緋黒の焔〜ヒトラー異世界戦記〜

影山ろここ

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序章

プロローグ

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 自殺手段はふたつ用意した。念には念を入れたのだ。

 シアン化カリウムを噛み砕き、毒によって命を絶つ方法と、ピストルの銃口をのみ込み、弾丸で脳を破壊する方法。主治医である親衛隊中佐ヴェルナー・ハーゼの意見を取り入れ、自殺の失敗とそれにともなう苦痛を、慎重に除去すべく最適のプランを立てたのである。
 ソ連兵の手に落ちるくらいなら、名誉をたもったまま死にたい。そんな切実な決心をしてから一〇時間後、地下壕での生活をともにした幕僚や同志たちに別れを告げ、総統官邸地下壕の割り当てられた部屋にアドルフ・ヒトラーはこもった。

 ――我が築きあげたナチスドイツが滅びるとき、我の身と魂もまた滅び去るのだ。

 最後の言葉を胸に刻み、拳銃を右手にもった。そして毒薬の入ったカプセルを噛み砕き、銃口を極太ソーセージのようにのみ込んだ。

 このときから、アドルフの意識があやしくなる。はっきりしていたのは折り重なるような銃声が狭い室内に轟きわたったところまでだ。
 もし客観的な思考ができたなら、彼はおのれの撃ち放った弾丸が脳を外れ、無様にも死に損なったことを悟ったであろう。しかし、極度の緊張はそうした認識を妨げた。かわりにアドルフを襲ったのは激しい痙攣と痛みである。体の奥深くに行き渡るシアン化カリウムが、内臓の中心で炸裂したのだ。

 細胞がまず真っ先に破壊され、アドルフの頭部は壁を強打し、硬直した指先はピアニストのような動きで見えない鍵盤を乱打する。毒薬が即死量に足りなかったのだ。恐らくは二倍――いや三倍は摂取すべきだった!
 アドルフは大声で吼えた。もちろん彼にその自覚はない。体内で燃え広がった苦痛から逃れるべく、宙を掴むしぐさをとった。

 ――ナイフ。ナイフはどこだ。我に必要だったのは一撃でとどめを刺せるナイフだ!

 自殺法を提案したハーゼを恨みながら、アドルフは陸に打ち上げられたクジラのようにのたうち回った。中立な傍観者はその姿を痛ましく感じるかもしれない。だからこの世に人ならざる者がいるとしたら、多少は彼を憐れんでも不思議はなかったと思う。
 唐突に、激痛がやんだのだ。それは強烈な違和感となって彼を襲った。

 ――何が起きたのだ?

 もとより目や耳の感覚はなかったが、束の間の平穏はアドルフに考える時間を与えた。

 ――いったい何が起きた?

 正解は定かではない。けれどアドルフのなかでひとつの確信が浮かびあがる。苦痛が限界を超え、神経伝達がオフになったのだ。

 ――なるほど。臆病風に吹かれたのか。腰抜けもいいところだ。

 誇りを守るための自殺すら、彼の心を傷つける。笑い声に涙が混じり、嗚咽がせり上がってきた。アドルフは暗澹たる気持ちになった。
 ところが頬に熱いものを感じた途端、どういうわけか失っていた視覚を彼は取り戻しはじめる。鮮明さを回復した視覚。それは見わたす限りの闇を発見した。しかもその闇の色は、真っ白だ。

 ――ここはどこだ?

 疑問の答えにたどり着こうとした瞬間、棒立ちのアドルフのまえに階段が出現した。色は闇と一緒で真っ白。階段はまさに「昇れ」といわんばかりの佇まいである。

 彼は階段を昇りはじめた。黙々と足を動かしていると踊り場らしき広い場所に出た。
 そこもまた、一面の白が支配している。無機質な空間に手がかりを求め、アドルフは執拗に視線を動かした。するとほどなくして彼の探索を遮る声が耳を打った。

「無闇に動きまわるな。そこにとどまっておれ」

 空耳ではないようである。人の使う言葉が直接脳に響いてくる。
 思えば奇妙な声だった。男性のようでもあれば、女性のようでもあり、大人と子供の区別さえつきにくい、生まれてこのかた、聞いたことがない類いの声だ。
 やがて光の満ちた闇に輪郭が生まれ、アドルフの頭上に白装束をまとった声の主が姿を現した。それは見えない階段をまっすぐに降り、アドルフの立っている踊り場に足を着いた。

「まあ、座るがよかろう」

 背の低い白装束が目と鼻の先で静止し、右手を軽く振った。
 すると何も無いところに亀裂が走り、闇と同じ色の真っ白な椅子が出現した。それは音もたてずに床へと着地する。
 思わず数歩後じさり、白装束の外見をアドルフは眺めまわす。顔の部分は仮面で覆われ、正体は判別できない。
 そんな声の主が厳かに口を開いた。

「ざっと確認したが、七三に分けた黒髪、小さく刈り揃えた口ひげ、大きな水色の瞳。お主がアドルフ・ヒトラーであると承認する。さあ、すみやかに着席するのじゃ」

 不思議な声に従おうとしたとき、アドルフはそこで強い立ちくらみを感じた。
 地下壕での暮らし、敗北の確信、自殺の失敗。心身を蝕む材料には事欠かなかったため、疲労は限界に達していたのである。

 だがアドルフは椅子にしがみつきながら腰をおろし、力の限り威圧的な態度に出る。

「ここはどこで、お前は何者だ?」
「芸のない問いじゃな、もう少し頭をひねれ」

 小さく笑われたようだが、白装束は高らかに言った。

「ここは死後、人の子の魂が送られる場所、天界じゃ。儂《わし》の名はネーヴェ、真の名をジャンヌと言う。このたびお主の魂を管理せよとの通達があり、その命にしたがった天使じゃ。以後見知り置くがよい」

 つまりどういうことだろう。
 アドルフは心のなかで反復する。死後の世界。天使。魂の管理。
 それ以上は問い質さなくてもわかった。自分はもう死んでいるのだ。

 否定しがたい答えに到ったことで薄めたソーダ水のような確信をアドルフは得た。しかし実際は心の底で恐れを抱きはじめている。
 死後の世界である天界において、いつか訪れる審判の時を待つというのが、アドルフが曲がりなりにも信じた宗教の教えである。

 するとここは、死者を正と邪に色分けし、天国と地獄へ送り届ける天上に造られた〈門〉に他ならないのではないか。
 それが本当だとすれば、自分の行き先は間違いなく地獄だと思われた。何しろ彼は人類史に残る大虐殺を命じた張本人である。

 ところがネーヴェは、彼の思惑とは真逆のことを告げた。

「お主は地獄に堕ちることを恐れているようだが、それはひとまず取り越し苦労というものじゃ。死者はみな昇天し、その魂は無へと還る。そこに天国も地獄も存在せぬ」

 天使のくだす宣託、それはアドルフの宗教観とも合致しなかった。しかし天使はけろりとした口調で、指をタクトのように振った。

「もっとも、信仰する民によって教義は些か異なるようだが。地獄を恐れるというお主の心得違いも、そういう類いのものじゃろう」

 ネーヴェは地獄の不在を断言した。とはいえアドルフの心は休まらない。

 三二歳にナチス党を掌握して以降、アドルフは祖国を救うという使命に殉じてきたし、総統として行った国家指導は正しかったと今でも思っている。だが、敵や公平を謳う第三者がそうは思わないこともまた余すところなく認識していた。

「どうせ罰を下す気なのであろ。隠さずともよい」

 開き直るように言ったが、あやしげな天使のおしゃべりは意外なことを告げた。

「《主》はお主を罰しはせぬ。かわりに《勇者》となるべき試練をお与えになられた。それは罰でも贖罪でもなく、近いのは啓示じゃな」

 アドルフはその文言を聞き、数秒ほど眉をひそめ、たまらず疑問を口にした。

「待て。《勇者》とは何だ? 意味がわからん」

 彼の辞書に《勇者》という単語は含まれていない。ゆえに困惑するのが当然である。他方で天使はアドルフの心境などまったく意に介さなかった。

「なに、大して複雑なものではあらぬ。《勇者》とはお主たちの概念でいえば英雄の一種。お主がこれから転生するセクリタナという異世界において、そうした英雄のことを人々は《勇者》と呼んできた」

 また新たな単語が追加された。転生。セクリタナ。異世界。アドルフの理解は納得からさらに遠ざかる。だが、懸命に頭を冷やして会話をたどると、おぼろげに見えてきたものがある。
 それは天使の言う《主》が自分を必要としていること。わざわざ啓示を与えるという言いぐさが何よりの証拠ではないか。
 瞬時に得た認識を確信に変えていこうとするアドルフに、厳かに語る天使はさらに言った。

「啓示の内容はシンプルでありつつ複雑じゃ。《主》はお主にある矛盾の克服を望まれた」
「ほう、矛盾とは?」

 わざとらしく相槌を打つと、ネーヴェは鼻にかかった声を鳴らした。

「《主》は善と悪をともに支配し、両者を超越した存在であらせられた。だが信仰する民が善としての部分を求め続けた結果、悪の要素は薄れ、《主》は自身のあるべき姿を見失ってしまわれた。ゆえにモデルとなる人の子をお探しになられた」

 ――そのモデルとやらが我なのか?

 注意深く耳を傾けたアドルフに、天使は淀みなく説明を続ける。

「あるべき《主》の姿を取り戻すにあたり、最初は聖人を実験台とした。しかし彼らは正真正銘の悪人になりきれなかった。ゆえに善と悪の両方を兼ね備えた存在は、悪人を対象とする以外ないという結論に到った。そこで白羽の矢が立ったのがお主というわけじゃ」

 本題がうっすらと透けてきた。ネーヴェも一段と声の調子をあげた。

「先ほど言った《勇者》とは正義の使徒であり、人々に倫理の確かさを示す存在じゃ。ところがお主をそのような存在へ近づける行為は、史上最悪の犯罪者を美化するという意味で、著しく非倫理的な行いとなる。倫理的にしようとするほど非倫理的になる。儂《わし》らの願望はお主がその矛盾を克服し、善悪を超越することなのじゃ」

 やや入り組んだ話だが、アドルフは具体的なイメージを思い浮かべつつ、天使に問うた。

「だいたいわかった。ようは猟奇的な殺人犯に清らかな心を植えつけるという行為は、一見倫理的に見えて実際は正反対であるという理屈だな」

「そうだな、悪くない喩えじゃ。《勇者》になる過程でお主はおのずと善性を発揮するじゃろう。アドルフ・ヒトラーを嫌う人々にとっては吐き気を催すことかもしれぬが、それこそが《主》の本質なのじゃ。お主には善と悪、二つの相反する要素を兼ね備えた《主》本来の御姿を取り戻して貰いたい」

 これを聞き、アドルフは非常に良い気分がした。万物の創造者である《主》がみずからの命運を自分に託すという。それほどまでに輝かしい栄誉が他にあるだろうか。
 惨めな自死を遂げ、右も左もわからなかったアドルフは次第に高揚感に包まれる。だからこそ、初めて前向きな言葉が彼の口をついて出た。

「教えて貰おうか、ネーヴェよ。お前の言う転生を行ったら我はどうなる?」
「ふふん、ついにやる気が出たようじゃな。お主には、先ほど言った異世界セクリタナでまずは冒険者として生まれ直して貰う。銃と爆弾のかわりに剣と魔法が支配する世界じゃ」

 天使はそこからいくつか事務的な説明をした。それに逐一頷きながら、アドルフは言った。

「異世界とかは魔法とか、よくわからんな。まあよい、お前たちの願いを聞き届けてやるか」

 自然と嫌みが出たアドルフだが、損得勘定はもう済んでいた。転生に是非はない。なぜならこの天使は、それを〈生まれ直し〉と明言した。

 陥落寸前だったベルリンで、自殺という最期を選んだアドルフはまぎれもない敗者だった。連合国に、ソ連に、あのスターリンごときに負けた。
 けれどもう一度人生をやり直せるなら、今度こそ遂げてみせると彼は思ったのだ。ナチスの掲げた理想とドイツの栄光を取り戻し、異世界に覇を唱える意志の勝利を。

 胸の奥底に緋黒《ひこく》の焔《ほむら》がともるのがわかった。それは新たなる野望の証だ。

「では、これより転生のみちを歩むがよい。我らが罪深き人の子、アドルフ・ヒトラーよ!」

 高らかに謳いあげた天使の声にあわせ、彼の体はふわりと浮かびあがる。
 天使のこぢんまりとしたシルエットを見おろす姿勢になったアドルフは、口の端を歪め、眩い光に包まれ瞼を閉じた。

 しばらくすると彼の意識は光の渦へ跡形もなく溶けていく。

 人の子の魂が生まれ変わる瞬間をその目で見届けた後、ネーヴェは《主》に宛てた決裁書類へ流麗なサインを書き記した。
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