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第一章

少年期16

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 そしてアドルフのほうだが、杖を捨てた右手を引いたとき、反動で左腕が前に出る。
 するとどうだろう、両者の体はまるで吸い寄せられるように近づき、先に拳を振るったのはアドルフのほうだった。

 相打ちを制する、ボクシングでいうところのカウンター攻撃である。

 とはいえ偶然と言っても、そこには必然の要素が含まれていた。ディアナの動きが弛んだのは、膝に受けた打撃が効いていたせいだろう。おかげで本来の速度が出し切れず、一瞬足が止まった形になってしまったのだ。

 ディアナが自分の間合いに入ったつもりが、それがわずかに足らなかったとき、いったい何が起こるか。間合いは身長でまさるアドルフの距離となり、何をくり出しても通る絶好機となる。ドワーフの背の小ささが、ここではもろにあだとなったわけだ。

 ――我を甘く見た罰である!

 ガラ空きになったディアナのあごにアドルフは左拳を叩き込んだ。

 防御姿勢をとる余地のないディアナは渾身のフックをもろに受け、その場に崩れ落ちた。いや、それでも耐えた。片膝と手を床に突き、踏み止まった。なにしろこの勝負は床に三秒倒れたほうが負けなのだ。裏を返せば、背中さえつかなければまだセーフだ。

 しかしアドルフの動作は、そこから流れるような攻撃をくり出した。
 地力で劣る彼は、勢い任せにいってもこれ以上のダメージを与えられないと悟っていたのだ。

 だとすれば、どうすればいいのか?

 彼は何を思ったか、一度捨てた杖を拾いあげ、その先端をディアナの顔に突きつけた。狙ったのは当然、彼女の苦痛に歪んだ眼である。

 眼を突かれるという恐怖は、動物としての本能に訴えかける。よってディアナは一瞬怯んでしまい、その反応が命取りとなった。

 体幹の強さをいかして起き上がろうとするも、全身を使い切れなかったため、膝を支点に体重を前にかけてきたアドルフの突撃がまさってしまう。

 こうしてふたりはからまった糸のようにもつれ合うが、上になったのはアドルフだった。彼はそのままディアナにのしかかり、カウント役を任されたヨゼフに向けこう叫んだ。

「そこのお前、ちゃんと数えろ!」

 その絶叫は、ヨゼフへのプレッシャーであり、他の孤児たちにたいするアピールでもあった。カウントを遅くしようものなら、観衆が黙っていない。多人数を用いてそういう有利な状況を生み出すのはアドルフの真骨頂である。つまりカウンターを決める前後から、この流れはアドルフにとって想定内の結末だったのだ。

 やがてヨゼフの震える声が、一秒、二秒と時間を刻み――、

「さ、三秒……勝負あった!」

 レフェリーの宣言と同時に、ディアナの子分でない者たちは歓声をあげる。たぶん彼らは、信じられないものを見たのだ。アドルフという見るからに脆弱な同輩が、孤児たちの上に立ち、あたかも小さな〈王〉のように君臨していたディアナを討ち倒したのだから。

 しかしアドルフは気づけば疲労困憊で、番狂わせを演じたことなど誇る余裕は微塵もなかった。脱力すると体はディアナの上から転げ落ち、板張りの床に大の字で寝そべってしまう。

 隣を見ると、同じような姿勢でディアナも横になっていた。

 その様子を見て、彼は思う。もしこれがオペラや演劇の一コマなら、ともに死力を尽くし合ったふたりには友情が芽生えてもおかしくない。

 だが現実は、そんな美しいものではない。よく見るとディアナは、普段の傲慢な顔を一切変えることなく、ただ敗北を噛みしめているだけで、他方のアドルフも勝利の余韻に浸る間もない。お互いに荒い息を吐き、まるで溺れた魚のようだった。

 そして負け惜しみを言いたくて堪らなかった様子のディアナは、体面を取り繕う余裕もなく苦々しく言った。

「てめぇ、運の良い野郎だな。おまけに卑怯だ」

 確かに、アドルフの決定打は実力以上のものが出た。また最後の詰めは奇襲の一種で、それを指して卑怯というなら、ディアナの言い分は的外れではない。

 だがアドルフはそんな物言いを受け入れられるわけがなく、鼻を鳴らしこう言い返すのだった。

「馬鹿者。我はお前を知り、お前は我を知る努力を怠った。その差が勝敗を分けたのだ」

 そう、偽情報をバラ撒き、大人たちに情報工作を仕掛けた結果、ディアナの逆鱗に触れた。しかしアドルフにとってそれは必要な措置で、なおかつ彼は、可能ならディアナをこちらの陣営に引き込みたいと密かに思っていた。

 ――殴っておいて握手する。

 べつに友情を育まなくていい。相手の弱みにつけこみ、不本意であっても構わない。なぜなら、アドルフにとってディアナは真の敵ではなかった。攻略すべき相手は彼女の向こう側にいる。

 と、そのときだった。ようやく呼吸が整いだしたアドルフの耳に少女の声が飛び込んできた。

「――アドルフ!」

 もはや馴染みが生まれ、心を一刺しするような低い声。そう、時間差で行動していたフリーデだ。

 事実、体を起こして見ると、視界の片隅に彼女がいた。その背後にはノイン、そしてニミッツ家の風変わりな従者が三人いる。

 奇しくも、アドルフが手駒にしていた連中がこの場に勢揃いしている。だがアドルフは、当然のようにそのことを歓迎しなかった。

 戦勝をあげた晴れがましい状況である。それはしかし無関係な周囲の見方であって、アドルフ本人の認識とはかけ離れていた。

 実際、落ち着きを失わないアドルフの視線の先で、フリーデたちは皆、一様に顔を暗く曇らせている。何かよくないことが起きたとしか思えない表情だ。

 とはいえアドルフは、だれよりもよくわかっていた。市場に偽情報を撒いた行為は、彼が敵対すると決めた相手にたいする強烈なボディブローであることを。

 そんな一撃を食らって、何事も起きないわけがない。現にディアナは喧嘩腰で迫り、やむを得ず戦うはめになった。同じようなことがまだ起こりうるだろう。そう後ろ向きに考え、思考をマイナスに向かわせることこそが、この場の正しい判断だった。

 ゆえにアドルフは、多少困ったような顔をわざとつくり、フリーデたちの雰囲気に自分を合わせた。

「そんなに慌ててどうした?」

 薄々答えは見えている。それでも彼は、あえて何も知らないふりをして、早口で問うた。

「大変だ、ヤーヒムが怒って町長に告げ口した。犯人捜しがはじまって市場は大騒ぎらしい」

 険しい顔をしたフリーデの返事は、アドルフの予想と寸分違わなかった。
 とはいえ、計算外な要素もゼロではない。ひとつは、ヤーヒムが父親である町長へとまっすぐ向かい、早くも大人が前線に顔を出そうとしていること。

 もうひとつは、その展開の速度がいささかスピーディであること。
 アドルフの予想だとヤーヒムは、ディアナがそうしたように子分を従えアドルフに反撃し、もう一度ガキっぽい争いを演じる予定だった。

 けれど速やかに大人を頼ったということは、問題解決する能力が欠如しているか、あるいは得体の知れない動きに不穏さを覚え、手に余ると判断し父親へ報告したか、そのどちらかだ。

 もっともアドルフは、ヤーヒムの人間性を深くは知らない。だから答えを確定させることは不可能だ。

 しかしこの際、ヤーヒムの動機には意味がないだろう。フリーデの話が本当なら、事態は一足飛びに動き、トルナバの町長へと問題が波及した。それこそがアドルフの狙いなのだから、恐れおののくことはない。

 けれど彼には残念なことがひとつだけあった。それが何かを知れば、フリーデはきっと呆れるだろう。

 ――やれやれ。せめておやつの時間は楽しみたかったな。まったく思うようにならん。

 その雑なつぶやきは心のうちに隠され、だれの耳にも届くことはなかった。
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