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ロングプロローグ

ロングプロローグ

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 風もない。
 音もない。
 生者も死者もいない漆黒の空間をケツァルコアトル神が飛んで行く。頭部には先端が矢のように研ぎ澄まされた真紅の羽根が生え、長い尾羽は鮮やかな緑色で、全身は黄金色の羽毛に包まれている。犬のように尖った唇の間から時折ちらつく真っ赤な舌が、蛇の化身であることを思わせるものの、唇近辺を除けば顔立ちは人間のそれで、腰には朱色の布を纏い、その上から剣を帯び、左手には豪華な羽飾りがついた盾を持っている。何ともド派手な神である。
 金星を出発して既に二十日。目指す地球は距離にして四百万キロの彼方である。如何に神の身とて、光のような速度は出ない。音速がせいぜい。音の時速は千二百十五キロ、地球までは休憩無しで百三十七日掛かる計算である。
 彼はあせっていた。急がねばならぬのだ。血と欲望に飢えながら、海を渡ってきた侵略者血達を人間が神と、それも、あろうことかケツァルコアトルと間違えて、大歓迎しているではないか。前代未聞、天地開闢以来の勘違いである。
 ケツァルコアトルがそれを知ったのは、間の悪いことに彼以外は人っ子一人、いや神っ子一神いない金星で惰眠を貪っていた時であった。
 ケツァルコアトルは金星の動きと、メシカ帝国の都テノチティトランがあるアナワク高原の風を司る神である。彼が神官たちに、金星は明け方には東の空に見え、夕刻には西の空で輝いて、二百と二十五日で太陽の回りを一周すると教えたのは、ずいぶん昔のことだが、神官たちはいとも簡単に理解したばかりか、月や火星、木星の運行まで覚えて、一年を三百六十五日とする太陽暦と、二百六十日周期の月暦を、十三の数字と二十の記号、魚・風・家・トカゲ・蛇・死・鹿・ウサギ・水・奇妙な小動物テチチ・雌猿・箒・葦・ジャガー・大鷲・えりまき鷲・動き・火打石・雨・花の組み合わせで表し、一巡目の五十二年を一世紀とする暦を作った。
 メシカとは十五世紀前半から十六世紀初めにかけて、メキシコ高原に存在した王国のことで、後世、歴史家がアステカと名づけたメソアメリカ(中部メキシコと中米)最後の帝国である。
 メシカ族は放浪の末に、神の教えに従い蛇をくわえた鷲がサボテンに止まっていたこの地に定住し、敵対する部族を倒して強大な帝国を築いてからというもの、自然の法則に従って大地に種を蒔き、狩りをし、神を崇める祭りも欠かすことなく続けてきた。時折、他部族との間で小競り合いはあるが大きな争いは起こしていない。アナワク高原の風も、ケツァルコアトルがイメージしたとおり、ある時は荒々しく、ある時はやさしく吹き、高原に咲くコスモスと遊んでいた。
 世の中事も無し。人間世界のことは何の心配もない。さぼっていたのは、こんな理由からである。
 そのケツァルコアトルに侵略者の到来を教えてくれたのは、蛇神ミシュコアトルであった。ミシュは雲、コアトルは蛇、雲の蛇、つまり大星雲を司る神である。
 ケツァルコアトルも奇妙だが、彼はそれより上を行っていた。目の回りから鼻全体にかけて、まるでカラスの面でも付けているかのように真っ黒なのだ。頭には紫の鉢巻をし、襟元に派手なフリルの付いた上っ張りのようなものを着ている。太腿から下はむき出しである。露出癖があるのかもしれない。
 実を言うと彼も又、銀河に寝そべって鼻の穴をほじくりながら、アクビをこいていた。
 こんなことばかり書いていると、神とは怠け者ばかりのように思うかもしれないが、仕事柄仕方ないのだ。人が生きるために基礎となるものを造ると、あとは人間の自主性に任せるようにしている。自分が思ったように人間たちが動いていれば機嫌が良く、褒美に穏やかな日々を続けてくれるし、意に反したことをすれば、天地を揺るがす強風や豪雨。地震などを発生する。
 たとえば、神がトウモロコシを作ったとする。だがそれは最初だけだ。トウモロコシを育てて増やすか、他の穀物を作るかは人間が考える事で、いちいち干渉をしない。既に必要最小限のものを人間に与え終えており、することもあまりなかったのである。それでブラブラしているのだ。怠けている訳ではない。
 そんなことはない。人々の願いを叶える仕事があるではないかと言う向きもおられるだろうが、神は個々のことには関わらないのが原則である。そんなことまでしていたのでは身が持たない。神は生きとし生ける者全てのために火や水を作り、昼と夜を回転させているのであって、受験生や、惚れた腫れたの世話をするために存在するのではない。では神に賽銭や貢物を捧げ、願い事をするのは無駄なことかと言うとそうでもない。神官や巫女さんの生活向上には大いなる寄与をしている。
 本筋に戻そう。
 ミシュコアトルはぼんやりと遙か彼方の地球を眺めながらケツァルコアトルに言った。
「おお、あの四つの島からなる国は、あちこちに戦国大名とやらが出現し、戦いに明け暮れておるわ。いつになったら治まるのやら。可哀想なのは名もなき民だ。戦火に追われ、逃げ惑っておるではないか。あの島を創造した神たちは、何故ほったらかしにしておるのだ。造った後は人間に任せると言っても、限度というものがある。そうは思わぬか」
 「そのとおりじゃが、あの島の争いは人間ではなく、神が、それも我らの仲間が扇動したのが事の起こりじゃ」
 ケツァルコアトルは不機嫌そうに答えた。
 「我らの仲間とは?」
 「テスカトリポカじゃ」
 「人間たちの間に、欲望・敵意・不和の種を蒔く、あの高慢ちきか」
 「そうだ。これまでに四度も世界を破壊した神だ」
 「よその神の支配地で何故?」
 「さあ? それは分からんが、争いが起きるよう仕向けているのは確かだ」
 「我らが創造した二つの大陸からなる国に住む者たちを、相争わせるように仕向けたりはせぬであろうな。彼らは我ら神に感謝することを忘れず、安穏な日々を送っておるのだから…… ウヌッ!」
 ミシュコアトルは北米大陸の大西洋側を見て言葉を呑み込み、目を剥いた。
 「そこにおられるのは、ケツァルコアトル殿じゃな」
 金星の方を向き、確かめるように言った。
 「妙なことを…… 私は間違いなくケツァルコアトルじゃ」
 「地上で、貴殿の名を騙っている者がおりますぞ」
 「私の名を?」
 「ほら、聞いて御覧なさい」
 ケツァルコアトルは耳を澄ました。
 「ビバーケツァルコアトル神! ビバ!」
 「コルーア(由緒ある人)、コルーア!」
 シュプレヒコールが聞こえてきた。いつものように生け贄を捧げた後、自分の像に向かい叫んでいるだけであろうと目をやって驚いた。像にではなく、黒光りする甲冑に身を固め、顎鬚を伸ばした白人に叫んでいるではないか。世の中に神の数は多けれど、羽毛のある蛇ケツァルコアトルと名乗るのは自分だけである。
 「おのれ! 偽者!」
 怒りのため目が釣り上がった。
 神を称える声はタバスコ川が注ぐ入江に停泊している船の甲板から聞こえていた。回りには十隻ほどのカヌーが横づけにされている。
 何故人間を神と間違えているのか、途中からでは分かりにくい。インディオたちが船に乗り移った辺りから、シナリオで会話を再現してみよう。

インディオ甲 あなた方は太陽が生まれる所からやって来たのか?
提 督 さ、さよう。太陽が生まれる所からやってきた。
    船の模様を確認しに行っていたインディオ乙がやって来る。
インディオ乙 (甲に向かって)前の方に赤い羽根はない。後ろに緑の尾羽根はついてない。胴体にも羽毛は生えてない。
インディオ甲 では違うかもしれない。
提 督 何だね、赤い羽根とか、緑の尾羽根とは?
インディオ甲 五百年も前からの予言だ。我々の祖先はかつて、先端に赤い羽根が生え、
緑色の長い尾羽根を持ち、全身を金色の羽毛に覆われた蛇、ケツァルコアトル様にお仕えしていた。ケツァルコアトル様は事情があってこの地をお離れなされたが、その時、一の葦の年に戻って来ると言い残された。今年はその一の葦。だがおまえたちは違う。
提 督 いや、違わぬ。この船…… いや蛇は、太陽の生まれる国を出てから、既に百日
も過ぎておる。何せ海なので、羽毛も羽根も波に洗われ流されてしまったのだ。今、そ
の証拠を見せよう(部下に)ホラ、例の安物…… いや、緑の尾羽で染め上げた玉を見
せてあげなさい。
部下A かしこまりました。
直ぐ脇の箱から取り出す。
提 督 ほれ、この通り。尾羽根で染め上げた緑の珠玉だ。
インディオ乙 すばらしい! キラキラ光っている。尾羽根で染めぬかぎり、このように
美しくはならない。
インディオ甲 (感激で身を震わせながら)間違いない。我らの神ケツァルコアトル様、お帰りを待っておりました。どうぞ我々を支配してください。あなた様と、従者の皆様に支配されることにより、我々は至福の時を迎えることが出来るのです。
提 督 (ニヤリと笑い)苦しゅうない、苦しゅうない。支配してやろうとも、支配して
な。
部下A (煽るがごとく)さあ、皆で忠誠の証をみせてくれ! 叫んでくれ! ビバ、ケツァ…… 何だっけ?
インディオ甲 コアトル様だ。
部下A そうだそうだ。ケツァルコアトルだ。ビバ、ケツァルコアトル、ビバ!と叫ぶのだ。
インディオA 分かりました。コルーア!
インディオ一同「コルーア! コルーア!」

 ここまでが再現部分である。解説をしておこう。
 メシカ帝国が支配する約五百年前。この辺りに、トルテカという帝国があったが、その何代目かの王はケツァルコアトルを深く信奉し、凝りすぎの余り、自身がケツァルコアトルと名乗るようになった。だがある日、クーデターが起き、その地位を剥奪されてしまった。その時王はかつての臣下に奪われた后に向かい、ついつい良い格好をしてしまったのだ。
 「朕は葦の年に太陽の出る国から戻り、再びこの地を支配する。その時人々は永遠の至福を得るであろう。さらば后よ」
 人間のケツァルコアトルはその一言が、民族の壊滅に繋がる歴史に残るジョークになるとは夢にも思わず、東の彼方に落ちて行った。そして話だけが残り、尾ひれがついて語り継がれて来たのである。
 再来話はデタラメだと、人間たちに言ったほうが良いのではないかと忠告してくれたい同僚もいたが、そんなことで、神がいちいち姿を見せるのは大人気ないと、ケツァルコアトルは気にも止めていなかったが、どうやらそれが裏目に出たようだ。
 どんなものでも透視する目を持つミシュコアトルがため息をついた。
 「何と言うことだ。船底に殺戮のための武器と、奴隷にするための手枷足枷、首枷までもが大量に隠されているというのに……」
 「もしや、テスカトリポカが煽ったのでは?」
 またこの名が出た。
 テスカトリポカとは黒い煙を吐く鏡と言う意味で、この神はその昔、ペットとして飼っていたジャガーをからかっていて、右の足首をガブリと噛まれ、ものの見事にもがれてしまった。仕方無く失われた足の代わりとして、黒曜石で出来た煙を吐く鏡をつけ、以来テスカトリポカと名乗るようになったのである。
 彼は全知全能の神、万能の神であり、天界、地界、冥界、どこへでも現れて、欲望・敵意・不和の種を蒔き、人々を不安と疲労に陥れていた。神というよりも悪魔のような存在である。
 「奴は今、いちばん大きな大陸に出かけているはずだが……」
 ミシュコアトルが言った。銀河から地球の様子は手にとるように分かる。
 「侵略者たちはその大陸からやってきたのです。ミシュコアトル殿、私は急ぎ地球に参り、人間たちに誠のケツァルコアトルの姿を見せ、悪党共の正体を暴いてまいります」
 「ご健闘を祈ります。私も成り行き次第では、他の神々と相談し、地上にまいります」
 かくしてケツァルコアトルは金星を飛び立った。

まんまと神になりすました肌の白い侵略者たちは、世界で最も大きな大陸から海を渡ってやって来たが、最初に選んだ上陸地タバスコで黄金を要求し、正体が露見すると、隠していた武器を取り出し、八百人以上もの住民を殺戮したばかりか、神殿をも破壊し、すべての黄金を掠奪した。タバスコを壊滅した侵略者達はメキシコ湾を更に北上してベラクルスに再上陸し、自ら進んでケツァルコアトル神と名乗り、黄金を供出させ、女を求めた。人々が侵略者の実態を知った時は、眼前に鋼鉄の剣や銃口が突きつけられていた。
 侵略者たちはその後も行く先々で暴虐の限りを尽くし、各地の部族を壊滅しながら、メシカの中心である湖上の都テノチティトランに向かっている。帝国の崩壊だけは何としても止めねばならぬ。
 しかし金星から地球はあまりにも遠すぎた。出立してから三十日目。侵略者がテノチティトランの直前まで進軍すると、ケツァルコアトル再来伝説を信じきっていたメシカの王ジョブは橋を渡り、跪いて侵略者を出迎え、城内に招き入れてしまったのである。
 ケツァルコアトルが金星と地球の中間に到達した頃、王は、黄金と女ばかりを要求する
“神”にようやく不信感を抱いたが、時すでに遅く、囚われの身となってしまった。
 民衆にとって王とは同等の存在ではない。神の代理である。王が行く時、人々は頭を垂れ姿を見ることは出来ない。その王を太陽が生まれる国から来たと称する男たちが、あろうことか、鉄鎖に繋いだのである。神のすることではない。
 悪魔の正体に気づいた民衆が果敢に立ち上がったが、侵略者たちの銃剣は、鷲よりも早く、ジャガーよりも鋭かった。メシカの兵士たちは弾丸に砕かれ、刃に切り裂かれ、物言わぬ土塊と化し、女たちは次々と犯され、舌を噛み、湖水に飛び込み自らの命を絶った。また、宮殿や神殿に祀られていた神々の像は、地に叩きつけられ、跡形も無く破壊され、華麗なる湖と運河の都テノチティトランは廃墟と化し、メシカ帝国は歴史の彼方へと消え去ったのである。
 侵略者たちは僅かに生き残った兵士や女子供たちに手枷足枷を嵌め奴隷とし、再び神を装い、黄金と女を求めて、新たな地に侵攻して行った。

金星を飛び立ってから百と三十余日。長旅の末、ようやく地球に降り立ったケツァルコアトルはあまりにも異様な光景に目を背け、強烈な異臭に鼻を押さえた。まさに地獄絵である。
 天空に向かって燦然と輝いていた宮殿は全ての黄金を剥がされ、巨大なハリケーンに襲われでもしたかのように、屋根は崩れ、壁は抉られ、扉は倒壊し、幽霊の館となり、街道はおろか、湖岸や湖から引かれた運河までも、無数の屍が折り重なり、それをハゲタカが啄ばんでいる。
 ケツァルコアトルは途中、侵略者たちが踏みにじった地を空から眺めて来た。
 辛うじて惨殺を免れた者たちが何とか生きている。だが、かつてのような活気は微塵もなく、種を捲くことも狩をすることも忘れ、虚ろな目で、ノロノロと荒野を彷徨っているだけである。それでも生き残った者たちがいるからまだいい。時間がかかるだろうが、彼らは傷を癒し、いつの日か立ち上がり、鍬を取り、大地を耕すことであろう。
 だがこのテノチティトランはどうだ。全ての生命は奪われ、全ての文化は破壊されてしまったではないか。
 呆然と佇むケツァルコアトルの目に、突然強烈な光が襲ってきた。太陽は背中の向こうにある。ケツアルコアトルは、一方の腕で光線を遮りながら言った。
 「テスカトリポカ殿か?」
 「アッハッハッハッハッ……」
 黒煙が上がる中、何がおかしいのか分からぬが、バカ笑いをしながらテスカトリポカが忽然と現れた。右足の代わりにつけている黒曜石の鏡を、ケツァルコアトルの顔に向けている。
「久しぶりだな、ケツァルコアトル」
 不遜にも見下した。
「その足を下げてくださらぬか。眩しくてかなわぬ」
「アッハッハッハッハッ……」
何故かまた笑った。すると鏡の中から真っ黒な煙が噴出し、もろに吸い込んだケツァルコアトルはむせこんだ。それを見てテスカトリポカは満足気に頷きながらようやく鏡を下に向けた。
 熊に似た顔で、太い眉毛の下にある三白眼は不気味な光を放ち、身体には蛇の皮をなめした衣をまとい、腰には眩いばかりの宝石をちりばめた帯を巻き、剣と盾を持っている。
 屍を見ながら更に言った。
 「良い景色じゃのう。ケツァルコアトルよ」
 「腹から飛び出した内臓、光を失い開ききった目、こびりついたドス黒い血、そのどこがいい!」
ケツァルコアトルは怒りを面に出して言った。
 「おまえは嫌いか、これまでに生け贄を食したことはなかったか?」
 それを言われると弱い。メシカの神官たちは事あるごとに、生け贄を捧げねば太陽の運行に支障を来たすと言って、生きた人間の心臓を抉り出し、神殿に並べてくれた。それ程好きというわけではないが、せっかくくれたものである。一年に一回くらいだが、金星から降りて来て遠慮なく馳走になった。その代わり、生け贄となった人間の魂は必ず天界に送ってやった。
 「まだ腐っていないのもある。良かったら食べてみぬか」
 「ウッ!」
 胃の中の物が逆流してきて、危うく戻しそうになり、慌てて口を押さえた。
 「テスカトリポカ殿、これは貴殿の為せる業か?」
 「さよう」
 平然と言った。
 「何故?」
 ケツァルコアトルは悲壮な声で尋ねた。
 「何故とは?」
 テスカトリポカは質問の意味が理解出来ぬと、怪訝な顔をした。
 「メシカの民は滅亡し、我らを祀る神殿も破壊された。何故だ!」
 ケツァルコアトルはややヒステリックに叫んだが、テスカトリポカは冷ややかな笑いを浮かべながら言った。
 「おれ様は他の大陸に行って来た。人間共がヨーロパと呼ぶ大陸の神と会った時、きゃつらが尋ねた。貴殿はどのような神かと。おれ様は全知全能の神であると答えた。するときゃつらは無礼にもこう言った。神とは、それぞれが役目を分担しているもので、全知全能の神などいるはずがないと。そこでおれ様は答えた。では、私の能力をお見せしよう。人間共の間に欲望・敵意・不和の種を蒔き、戦をさせてみせようと。ヨーロッパの神は欲望なら欲望、敵意なら敵意とそれぞれ一つしか能力を備えていない。それ故、二つ以上の能力があるなどということは理解出来ぬのだ。おまけに自分たちより優れた神などいるはずがないと思いあがっている。それ故おれ様の言うことが信じられない。面白い、見せてもらおうかと抜かしおった。売られた喧嘩は買わねばならぬ。注がれた酒は飲まねばならぬ。おれ様はスペインの上空に人間共の欲望を掻き立たせる種をバラ撒いてやった。そして分身たちを鏡から出し、町の酒場や村の広場で、海の向こうに行けば、黄金が無尽蔵に眠っているという噂を広めさせた」
 鏡の中に何体かの分身が現れ、ニヤリと笑った。
 「欲望に駆られ、海を渡った人間共は、南北二つに分かれた大陸を発見し、噂どおりに大量の黄金が眠っていることを知り大層喜んだ。そこで分身たちは、白人共にインディオを殺せば、黄金の全てを奪うことが出来ると更に煽ったのだ。もちろんその前におれ様が、欲望・敵意・不和の種をタップリと蒔いておいた」
 「その結果がこれだと言うのか」
 「その通り。ヨーロッパの神たちも私が全知全能の神であることを認めた」
 「自分の能力を見せたいという、ただそれだけの理由で、殺戮をさせたのか?」
 「文句を言われる筋合いではない。この世の全ては我々神が創造したもの。いわば玩具だ。生かすも殺すも勝手であろう」
 「違う! 玩具などではない。この大陸にいる人間を造ったのは私だ! 玩具などでは断じてない!」
 ケツァルコアトルの唇は怒りでワナワナと震えている。
 「おお、そうであったな。以前に洪水が起き人間が絶滅した時、おまえは地界から古い人間の骨を拾って来て、今の人間を創造したのだったな。アッハッハッハッハッハッ…」
 笑ったついでに右足を上げたので、ケツァルコアトルはまたもや煙を吸い込んだ。
 いちいち煙を出すことに何の意味があるのかとむかつきながら、ケツァルコアトルは詰問した。
 「あの破壊も貴殿がしたことではないか。神々が創造し、人間が発展させた地上を貴殿は既に四度も破壊している」
 「そのとおり。最初の破壊は、農耕を覚えようとしない巨人たちをジャガーに変身した我が分身が食い殺した」
 瞬間、鏡の中にジャガーが現れ、牙を剥いた。
 「私が教える寸前だったのに……」
 とケツァルコアトルは無念そうに言ったが、テスカトリポカはかまわず続けた。
 「次の破壊は大嵐を起こした。人間たちは農耕を覚えたが、自然の現象に対応しようとはせず、何もかも神任せにしたからだ」
 嵐が来ようが、日照りが続こうが、祈りを捧げるだけで、工夫をしなかったのである。
 「私は人間たちが自分の頭で考えるよう、神官を通じて語りかけていた」
 「三度目は火山だったな。農耕の恵を神に感謝することを忘れたからだ」
 空が曇り風が吹き出すと、人間たちは大雨の襲来を察知して、覆いをしたり、日照りが続いても作物に水がやれるよう、大河から分岐する水路を作ったりして工夫した。だが人間は全てが自分たちの知恵であると思い上がり、神をないがしろにした。
 「私は謙虚という言葉の持つ意味を学ばせようと準備をしていた」
 「四度目は洪水だ。人間が他の動物たちの領域を侵したからだ」
 そこが獣の棲家であろうが、鳥たちの塒であろうが、人間たちは草を刈り、木を切り倒して畑を作り、住いを建てた。
 「この世は森羅万象から成り立っている。人間の都合だけ振り回してはならぬと、私が言いかけたとき洪水が起きた。今度は何だ! どんな理由だ!」
 下手に出ていたケツァルコアトルが喧嘩腰になった。
 「神を忘れたからだ。人間がこの世を支配していると思いあがっているからだ」
 「メシカ人は忘れていない。神殿を造り、我々を崇めているではないか。忘れているのは、おまえが呼び込んだ侵略者たちだ」
 テスカトリポカは一瞬窮したが、直ぐに屁理屈を言った。
 「メシカ人もいずれ忘れる。そうなったら哀しむのは創造したおまえだ! おまえを哀しませたくないので、そうなる前に滅ぼしたのだ。安心しろ。侵略者たちもいずれ滅ぼしてやる。さすれば文句はなかろう」
 「もうよい。破壊はたくさんだ。見よ、このおぞましい光景を!」
 ケツァルコアトルは屍の山を指さしたが。テスカトリポカは馬耳東風である。
 「最初がジャガー、次が風、そして火、水、五度目の破壊は何が良いであろうかのう。…… そうじゃ! 地震があった。大地震を起こし、津波も呼び、神を忘れた罪深き人間共を滅ぼしてやろう」
 ケツァルコアトルは高まる怒りを抑えて言った。
 「テスカトリポカよ。人間は神の玩具でもなければ、占有物でもない。また、完全無欠でもない。欠点があるからこそ人間なのだ。その欠点を直すように教えるのが神の務めであろう。足りないところがあるからと、その都度破壊を繰り返していたのでは、際限がない。もう止そうではないか」
 「いや、止めぬ」
 相変わらず平然としている。
 「何故止めぬ? 創造破壊、創造破壊と、何度同じことを繰り返せば気がすむのだ」
 ケツァルコアトルが悲痛な声で言うと、テスカトリポカは鏡を示した。
 「この中にいる分身のように、おれ様の言うことだけを聞く人間を創造するまでだ」
 「おまえの言う事だけを聞く人間だと……。それは人間の私物化だ。許さぬ!」
 「ケツァルコアトル、よく聞け。おれ様は人間たちがヨーロッパと呼んでいる大陸の神々に全知全能であることを知らしめ、神の中の神と崇められた者ぞ。いや、ヨーロッパだけではない。四つの島からなる国にも、欲望・敵意・不和の種を蒔き、国中を戦乱の渦に巻き込んでやった。それ故に、かの国の神たちも、おれ様を神の中の神であると認めたのだ。全ての神はおれ様の意向に従わねばならぬ!」
 「私は従わぬ。破壊に喜びを覚える者など神とは認めぬ」
 ケツァルコアトルはきっぱりと言った。
 「小賢しい! ならば力ずくでも従わせてやる!」
 テスカトリポカが腰の剣に手をかけたかと思う間もなく、抜き打ちに斬りつけたが、ケツァルコアトルは弓なりに上体を反らし、辛うじて避け、一歩飛び退いた。
 「仕方ない。相手になろう」
 剣を抜いた
 「おれ様に勝てると思ってるのか、アッハッハッハッハッハッ……」
 テスカトリポカがバカ笑いをしながら、いきなり右足を上げると、鏡が黒煙を吐き、ケツァルコアトルは一瞬、相手の姿を見失った。その隙に背後に回ったテスカトリポカが後頭部目掛けて刃を振りおろしたが、持った盾で辛うじて受け止め、更なる攻撃は転がって避けた。テスカトリポカは再び右足を上げた。
 眩しい!
 テスカトリポカが鏡で陽光を反射させ、目を眩ませながら、間断なく斬りかかって来るので、ケツァルコアトルは次第に追いつめられ、ついには盾も跳ね飛ばされ、足元が乱れ仰向けにひっくり返った。
 「死ね!」
 テスカトリポカが刃を振り翳すのと、ケツァルコアトルが「風よ、吹け!」と叫んだのは殆ど同時であった。
 ケツァルコアトルはアナワク高原の風を支配する神である。ビューという音と共に、一陣の風が吹いたかと思う間もなく、頭に生えている真紅の羽根が十数本、風に乗りテスカトリポカの顔面目掛けて飛んで行った。
 「ウワァー!」
 テスカトリポカは剣も盾も放り出し、顔を押さえ、悲鳴を挙げながら転がり回った。攻守逆転である。
 「安心しろ。目だけは避けておいた」
 ゆっくりと立ち上がったケツァルコアトルが右手を広げ、テスカトリポカの顔面に突き刺さった羽根に向かって、引き寄せるかのようにつぼめると、羽根は顔から離れ、そよ吹く風に乗って、空高く飛んで行った。
 「洒落たまねをしおって……」
 テスカトリポカは血がにじんでいる頬を撫ぜながら口惜しそうに言った。
 「羽根は飛んだが、芯は残って脳まで達し、天変地異を司る神経を麻痺させた。一度麻痺した中枢神経は抹消神経と違って、元に戻ることはない」
 現代医学においても、中枢神経の障害は元には戻らない。
 「おまえはこの世を四度も破壊してきたがその能力は失った。つまり全知全能ではなくなったのだ」
 テスカトリポカの顔から血の気が引いた。
 「な、何ということを! 嗚呼!」
 膝から崩れ落ち、地面に額をこすりつけ泣き喚いている。
 「テスカトリポカ、破壊は無用。創造の神として生まれ変わる気はないか?」
 ケツァルコアトルがやさしく言った。
 「創造の神だと……」
 顔をあげ、ケツァルコアトルを睨んだテスカトリポカの眼の奥で炎が踊っている。
 「欲望と敵意、不和の種を蒔くおれ様に創造の神になれだと……」
 「そうだ。貴殿は火を造ったこともあるではないか。もし火がなかったら、人間たちは獣の餌食となり、はるか昔に滅亡していたであろう。
 「おれ様としたことが余計なことをしたものだ」
 「テスカトリポカ、創造の力は無傷だ。いつでも使える。創造に力を注ぐことこそが、神の道であろう」
「ケツァルコアトルよ。おれ様は破壊に喜びを覚える男だ。その破壊力をおまえが破壊した。最大の喜びを破壊されたのだ。今度はおれがおまえを破壊してやる」
 テスカトリポカは同じ単語を口走りながら、落ちていた剣を拾い叫んだ。
 「一号から十八号。出てまいれ!」
 右足を持ち上げ、頭上で剣を一回転させると、鏡の中からテスカトリポカそっくりの分身十八体が次々と飛び出して、ケツァルコアトルを取り囲み、本物のテスカトリポカと一緒になって、グルグルと回りながら声を揃えて叫んだ。
 「どうだ、どれが本物のおれ様か分かるまい。どれに羽根を飛ばせばいいのか、見当がつくまい」
 だがケツァルコアトルは冷静だった。
 「血迷ったか、テスカトリポカ。分身の術は人間には通じても、神には通じぬ。そんなことも知らずに全知全能とは、よう言ったものだ」
 ダミーには目もくれず、本物だけを追いながら言った。
 「チェッ!」
 テスカトリポカは舌打ちをして回転をやめ、右足を上げて「一号から十八号戻れ!」
と叫ぶと、全員鏡の中に戻って行った。その都度、番号を言わないと駄目なようだ。
 「テスカトリポカ、まだ私と戦うというのなら、今度はお前の目を射ることになる。それでも良いのか」
 テスカトリポカは口惜しそうに唇を噛んだ。
「テスカトリポカよ。おまえは既に全知全能ではなくなったのだ。神の中の神であるなどという驕りは捨てて、人間たちの間に争いを起こさせるのはやめたらどうだ。神とは人を正しく導くもの。そうであろう」 
 「フン、おまえが創った人間たちは怠け者で欲が深く、猜疑心が強いろくでなしばかりだ。導きようなどないわ」
 「おまえが悪い方へ悪い方へと、仕向けているからだ」
 「意志が弱いから影響されるのだ。今の人間共はどれもこれも不良品ばかり。不完全な代物は不要。破壊し地獄へ送らねばならぬ。それがおれ様の務めだ」
 「だが、おまえにその力はもうない」
 と言い終わるか終らぬうちに、テスカトリポカが右足を持ち上げ黒煙を噴出したので、ケツァルコアトルはまたまたむせ込んだ。
 「おれ様にはまだこの鏡と分身がある。分身は十八ではない。最大で九の二千四十八倍である一万八千四百三十二体の分身を生むことが出来る。しかも単一ではなく、様々な人間になれる。如何なる言語も使える。空を飛ぶ者もいれば、ジャガーに変身出来る者もいる。こやつらを操り、欲望・敵意・不和の種を蒔き、人間自身の手でこの世を破壊させるよう仕向けてみせようではないか」
 「人間自身に?」
 「そうだ。人間共にこの世の全てを破壊する武器を作らせ、それを自身の頭上に降らせるのだ。分かったか、アッハッハッハッハッハッ……」
 ケツァルコアトルの怒りは頂点に達した。
 「何と言う恐ろしいことを! おまえは神ではない。地獄の死者だ。ようし、その力も破壊してやろう!」
 「オット!」
 テスカトリポカは腕で目を庇いながら言った。
 「もう羽根を飛ばしても無駄だ。欲望・敵意・不和の種は、脳ではなく、巨大な岩石でも砕くことの出来ぬ鏡の中に蓄えている。おれ様はおまえに天変地異を起こす能力を破壊された。ならば、おまえが創造した人間を、おれ様が破滅の道に誘おうではないか。それもそう遅くない期間、五百年をきる歳月、四アウウ三カンキンまでに」
 人間の感覚では、途方も無い先のことだが、悠久の時を生きる神にとっては、それほどの時間ではない。四アウウ三カンキンを西暦に直すと二〇××年十二月二十三日となる。
 「おまえが欲望・敵意・不和の種を蒔くならば、私は人間たちに愛と公平、尊厳と気高さを教えよう」
 「無駄なことを。ケツァルコアトルよ。もしおれ様が破壊に成功したら、おまえは天空の彼方に飛んで行き、その忌々しい羽根を一本残らず抜き取り、億万年の間、果てしなき空間を彷徨い続けるがよい」
 「分かった。そうしよう。ではテスカトリポカ、もし四アウウ三カンキンまでに、この世界を破壊出来なかったら、神の名を返上し、暗い暗い地の底に堕ちて行くがよい」
 返事の代わりにテスカトリポカは、上空を見上げて叫んだ。 
 「ミシュコアトル、おまえが立会い神だ。いいな!」
 銀河から高みの見物を決め込んでいたミシュコアトルは、いきなり指名されたので、慌てふためきながら答えた。
 「しょ、承知した。両者共。心置きなく戦え」
 テスカトリポカは再びケツァルコアトルを睨みつけた。
 「ケツァルコアトルよ!戦いの場は地上の全て。人間のいるあらゆる場所じゃ。分かったな! アッハッハッハッハッハッ……」
 全知全能の力を奪われたというのに、健気にも習慣となっているバカ笑いをすると、右足を持ち上げ黒煙を吐き何処へか消え去った。
 これが「煙に巻く」の語源だという説もあるが、マユツバである。

 ケツァルコアトルは天を仰ぎ叫んだ。
 「吹け、風たちよ。死者の悲しみを怒りに変えよ!」
一陣の風が吹いたかと思う間もなく、うなりを上げる強風となり、砂塵を巻き上げ、空を灰色に染め、大地を揺るがし、それまで澱み沈黙していた湖水は、海原の波濤よりも激しく我が身を岸壁に叩きつけた。
 二十万を超える遺体の開ききった瞳孔から流れ出た涙は川となり、張り巡らされた運河に注いでいる。
 ケツァルコアトルは頭上に挙げた両手を広げると、厳かに宣言した。
 「死者たちよ。おまえたちの神ケツァルコアトルは、悪の神テスカトリポカと戦うことを誓おうぞ! 眠れ永久に。憎しみや猜疑心とは無縁の天界に旅立つがよい」
 死者たちがかすかに微笑み、瞳を閉じると弔いの風は止み、湖水は静寂のフルートを奏で始めた。 
 ケツァルコアトルは今一度折り重なっている屍の群れを見て、両の瞳に悲惨な光景を焼きつけた。
 その時である。
 「クーンクンクン」
 というかすかな声が聞こえたが、ケツァルコアトルは我が耳を疑った。生存者などいるはずがない。
 「クーンクンクン」
 また聞こえた。
 「どこだ? どこにおる?」
 背をかがめて呼びかけると、屍の間から、赤茶色をした小動物がチョコチョコと走り出て来た。
 「テチチではないか!」
 生きている動物がいた。
 ケツァルコアトルはテチチを抱き上げながら、感動で胸が締めつけられそうだった。
 暦の記号にも使われている三キロにも満たぬこの小動物は全身に赤茶の短毛が生えており、口元はオチョボ口でちょっと見はウサギに似ているが、草だけでなく肉類も口にし、鳴き声は犬に近いという奇妙な動物である。
 メシカの民は人が死ぬと、テチチが冥界に案内してくれると信じていたので、ほとんどの家で飼っており、テノチティトランでは、もっとも多い動物であったが、彼らも侵略者の餌食となっていた。
「よう生きていた、生きていた!」
 ケツァルコアトルが頬ずりをすると、テチチは舌を出して唇を舐めた。
 「この中に、おまえの飼い主も眠っておるのじゃのう」
 テチチの舌は耳に移動した。
 「よせ、くすぐったい」
 大陸独自の生物が生存していたのである。ケツァルコアトルの顔がようやく和んだ。
 「テチチよ。侵略者たちは南北二つからなるこの大陸をアメリカと名づけたそうじゃ。やがて彼らは自らをアメリカ人と呼ぶであろう。だが彼らは知らぬ。深き山々や、滔々と流れる大河は元よりのこと、名もなき草木や、川原の小石に至るまで、全てが神の創造物であることを……。
 己らが全ての支配者であると奢り高ぶっている者にアメリカを名乗る資格はない。真のアメリカ人とは万物に神が宿っている事を知り、自然を畏れるメシカの民じゃ。侵略者が連れてきた馬はアメリカの馬ではない。彼らが連れてきた犬はアメリカの犬ではない。
 滅びるのはメシカ人だけではない。このままではおまえたちテチチも滅んでしまう。現に私が金星から来る途中、侵略者たちがおまえの仲間を串刺しにして、美味そうに食べているのを何度となく見て来た」
 そう言ってから舌なめずりをしたので、テチチは思わず腰を引いた。
 「大丈夫、おまえを食べたりはせぬ。しかし、どうしたらおまえと仲間たちを救うことが出来るかのう?」
 しばしの間思案した。
 「そうじゃ! おまえたちを犬にしてやろう。侵略者たちに犬を食べる習慣はない。 犬になれば助かる。アメリカの大地に生まれた犬になるのじゃ。名称は…… メシカの人達はお前達を神の使徒と呼んでいた。そう、チワワにしよう。我ら神の言葉で『使い』と言う意味じゃ。それで良いかな」
 神語である。広辞苑には載っていない。
テチチは首を縦に振った。
 「だが条件が一つある。おまえだけは他のチワワとは違う役目を背負わねばならぬ。文字どおりのチワワ、神の使いとなるのじゃ。かまわぬかな」
テチチは頷いた。仲間が侵略者の腹に納まるか、生き延びるかの瀬戸際である。贅沢は言えない。
 「私はこの世を破壊に導こうとしているテスカトリポカと戦わねばならぬ。その手伝いをしてほしいのだ」
 小さな自分にそんな大それたことが果たして出来るのかとテチチは危惧したが、こうしている間にも仲間が串刺しになっている。考えている暇はない。承知の代わりに己の舌をケツァルコアトルの口の中にネジ入れた。
 「オヘッ、オヘッ!」
 ケツァルコアトルは思わずむせかえった。
 「では犬に変える前に、何をするか話してあげよう。おまえはこれから結婚をし、子をもうける。その子たちもやがて結婚をして子供を生む。そしてその子供たちも……と言う具合に枝分かれして行く。しかし生まれる子供は多くても二匹。それも雌ばかりじゃ。だが時折、猟犬よりも鋭い爪を持った雄が生まれることがある。それはテスカトリポカが力を得てこの世に欲望と敵意、不和の種が蔓延した時じゃ。その時、おまえの血を受け継いだチワワたちは人間に変身し、テスカトリポカや、その分身と戦い、人々を覚醒させるのじゃ。分かったな」
 変身とは面白そうだ。だが、どうやったら出来るのだろうか?
 流石は神であるテチチの気持ちを既に読んでいた。
 「簡単じゃ。玉葱をかじればよい。さすれば食べた量に応じて変身していられる。だが雌が食べても出来ぬ。玉葱は本来犬の身体には合わぬ。雌は決して食べてはならぬ。雄も変身する時以外口にしてはいかん。蓄積すると呼吸困難になる」
 赤血球が減少し、肺に酸素を送れなくなるのだ。
 「何故玉葱にしたかというと、必要もないのに変身するのを防ぐためじゃ。無闇に変身されると混乱を招く。玉葱なら気楽に食べられぬので、その心配がない」
 具合が悪くなるのは困るが、実際に食べるのは自分ではなく子孫である。あまり先のことを考えても仕方ない。子孫たちがその時々に考えればよいことである。もう一つの心配は身体が小さいことだ。そのためネズミに追い回されたこともある。
 ケツァルコアトルは、またもや心を読んだ。
 「大丈夫、手ごわい相手と対峙する時は人間に変身した後、もう一度玉葱を食べれば狼の牙が生えるようにしよう。いや、牙だけというのも妙なので、短い時間に限り、狼そのものになれるようにしよう。だがこれも相当な負担になるので、いざという時だけだ。分かったか」
 テチチは了解の印に、耳の穴を舐めた。
 「や、やめろ、くすぐったい」
 ケツァルコアトルは身をよじって、テチチを下に降ろした。
 「ではおまえと、おまえの仲間を犬に変えてやろう」
 と言ってから跪き、祈りを捧げた。
 「十二層の天にいる全ての神よ。この者たちをアメリカの犬に変えたまえ」
 小さな竜巻が起こり、テチチの身体を包んだ。だがそれは一瞬のことで、竜巻はケツァルコアルトと共に空高く昇って行き、後にはチワワに変化した子犬だけが残されていた。
 頭の形はりんごを思わせるような丸みを持ち、目は大きく、やや飛び出している。鼻筋は短い。キリッと立った耳は四十五度に開いている。首と身体は緩やかなカーブを描き、尾は上に持ち上がり、カールしながら背中に接しており、四肢は細いながらもガッチリとした筋肉がついている、体毛は極めて短い。
 学名カニスアメリカヌス(アメリカの犬)、世界最小の犬スムース(短毛)チワワの誕生である。
 天空からケツァルコアトルの声が響いてきた。
 「私が語ったことを子々孫々にまで伝えて行くのじゃ。美しいこの世を守る神の使いチワワとなるのじゃ。アメリカの犬よ、分かったら吠えてみよ! 叫んでみよ! 地の果てまで届く声で!」
 チワワはそれに応えるように立ち上がると「ウオオオ、オーン!」と天に向かって咆哮した。
 それは誕生の雄叫びであり、滅び行く民族メシカと小動物テチチへの挽歌でもあった。
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