つがいの薔薇 オメガは傲慢伯爵の溺愛に濡れる

沖田弥子

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子犬と懐中時計 2

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「赤ちゃん犬だね。お母さんは?」
「いない」
「名前は?」
「ないよ。道端に捨てられてたんだ」
「じゃあ……僕が飼ってもいい?」

 少年は戸惑いと不審を込めた眼差しで安珠を見た。

「また捨てられたら困る。簡単に言うな」
「捨てないよ。やくそくする」

 彼は頑なに首を振る。どうしたら信じてもらえるのだろうか。この寒空で過ごしたら、子犬は死んでしまうかもしれない。
 安珠は咄嗟の思いつきで、首にかけた懐中時計を外した。金色の鎖がしゃらりと鳴る。

「じゃあ、これと交換しよう」

 金無垢の懐中時計は父から授かった宝物だ。これと交換なら、子犬を預けてくれるのではないだろうか。
 懐中時計を手渡された少年は眉をひそめて吟味した。蓋には椿小路家の家紋である、椿の花が彫金されている。文字盤は白色で、黒の文字にブルースチールの針。ムーブメントは手巻き式だ。

「これは……まさか、でも……」

 驚いている少年の掌を、安珠は懐中時計を押しつけるように小さな手で包み込む。
 冷たい、ひびの切れた手だ。でもこの手をなぜか好ましいと、安珠は頭の隅で思った。

「ね。いいでしょ?」

 少年は逡巡していたが、やがて頷いてくれた。

「……いいよ。でも、この懐中時計はいつか君に返すよ」

 大人になったら再び交換しようということだろうか。それでは、子犬もいつか彼に返さなくてはならないのだ。そのとき、子犬がぺろりと安珠の指先を舐めた。

「ひゃっ」
「甘えてるだけだから、大丈夫だ。背中から撫でてみて」

 言われたとおりに背を撫でると、温もりが感じられた。子犬は瞬きをして、呼吸もしている。小さいけれど生きているのだと実感できた。安珠は少年と共に、笑みを浮かべながら子犬を愛でた。

「名前、どうしよう」
「君が名付ければいい。君の名前は?」
「僕は安珠だよ。きみの名前は何ていうの?」

 一瞬の間があった。その空白に己の運命が課せられていたとは、このときの無垢な安珠には知る由もない。

「……ヒロト」
「ヒロトくんだね。じゃあこの子犬は、ヒロっていう名前にしよう」
「分かった。安珠」

 ヒロと名付けた子犬を抱き上げたヒロトは、安珠の腕に収めてくれた。怖々抱きしめると、子犬は小さな前足を揃えて大人しく抱かれている。

「わあ……かわいい。ヒロトくん、うちに来てよ。ヒロを庭で遊ばせよう」

 彼とは友達になれるかもしれない。嬉しくなった安珠は子犬を抱きながらヒロトに笑いかけた。だが無邪気な提案を聞いたヒロトは微笑の中に影を落とす。

「行けないよ。でもいつか行くよ。それまで待っていてくれ、安珠」

 ヒロトは身を屈めて、安珠の眸を覗き込んだ。夜のような昏い眸に、小さな安珠が映っている。

「坊ちゃま、坊ちゃま、どこですか!」

 突然の呼びかけに、びくりと肩を跳ねさせる。路地の向こうから、キユの悲鳴のような叫び声が響いてきた。
 いけない。皆に黙って店を出てきてしまったのだ。

「どうしよう、キユが探しにきちゃった」
「大丈夫だ。一緒に行こう」

 背に手を添えられて、共に路地裏を進む。大通りに出ると、安珠を発見したキユが蒼白な顔をして駆け寄ってきた。

「坊ちゃま、お捜ししました! 今までどこにいらしたんですか」

 見ればキユの後ろから、母と史子も慌てた様子で走ってくる。
 わずかの時間のつもりだったが、皆を心配させてしまったことに気づいた安珠は呆然とした。史子は安珠の抱いている子犬を見るなり、眉を顰める。

「まあ、汚い犬。雑種ね」

 安珠の冷えた頬に手を宛てたり、衣服に乱れがないか腰を屈めて確認していた母は安堵の息を吐くと、目を合わせて聞いた。

「安珠。この犬はどうなさったの?」
「ヒロトくんが……」

 振り返れば、そこにヒロトの姿はなかった。今まで一緒にいたはずなのに。
 首を巡らせてヒロトを捜す安珠を、皆は訝しげに見つめている。

「あら、あなた、懐中時計はどこにやったのです? さっきまで首にかけていたのに」
「あ……ヒロトくんと交換した」

 子犬と懐中時計を交換したことを知った母は息を呑んだ。驚愕の表情を浮かべた母を窺った安珠は、大変なことをしてしまったのだと悟る。
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