆笑しそうになった。実際こらえきれずんふふと鼻から息が抜ける。
 書類を持ってきた赤髪の部下は、初めて赤いほうのボスを尊敬したなあ、と思った。それもそれでそこそこひどいのだが。
 ラフィエールは、まるで聖遺物か何かを扱うように丁寧に、ていねいに机の上に置いた。机の引き出しから取り出したただの判子が、わくわくがいっぱいの世界への切符のように見えた。そしてそこに最高責任者の印を押すと、赤髪の部下は大丈夫ですかと心配気に聞いてくる。

「大丈夫だよ……んっふ、いちお、本人の希望だから、ね? ……くくっ」

 にやにやと笑うラフィエール。
 赤髪の部下は、あらゆる意味で自分の上司であるこの男を尊敬したのであった。主にもう一人の恐ろしいボスに抗える的な意味で…………。





「ふう」
 べちゃり、と水を含んだ重い毛羽が落ちる音がする。
 茜はあたりを見渡した。ガラスでできた壁は外の景色をよく映す。フローリングの床にしみこんでいく水をみて、人知れずにこりと笑った。カウンターやテーブルが部屋面積に比べてすこし少なめに置いてある。今日から我が第二の職場になった、マジレセオに出店している個人経営のカフェだ。とりあえずモップで床をすべて磨き終えると、「マスター、終わりましたー」と快活に叫んだ。
 そう、茜はバイトを始めたのである。この前マスターに直談判をしたのだ。あたたかなハニーブロンドのカウンターで頬杖をつくマスターは、50代の気のいい男性、ともすれば「おじいちゃん」と呼んでしまいそうな優しい人である。
「じゃ、次はテーブルを拭いてねぇ」
「わかりました」
 元気に返事した茜の服装は、控えめな光沢を放つ紺色の膝上丈のワンピースに、白いニーハイソックス、清潔なフリルエプロン。マスターの趣味なのかロザリオをかけており、身もふたもない言い方をすれは、

「やっぱいいと思わない? ウェイトレス」
「うん、やっぱり華があるねぇ」
「あんたのとこには……ミアットだっけ? 茶髪の嬢ちゃんがいるじゃないか」
「ああ、ミア、この前商店街で遭難しかけてねぇ、むしろひきとってほしいぐらいなんだけど」

 カウンターに腰かける中年の気のいいおじさん……の隣に座る、桃色の瞳の男。ラフィエールは、無理してこの制服通してよかったなあ、としみじみ思っていた。茜はガブリールの補佐であるが、ガブリールは大変有能であり、茜の補佐はほぼほぼ必要ないので、こうして茜はバイトを始めたのだ。ちなみに最近した仕事らしい仕事は、「赤信号でも構わず渡ろうとするガブリールをいさめる係」である。もはや仕事ですらない。とりあえずすぐにでも借金を返したい茜は、焼け石に水だとしてもやらないよりはマシだ、と申し込んだのがここである。

「あ、アカネ。注文よろしく!」
「はーい」

 何よりそんな目標に燃えている茜は、気立てよくくるくると働くので、ハムスターが必死にかごの中で回るのをみるようで、ひそかな癒しキャラとなり、「茜を守る会」などというものが作られたほどだ。

「お待たせしましたぁ、ご注文をお伺いします」
「ンー、じゃあハム玉サンドイッチ、それから食後にケーキセットをもらってもいい?」
「わかりました。マスター! ハム玉サンドイッチとケーキセットお願いします!」

 まるで子犬がボールにじゃれつく様子を見るような瞳で茜を見るラフィエール。しかしそれはすぐに愉悦に塗りつぶされる。もしこの様子を我が兄貴に見せたらどんな顔をするだろうか、ラフィエールには容易に想像できた。後悔と怒りと喜びのまじりあった面白い__彼の事をよく知らない人からみたら恐怖しか与えない凶悪な__表情を想像し、笑いをこらえるのには表情筋を総動員した。

「おまたせしました、ハム玉サンドイッチです」
「アリガト」

 甘く柔和な微笑みを浮かべるラフィエールを見て、なぜ兄はこのような笑い方ができないのだろうか、と茜は心底不思議に思った。
 ラフィエールがハム玉サンドイッチを口に入れると、しゃきっとみずみずしい音がした。卵とマヨネーズ、柔らかくしっとりしたハム、マスター拘りの黒パン。おいしいことを想像するのは簡単であった。たしかラフィエールはここに出店した時からひいきにしている、と聞いた。なるほどこりゃひいきになるのも当然だ。
 そういえば、今朝はは朝ごはんを抜いてきたのだった。そう思い出すと、とたんにお腹がすいてきた。今日のお昼はまかないが出るらしい。何だろうか。このハム玉サンドイッチだろうか。それとも裏メニューだという、生ハムサラダだろうか__さすがにそれは高望みしすぎか。まだ見ぬお昼ご飯に、茜の口の中に唾がたまる。
 茜がひとしれずくるるとお腹を鳴らすのと、ばんと荒々しく扉が開かれるのはほぼ同時だった。
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