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第二章
九年後の現在1
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幸か不幸か、強制収容がはじまって以降も、アドルフは命を永らえた。
持ち前の才覚で実力を認めさせたからでもあるが、亜人族の根絶策が採られたりするといった最悪の事態をまぬがれたのは大きく、やがて彼は収容政策が採られた本当の原因に思いを馳せるようになった。
もちろん表向きの理由は、少年期に知った亜人族のスパイ事件が原因だ。しかし転生にあたり、天界の住人と接点をもった彼は、自分の運命に彼らが関与している疑いを捨てきれなかった。
何しろアドルフは総統時代、ユダヤ人問題の最終的解決という人類史でもっとも残酷な虐殺のひとつを実施した張本人だ。
自分のなかでその命令を正当化できていても、彼とて馬鹿ではない。他人の視点からものを見ることができるアドルフは、ナチス党と一体化した当時のドイツ国の所業を悪だと断じる者がいても何ら不思議はないと理解していた。
だからアドルフは、自分たち亜人族に下された悲劇のルーツを、《主》が前世の責任を問うた結果ではないかという疑いを根強くもち続けたのだった。
***
気づけばそこは、空に浮かぶ輸送船カイセル号。
身にまとった黄土色の軍衣は、折からの風に吹かれ、その裾を激しく暴れさせている。
彼が幼き半生を振り返っているあいだ、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。目線をあげると、そこには魔導武装を解いた、成人後のフリーデがいた。肩を落とし脱力しきっていることから、彼が目を離した隙に対魔獣戦闘は終結を迎えているようだった。
「ほう、やるじゃねぇか?」
戦いぶりに感心したのか、隣に立つゼーマンが声を洩らした。その視線を追うと、敵対したロングレンジに数体の骸骨騎士が群がっていた。彼らの総攻撃は魔獣を切り刻み、半径一メーテルの範囲に大量の血しぶきを撒き散らした。
「……駆除完了」
敵を撃滅したフリーデは、世界を正したことを意味する言葉をつぶやきながら、見えない弓をしまって魔法を収束させた。ゼーマンがそれを見て、機嫌を良くしたのか口笛を吹いた。
対魔獣戦闘が終わると、船艇にはいくらか弛緩した空気が漂う。不快な過去を思い出したアドルフも、気分を落ち着かせようとして背伸びをする。
ちょうどそのとき、緊張を解いたフリーデが彼のそばにむかってきた。何を思ったか顔を寄せ、小声でそっと耳打ちをしてくる。
「君の指揮は相変わらず良かったよ。おかげで良い戦闘ができた」
そう言ったきりフリーデは、自分の持ち場に歩きだす。
いっけん唐突に見える感謝だが、その理由をアドルフは知っている。フリーデは班でもっともすぐれた戦闘員らしく、アドルフの指揮が的確だったかどうかをつねに評価し、彼の技能向上に寄与しているのだ。
何しろ前世の戦争指導が敗北に終わったのだから、転生したアドルフは自分がおのれの能力を過信しているという結論に到っており、あえて厳しい声を求めた。フリーデはその求めに応じ、アドルフ班を結成して以来、その指揮に歯に衣着せぬ声をぶつけてくれるようになった。
もっともアドルフの成長は目を見張るものがあり、いまではフリーデがマイナス点をつけることは滅多にない。それでも彼はつねに上を目指しているから、フリーデの絶賛を得るまでは、彼女の声に耳を傾け続ける気でいるのだった。
――あれが我に媚びるような女でなくてよかった。ご機嫌取りは前世の連中でたくさんだ。
かつてのナチス党の部下たちを思い浮かべながら、遠ざかるフリーデの背中を頼もしく眺めていると、持ち場に戻る途中で彼女はゼーマンに呼び止められていた。
「〈増幅器〉があれば、クラスCと同等の魔法をぶちかませるって噂は本当だったみてぇだな。けどフリーデ、調子に乗んじゃねぇぞ。オレは貴様の魔法を簡単に封じることができる。どういう意味かわかるな?」
「〈禁止〉を使うのだろう」
「魔法の知識もいっちょまえか。けどクラスCとかDってわけじゃねぇぞ。オレは〈禁止〉魔法をクラスBまで使いこなせる。くれぐれも悪さしようなんて気を起こすなよ。みんな真面目に働いてんだ、奉仕に打ち込み、勤勉さを発揮することだけ考えろ」
ふたりのやり取りは途切れがちにしか聞こえなかったが、不穏な応酬というよりは口頭での注意行動に見えた。おそらくフリーデの魔導師としての力量を目の当たりにしたゼーマンは、咄嗟に警戒心を覚えたのだろう。現場責任者として当然の反応だ。
肝心のフリーデもそれを敏感に感じとったらしく、肩をすくめ低姿勢で応じた。
「言い分はよくわかったが、安心して欲しい。僕は職員に逆らう気も、反抗する気もない」
「フン、なるほど。結構なこった」
荒っぽく鼻を鳴らしたゼーマンを横目に、フリーデは自分の椅子に腰をおろし、足を組んだ。
そこからしばらくは、何事もなく時間が流れた。しかし異常が発生しないというだけで、船上はべつの意味で慌ただしかった。
城塞都市ビュクシから金鉱の町トルナバへの輸送ルートには、必ず通らざるをえない危険地帯がある。中央大陸に横たわる巨大な森林地帯、通称〈死の森〉である。
吸い込むと死に到る毒は、濃度の高い場所だと上空においてなおその毒性は人体に深刻な害を及ぼす。ゆえにそこを通過する際は極力濃度の低いルートをたどり、搭乗員たちは全員防塵マスクを装着する義務があった。つまり一定時間、アドルフたちは口が不自由になる。
よって彼らは〈死の森〉を通過する前に片づけておくべきことがあった。それは朝食を摂ることだ。
「あんたが作る料理は何の代わり映えもないけど、味だけはそこそこ良いからラッキーよね」
朝食の時間を待ってましたとばかりに現れたのは、哨戒任務に就いていたノインである。彼女がおもむろにアドルフに話しかけてきたのは、今週の給仕当番は彼の担当だったからだ。
食事の時間、とりわけ朝食は、イェドノタ連邦の国民にとっては儀礼的意味をもつ宗教的な時間でもある。収容所はその慣習を引き継いでいるため、たとえ労務中であっても食事は必ず口にする。
「できれば給仕当番は、ずっとアドルフにお願いしたいわね。あたしはさておき、誰かさんの当番だとクソまずいスープを無理やり飲まされるはめになるんだから」
ノインのおしゃべりは独り言のように続いている。きょうは週の最後で、金曜日だから、給仕当番の交代を愚痴っているのは明白。それと同時に、彼女の発言はあからさまな文句だった。
アドルフは鉄の炉で炭を焚き、それでシチューを温めてはじめていたが、しゃもじがお留守になるのも忘れてそっと上を見あげる。すると批判された当人がノインのそばにつかつかと歩み寄ってくるのが目に入った。
「誰かさんて誰のことだ? 次の当番の俺のことか? 陰口叩いてんじゃねぇぞ、カス女」
苛立ちと嘲りの入り混じった声。ふて腐れた様子で絡んできたのは小柄な海軍帽、ディアナである。
その乱暴な態度に気圧されて、普通の相手なら黙り込むだろう。けれどお嬢様育ちのノインはめっぽう気が強く、一歩も引かずに苦言を呈した。
「あんたの料理は食べられたもんじゃないってこと。月に一週はくそマズ料理食べさせられるなら空腹でいたほうがましってもんよ」
「なら食べなきゃいいじゃねぇか」
「食べないと働けないから食べるんじゃない。開き直るんじゃないわよ、今度こそ美味しい料理作るから許してくださいって謝る場面でしょ? 開き直るんじゃないわよ、偉そうに」
「同じ台詞を二回もくり返すなよ。そういうの馬鹿に見えるぜ?」
切り返しはディアナのほうが一枚上手だったか、ゲラゲラと笑う嘲笑を受けてノインが歯軋りをする。
犬猿の仲とはよく言ったもので、二人の少女は大声で罵倒し合い、火花を散らして睨み合っていた。
この二人の喧嘩はある意味馴染み深い光景と言える。〈施設〉の頃はお互い自分の派閥を率い、収容後も子分作りに熱心な親分肌のディアナと、依然としてお嬢様気質が抜けないノインは互いに相容れない部分があるのだろう。
とはいえ無関係な第三者からすれば、見飽きた衝突のくり返しは退屈以外の何物でもない。こんなときアドルフは班長の権威をひけらかさず、べつの手段で問題解決を図る。
彼はやれやれと溜め息を吐いた後、最初のシチュー皿をゼーマンに手渡しながら、船上に視線を移してフリーデを見つけた。そして彼女に目で合図する。
――いがみ合う班員を止めろ。
それは何度もくり返し行ってきたお決まりの合図だ。
持ち前の才覚で実力を認めさせたからでもあるが、亜人族の根絶策が採られたりするといった最悪の事態をまぬがれたのは大きく、やがて彼は収容政策が採られた本当の原因に思いを馳せるようになった。
もちろん表向きの理由は、少年期に知った亜人族のスパイ事件が原因だ。しかし転生にあたり、天界の住人と接点をもった彼は、自分の運命に彼らが関与している疑いを捨てきれなかった。
何しろアドルフは総統時代、ユダヤ人問題の最終的解決という人類史でもっとも残酷な虐殺のひとつを実施した張本人だ。
自分のなかでその命令を正当化できていても、彼とて馬鹿ではない。他人の視点からものを見ることができるアドルフは、ナチス党と一体化した当時のドイツ国の所業を悪だと断じる者がいても何ら不思議はないと理解していた。
だからアドルフは、自分たち亜人族に下された悲劇のルーツを、《主》が前世の責任を問うた結果ではないかという疑いを根強くもち続けたのだった。
***
気づけばそこは、空に浮かぶ輸送船カイセル号。
身にまとった黄土色の軍衣は、折からの風に吹かれ、その裾を激しく暴れさせている。
彼が幼き半生を振り返っているあいだ、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。目線をあげると、そこには魔導武装を解いた、成人後のフリーデがいた。肩を落とし脱力しきっていることから、彼が目を離した隙に対魔獣戦闘は終結を迎えているようだった。
「ほう、やるじゃねぇか?」
戦いぶりに感心したのか、隣に立つゼーマンが声を洩らした。その視線を追うと、敵対したロングレンジに数体の骸骨騎士が群がっていた。彼らの総攻撃は魔獣を切り刻み、半径一メーテルの範囲に大量の血しぶきを撒き散らした。
「……駆除完了」
敵を撃滅したフリーデは、世界を正したことを意味する言葉をつぶやきながら、見えない弓をしまって魔法を収束させた。ゼーマンがそれを見て、機嫌を良くしたのか口笛を吹いた。
対魔獣戦闘が終わると、船艇にはいくらか弛緩した空気が漂う。不快な過去を思い出したアドルフも、気分を落ち着かせようとして背伸びをする。
ちょうどそのとき、緊張を解いたフリーデが彼のそばにむかってきた。何を思ったか顔を寄せ、小声でそっと耳打ちをしてくる。
「君の指揮は相変わらず良かったよ。おかげで良い戦闘ができた」
そう言ったきりフリーデは、自分の持ち場に歩きだす。
いっけん唐突に見える感謝だが、その理由をアドルフは知っている。フリーデは班でもっともすぐれた戦闘員らしく、アドルフの指揮が的確だったかどうかをつねに評価し、彼の技能向上に寄与しているのだ。
何しろ前世の戦争指導が敗北に終わったのだから、転生したアドルフは自分がおのれの能力を過信しているという結論に到っており、あえて厳しい声を求めた。フリーデはその求めに応じ、アドルフ班を結成して以来、その指揮に歯に衣着せぬ声をぶつけてくれるようになった。
もっともアドルフの成長は目を見張るものがあり、いまではフリーデがマイナス点をつけることは滅多にない。それでも彼はつねに上を目指しているから、フリーデの絶賛を得るまでは、彼女の声に耳を傾け続ける気でいるのだった。
――あれが我に媚びるような女でなくてよかった。ご機嫌取りは前世の連中でたくさんだ。
かつてのナチス党の部下たちを思い浮かべながら、遠ざかるフリーデの背中を頼もしく眺めていると、持ち場に戻る途中で彼女はゼーマンに呼び止められていた。
「〈増幅器〉があれば、クラスCと同等の魔法をぶちかませるって噂は本当だったみてぇだな。けどフリーデ、調子に乗んじゃねぇぞ。オレは貴様の魔法を簡単に封じることができる。どういう意味かわかるな?」
「〈禁止〉を使うのだろう」
「魔法の知識もいっちょまえか。けどクラスCとかDってわけじゃねぇぞ。オレは〈禁止〉魔法をクラスBまで使いこなせる。くれぐれも悪さしようなんて気を起こすなよ。みんな真面目に働いてんだ、奉仕に打ち込み、勤勉さを発揮することだけ考えろ」
ふたりのやり取りは途切れがちにしか聞こえなかったが、不穏な応酬というよりは口頭での注意行動に見えた。おそらくフリーデの魔導師としての力量を目の当たりにしたゼーマンは、咄嗟に警戒心を覚えたのだろう。現場責任者として当然の反応だ。
肝心のフリーデもそれを敏感に感じとったらしく、肩をすくめ低姿勢で応じた。
「言い分はよくわかったが、安心して欲しい。僕は職員に逆らう気も、反抗する気もない」
「フン、なるほど。結構なこった」
荒っぽく鼻を鳴らしたゼーマンを横目に、フリーデは自分の椅子に腰をおろし、足を組んだ。
そこからしばらくは、何事もなく時間が流れた。しかし異常が発生しないというだけで、船上はべつの意味で慌ただしかった。
城塞都市ビュクシから金鉱の町トルナバへの輸送ルートには、必ず通らざるをえない危険地帯がある。中央大陸に横たわる巨大な森林地帯、通称〈死の森〉である。
吸い込むと死に到る毒は、濃度の高い場所だと上空においてなおその毒性は人体に深刻な害を及ぼす。ゆえにそこを通過する際は極力濃度の低いルートをたどり、搭乗員たちは全員防塵マスクを装着する義務があった。つまり一定時間、アドルフたちは口が不自由になる。
よって彼らは〈死の森〉を通過する前に片づけておくべきことがあった。それは朝食を摂ることだ。
「あんたが作る料理は何の代わり映えもないけど、味だけはそこそこ良いからラッキーよね」
朝食の時間を待ってましたとばかりに現れたのは、哨戒任務に就いていたノインである。彼女がおもむろにアドルフに話しかけてきたのは、今週の給仕当番は彼の担当だったからだ。
食事の時間、とりわけ朝食は、イェドノタ連邦の国民にとっては儀礼的意味をもつ宗教的な時間でもある。収容所はその慣習を引き継いでいるため、たとえ労務中であっても食事は必ず口にする。
「できれば給仕当番は、ずっとアドルフにお願いしたいわね。あたしはさておき、誰かさんの当番だとクソまずいスープを無理やり飲まされるはめになるんだから」
ノインのおしゃべりは独り言のように続いている。きょうは週の最後で、金曜日だから、給仕当番の交代を愚痴っているのは明白。それと同時に、彼女の発言はあからさまな文句だった。
アドルフは鉄の炉で炭を焚き、それでシチューを温めてはじめていたが、しゃもじがお留守になるのも忘れてそっと上を見あげる。すると批判された当人がノインのそばにつかつかと歩み寄ってくるのが目に入った。
「誰かさんて誰のことだ? 次の当番の俺のことか? 陰口叩いてんじゃねぇぞ、カス女」
苛立ちと嘲りの入り混じった声。ふて腐れた様子で絡んできたのは小柄な海軍帽、ディアナである。
その乱暴な態度に気圧されて、普通の相手なら黙り込むだろう。けれどお嬢様育ちのノインはめっぽう気が強く、一歩も引かずに苦言を呈した。
「あんたの料理は食べられたもんじゃないってこと。月に一週はくそマズ料理食べさせられるなら空腹でいたほうがましってもんよ」
「なら食べなきゃいいじゃねぇか」
「食べないと働けないから食べるんじゃない。開き直るんじゃないわよ、今度こそ美味しい料理作るから許してくださいって謝る場面でしょ? 開き直るんじゃないわよ、偉そうに」
「同じ台詞を二回もくり返すなよ。そういうの馬鹿に見えるぜ?」
切り返しはディアナのほうが一枚上手だったか、ゲラゲラと笑う嘲笑を受けてノインが歯軋りをする。
犬猿の仲とはよく言ったもので、二人の少女は大声で罵倒し合い、火花を散らして睨み合っていた。
この二人の喧嘩はある意味馴染み深い光景と言える。〈施設〉の頃はお互い自分の派閥を率い、収容後も子分作りに熱心な親分肌のディアナと、依然としてお嬢様気質が抜けないノインは互いに相容れない部分があるのだろう。
とはいえ無関係な第三者からすれば、見飽きた衝突のくり返しは退屈以外の何物でもない。こんなときアドルフは班長の権威をひけらかさず、べつの手段で問題解決を図る。
彼はやれやれと溜め息を吐いた後、最初のシチュー皿をゼーマンに手渡しながら、船上に視線を移してフリーデを見つけた。そして彼女に目で合図する。
――いがみ合う班員を止めろ。
それは何度もくり返し行ってきたお決まりの合図だ。
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