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第一章

少年期12

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 翌日の昼過ぎ。〈施設〉の授業が終わり、自由時間になったのを見計らって、アドルフとフリーデは図書室へむかう。

 その行きすがり、昨日共闘を誓い合ったノインとすれ違い、一瞬だが会話が成り立つ。

「例の件、うちの従者も手伝ってくれることになったから」

 アドルフはそれを聞き、やはりノインを選んでよかったと自分の判断を賛美した。

「よろしく頼んだぞ」

 短い念押しを合図に、三人は二手に分かれる。アドルフたちは図書室へ。ノインは、かきいれ時を終えた町の市場へ。

「なぁ、アドルフ」

 地下にむかう梯子を降りる途中、フリーデが後ろから話しかけてきた。手にしているのはストローの刺さった赤茄子トマトのジュースである。

「昨日はノインに指示を出したあと、彼女とふたりっきりで話し込んでいたが、いったい何を伝えたんだ。僕だけ仲間はずれにされたような感じで正直良い気分はしなかった」

 何を話しだすかと思いきや、アドルフの物事の進め方にたいする不満だった。

 ろくに相談もせずノインを仲間に引き込み、挙句の果てに内緒話のような真似までする。その事実だけとれば、フリーデの不満はもっともだ。
 しかし当然のことながら、アドルフにはきちんとした目的があった。

「話したこと自体はただの注意事項だ。けれどそれ以前に、お前は勘違いをしておる」

 図書室にもぐり込み、手近な椅子に座り込んだアドルフは、器用に扱う杖を床に立て、さっそく誤解を解きにかかった。

「自分の立ち位置を離れ、ノインの立場に身を置いて考えてみよ。わざわざふたりきりになって指示を与えられる。そういう扱いは、ひとに自分は特別扱いされているという錯覚をもたらす。いくらやる気を示しても、ノインは我に忠誠を誓ったわけではない。だとすれば、それに近い状態に持ち込むべく、使命感を植えつけてやる必要がある。我はこの作戦で、お前以外の相手を心から信用しているわけではないのだからな」

 人の目を見て話すことに躊躇のないアドルフは、フリーデの瞳を見つめながら悠然と話す。しかも最後のひと言は彼女の心をくすぐる発言だったため、鬼の形相だったフリーデは珍しく目を丸くする。

「それならそうと最初から言ってほしかった。でも理由は納得したよ。確かに君のとった行動のほうが、ノインのやる気を引き出せるだろう。どこまでも計算ずくなんだな。大したやつだよ、君は」

 最後のつぶやきは、不満と呆れを両方とも含んだ物言いに聞こえたが、アドルフは深くは追及しなかった。

 それからしばらく、会話は途切れて水を打ったような沈黙が訪れる。
 しかしアドルフにとって、わざわざ図書室にこもったのにはわけがあった。彼はその理由に限っては、さすがにフリーデに教えていた。

 最初に述べたとおり、授業を終えたノインは市場へむかったが、じつはアドルフは彼女に、ある種の情報工作を依頼している。

 その渦中、首謀者であるアドルフが町に姿を見せないことで、彼は完全なアリバイを作ろうと画策しているのだ。

 やり玉にあげられるのを恐れているのではない。だれが後ろで糸を引いているか相手に悟らせないことで敵の心理にプレッシャーをかける余地を作り出す気なのだ。

「そういえばノインのやつ、従者の協力をとりつけたと言っていたな。あれは大丈夫なんだろうか?」

 ストローに口をつけた後、出し抜けに沈黙を破ったフリーデ。アドルフは物静かに応じる。

「まったく問題ない」

 そう、アドルフの指示は規模が大きかったので、依頼を受けるときノインは、話をつけやすいニミッツ家の従者三人を手駒にしたいとアドルフに言ったのだ。

 むろん彼はそれを承知した。というより、そういう流れになることを読んでいたふしがあった。なぜならアドルフの指示は、子供より大人のほうが説得力があり、成功確率は高いと判じられたからだ。

 また同時に、いったいだれの指示で動いているか撹乱させる効果もある。敵の正体が不透明であればあるほど、相手はこちらに不気味な印象をもつ。

 そうすれば、たとえ首謀者が非力なアドルフでも、むこうが勝手にイメージを膨らましてくれる。自分を実態以上に大きく見せるのはアドルフの得意技だ。そんな過去の片鱗を、彼はさりげなく〈計画〉の一部に組み込んでいた。

「ところでアドルフ、もうひとつ聞いてもいいか?」

 図書室に来た途端、質問攻めのフリーデだが、それだけアドルフが言った大人たちの攻略が気になり、そわそわする気持ちを抑えきれずにいるようだ。

 そのことを敏感に察したアドルフは、嫌な顔をせず、律儀に対応した。

「問題ない。何なりと聞くがよい」

「ありがとう。質問は他でもない、昨日ノインに言ったことだ。君は市場の出店料が値上げするらしい、その話をヤーヒムとディアナが話しているのを聞いた、という情報を商店を営むヒト族にバラ撒くよう指示していたが、あれは本当に有効なのか? 人選の正しさもそうだが、僕は町の様子に明るくないからピンと来ない部分がある。詳しい説明を求めてもいいだろうか」

 気づけば座っていた椅子から乗り出し、膝に手を置いてフリーデは言う。
 たいするアドルフは、いずれ問われると踏んでいたのか、ひげのない口許を人差し指で触り、まるで歳の離れた兄のような頼もしい声で返事をかえす。

「ヤーヒムとディアナの名前を出すのは、拡散する情報に説得力を持たせるためだ。相手が怒ったら逆効果と思うかもしれないが、そんなことはない。殴っておいて握手するのは交渉ではよくある」

 さもわけ知り顔でうそぶくアドルフだが、根拠は判然としてある。
 彼のなかで、敵は主にふたつに分類されてきた。いつでも友好を育める相手と、決して相容れることのない相手。たとえば前世において、前者の代表はナチス党幹部のアントン・ドレクスラーだった。

 アドルフの意に沿わない方針を打ち出すドレクスラーにたいし、アドルフは「そこまで言うなら党を離れる」と言い、決別をほのめかした。

 しかしそのときすでにナチス党は、アドルフという演説の名手、大衆の支持を集める看板役者に依存しており、脅しは効果を発揮してドレクスラーはアドルフの主張をのんだ。そしてこの一件を境にして、彼はナチス党において独裁的な権力を掴み取っていくのだった。

 話を戻せば、アドルフは同じ関係性を、今回の敵との間に設定するつもりのようだった。多少激怒したくらいでは言葉巧みに丸め込めるという自信の表れとも言えるだろう。

 さて、問題はその次だ。拡散させる情報の是非である。
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