蟲公主と金色の蝶

沖田弥子

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第三章

夏太守 2

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「美味い普洱茶がある。屋敷へ行きましょうか。校尉殿も、どうぞ」

 塩湖からの風を受けながら、夏太守は颯爽と歩き出す。結蘭と黒狼は互いに顔を見合わせると、後に続いた。



 邸宅に案内されて挨拶を交わすと、内部の違和感の正体に気がついた。白く塗られた壁をよく見ると、結晶が組み込まれている。漆喰ではない。

「これは……塩ね」

 壁を撫でる結蘭に、またも香烟を取り出した夏太守は呑気に声をかける。

「その壁は私が塗ったんだが、これがまた上出来だ」

 自画自賛して膝を打つ夏太守は仙人のような言動が目立つが、お爺さんという年齢ではない。背筋は真っ直ぐに伸び、皺は目尻にしか見られない。

「こんな風に固められるんですね」
「そう。特殊な上薬を使うんだ。しかもそれは人体に害がないので、有事の際には壁を溶かして食すこともできる」

 がちゃりと卓に茶器が置かれる。咎めるような雑音を立てた劉青は戸口に控えた。黒狼は警戒しているのか、結蘭の後ろに座したまま茶を飲むどころか身じろぎさえしない。
 ところで、と夏太守が黒狼を見遣った。

「良い近侍を持っているね」

 黒狼の強さは佇まいでわかるらしい。結蘭が答える前に、夏太守はくつくつと笑い出した。

「いや、剣の強さではなくてね。何も喋らないところが良いね」
「どういう意味ですか?」

 無口な黒狼は誤解されやすく、人と馴染めずに敬遠される。それが美点というのだろうか。

「喋らなければ何もわからないからね。情報が漏れない。劉青はわかり易いだろう。禁軍を忌み嫌っているから、君たちに剣を振り回したんじゃないか?」
「夏太守! 私はそのようなこと……」

 弁明しようとした劉青は罠に気づき、口を噤んだ。そのように仕掛けられては、近侍たちは黙り込むしかない。結蘭は、ふくよかな香りの普洱茶を口に含みながら各々を眺める。

「夏太守が一番喋っていますが……?」
「はは、そうだね。私は剣客に向いてないな。喋ることも仕事のひとつでしてね、十年前に戦が起こりましてな、皆が黙り込むものだから、あの頃は一番よく喋りましたよ」

 結蘭は相槌を打つ。敬州との境に、以前は北蜀という名の国があったのだ。現在は内乱により滅び、自治区が成立していると聞き及んでいる。夏太守は俸禄の話をするような流暢さで述べた。

「塩湖は、現在は敬州が管理しているが、十年ほど前までは北蜀と等分していた。平和的にね。ところが北蜀の皇帝は次期皇帝を定めないまま亡くなってしまったので、兄弟で跡目争いが起こった。結果、弟派が兄と正妃を殺害して皇帝になりました。問題はそこからだ」
「塩湖の利権を要求してきたんですよね。老師が仰ってました」

 夏太守は微笑んで、茶をひとくち含んだ。

「その通り。塩湖は歴史的にすべて北蜀の領土であると主張してきた。全部よこせと言われてもね、敬州としては、はいそうですかと渡すわけにはいかない。うちは塩で家族を食わせているのだからね。政府に訴えたら、そちらで何とかしてくれという。そして北蜀に戦を仕掛けられました。被害は甚大で、多くの村が戦火の巻き添えになった。劉青の両親は、戦の犠牲になり死にました。彼の目の前で」
「そうでしたか……」

 お気の毒ですという言葉を、結蘭は喉元で飲み込んだ。唇を引き結んだ劉青には一切の同情を受け付けない頑なさが窺えたからだ。

「我々は塩を作ることしか知らないものだから、訓練を受けた兵になど太刀打ちできない。殺され、奪われ、すべてを失いました。塩湖を明け渡そうと決断したとき、状況が変わった。北蜀の民が蜂起したのです。反乱軍により新皇帝と一派は討ち取られ、北蜀は滅んだ」
「北蜀の人たちが助けてくれたのですか?」
「結果的にはそうなったね。つまり新皇帝には国を纏める力がなかったのだよ。即位したらまずは国内を統制することが先決だが、それを怠り領土を広げようというのだから順番を間違っている。もっとも、八歳の兄を殺して王位を簒奪した弟は六歳だったから、裏で操っている宰相の才覚がなかったということだろう。そして戦いは終わりを告げ、平和が訪れた。問題はそこからだ」
「そこからですか」
「戦死者の弔い、孤児や難民の保護、家屋の再建、塩を精製する作業場も何もかも破壊されてしまった。敬州の復興に、かなり借金をしてしまいましてな。その返済を今も行っている。闇塩でもやらないと、財政破綻してしまうよ」

 邪気のない夏太守の笑い声が、塩壁の房室に響き渡る。結蘭は呆気にとられた。

「闇塩を認めるのですか?」
「例を挙げただけだよ。ところで、蟲公主はどなたの差し金でこのような田舎まで来たのかな?」

 夏太守の話術に巧く乗せられている気がする。会話の進度が絶妙で、するりと引き出されてしまう。
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