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疑惑のリサイタル 4
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「あなたは、俺以外の男に接吻されて、それを俺に見られても何とも思わないのですか」
安珠は呆けた顔をして睫毛を瞬かせた。どうやら鴇の機嫌が優れないのは、楽屋でアレクセイに接吻されたことが原因らしいが、挨拶くらいで何を怒ることがあるのだろうか。
「あれは単なる挨拶だ。ロシアでは家族とでもキスをするんだぞ。僕だって驚いたけど、まさか拒絶するわけにはいかないだろう。アレクセイはファンへの礼としてキスしてくれたんだ」
「状況は分かっています。安珠だけにキスをして俺には握手だったのも、旧知の仲と初対面の相手を分けたということにしておきましょう。この際、彼に下心があったかは問題にしません。俺が言いたいのはレオノフ氏の行為ではなく、安珠の気持ちです」
細かいことを蒸し返して妙な調理を施そうとする鴇に内心呆れる。溜息を吐いて紅茶のカップを手にした安珠は、飴色の液体を含みながら先を促した。
「それで?」
「あなたが色恋に無頓着なのは分かっています。だからこそ他の男に触らせるなと禁止しなくてはならないんです。俺は安珠への許容量がとても狭い。本当は誰の目にも触れさせたくないくらいなんですよ」
身勝手な言い分に腹が立つ。いつの間にか禁止事項の難易度が上がっているではないか。
鴇の機嫌によって身柄を勝手にされたのではたまらない。
澪やアレクセイに触れたことが面白くないようだが、それを責めるのなら鴇自身はどうなのだ。
唐突に、藤棚の前で晃久から聞いた話が蘇る。
鴇は、澪に手を出そうとした。その失態を晃久が許したという。
今なら分かる。手を出すというのは、寝ることだ。
安珠と出会う以前に、鴇は澪と体をつないだのだ。毎晩安珠にそうするように、濃厚な接吻を交わして、口淫で体を蕩かせ、雄々しい男根で貫いた。
この漆黒の双眸も、熱い唇も、澪だけにむけられた。その前も、安珠の知らない誰かにも。
急に目の前が真紅に染め上げられる。鼓動が早鐘のように激しく脈打つ。不規則な浅い息を継ぎながら眼前の男を睨みつけた。
「おまえはどうなんだ。他の男に触らせるなだって? 鴇こそ澪と寝ていたくせに、よくも堂々と僕にそんなことを強要できるな」
鴇は驚きに目を見開いた。だがそれも一瞬で、すぐに気まずそうに眉根を寄せる。
「晃久さまから聞いたんですね。誤解です。寝ていません」
「でも、キス……したんだろう」
「していません」
「じゃあ、触っていないのか? 触ったよな、体を」
違う。そんなことを確認したいわけではない。でも聞かずにはいられない。
安珠の声は震え、眦には涙が溜まる。
鴇は、体を触ったことを否定しない。黙したまま、小さく頷いた。
何もないと言ってほしかった。手なんか出していない。晃久の作り話だと、すべてを否定してほしかったのに。
どうしてこんなにも心が揺さぶられる。鴇が他の男に触らせるなと命じるのと同じように、安珠が自分の側になればやはり、たとえ過去でも他の誰にも触ってほしくないという衝動的な思いが突き上げる。
過去なんて、終わったことなのに。理屈では分かっているのに感情が許さない。鴇の過去を苛立たしく暴きたくなってしまう。
目頭を押さえた安珠はソファに身を沈めた。気がつけば、先ほどまでざわめいていたカフェは静まり返っている。周りの客はある者は気まずそうに、またある者は好奇の目で安珠と鴇のやり取りに目を配っていた。
安珠の声が大きかったので周囲の注目を引いてしまったらしい。鴇は音もなく席を立つと、涙が決壊しないよう目元を覆っている安珠の足元に跪いた。膝に大きな手が、そっと置かれる。
「安珠……嫉妬してくれてます?」
「……ちがう。そんなことじゃない」
「俺は、嫉妬します。俺だけの安珠に他の男が触れたら、血が煮えたぎるくらい嫉妬します。過去のことは……すみません。でも過去の誰も愛せませんでした。俺の心の中にずっといたのは、安珠だけです」
真摯な告白に、強張っていた心が解けていく。鴇の低い声は心地良く耳に馴染んだ。
「ずっと……?」
「ええ、ずっと。子どもの頃に会ったときから」
鴇は父が亡くなる一年前に下男として屋敷を訪れた。安珠と知り合ったのは、そのときが初めてのはずだ。
以前どこかで会ったことがあるのだろうか。
安珠が問いかけようとしたとき、漆黒の衣服を纏う男性が視界を掠めた。足丈のマオカラースーツに似たキャソックは神父の祭服だ。
「もし……失礼ですが、あなたは廣人くんではありませんか?」
慇懃に話しかけてきた神父は、じっくりと鴇の顔を眺めている。
ヒロト、という名前に安珠は瞬いた。ここでヒロトの名を聞くことになるとは。
鴇は一瞬硬直したが、神父から顔を背けて安珠を椅子から掬い上げる。
安珠は呆けた顔をして睫毛を瞬かせた。どうやら鴇の機嫌が優れないのは、楽屋でアレクセイに接吻されたことが原因らしいが、挨拶くらいで何を怒ることがあるのだろうか。
「あれは単なる挨拶だ。ロシアでは家族とでもキスをするんだぞ。僕だって驚いたけど、まさか拒絶するわけにはいかないだろう。アレクセイはファンへの礼としてキスしてくれたんだ」
「状況は分かっています。安珠だけにキスをして俺には握手だったのも、旧知の仲と初対面の相手を分けたということにしておきましょう。この際、彼に下心があったかは問題にしません。俺が言いたいのはレオノフ氏の行為ではなく、安珠の気持ちです」
細かいことを蒸し返して妙な調理を施そうとする鴇に内心呆れる。溜息を吐いて紅茶のカップを手にした安珠は、飴色の液体を含みながら先を促した。
「それで?」
「あなたが色恋に無頓着なのは分かっています。だからこそ他の男に触らせるなと禁止しなくてはならないんです。俺は安珠への許容量がとても狭い。本当は誰の目にも触れさせたくないくらいなんですよ」
身勝手な言い分に腹が立つ。いつの間にか禁止事項の難易度が上がっているではないか。
鴇の機嫌によって身柄を勝手にされたのではたまらない。
澪やアレクセイに触れたことが面白くないようだが、それを責めるのなら鴇自身はどうなのだ。
唐突に、藤棚の前で晃久から聞いた話が蘇る。
鴇は、澪に手を出そうとした。その失態を晃久が許したという。
今なら分かる。手を出すというのは、寝ることだ。
安珠と出会う以前に、鴇は澪と体をつないだのだ。毎晩安珠にそうするように、濃厚な接吻を交わして、口淫で体を蕩かせ、雄々しい男根で貫いた。
この漆黒の双眸も、熱い唇も、澪だけにむけられた。その前も、安珠の知らない誰かにも。
急に目の前が真紅に染め上げられる。鼓動が早鐘のように激しく脈打つ。不規則な浅い息を継ぎながら眼前の男を睨みつけた。
「おまえはどうなんだ。他の男に触らせるなだって? 鴇こそ澪と寝ていたくせに、よくも堂々と僕にそんなことを強要できるな」
鴇は驚きに目を見開いた。だがそれも一瞬で、すぐに気まずそうに眉根を寄せる。
「晃久さまから聞いたんですね。誤解です。寝ていません」
「でも、キス……したんだろう」
「していません」
「じゃあ、触っていないのか? 触ったよな、体を」
違う。そんなことを確認したいわけではない。でも聞かずにはいられない。
安珠の声は震え、眦には涙が溜まる。
鴇は、体を触ったことを否定しない。黙したまま、小さく頷いた。
何もないと言ってほしかった。手なんか出していない。晃久の作り話だと、すべてを否定してほしかったのに。
どうしてこんなにも心が揺さぶられる。鴇が他の男に触らせるなと命じるのと同じように、安珠が自分の側になればやはり、たとえ過去でも他の誰にも触ってほしくないという衝動的な思いが突き上げる。
過去なんて、終わったことなのに。理屈では分かっているのに感情が許さない。鴇の過去を苛立たしく暴きたくなってしまう。
目頭を押さえた安珠はソファに身を沈めた。気がつけば、先ほどまでざわめいていたカフェは静まり返っている。周りの客はある者は気まずそうに、またある者は好奇の目で安珠と鴇のやり取りに目を配っていた。
安珠の声が大きかったので周囲の注目を引いてしまったらしい。鴇は音もなく席を立つと、涙が決壊しないよう目元を覆っている安珠の足元に跪いた。膝に大きな手が、そっと置かれる。
「安珠……嫉妬してくれてます?」
「……ちがう。そんなことじゃない」
「俺は、嫉妬します。俺だけの安珠に他の男が触れたら、血が煮えたぎるくらい嫉妬します。過去のことは……すみません。でも過去の誰も愛せませんでした。俺の心の中にずっといたのは、安珠だけです」
真摯な告白に、強張っていた心が解けていく。鴇の低い声は心地良く耳に馴染んだ。
「ずっと……?」
「ええ、ずっと。子どもの頃に会ったときから」
鴇は父が亡くなる一年前に下男として屋敷を訪れた。安珠と知り合ったのは、そのときが初めてのはずだ。
以前どこかで会ったことがあるのだろうか。
安珠が問いかけようとしたとき、漆黒の衣服を纏う男性が視界を掠めた。足丈のマオカラースーツに似たキャソックは神父の祭服だ。
「もし……失礼ですが、あなたは廣人くんではありませんか?」
慇懃に話しかけてきた神父は、じっくりと鴇の顔を眺めている。
ヒロト、という名前に安珠は瞬いた。ここでヒロトの名を聞くことになるとは。
鴇は一瞬硬直したが、神父から顔を背けて安珠を椅子から掬い上げる。
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