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閑話 影
妹 2
すぐに医者が駆けつけて俺の体を診察した。倒れた原因は栄養不足によるものだという。
人間の体は食べることにより栄養を摂取しなければならないのだが、俺は使用人の持ってくる食事をすべて拒否していた。
喉を通る食物の感触が心地悪いからである。
水はさほど気にならないので、水分だけは摂取していたが、それだけでこの肉体を維持するのは不可能らしい。
人間とは面倒なものだ。影だったときは、飲食などに煩わされることはなかったのに。
餓死すれば、俺はこの体から出られるのだろうか。
「いや、楽観はできない。癒着しているなら、器が死んでも出られないかもな……」
さすがに死骸ごと火葬されたら、俺であっても消滅するだろう。
悲劇的な予想ばかりが脳裏に浮かび、溜息を吐く。
そのとき、ぱたぱたと廊下を駆ける足音が耳に届いたので、独白を押し込めた。あの足音は、いつもの女中のものではない。
そっと襖を開けたのは、おゆうだった。彼女が手にした盆の上には土鍋がのっている。
「兄さん、起きていたんですね。滋養のよいものを食べて安静にしていれば回復すると、お医者様はおっしゃってましたよ」
弾んだ声を出して盆を置いたおゆうは、匙で小鉢に食べ物を掬い始めた。それは米を煮込んだもので、確か粥という名だ。もちろん食べたことはない。
「おまえ、まだいたのか。俺に会うなと……父さんに言われてるんじゃなかったのか」
圭史郎のふりをしているので、ぎこちなく『父さん』と口にする。自分が発した台詞に怖気が立った。装うのは腹立たしいものなのだが、おゆうに兄ではないと気づかれ、そこから圭史郎の死を悟られることだけは避けたかった。
おゆうは気にするでもなく、ふうふうと掬った粥に息を吹きかけている。
「父さんには、花湯屋のことで兄さんに話があると断りを入れましたから大丈夫です」
「花湯屋とは、何だ?」
匙を掲げたおゆうは目を瞬かせた。
圭史郎ならば知っていて当然かもしれない事項だが、怪我が原因で記憶が曖昧なことにしているので問題ない。知ったかぶりをしてやり過ごすほうが矛盾が生じやすいので、ここで訊ねておいたほうがよいだろう。
「そういえば、兄さんは記憶の一部がなくなったんでしたね。花湯屋は、あやかしお宿の名前ですよ。銀山温泉で宿を開業したいという話を父さんにしたら反対されたけど、兄さんが私の味方をしてくれたんじゃないですか。兄さんが当主になって、人間のお客様を受け持つと言ってくれましたよね」
不穏な方向の話に、眉をひそめる。
宿というのは、旅をする人間が泊まる家屋のことだ。酒や料理で旅人をもてなす。この付近の銀鉱山からは温泉が噴き出しているので賑わっていることは知っていたが、まさかそんなものに俺がかかわるとは思いもよらなかった。
断ることは明白だが、念のため詳細を訊ねておく。
「その宿というのは、あやかしと人間の両方の客を呼ぶのか?」
「そうです。一軒の宿で暖簾を分ける形にしました。もう内装もほぼ仕上がっているので、開業は間近でしたけど……」
ふいに言葉を切って目を伏せたおゆうだったが、無理に口角を上げて笑みを浮かべた。
「さあ、食べてください。生姜粥です。私が作ったんですよ」
口元に匙を持ってこられたので、ふいと横を向く。
「開業は間近だったが、どうしたんだ? 続きを話せ」
「……その、兄さんが大怪我したので、宿を始めようなんてするからだと、父さんに怒られたので、一旦開業は延期しています」
「馬鹿らしい。それとこれとは関係ないだろ」
「父さんは、跡取りの兄さんが商売をやることに初めから反対でしたから。それに花湯屋を建設したお金は父さんに借りているんです。私の勝手で開業できません」
跡取りだから商売をやるべきではないという理屈がよくわからないが、人間というものは生まれたときから役割が決まっているのだろう。裕福な花野家は、数多くの使用人を抱えている地主だ。新たに商売なぞやらなくても暮らしていくのに困らないのだと思えた。
「おゆうは、どうして宿をやりたいんだ? おまえは花野家の娘で、おひいさまみたいなものだろう。客の相手をするような身分じゃない」
驚いたおゆうは目を見開いたが、すぐに首を左右に振った。
「おひいさまだなんて……私は子どもの頃から、独り言を喋っている奇妙な子だといじめられてきました。母さんが花野家の後妻に入ってからも、財産目当ての物の怪母子だと陰で言われています。あやかしのことを話しても、誰も信じてくれません。母さんと兄さんだけは私を見守ってくれましたけど、でもふたりにもあやかしは見えていないので、小豆やほかのあやかしたちのことがうまく伝わらないんです」
哀しげに語るおゆうの襟元から顔を覗かせた小豆は、こっそり彼女の耳元に囁いた。
「あじゅき、いるよ。おゆう、泣かないで」
首元をなぞるようにして、おゆうは小豆の頭をそっと撫でる。彼女はあやかしが見えるゆえに、人間たちから疎外されてきたようだ。
その過去を払拭するかのように、おゆうは明るい笑顔を見せる。
「よい心を持ったあやかしや、そうでないあやかしなど様々ですけど、銀山温泉に浸かると彼らは心地好くなれるみたいです。だから宿として、あやかしたちの居場所を作ることができたらいいのではと思いつきました。私はあやかしたちを、おもてなししたいんです」
人間の体は食べることにより栄養を摂取しなければならないのだが、俺は使用人の持ってくる食事をすべて拒否していた。
喉を通る食物の感触が心地悪いからである。
水はさほど気にならないので、水分だけは摂取していたが、それだけでこの肉体を維持するのは不可能らしい。
人間とは面倒なものだ。影だったときは、飲食などに煩わされることはなかったのに。
餓死すれば、俺はこの体から出られるのだろうか。
「いや、楽観はできない。癒着しているなら、器が死んでも出られないかもな……」
さすがに死骸ごと火葬されたら、俺であっても消滅するだろう。
悲劇的な予想ばかりが脳裏に浮かび、溜息を吐く。
そのとき、ぱたぱたと廊下を駆ける足音が耳に届いたので、独白を押し込めた。あの足音は、いつもの女中のものではない。
そっと襖を開けたのは、おゆうだった。彼女が手にした盆の上には土鍋がのっている。
「兄さん、起きていたんですね。滋養のよいものを食べて安静にしていれば回復すると、お医者様はおっしゃってましたよ」
弾んだ声を出して盆を置いたおゆうは、匙で小鉢に食べ物を掬い始めた。それは米を煮込んだもので、確か粥という名だ。もちろん食べたことはない。
「おまえ、まだいたのか。俺に会うなと……父さんに言われてるんじゃなかったのか」
圭史郎のふりをしているので、ぎこちなく『父さん』と口にする。自分が発した台詞に怖気が立った。装うのは腹立たしいものなのだが、おゆうに兄ではないと気づかれ、そこから圭史郎の死を悟られることだけは避けたかった。
おゆうは気にするでもなく、ふうふうと掬った粥に息を吹きかけている。
「父さんには、花湯屋のことで兄さんに話があると断りを入れましたから大丈夫です」
「花湯屋とは、何だ?」
匙を掲げたおゆうは目を瞬かせた。
圭史郎ならば知っていて当然かもしれない事項だが、怪我が原因で記憶が曖昧なことにしているので問題ない。知ったかぶりをしてやり過ごすほうが矛盾が生じやすいので、ここで訊ねておいたほうがよいだろう。
「そういえば、兄さんは記憶の一部がなくなったんでしたね。花湯屋は、あやかしお宿の名前ですよ。銀山温泉で宿を開業したいという話を父さんにしたら反対されたけど、兄さんが私の味方をしてくれたんじゃないですか。兄さんが当主になって、人間のお客様を受け持つと言ってくれましたよね」
不穏な方向の話に、眉をひそめる。
宿というのは、旅をする人間が泊まる家屋のことだ。酒や料理で旅人をもてなす。この付近の銀鉱山からは温泉が噴き出しているので賑わっていることは知っていたが、まさかそんなものに俺がかかわるとは思いもよらなかった。
断ることは明白だが、念のため詳細を訊ねておく。
「その宿というのは、あやかしと人間の両方の客を呼ぶのか?」
「そうです。一軒の宿で暖簾を分ける形にしました。もう内装もほぼ仕上がっているので、開業は間近でしたけど……」
ふいに言葉を切って目を伏せたおゆうだったが、無理に口角を上げて笑みを浮かべた。
「さあ、食べてください。生姜粥です。私が作ったんですよ」
口元に匙を持ってこられたので、ふいと横を向く。
「開業は間近だったが、どうしたんだ? 続きを話せ」
「……その、兄さんが大怪我したので、宿を始めようなんてするからだと、父さんに怒られたので、一旦開業は延期しています」
「馬鹿らしい。それとこれとは関係ないだろ」
「父さんは、跡取りの兄さんが商売をやることに初めから反対でしたから。それに花湯屋を建設したお金は父さんに借りているんです。私の勝手で開業できません」
跡取りだから商売をやるべきではないという理屈がよくわからないが、人間というものは生まれたときから役割が決まっているのだろう。裕福な花野家は、数多くの使用人を抱えている地主だ。新たに商売なぞやらなくても暮らしていくのに困らないのだと思えた。
「おゆうは、どうして宿をやりたいんだ? おまえは花野家の娘で、おひいさまみたいなものだろう。客の相手をするような身分じゃない」
驚いたおゆうは目を見開いたが、すぐに首を左右に振った。
「おひいさまだなんて……私は子どもの頃から、独り言を喋っている奇妙な子だといじめられてきました。母さんが花野家の後妻に入ってからも、財産目当ての物の怪母子だと陰で言われています。あやかしのことを話しても、誰も信じてくれません。母さんと兄さんだけは私を見守ってくれましたけど、でもふたりにもあやかしは見えていないので、小豆やほかのあやかしたちのことがうまく伝わらないんです」
哀しげに語るおゆうの襟元から顔を覗かせた小豆は、こっそり彼女の耳元に囁いた。
「あじゅき、いるよ。おゆう、泣かないで」
首元をなぞるようにして、おゆうは小豆の頭をそっと撫でる。彼女はあやかしが見えるゆえに、人間たちから疎外されてきたようだ。
その過去を払拭するかのように、おゆうは明るい笑顔を見せる。
「よい心を持ったあやかしや、そうでないあやかしなど様々ですけど、銀山温泉に浸かると彼らは心地好くなれるみたいです。だから宿として、あやかしたちの居場所を作ることができたらいいのではと思いつきました。私はあやかしたちを、おもてなししたいんです」
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