乙女怪盗ジョゼフィーヌ

沖田弥子

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第四章 古城の幽霊城主と乙女怪盗

アランの家へ 2

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「アラン。トイレットはどこですか?」
「一階だ」
「知ってます」
「おまえは何を言いたいんだ」

 部屋の隣にトイレットはないようだ。ホテルではオンスイートだったので寝室の隣にシャワーとトイレが完備されていたが、家庭はそのような造りではないようだ。寝る前に水分は控えよう……。
 アランは後ろに付き従っていたフランソワに釘を刺す。

「見てのとおりの広さだ。馬車の荷物は入らないからな。家の隣に待機させて着替えだけ運んでくれ」
「承知いたしました」

 屋敷と同じ所作で慇懃な礼をしたフランソワは、踵を返して階段を下りていく。
 甘い。釘を刺したくらいでフランソワを動かせたらノエルも苦労しない。
 着替えだけと言われて馬車一台分の荷物が運び込まれるのは疑いようがない。ここに来るまでにホテルマンを幾人も青ざめさせているのだ。
 客間にはベッドと机とタンスが置かれ、すべて木で出来ている。おもちゃのように小さくて、ノエルの体のサイズに合っている。屋敷の家具は大きすぎて、ベッドの中央に辿り着くまで這っていく必要があるのだ。
 ここは本で見たことのある山小屋みたいだ。気持ちが落ち着く。
 窓から射し込む光に誘われて外を見れば、西の稜線に夕陽が落ちる景色が林の木々の狭間に見えた。

「あ……夕陽。いつか話してくれましたね」
「よく覚えてるな。もっとよく見えるところがある。外に出よう」

 ふたりで外へ出て、水車小屋のある小川を越える。林を抜ければ、山々のむこうに真紅の夕陽が溶けるさまが広がっていた。

「うわあ……すごい……」

 なんて大きいんだろう。それに燃えるように赤い。
 天を焦がすようにゆらりと佇む陽が、空を橙色に染め上げている。
 こんなに美しい夕陽は初めて見た。
 むしろ、夕陽がどれだけ美しいかなんて意識せずに日々を過ごしてきたのだろう。それだけ夜の闇に慣れすぎてしまったから。
 アランが幼い頃からずっと見てきた夕焼けを、今こうして一緒に見られることが嬉しい。ノエルの胸に感動が込み上げて、眦に涙が溜まる。
 しばらくの間、ふたりは何も語らず、ただ夕陽が沈む様子を見守っていた。
 やがて夕陽の頭の先が、つぷんと黒い山に呑まれる。
 赤い残照が次第に色を失い、天を藍の紗幕が覆いはじめる。

「風が出てきたな。そろそろ戻るか」

 アランのやや掠れた声音に、はっと我に返る。かなりの時間が経過していたらしい。フランソワも母上も待ちわびているだろう。

「ありがとうございました。とても……綺麗でした。私が今まで見てきたもののなかで、一番綺麗だと思いました」

 どんなに高価な宝石よりも、今見た夕陽は美しい。きっと、物の価値というものは値段では決められないのだろう。ノエルはアランと見た夕陽を、この先もずっと忘れることはないだろうなと、胸の奥で噛みしめた。
 月並みな感謝にも、アランは心底嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

「俺も、同じことを思った。何度も見た夕陽のはずなのに、今までで一番綺麗に見えた。不思議だな」
「久しぶりだからでしょう」
「そうかもな。ノエルとの約束を果たせて良かった」

 青い闇が林を包んでいく。
 ノエルはアランの背を頼りに、家へと戻っていった。




 客間の天井まで詰め込まれた着替えと称する荷物に、アランが吼えてフランソワが微笑で受け流す騒ぎが収束すると、台所から美味しそうな匂いが漂う。

「もう少しで夕御飯ができますからね。ノエルちゃん、お皿運んでちょうだい」
「はーい」

 と、返事をしてから気づいたけれど、ノエルちゃんなんて呼ばれたのは初めてで、思わず前のめりになる。どうやら母上の中では、ノエルは伯爵として認識できず、隣の子というような感覚らしい。でも皿は運んじゃう。
 樫のテーブルに皿を並べていると、その様子を見たフランソワが珍しく慌てだした。

「坊ちゃま。そのようなことはわたくしがいたします。お皿が割れてお怪我をしたら、なんといたしましょう」

 いつも、もっと危ないことしてるけどね?

「いいよ。屋敷じゃないんだし。フランソワ、座ってたら?」
「とんでもございません。わたくしに食事の支度をせずに座っていろだなんて、死ねと命令されるようなものでございます」
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