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あやかしお宿の若女将になりました
あやかしお宿の若女将になりました-1
プロローグ 花湯屋の若女将
東京では桜が綻びはじめる三月。
新幹線のホームに降り立った私は、首筋を鋭く撫でる寒風に首を竦めた。
「うわ……さむっ」
ぶるりと背筋を震わせながら、スーツケースを引いて人気のないホームを見渡す。
降車する乗客は私ひとりらしい。新幹線が停車するホームとは思えないほど、こぢんまりとした構内だ。山形新幹線は在来線と線路を共用しているそうで、駅構内の線路は下りと上りの二本しかない。
終点へ向かうべく発車した新幹線を見送り、振り向けばそこには改札口がひとつだけ。
東京から新幹線つばさにのって三時間半。
はるばるやってきた山形県の大石田駅はとても小さな駅で、寒々しい。
というか、実際に寒い。
薄手の春物ニットとスカートの上にトレンチコートを羽織った格好は、東北ではまだ早かったらしい。新幹線の車窓から雪の残る街並みが見えていたので驚いたけれど、こんなに寒いとは思わなかった。東北の冬をなめていた。もう三月なのに。
改札を通り抜ければ、左手には券売機が二台並び、待合のための椅子が設置されていた。椅子に座るおじいさんが驚いたように私を見ている。
おじいさんはダウンジャケットに長靴で、毛糸の帽子を被っていた。
これが山形の三月における正しい支度なのだろう。私の格好はあまりにも軽装だ。せめてもの救いはピンヒールにしなかったことだ。
私は飴色をしたローファーの先を、おじいさんに向ける。
もしかしたら、このおじいさんが迎えの人なのかもしれない。旅館から迎えが来ているはずなのだ。
「すみません。花湯屋の方ですか?」
「あんたそだながっこうでどごさいぐんだ?」
私は瞬きを繰り返す。
訛がきつくて全く聞き取れない。
「いえ、あの、おじいさんは花湯屋の花野さんですか?」
「なんだっで?」
「私は花野優香です。私のおじいちゃんは花野光一郎です」
亡くなったおじいちゃんは山形出身だった。
おじいちゃんの実家は、山形県の尾花沢市にある銀山温泉で旅館を営んでいるのだ。その旅館の名は、花湯屋という。
長男だったおじいちゃんは東京の会社に就職したので旅館を継がなかった。気まずいためか、実家とは疎遠だったらしい。私もおじいちゃんの実家が温泉宿だったなんて、つい最近知ったくらいだ。
けれど私が山形へやってきたのは、観光や湯治が目的というわけではない。
とある理由のため、私は今日から、山形で暮らすのだ。
「花? 尾花沢はほっちだげども」
言葉が全然通じないので前途多難である。
かろうじて尾花沢という固有名詞だけは聞き取れた。
ここは尾花沢市だと、おじいさんは言いたいのかな。
「尾花沢の花でなくてですね、花野という名字ですー!」
「おい」
ふいに後ろから声をかけられて振り向く。
そこには呆れ顔の青年が立っていた。
「あんたが花野優香さん?」
「……はい」
私は目の前の青年を見上げて驚いた。
切れ上がった涼しげな眦、高い鼻梁、薄いけれど形のよい唇。深みのある声音は鼓膜を甘く震わせる。
背が高くて手足が長く、すらりとした体躯はモデルにしてもおかしくない。
田舎だから純朴な男子ばかりなんだろうなと勝手に想像していたけれど、それは大きな誤解だった。こんな美男子が山形にいるなんて。
ただし、彼も長靴である。
これが山形の正装なんだろうな。
目線を下げている私に構わず、彼は私の持っていたピンク色のスーツケースの把手を掴んだ。
「俺は花湯屋の圭史郎。荷物はこれだけ? じゃあ行こうか」
挨拶もそこそこにスーツケースを引きながら、圭史郎と名のった美男子は待合室を出て行く。
「あの……っ」
「じいさん、じゃあな」
先程話していたおじいさんに、圭史郎さんはひらりと手を振った。
どうやら花湯屋の迎えは彼だったらしい。
私がこっそり人違いを恥じていると、おじいさんは鷹揚に笑いながら手を挙げていた。
「んだらばな」
じゃあね、という山形弁のようだ。
大石田駅の外へ出ると、そこにはまだ冬景色が色濃く残る風景が広がっていた。
ロータリーにも、その向こうの広い交差点にも所々に黒ずんだ雪の小山が残されている。歩道はまだ白い雪に覆われていた。空は今にも雪が降り出しそうな、一面の曇天。
駅前だというのにコンビニはなく、角に雑貨屋らしき商店が佇んでいるのみ。
「のれよ」
圭史郎さんはロータリーに停めていた白い軽トラックの荷台にスーツケースを放り込む。
もちろん荷台に屋根はない。曇天からは粉雪が舞い降りてきた。
「雪が……」
「今日はまだ暖かいほうだぞ。運がよかったな」
「ところが私のスーツケースは運悪く雪塗れになるようです」
「あんた面白いこと言うな」
圭史郎さんは可笑しそうに声を立てて笑った。
暖かいの感覚が違いすぎる。
私は目眩を覚えながら軽トラックの助手席にのり込んだ。
車内は暖房が効いているので暖かいけれど、私の手はすでにかじかんでいる。手袋が必要だったようだ。掌を擦り合わせていると、圭史郎さんは男物の大きな黒の手袋をひょいと私の膝にのせた。
「寒そうだな。俺の手袋つけていいぞ」
「……結構です。これ、男物だし、それに濡れてるじゃないですか」
「そりゃそうだ。雪かきしてきたからな」
三月に雪かき。さすが北国。
私は濡れた黒の手袋をそっと座席の脇に置いた。
圭史郎さんはギアを手慣れた仕草で操作すると、ハンドルを切る。節くれ立った指は長くて美しい。働く男の手という感じだ。
ちらりと横顔を盗み見ると、整った横顔はほれぼれするほど美形だ。
けれど、ときめいたりはしない。
恋だとかそういうものは、東京に置いてきたから。
「さっきのおじいさんに挨拶してましたけど、知り合いなんですか?」
「いや? 知らないじいさんだけど、この町にいればみんな知り合いみたいなもんだからな」
知り合いじゃなくても気軽に声を掛け合うものらしい。
「圭史郎さんは、花湯屋のスタッフなんですか?」
亡くなったおじいちゃんは実家のことを一切語らなかったので、私は山形に連れてきてもらったこともない。実家の花野家にお父さんが連絡を取ったときは女将さんが応対してくれたそうだけど、女将さんに子供はいないとのことだった。詳しい家族構成はわからないが、おそらく、おじいちゃんの弟が旅館を継いで、女将さんはその娘ではないかという話だ。
だからさっきのおじいさんが、おじいちゃんの弟なのかなと思ったわけだけれど。
圭史郎さんの年齢は高校生の私より上で、二十代前半だろう。跡取りはいないそうだから、彼は私のはとこではないはず。
前を向きながら、圭史郎さんは形のいい唇を開く。
「そうだな。スタッフだな。俺は神使だ」
聞き慣れない言葉に、私は目を瞬いた。
車道は所々が雪のためでこぼこしていて、車体が揺れる。そのたびに私のお尻も浮き上がる。
「神使? 神使っていう役職名ですか?」
「そんなところだ。神様の見習いってことだよ」
「……花湯屋は確か旅館ですよね? 神社じゃないですよね?」
「旅館だよ」
「そうですか、旅館ですか……」
神使という肩書きは初めて聞いた。いまひとつわからないけれど、山形ではそういった役職もあるのかもしれない。両親は会社員なので、私も旅館経営について詳しくは知らない。
私は花湯屋に住まわせてもらう代わりに、旅館の手伝いをすることになっている。
東京で暮らしていたときから、仲居さんに憧れはあった。着物を着て、お客様を笑顔で出迎えて、おいしいお料理でおもてなし。
高校に通いながら住み込みで働かせてもらうことは両親の了解を得ている。卒業してからも旅館業に就くかどうかはわからないけど、投げ出さないで頑張ると宣言したので、あとは私のやる気次第だ。
女将さんには初めて会うけれど、優しい人だといいな。
私と圭史郎さんをのせた軽トラックは、曲がりくねった山道を進んでいく。
車窓から覗く山々は雪化粧で純白に輝いている。銀山温泉は、みちのく(道の奥)と呼ぶに相応しい秘境にあるようだ。車内の暖房出力は最大だけれど、底冷えする寒さが足許から這い上がってきた。
もう一度確認するけれど、今は三月である。
「山形って、こんなに雪が多いんですか?」
「地域にもよるけどな。山のほうはこんな感じだ。これでも大分減ったほうだぞ」
これで少ないというのだから、ピークの時はどれほどの豪雪なのだろうか。
私の最初の仕事は長靴の購入になりそうだ。
やがて軽トラックは山の奥深く、県道の終着地点に辿り着いた。
眼前に開けた光景に、思わず歓声を上げる。
「わあ……!」
川の両岸に、ずらりと軒を連ねている風格溢れる黒鳶色の旅館。
暮れなずむ街並みに音もなく降り積もる粉雪。
ガス灯と旅館から無数に零れる橙色の明かりはまるで、命の輝きのよう。
幻想的な景色のすべてが静寂で包み込まれている。
ノスタルジックな街並みは、絵本の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚を呼び起こした。
「きれい……」
「大正時代の面影を残してるからな。どこか懐かしい感じがするだろ」
「そうですね。初めて来たはずなのに、帰ってきたような、不思議な感覚があります」
まるでタイムスリップしてしまったかのようだ。
ここが帰る場所だったと思えるような、ひどく懐かしい想いが込み上げる。
とある旅館の前に軽トラックは停車した。
圭史郎さんは車から降りると、トラックの荷台から私のスーツケースを下ろす。
ピンク色のスーツケースは雪を被って真っ白だ。
それを彼は素手で軽く払うと、抱え持って旅館の玄関へ向かった。積雪があるので引けないからだろう。
「あの、自分の荷物は自分で持ちます」
「説得力ないぞ。あんたは自分の体を自分で維持しろ」
呆れ顔で言い返した圭史郎さんは私の足許を指差す。
薄らと雪が降り積もった道の上に降り立った私は……すでに覚束ない足取りだ。
雪上を革のローファーで歩くのは無理があった。足許が滑るので、まともに立っていられないほどだ。荷物を持つどころではなく、気を抜いたら転んでしまう。
「手を繋ぐか? ほら」
圭史郎さんは空いたほうの手を差し出した。
姿勢を低く保ちながら、ぶんぶんと首を横に振る。
「いえ、結構です。玄関はすぐそこですから」
綺麗に掃かれた玄関までは、わずか五メートルである。私は生まれたての子鹿を演じながら、どうにか目的の玄関まで転ばずに辿り着いた。
「ふう、到着」
「ご苦労さん」
圭史郎さんは薄い笑いを口許に浮かべている。
雪国に住んでいる人から見れば、滑稽なんだろうな。骨折の危険性があるのでこっちは必死だ。
玄関先には、飴色の重厚な一枚板が掲げられており、『花湯屋』と達筆な文字が躍っていた。
ここが、おじいちゃんの生まれたところなんだ……
歴史ある建物は大正時代の洋館といった風情が醸し出されている。柱は艶々とした黒塗りで、敷かれた絨毯は朱色だ。広い玄関の向こうにはくすんだ色合いの柱時計が時を刻んでいる。
「ようこそ、いらっしゃいました」
物珍しく辺りを見回していると、女将さんらしき着物の女性がいつのまにか膝を突いて出迎えてくれていた。私は慌てて手を振る。
「いえ、あの、私はお客様じゃないんです。花野優香です。はじめまして。……もしかして、叔母様ですか?」
お母さんと同じくらいの年代の女将さんは、目許に優しげな皺を刻んだ。
「そうですよ。はじめまして、優香ちゃん。私は優香ちゃんのおばさんの、鶴子です」
鶴子さんは父の従姉妹にあたるので正確には叔母ではないけれど、親戚なので私は叔母様と呼んだ。
「鶴子叔母様……よろしくお願いします」
「鶴子叔母様だなんて恥ずかしいわ。おばさんでいいのよ。さあさあ、寒かったでしょう。中で暖まってちょうだい」
鶴子おばさんは私を花湯屋の中へ招き入れてくれた。
優しそうな人でよかった。
ほっと胸を撫で下ろしながら、三和土で靴を脱いでスリッパを履く。
すると、ある物が目に飛び込んだ。
中央の柱時計を挟んで、右側に臙脂の暖簾。左側には藍の暖簾がそれぞれかけられている。暖簾の向こうは廊下のようだが、なぜここに色違いの暖簾をかける必要があるのだろうか。まるで男湯と女湯を分けているかのような目印だ。
「圭史郎さんもご苦労様。優香ちゃんとすぐに会えた?」
「ああ。優香はどこかのじいさんと話し込んでたぞ」
「あらあら」
圭史郎さんは旅館のスタッフのはずなのに、女将さんに対してまるで息子のような気やすい態度なのはどうなのかと思うのだけれど、当の鶴子おばさんはころころと楽しそうに笑っている。
鶴子おばさんが先導して、私たちは右側の臙脂の暖簾をくぐった。
もちろんすぐに女湯なんていうことはなく、特に変わったところは見当たらない。ふつうの廊下だ。色違いの暖簾は飾りだったのだろう。
「こちらへどうぞ」
廊下を渡ると、談話室のような部屋に案内される。
天鵞絨のソファや黒塗りのテーブルが置かれた部屋は趣がある。
「わあ、素敵なお部屋。お邪魔しま……っす⁉」
思わず語尾が跳ねてしまった。
一瞬、視界の端を小さなものが掠めたからだ。
壁伝いに走ったそれは、キャビネットの裏に隠れた気がする。
まさか……ネズミ?
「どうかしたか」
圭史郎さんは私のスーツケースを壁際に置きながら訊ねた。
ネズミが出たなんて、言っていいものか迷う。鶴子おばさんはネズミを見なかったらしく、平然として綺麗な所作でお茶を淹れている。
「……なんでもないです」
騒ぎ立てるのも失礼だから、私は黙っていることにした。
ソファに鶴子おばさんと向かい合わせに座り、淹れてもらったお茶をいただく。
陶器の温かさが、冷えた指先にじんわりと染み込んだ。熱めのお茶も体を内側から温めてくれる。
ほう、と息を吐いた。
東京を出発したときから緊張していたのか、肩の強張りがほぐれる気がした。
「なんにもないところだけど、温泉はたくさんあるから。優香ちゃんの家だと思って、ゆっくりしてね」
「ありがとうございます。頑張って、お手伝いさせていただきます」
今日から私はこの花湯屋に住んで、新しい高校へ通いながら旅館のお手伝いをする。
旅館のお仕事は初めてだけれど、精一杯頑張ろう。
決意を新たに笑顔でやる気を伝えると、鶴子おばさんはにこやかな笑みで、衝撃的な発言を投げた。
「まあまあ、お手伝いだなんて。優香ちゃんはなんといっても、花湯屋の若女将ですからね」
ころころとした笑い声を上げる鶴子おばさんの発した台詞を反芻する。
若女将? ……って、どういうこと?
そのとき、首を傾げる私の背後で、くすくすと笑い声が響いた。
思わず振り向いたけれど、もちろん誰もいない。空耳だろうか。鶴子おばさんの声が反響したのかもしれない。
「今日からよろしくな、若女将。これで俺も少しは助かるよ」
「……はい?」
隣のソファに腰かけている圭史郎さんに、ぽんと肩を叩かれる。私の肩書きはすでに、若女将に決定しているらしい。
若女将というのは、いずれ旅館の女主人になる人のことではないだろうか。
「あのう……私は仲居さんのようなお仕事だと思っていたんですけど……若女将ってどういう」
そのとき、あはは、と大きな笑い声が突如部屋中に響いた。
空耳じゃない!
小さな子どもの声だ。この部屋には私と圭史郎さん、それに鶴子おばさんしかいないはずなのに。
「ひゃああああ⁉」
悲鳴を上げながら席から立ち上がり、背後を振り返る。
すると先程ネズミが隠れたと思ったキャビネットから、小さな物体がふたつ、ひょこりと顔を出していた。
「仲居さんだって。若女将なのにね」
「オレ知ってる。あやかし使いの末裔だよ」
「神使とあやかし使いの末裔かぁ。どうなるかな?」
「どうなるかな?」
そのふたつの物体は言葉を喋っていた。それぞれが和風の服を着て、瞳は金色、頭には小さな角も生えている。
私は未知の生命体を発見した衝撃を懸命に処理しようとした。
「これは……新種のハムスター……かな?」
ふたつの生命体は手を取り合い、けたたましい笑い声を上げた。
「ハムスターだって。あやかしなのにね」
「あやかし使いの末裔なのに、あやかしを知らないんだよ」
「先代は都会に逃げていったもんね。また逃げちゃうかな?」
「どうなるかな?」
都会に逃げた先代とは、もしかしておじいちゃんのことだろうか。あやかし使いの末裔とは一体なんのことだろう。
圭史郎さんは立ち上がると、ふたつの生命体をこともなげに掌にのせた。
「おまえら、若女将をからかうな。都会に逃げ帰られたくないのは、おまえたちのほうだろ。いつ来るか、そわそわして待ってたくせにな」
「圭史郎、それ言っちゃだめ!」
「だめだめ! はずかしい!」
ふたつの生命体は、なぜか互いに相手の顔を小さな両手で覆っている。恥ずかしいときは自分の顔を自分の手で隠すものだと思うのだけれど。
圭史郎さんはどうして謎の生命体と平然として会話できるのだろう。それどころか、彼らとは以前から知り合いのようだ。
驚いている私に、圭史郎さんは向き直る。
「こいつらは、あやかしの子鬼だ。女子が茜で、男子が蒼龍な」
「なぜ龍。鬼じゃないんですか」
「つっこむところ、そこか?」
この謎の生命体は子鬼らしい。しかも名前と性別まである。
言われてみれば、伝奇などに登場する鬼と同じ異形の姿だ。
ただしとても小さい。ハムスターサイズである。
「あたしは茜。よろしくね、若女将」
「オレは蒼龍。よろしくな、あやかし使いの末裔」
ふたりは圭史郎さんの掌の上で左右対称のポーズを取る。
双子なのかな。なんだか可愛い。
「よろしく……お願いします」
「あやかしが見えるってことは、花湯屋の若女将として充分にやっていけるよ」
圭史郎さんはどこか妖艶さすら漂う魅惑的な笑みを浮かべた。
あやかしとやらが見えることと、花湯屋の若女将としてやっていくことにどういった関連があるのだろうか。
「その、あやかしっていうのは……妖怪とか物の怪といわれる類いのものですか?」
「そうだ。花湯屋は、あやかしが訪れる温泉宿なのさ」
「……えっ。あやかしが⁉」
子鬼たちがふたりそろって、「お客様だぞ」と言って腰に手を当て、胸を反らしている。
お客様でしたか、そうでしたか。
「……って、えええ⁉ だって、ここはごくふつうの旅館ですよね?」
「表向きはな。さっき、暖簾をくぐっただろ。臙脂色のほう」
「あ……はい。大浴場みたいに暖簾の色が分かれてるのはどうしてかなって思いましたけど」
そういえば、右側が臙脂の暖簾。左側は藍の暖簾だった。
あの色分けには意味があったのだろうか。
「藍の暖簾は人間のお客様、臙脂の暖簾はあやかしのお客様がくぐる。花湯屋は人間だけじゃなく、あやかしの湯治客も迎え入れているんだ」
「え……じゃあ、こちら側は……」
「そう。あやかしのお客様専用の、裏の花湯屋だよ」
なんと花湯屋の臙脂の暖簾の向こうは、あやかしのお客様が訪れる温泉宿だった。
あやかしなんていうものが実在したことにも驚きを隠せないけれど、自分があやかしの宿の若女将になるなんて想像もできない。
「あやかしが見えるのは、今までは俺ひとりしかいなかった。だから至らないことも多くてな。女将さんや仲居さんたちにも手伝ってもらえるけど、彼女たちはあやかしが見えないから通訳してるような状態になるんだ」
「え? 圭史郎さんひとりって……まさか、鶴子おばさんは子鬼たちが見えてないんですか?」
掌の上でぴょんぴょんと飛び跳ねている子鬼たちは確かに実在している。私や圭史郎さんとも喋って、意思の疎通もあるのに。
鶴子おばさんに目を向ければ、彼女は微笑みを浮かべながらゆるりと首を振った。
「残念だけど、私には何も見えないのよ。優香ちゃんと圭史郎さんの会話を聞いていると、間に他の誰かがいるということは察せられるんだけどね。子鬼さんたちが長く滞在してくださってるお客様なのは知っているんだけれど、声も聞こえないから、圭史郎さんを通してお客様の要望を伺うことしかできない。今まではとても圭史郎さんの負担が大きかったわ」
確かに、滞在しているお客様の姿も見えないし声も聞こえないのでは、そこにいるのかどうかすらわからない。お客様が訪れても全く認知できないだろう。ふつうの人はあやかしなんて見えなくて当然だ。
「そういえば……小さい頃から子鬼たちのような、珍しい生き物を見かけることがあったんです。あれはまさか、あやかしだったのでしょうか」
それは街の片隅に、ちらりと現れては消えていく。
変わった種類の鳥だなとか、逃げ出したペットの珍獣なのかなと思っていた。
圭史郎さんは子鬼たちを肩にのせると、腕組みをして神妙な表情を浮かべる。
「そうだろうな。優香の能力は、あやかし使いのものだ。幼い頃から持っていた能力が、花湯屋に来て研ぎ澄まされたんだろう」
「その、あやかし使いって、なんですか?」
そういえば子鬼たちも私のことを、『あやかし使いの末裔』と言っていた。圭史郎さんが神使という役職名なのは聞いたけれど、あやかし使いとはなんだろう。
「銀山温泉には古くからあやかしが存在した。あやかしには悪さをするものもいれば、そうでないものもいる。古来から土地に棲みついているものから、最近生まれたものまで様々だ。それらのあやかしを取りまとめて温泉宿に招いてきたのが、花野家の代々の当主だったんだ」
花野家があやかしを取りまとめてきた家柄だったなんて初耳だ。
ということは、おじいちゃんは……
圭史郎さんは話を続ける。
「花野家の長子は代々あやかしが見える能力を受け継いで、いつしか、あやかし使いと呼ばれるようになった。温泉宿にいれば、あやかしが街で悪さをすることもないからな。銀山温泉になくてはならない宿だよ。そうして花湯屋は続いてきたんだが……優香の祖父、光一郎はあやかしという人外の者を受け入れることができなかった。当主の座を捨てて、あやかしから逃れるように東京へ旅立っていったんだ。代わりに花湯屋を継いだ孝二郎、つまり女将さんの父親は残念ながらあやかしを見ることができず、当主であるにもかかわらず臙脂の暖簾を預かれないという不名誉を負った。そうだよな、女将さん」
鶴子おばさんは昔を思い出したように眉を寄せる。
「光一郎さんの代わりに花湯屋を継いだ父にも私にも、あやかし使いの能力はありませんでした。昔からあやかしのお宿として、暖簾を受け継いできた当主たる者がお客様の姿を見ることもできず、お話もできないとあっては、先祖に顔向けができません。そうしたら東京から、優香ちゃんを花湯屋で住み込みさせながら高校に通わせてほしいと連絡をもらったじゃありませんか。私は小躍りしたわ。光一郎さんの孫である優香ちゃんならきっと、あやかし使いの能力を有しているはずだとね。若女将を任せられるのは、優香ちゃんしかいません」
鶴子おばさんに力強く告げられる。
どうやら私は、おじいちゃんのあやかし使いとしての能力を受け継いだらしい。その能力で臙脂の暖簾を預かり、若女将として、あやかしのお客様をおもてなししてほしいということなのだ。
そんなこと、突然言われても困ってしまう。
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