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鬼切
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(一)
東国の谷間に霜が降りようとする季節になった。色づき始めた木立の間合にぽっかりと沢が生じていた。沢下の平らな畔で煙がくすぶっている。
「もっと薪をくべないと火が燃えないよ」
白い小袿の男が振り向かずに言い放った。しゃがみ込んだままである。
言われたほうは「ああ」と生返事を返す。柴が足りない。一昨日に降り注いだ驟雨の為に山は濡れて夥しい湿気を孕んでいた。生木をくべたのでは火が付かない。
これでも精一杯集めたのだ、と百鬼丸は呟いた。
「兄者は物ぐさだからあてにならないね」
なかなか赤い炎を上げない焚火を弄いながら、美童丸が首を捻った。下から舐め上げるように切れ長の目で見られると、百鬼丸は目が眩んだ。白皙が炎に炙られて女子の肌のように艶めいている。
赤銅色に日焼けした肌に身の丈六尺を超す巨躯の百鬼丸とは、あまりに対照的だった。
「これが我が弟か」
と思うほどの美童丸の容姿は、生母に生き写しといってよいだろう。
「誰にも黙っていろ。いいか」
百鬼丸は美童丸の前に回って言った。
「なにをさ」
「おれはこのまま南へ下ろうと思うのだ。美童丸、おれに付いてくるか」
美童丸は俯いて焚火を弄り続けていた。長く結った束髪が肩を滑り、白い着物の胸元に落ちている。
美童丸には長瀞次郎五郎義矩という諱がある。百鬼丸にも忠九郎義迪という名があった。だが、美童丸は元服もして十七になっているのにいまだに髷も結わず、幼名を名乗っている。家臣にも美童丸と呼ばせている。ゆえに、百鬼丸も美童丸と呼び続ける。
「南というのは越後や信濃のことか」
美童丸はようやく言った。
「ああ。どこへなと。伯父貴に習うものはもうない。そもそもが近頃の伯父貴のやり方にはついてゆけぬ」
「それでは、上方へゆくのか、兄者は」
皮肉めいた赤い唇が蠢く。男のくせに薄っすらと紅さえ差している。
江戸に徳川幕府が開かれて七年経つ。関ケ原の陣ののち、表面上は徳川家と摂家豊臣家との関係は悪くない。だが、いつ不満を持つ牢人らがかつての豊家の隆盛をいまひとたびと担ぎ上げないとも限らない。そういった火種もくすぶり続けている。
出羽・最上家は昔日の遺恨あって関ケ原では東軍に与した。以来、大坂とは疎遠になったままだ。その流れで美童丸もそのような事を言う。
「そうとは限らん」
「大坂で戦があれば随分と面白いだろうよ」
「どうだろう」
「何も考えていないのだな。ふふ」
美童丸は自然に笑った。
「兄者らしいよ、とても」
「おれは」
百鬼丸は言葉を切り、腰の打刀を抜いた。夜の闇に白刃が青い光を放つ。
「こうして粛清の残党狩りをしているのに倦んだ。何のために学問も武芸も身に付けたのか。おれはもっと大きな仕事がしたい」
「ならば、そうすればよい」
美童丸は手元の枯葉を焚火の上に撒き散らした。
「兄者がそうしても、伯父上は怒らないよ、きっと」
「伯父貴はおれの存在が鬱陶しい。おれがいなくなれば、さぞ喜ぶやもしれんな」
百鬼丸は嬉々として言った。
「で。おぬしは付いて来るのか」
「兄者の行くところなら、どこへでも。どうでおれには剣しか能がない。政事などとんと出来ぬし、伯父貴のように連歌の達者でもない。平らかな世では無駄飯食いさ」
美童丸は立ち上がった。この一族の血統は皆、上背がある。美童丸の身の丈は百鬼丸には及ばぬとも高い。しかし華奢とも言える体つきだった。
「出奔してあの爺さんたちの狸面にひと泡吹かせてやるのも一興さ」
美童丸は妖しく目を細めた。
その高い腰には鍔のない長い刀が帯びてある。鍔は斬り合いの際に受太刀する為に欠くべからざる部位である。鍔がなくては刀を受けた時に利き手を斬られてしまう。
鍔がないということは、つまり受太刀無用。仕太刀のみの無敵の剣を意味する。わざわざそうして見せる顕示の強さが、美童丸にはあった。
「だが兄者。ひとつお願いがあるんだよ」
美童丸の黒瞳に百鬼丸の真顔が映り込んだ。
(二)
山形盆地を根城に出羽地方を平定した最上義光が後嗣を決めた。今年、慶長十五年(1610)の夏である。時に義光六十五歳。あまりにも遅い家督譲渡と言える。
これもひとえに義光の猜疑心の強さからとも、独断政治の結果とも言えたが、義光という男は冬の狐のように用心深く物事を運ぶ性質だったようである。
「家親小父が相続というのは妥当と思うか」
百鬼丸は、前を行く美童丸に訊ねた。
「おれには訊かないでよ」
美童丸は相変らず振り向かない。
正確には義光はこの兄弟の大伯父にあたる。
義光には下に四人の弟妹がいた。次男・義時、三男・義保、四男・義久、長女・義姫。この義姫は仙台の伊達家へ嫁ぎ、伊達輝宗の室となり、政宗を生む。そのうち義光は次弟・義時と継承者を争って勝ち取り、これを討伐した。義光に従った義保は一度、長瀞城へ移り長瀞義保を名乗る。その後、光広という男子を生む。これが松根城に居る松根光広であった。義保の次男・光良が百鬼丸、美童丸の父である。
光良は二度目の唐渡り(慶長の役)で戦死し、残された二子は母とともに領内を転々と遷り、いまは大伯父の館に仕えていた。
実務としては義光の次男・家親が家督を継ぎ、義光自身は隠居に入りつつある。
七年程前、長男・義康を家臣同士の争いから死なせてしまった義光は、その頃からさらに猜疑心を強めた。家臣らの動きに目を光らせているのもその理由が大きかった。
老いてなお気難しい義光に近しいのは、家親を除いて側近の氏家家の人間と百鬼丸、美童丸の兄弟のみであった。
百鬼丸は闇の中を進んで来て、はたと気付いた。いつの間に城内へ戻っていたのか。
「ここは開かずの蔵ではないか」
言うや否やで美童丸が振り向いた。
「おぬしまさか」
「ここまで来て臆したなどと言うんじゃないよ、兄者」
美童丸はそう言って蔵の錠前を断ち切った。目にも止まらぬ速さだった。蔵の中へ入る美童丸を、百鬼丸は茫然と見遣った。
「鬼切」
嘯く声が夜鳥の音のように響いた。
最上家に代々伝わりし名刀「鬼切」。源頼光が酒呑童子を退治した時に、その首を断ったものと言われる源家重代の太刀である。「鬼切」は新田義貞に受継がれたが、これを討ち果たしたのが斯波高経である。実際に首を獲ったのは氏家重国(しげくに)といい、両氏の関係は現在の主家、最上氏と重臣氏家氏との間柄に受継がれる。
「鬼切」は重国から高経へと渡った。
「兄者は源(足利)尊氏という大盗人が鬼切を所望したことをご存知か」
美童丸は出し抜けに言った。百鬼丸は「ああ」と短く答えた。
時の征夷大将軍・足利尊氏は「源家重代のものならば、我が家の宝刀として代々伝えたい」といい高経に迫ったらしいが、屋敷が火災に有った時この太刀も燃えてしまったと偽ったという。のちに嘘はばれたが、叛乱の有耶無耶で尊氏の命は消し飛んだ。
「馬鹿な奴だよ尊氏って男はさ。そんな馬鹿には無用の長物さ」
美童丸は薄い笑みを浮かべつつ、錦袋に包まれた「鬼切」を手にした。
「どうせ館を出るのなら、これが欲しかったんだ」
「それではおぬし、やはり盗人ではないか」
百鬼丸は咎めた。だが、手燭で照らした抜き身の「鬼切」を目にした途端、二の句は喉の奥へ引っ込んだ。
二尺七寸九分二厘の刀身は、数百年も前に打たれたものとは思えぬ生々しい青黒い光を帯びていた。
ふふふ、と美童丸は喉を震わせた。
「なにを言うのさ兄者。新田を討ち取ったのは氏家重国じゃないか。それを最上が取り上げたんだよ。元は氏家のものだろう。おれが貰ってなんの不都合もあるまいよ」
美童丸は屈託なく言う
「そもそも宝の持ち腐れさ。天下が収まってしまえば刀の出番もなかろうに。その前にお目見えとさ」
百鬼丸と美童丸では母が違う。百鬼丸の生母は下士の娘だが、美童丸の生母は真砂の方と言って氏家の姫だった。
「しかし、おれには少し短いような気がするな。兄者が持つよりはましかもしれないけど」
美童丸の端麗な横顔に邪悪な陰影が差した。刀の光の加減だったろう。だが、百鬼丸には、それがかつて頼光が退治したという悪鬼のように思えた。惹かれてはならないと知りつつも、火取虫が炎に吸い寄せられるように、百鬼丸は異母弟の美しい貌に見入ってしまった。
二人の目論見は、あっさりと崩れ去った。館に戻ったがゆえに家臣に見咎められ、翌日義光の元に引き出された。
百鬼丸は十日の謹慎で済んだが、「鬼切」を持ち出そうとした美童丸には二十一日間の謹慎が申し渡された。このような軽い処分で済んだのは、むしろ御の字といえた。義光が隠居同然であるからだろう。
「出羽の鬼神」と恐れられた勇将も老いて丸くなったものか、と家臣らは囁き合っていた。
(三)
「おや。薪などお割りになって。そのようなことは下人にさせなさるものを」
薪割りをしていた百鬼丸に、小鶴が声を掛けた。諸肌脱いだ百鬼丸の逞しい半身に玉のような汗が浮き上がっている。日に焼け、筅を束ねたような筋肉のうねりは若者らしく柔軟にしなって鉈をふるう。
眩しげに見る小鶴に、百鬼丸はいささか胡乱な気配を感じた。
「これも大伯父の仕置きなのだ。当分おれは老人らの湯を沸かさねばならん」
百鬼丸は鉈を下した。
「美童丸様は」
「まだ離れにおる。あやつはあと十日ほど押し込めにござる」
「おかわいそうに」
小鶴は眉を顰めた。だか口調は謡うようで、まるで小気味よいといわんばかりに百鬼丸には聞こえた。
小鶴は義光の側女だった。一度軽輩に嫁して、戦で夫を失ってのち義光に買われて来た。まだ二十歳頃の、鄙には稀な垢抜けた女といえる。羽州の女独特の白い肌のむっちりとした肉感は衣越しにも漂っている。
兄弟が城に迎え入れられた時、小鶴はすでに奥向きの主然としていた。とかく、美貌に加えて手際が鮮やかなのだ。ものの差配に長けている。
美童丸はそんな小鶴を好かない。否、小鶴のほうが美童丸を蛇蠍のごとく嫌っているのではないかと、百鬼丸は思う。
「いちどお聞きしたかったのですが、忠九郎様」
と、小鶴は百鬼丸の通名を呼んだ。
「美童丸様はなぜあのようにいつも女子の化粧(けわい)をなさっておられるのですか」
小鶴はまるで忌まわしいものでも見るような視線を、庭の奥へ走らせる。いつもは百鬼丸の傍らに美童丸が居る。その留守を機に、問うてみようと思ったのか。
「うむ」
百鬼丸は汗を拭った。
美童丸の女装癖がはじまったのは、数えで十三からである。父・光良が死に、母・真砂の方とともに楯岡、中野と転々と居を遷して各々の館に身を寄せていた頃のことである。光良の正室と百鬼丸の母はすでに病を得て死去し、僅かな男衆と女こどもばかりの流浪の日々でもあった。松根の伯父は快く彼等を迎え入れたが、彼の正室とはそりが悪く、数カ月と経たぬうちに追い出されたのが、はじまりであった。
その理由は幼かった兄弟にはまだ咀嚼し得ぬものだったろう。
だが、成長するに従って口さがない噂が母子を取り巻いていることを知る。
「真砂の方は天性の妖婦。身を寄せる館の主をすべて籠絡している」
というものであった。松根を追い出されたのも、伯父光広を誘惑したからだという。
真砂の方は十七で美童丸を生み、まだ三十になるやならぬの女盛り。子を生したとは思えぬほどの若々しい肌を持ち、吉祥天のように艶やかで気品ある美貌に溢れていた。落飾したとはいえ、そのような寡婦がいれば下心なくとも哀れを誘うし、噂も立つ。
何より百鬼丸は、継母が皆の言うような、ただ淫奔な女子とは信じたくはなかった。心根の優しい女性なのだと。
「情けないかな、おれが大きななりをして雷が恐ろしいと震えておれば、嘲笑いもせずに宥めてくれるようなお方だった」
天童にいた時のことである。
骨まで凍える真冬の夜。百鬼丸は小水を催して目覚めた。ふと脇を見ると美童丸の姿がなかった。
「まさか、いまだし母の懐が恋しいわけでもあるまい」
母の寝所を見に行くと、はたしてそこにもいなかった。どころか、真砂の方の姿もない。慌てて館の中を探しまどうと、主の寝所のほうで魂消(たまぎ)る声が聞こえた。
急ぎ駆け付けると、まずひどい悪臭が鼻をつく。襖にはのたうつ蟒蛇のような赤い血が飛び、室内に屍が横たわっていた。
「母上」
どす黒い闇と同化した血溜まりの中に突っ伏していたのは、半裸の真砂の方であった。白い肉片は手首で、ぱっくりと割けた腹からどろりとした臓物が流れ出していた。その奥に倒れているのは、館の主であった。生きているのかどうかもわからない。百鬼丸は後退った。
すると、背中に柔らかいものが当たった。
「ひ」
美童丸であった。引き摺るように血刀を提げており、寝間着は蘇芳色に染まっていた。
「母上は醜いのう、兄者」
美童丸は声変わりしたての擦れ声で言った。
「あんなに美しい貌をして。滑らかな茶碗のような頬をしておっても、腹の中はどろどろじゃ。腸は臭い。川魚よりも臭い。そこらの百姓や乞食も母上も皆同じだのう」
百鬼丸はようやく我に返り、血刀を奪った。美童丸は童子のように兄の腕の中へ倒れ込んだ。
このことは氏家の本家では内密に処理された。詳細を知った大伯父・義光が手を回したという。なぜなら美童丸は生かされたからである。寡婦とはいえ、不義密通を働いた母を成敗したというのが、義光にとって他人事と思えなかったのかもしれない。
「それ以来、美童丸は好んで女子の格好をする。好かぬ女子を寄せ付けぬ為なのか。おれにもあやつの考えていることはわからんのでござる」
百鬼丸は語り終えて大きく息を吐いた。思い出すことすら忌々しい。いまだに、あの凄まじい血と臓物の臭気と生温かい感触は拭い切れない。
「不憫なお方ですこと」
「ああ。最近とみにあやつは己の斬った母に己自身が似てきておるので」
いえ、と小鶴は首を振る。
「不憫なのは忠九郎様にございましてよ」
小鶴はいつの間にか、そっと百鬼丸の背後に回り、肩に触れていた。瞬時、己が腹の底から雷鳴が轟いたかのように、百鬼丸には感じられた。
「このお館の人々は皆どうかしているのです。不憫なのは、人として真っ当なあなた様」
小鶴の言葉が靄のように百鬼丸の脳裏に広がった。女の肌が噎せ返るほどに強く匂った。
(四)
近在の百姓らから夜な夜な作物が荒らされ、民家が襲われては人が斬られるという訴えが最上の館に告げられた。
戦時分ならばとまれ、もしや米沢や本庄から賊が侵入したかと思われたため、義光は家臣らに命じて夜警を行わせることになった。
こう見えても義光の行政は領民に寛容であり、微に入り細に入り領地の様子を検分する。地子銭や役(税)はかけず、山形城下の整備に余念がない。一揆を恐れる細心さもあったが、とにもかくにもこれまでの戦で荒れた領地を豊かにすることに専心していた。
美童丸は夜目にも一際目立つ白い小袖と袴で馬を駆り、城外へ出た。三叉路のある衢地で立ち止まる。小者が龕燈で照らすが、人の気配はない。
「賊が出たというのはまことか」
美童丸はひとりごちた。夜警を気取り、引き揚げたか。だがこの暗夜、賊もそう足早に立退くことは困難だろう。
美童丸はさくさくと馬を進めた。耳を澄ますと、岨道から女の細い声が聞こえた。美女丸は馬を降り、脇道を分け入った。
黒い闇森の間に女が蹲っていた。小鶴である。
「美童丸様」
小鶴は鬼気迫る声音でよろりと立ち上がり、駆け寄ろうとした。小袖の胸元と裾が乱れ切っていた。美童丸はすでに抜き身の大振りの刀を小鶴に向けた。
「かような夜更けに女子が出歩くものじゃないよ。何をしていたのさ」
「お館様の痔疾に効くという蓬を摘んでおりました。そうしたらすっかり暮れてしまって」
小鶴は哀願するように答えた。裾からはみ出た肉付きの良い腿を見遣り、さも汚らわしそうに美童丸は顔を背けた。
「ひとりでかい。小女はいかがした」
「賊に襲われそうになったのです。ゆえに先に逃がしました」
ふうん、と美童丸は鼻で笑った。
「ほう。先ほどまでお前のよがり声が聞こえていたように思えたけどねえ」
言い切らないうちに、美童丸の頬桁に痛みが走った。小鶴の平手が翻った。
「この売女め」
と、美童丸は刀を返した。だが、切先を小鶴の鼻先に突き付けただけだった。
「おれは兄者を捜していたのさ。兄者はどこにいる。さっきまでここにいたのは兄者ではないのかい」
「存じませぬ」
小鶴は肩を震わせながら言った。美女丸は片頬を歪めた。
「言えぬというのか。ならば、その口要らぬよのう。ふふ」
小鶴は後退った。斬られる。城内でも随一の達者。そして残忍な人斬りである美童丸の手に掛かればどのような死に方をするか。小鶴はいつだったか、義光に苦言を呈した家臣の一人を処刑する美童丸の姿を見たことがある。
家臣は木馬に四肢を縛められ、さんざん苔打ちに遭ったのち股間から血を滴らせる無残な半裸姿を晒していた。放っておいても数日内に失血で死んでしまうだろう。
「据え物を斬るのは嫌じゃ。この男も武士であろう」
美童丸はそう言い、脅え切った男に打刀を持たせた。だが美童丸の初太刀一振りで男の利き手指は宙に飛んだ。じょじょに男の肉体を切り刻み、四肢が切れて虫の息になっても、さらに腿を削ぎ、耳を削ぎ、目を潰し、男が残った口で断末魔に「迅く殺せ」と叫ぶまでやめなかった。それでもまだ止めを刺さないので、辟易して来た義光が「よい」と命じてようやく男は死なされた。
「面白うない。これからなのに」
美童丸は刀を回し、薄く笑っていた。
人斬りを快楽とする異常者。このような男にだけは斬られたくない、と小鶴は戦慄した。
「口を開けな」
言うが早いかで小鶴の唇の隙に刃先が滑り込んだ。歯に金気がしみる。女の身は竦んだ。小鶴は気付いているかいまいか、刀はそれでいて微動だにしない。動けば小鶴が自ら傷付けるのだ。
恐るべき達者の所作といえた。
「おや」
ところが。美童丸の矛先はやにわに変わった。小径の奥から賊と思しき男が二人飛び出して来た。小鶴は覚えず安堵した。
「そこなあんつぁ(兄さん)、へなこ(女子)に刃物を向けるもんじゃね」
命知らずの男達が太刀をかざして二人の間に割って入ろうとした。美童丸は黙って刃先を動かした。
銀色の筋光が弧を描いたかと思うと、男一人の手指が裂けていた。股のところで親指がぶらりと下がって刀が落ちた。
「あっ、あっ」
男は叫んだ。間をおいて血が噴き出す。美童丸は歩み寄り、男の腕を斬り付けた。もう一人の男が逃げ出した。すると、美童丸は身軽に駆け出し、背中から袈裟懸けに一刀を叩き付ける。身動き出来ないようにしてから、美童丸は男達の体を切り苛みはじめた。
阿鼻叫喚が夜の森に谺する。小鶴は耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
ようやく静まった時、小鶴はそっと木の蔭から這い出した。視界の端に無残な屍が入った。血溜まりの中に千切れた虫の脚のように肉片が浮いている。
「人を斬るのはやはり白昼がよいな。こうも暗くては血の華が咲くのが見えぬ」
美童丸は冷然と言った。
「いかに無礼不細工な輩だとも、血潮の色は同じだ。美しく等しく花開く。知ろうが知るまいが、おれは赤い彩を見たいが為に白衣を着るのだ」
何食わぬ顔で美童丸が小鶴の前に立ちはだかる。白い衣の前はすっかり鮮血に染まり、幽鬼のようである。中腰になっている小鶴の顎を捉え、細腕にしては意外な膂力で木の幹に押し付けた。
「お前にはまだ兄者の居場所を聞いてないよ」
「ゆ、ゆるして」
「兄者を誘いやがって、この遊女が」
美童丸は笑いながら血腥い刀の先を小鶴の頬に擦り付けた。嘔気を催す悪臭が小鶴の頭を麻痺させる。
「だけどお前は簡単に殺さないよ。お前は何が欲しいのさ。銭か男か」
美童丸の吐息が小鶴の鼻に掛かった。甘く妖しい花のような香がした。
「女子は悪鬼のような生き物だよ。だから退治てやるのさ。お前も母上も同じだ。お前の狙いは何なのさ。大伯父がくたばれば御家でも乗っ取るかい」
「その通り」
小鶴の震えが止まった。
「しょうもない足軽の嫁からようようここまで来られたのよ。もう戻りとうはないわ」
「へえ」
美童丸は夜鷹のようにキョキョと声を上げた。
「大伯父を殺すのか。殺したいのか。それで兄者を籠絡しようとしたな」
小鶴は否定しなかった。
「だけどねえ。お前は間違っている。兄者は大男のくせに臆病だ。こないだも己から城を出るなどと言っておいてさ」
美童丸は刀を下した。
「それが証拠に、さっきもお前を置いて逃げたじゃあないのさ。まぐわってるところを見られると縮み上がるだなんて、胆が小さいじゃないかい。到底、城主の器などじゃあない」
小鶴は黙って聞いていたが、やがて美童丸の血走った眼を見上げると、やにわに赤い唇に吸い付いた。
咄嗟のことで、美童丸は飛び退こうとした。だが、小鶴は美童丸の袖を掴んで離さなかった。
「おれは女は嫌いだよ」
「ならば男と思えばいいではありませぬか。あなたの兄者とお思いなされば」
美童丸は狼狽した。百鬼丸のことを言われ、覚えず頭に血が上った。
「貴方様は兄上を好いておるのでしょう。妾に嫉妬しておられる」
小鶴は含み笑いをする。美童丸は踵を踏み躙った。草の匂いが強まる。
「お前死にたいのか」
「どうせ貴方様に殺されるのならば、一度なりとも女子をお試しなさって。それからお斬りあそばせ」
小鶴は胸を開いた。見事な胸乳の盛り上がりに、美童丸の手を誘う。
「妾も中途で逃げ出されて持て余しておったのです」
小鶴の顔に淫蕩な笑みが浮かんだ。
(五)
数カ月ぶりに義光が鷹狩に出た。体調が良いのと公務がない身軽さからである。鷹狩の晩は必ず陣屋に宿泊して帰るというので、百鬼丸もこの時ばかりは羽を伸ばせた。
「だが、なぜ大伯父はいつもおれではなく美童丸を連れて行くのだろう」
百鬼丸はふと疑問を抱いた。弓馬のほうは百鬼丸のほうが得手であるというのに、だ。
「それは夜になればおわかりですよ」
小鶴は百鬼丸の腕の中で身を屈めた。
「忠九郎様はお駒様をご存知ですか」
小鶴はふと顔を上げた。
「駒姫様のことか」
百鬼丸自身、直接はその事件を知らない。
駒姫は義光の次女で、かつては「東国一の美女」と呼ばれ家中に慈しまれて育った。その美貌と教養の高さから豊臣家の再三の申し入れあって、当時の関白秀次の側室にと迎え入れられた。
義光が目に入れても痛くない愛娘。渋りに渋ってようやく差し出したその駒姫が、秀次切腹事件に連座して処刑されたのは、輿入れの為に京に到着して間もなくのことだった。
生母の大崎夫人は悲嘆激しく後を追って逝去、自身も秀次との関与を疑われた義光の憤激は苛烈にて誰にも宥めること容易でなかったという。
この経緯から義光は豊臣家には大いに不信と憎悪を抱いた。徳川に近付いたのもむべなるかな。
「駒姫様を手放しなさるのが惜しくて、お館様はよく似た別の娘を用意しようとなさったそうですよ」
「替え玉など通じると思うてか」
「それが真砂の方だったそうです」
なんと。百鬼丸は小鶴の顔を凝視した。小鶴は笑んでいるような悲しんでいるような、奇妙な表情を湛えていた。
果せるかな、駒姫本人ほどの教養があるか否かを疑われては元も子もない、と計略は頓挫した。長瀞光良が行き場を失った真砂の方を引き取って側室としたという。
寝物語に小鶴が義光当人にでも聞いた話だろうか。
「さようで、か」
義光は真砂の方の存命中は兄弟に冷たい態度を取っていた。されば、駒姫の身代りになって死んでくれたかもしれない女が生きている姿を見るのは不愉快だったのだろう。
「知ったこっちゃあない」
というのが百鬼丸の本音だ。義光自身も随分な仕打ちを数多の人間に行っているではないか。己のみが逃れようなどと望むのは理屈が通らない。
だが、東国の昏い冬雲が年々義光の心の虫蝕を大きくしているように百鬼丸には思えた。
夜半になり、少々遠いが百鬼丸は単騎早駆けして、左沢の陣屋へ向かった。陣屋の警備は固くない。
そっと邸内に忍び込んで、義光の寝所と思しき離れの裏へ隠れ潜んだ。
女の喘ぎ声が微かに聞こえる。六十五にもなって精力衰えないものだ、と百鬼丸は呆れた。だが、その女のものと思われる声に時折低く押し殺したような呻きが入る。最初は義光の声かと思ったが、もっと若いだろう。
百鬼丸の掌にじっとりと汗が滲んだ。
半刻ほど経って、襖が開き、白い着物の男が出て来た。男は裸足のまま庭へ下り、夜風の凍える中を歩いた。美童丸であった。
百鬼丸が潜んでいることに気付かず、美童丸は椿の木の前まで歩くと、まだ開き切らない紅い蕾をうっとりと撫でた。
紛れもなく、あの嬌声は美童丸のものだった。老いた義光を相手に女子のような声を上げていたのだ。そう思うと百鬼丸の腹はかっと熱くなった。
美童丸は椿の枝を手折ると、気付かぬまままた館の中へと戻って行った。
百鬼丸は城に戻ると、小鶴を寄せ付けず一人で寝所へ入った。転々としながらぼんやりと寝入りかけた頃、そっと寝所の襖が開いた。百鬼丸は横たえていた体を起こし、枕元の刀に手を掛けた。
「おれだよ、兄者」
美童丸の柔和な顔が間近にあった。美童丸は百鬼丸の手をおさえ、覆い被さる様にして膝を折った。
「嫌がらないでよ。昔はあんなに毎日一緒に寝ていたじゃないかよ」
美童丸は頬を摺り寄せるようにして、百鬼丸の胸に圧し掛かった。長く優美な手指が百鬼丸の胸元を這う。
「兄者と離れたくないんだよ。老人の相手なんざもううんざりだ」
百鬼丸は帯を解かれた。もどかしそうに美童丸は自らの寝間着を脱いだ。肩幅こそ広いが、痩せ肉の華奢な体は百鬼丸の腕の中にすっぽりと納まる。
「あの爺ィ気持ち悪くて。時折おれの顔を見て、お駒、お駒と泣くのさ」
「お駒」
百鬼丸は鸚鵡返しに呟いた。
確かに気味が悪い。美童丸を見て亡娘の名を呼ぶとは。身内を裏切り裏切られながらも、その身内に固執する部分が義光には大いにある。伊達家に嫁した実妹の義姫に対しても、まるで思い人にでも寄越すような文を送っていたと聞く。
「哀れな」
百鬼丸は己の身体の変化に驚いた。すでに股間の一物は痛いまでに骨気していた。美童丸の首を掻い寄せ、唇を吸う。甘い香がした。美童丸は抱き返して顔を百鬼丸の胸元へ寄せた。
「獣と血の臭いがする。兄者のにおい。おれは大好きだよ」
百鬼丸の分厚い胸板に舌を這わせながら、美童丸は巧みに下帯を解き、兄の陽物を扱きはじめた。戦慄するほどの快楽が百鬼丸を揮い立たせた。
まるきり女子と同じ、否それ以上に巧者ではないか。大伯父はいったいいつから美童丸に斯様な奉仕をさせていたのだ。そう思うと百鬼丸は業腹だった。百鬼丸は己の陽物を舐め始めた美童丸の髪を掴んだ。無理矢理に喉の奥まで押込み、上下させ口で扱かせる。
「やめてよ兄者。えずきそうだよ」
口を離した美童丸が言う。百鬼丸は我慢がならず、美童丸の肢体をひっくり返すと尻を抱えた。
「兄者」
擦れ声の美童丸の哀願も虚しい。貫いて、百鬼丸はおお、と声を漏らした。抽送を何度か繰り返したが「いいよ、いいよ」と笑い声に似た美童丸の喘ぎを引き出し切らぬうちに百鬼丸は果ててしまった。
翌朝起き出してみると、美童丸の姿はなかった。だが、股間は気持ち悪く湿っていた。
午過ぎになって義光と美童丸が城に戻ったと聞き、慌てて飛び出してみるとはたしてその通りだった。
美童丸は椿の小枝を携え、義光の後から上機嫌で歩いて来た。百鬼丸は狐に抓まれた心地がした。
(六)
その日を境に、百鬼丸の義光に対する嫌悪は募っていった。やはり城を出るしかない。今度こそ美童丸を連れ出さねばならぬ、と固く思った。それが老人に対する激しい嫉妬であるのか、仕事を与えられぬ不満なのか、いずれともつかないが。
数日経って、義光は書院に百鬼丸を呼んだ。一人で呼ばれるということなど数えるほどもなかったのに、と訝りながら応じる。
「何用に御座りますか、伯父上」
義光は外孫達には伯父と呼ばせている。まさに二毛と呼べるほど白いものが目立つ髪、目の下は弛み、小豆のようなしみが出来てかつての精悍な風貌は衰えた。それでも義光の目には、飛ぶ鳥をも射抜く鋭さが残っていた。百鬼丸の顔立ちには、どこかこの大伯父の片鱗が見受けられた。
「小鶴が密通しておる」
唐突に義光の口から出て来た言葉は、百鬼丸の心臓を鷲掴みにした。いくら側女とはいえ、女色の相手をする意味も含めて小鶴は義光の所属といえる。その女と通じてしまった己の短慮は、いまさら悔いても仕方ない。
だが、どう切り抜けるか。切り抜けようもないのか。
「密通とは。お館様のお目を盗んで、よほど豪胆な奴輩ですな」
「いかにも」
義光はゆっくりを顎を引く。
「何者かもわかっておる」
百鬼丸の掌に脂汗が滲んだ。心臓が早鐘を打つ。義光の目をまともに見られない。もし己が名を出されれば、場合によっては義光を斬るか出奔せねばならないだろう。今度ばかりは謹慎では済まされまい。
だが、義光の二の句は百鬼丸を瞠目させた。
「美童丸じゃ」
「は」
「あやつ。わしが夜回りを命じたのを良いことに、小鶴を誘い出し、やりおった。太々しい童よ」
まさか美童丸が、と百鬼丸は驚愕するのと同時に血の気がみるみる引いていくのを感じた。小鶴はともかく、美童丸こそ義光の愛玩物ではなかったのか。陣屋で女子と紛うほどの嬌声を上げているくせに。
百鬼丸は混乱する心を抑えながら、
「そのことは美童丸が申し上げたのですか」
「いや。近頃小鶴がわしの寝間を避けておるのでな。問い質したまでだ」
かりに義光の言うよう、美童丸にとって女色が本懐とは思えない。それは小鶴のほうから誘ったものに違いない。こうなることを見越して、小鶴は美童丸を罠にかけ、追い出そうとしているのではなかろうか。百鬼丸は思い至った。
「あやつを斬れ」
義光はまるで鷹を放つ時のような軽やかな声色で言った。百鬼丸は動揺を隠せない。
「先立っても、家伝の鬼切を盗み出そうとしおった。出来心と思うて謹慎に処したが、あたらわしの側女にまで手を出すとは」
義光は立ち上がった。
「このままでは所領まで欲しがらんとも限らぬ」
すでに家督は次男に譲ることとなっているが、分封という形で所領を拡大していた最上家には庶子および隠居する義光の領地も残されている。
「飯を食うより血を見るのが好きというおかしな童。あやつを飼う理由は、二つとないあの武才のみぞ。それをこうと心得違いしては困る」
飼い犬に手を噛まれるとはこのことか、と義光は呟いた。
否それは大伯父の私怨であって、美童丸には物への欲など微塵もないのだろうが、と百鬼丸は思った。だが、頭の固くなった老人に忠告しても無駄だろう。
「御意にござる」
百鬼丸はそうとだけ答えて退出した。
(七)
翌日、雨上がりの朝に百鬼丸と美童丸は連れ立って野駆けに出た。蔵王が見えた。越えれば伊達家の所領になる。近日、賊の侵入もない。霜の上った赤い山々の間に二人は馬を止めた。指笛を鳴らすと、森の中から獣の声が応じた。野猿であろう。
「兄者」
美童丸は馬を降りて言った。
「どうじゃ一本」
馬を一頻り撫で擦ったあと、刀を抜き白い歯を見せる。
「木刀ではないのか」
すると美童丸は弾かれたように笑った。百鬼丸の胸先まで近付いて、舐め上げるように見る。百鬼丸はいつかの艶夢を思い起こした。
「しらばっくれるんじゃないよ、兄者」
退いて、鍔無しの刀を美童丸がかざす。百鬼丸の顎に切先が触れるか触れないかで止まった。
「おれを殺す為に野駆けに誘ったんだろう。お見通しさ」
くくく、と美童丸は喉を鳴らした。
「何を出たらめな」
「知っているよ。小鶴が爺さんに告げ口したんだろう。女ってのは本当に業深いさね。それで大伯父はおかんむり。おれを殺せと言ったんだろう」
まるで義光との遣り取りを聞き耳立てていたかのように言う。美童丸は刀を下した。一歩詰め寄る。
「兄者はおれを殺すかい」
美童丸は刀を捨てた。細長い指で百鬼丸の襟元を撫でた。太くがっしりとした頸を、十指が這い回り、胸元までまさぐる。
「おれを斬れるのかい」
百鬼丸は黙した。頭の中は白い靄が掛かっているかのようだ。美童丸は頬を百鬼丸の顎の下に寄せた。無精髭が当たる。
「おれは受太刀したことないよ。兄者の腕でおれを斬れるのかい。返り討ちにされたって文句は言えないよ」
赤い唇が囁く。絶大な自信に満ちている。
「やってみねばわかるまい」
「ふふふ。無理はご禁物」
美童丸は嘯いた。
「兄者にはおれを斬る気はない」
美童丸の身体が離れた。
「人を斬る殺気が感じられないよ」
百鬼丸は否定しなかった。殺気どころか、この場で美童丸を押し倒して凌辱したい衝動が突き上げる。ただ一つの理性のみが百鬼丸の腹に座っているだけだ。
「殺してやる」
美童丸は不意に曇天を振り仰いだ。
「爺を殺してやるさ」
「お前正気か」
「兄者も大伯父が邪魔だと思わぬか」
そう言われて、百鬼丸は返す言葉に窮した。確かにこのところ義光には憤懣を覚えている。美童丸のことも含めて。
「叔父兄弟にも喜ばれてしかり。何の躊躇が要るものか。伊達家を喜ばすのは詰まらんがな。おれは鬼切さえ手に入ればいいんだよ」
美童丸はうっとりした目付きで百鬼丸を見た。百鬼丸は上気した弟の白い面を食い入るように見詰めた。修羅だ。だが、いかんともし難い力に引き寄せられるようにして、百鬼丸は弟の身体を抱き竦めた。美童丸は童女のようにくすくすと震え、身体をくねらせた。
いやいやをしながら、百鬼丸の顔を押し退けるが、自分から袴を脱ぎ下草の上に百鬼丸を押し遣った。
百鬼丸と美童丸はまろびつつお互いの身体を抑え込もうとした。
白い袷の胸元がはだけ、赤く火照った美童丸の肌が露わになる。百鬼丸はその乳首を弄うように吸った。すると、美童丸は上体をのけぞらせ、兄の横面を張った。
「何をする」
「兄者はさようなことせんでいい。おれが兄者をよろこばせてやるよ」
美童丸は立ち上がり、百鬼丸の頬を叩いた。
既に骨気している百鬼丸の股間を裸足で踏み躙る。痛みと快楽の境目で、百鬼丸は呻いた。美童丸は自らの帯を解くと、百鬼丸の手首を合わせ縛り上げた。帯の端を木の股に括り付け、百鬼丸の小袖を剥いだ。
美童丸の目が三日月のようになった。
鍔無しの刀を拾い上げ、刃文を見詰めつつ百鬼丸に近付く。切先を百鬼丸の鼻先に向けたところで、美童丸は動きを止めた。
「やっぱり止した。大伯父を殺ってからにしようよ」
そのほうが興が乗る、と美童丸は言った。この人殺しならさもありなん、と百鬼丸は眩暈がする思いながらどうしようもなく惹かれる己に愕然となった。
体は吹き晒され、冷え冷えとした。
その晩、百鬼丸は一度寝所に入ってからまた外へ出、庭をぐるりと大回りして義光の寝間へ入り込んだ。小姓をやっつけてから雨戸を叩き壊し、賊の侵入のように見せ掛けた。廊下側に美童丸が立っている。手招きされ、百鬼丸は寝具の膨らみの頭側に立った。
百鬼丸は義光の胸の上を目掛けて刀身を付き立てた。
「うぬ」
しかし、手応えはなかった。何やら柔らかいものを突き刺しただけである。
寝具をはがすと、丸められた着物が現れた。
「謀られた」
と叫んで百鬼丸は美女丸を振り返る。美童丸の微かに歪んだ唇の端が大きく割れた。
「愚かな兄者」
言うが早いかで襖の奥が開き、数名の兵が飛び出した。各々が手槍を持ち、示し合わせたように百鬼丸へ差し向ける。
「おのれ美童丸」
百鬼丸は唇を噛んだ。
「あははは。容易く騙されたものだねえ、兄者」
美童丸は槍の間に割って入った。
「でも騙されるほうが悪いのさ。考えてもごらんよ。おれに大伯父を殺す理由なんてあるわけがない。爺のご機嫌を取って尻を貸してりゃ、そのうち鬼切はおれのもの」
「おれを嵌めやがって」
百鬼丸の飛ばした唾が美女丸の頬に飛ぶ。美童丸は顔色一つ変えず、それを指で拭った。
「小鶴と寝たのは兄者ではないか。最上義光の側女を偸盗した上に殺害まで企てようなんて、太い奴だよ。そのうち駿府の大御所様からお褒めを頂くやも」
徳川からすれば、最上家が御家騒擾で勝手に潰れてくれれば儲けものだ、くらいに考えているだろう。ただし義光を欠いては、陸前や越後に睨みを利かせる者がいなくなる。つい最前も、越後高田では堀家が継嗣問題から騒動を起こし改易に遭っている。
「やよ、者共」
美童丸が指図すると、兵らは無言で百鬼丸を捕縛した。無念の表情で美女丸を睨みつつ、百鬼丸は連行されていった。
(八)
牢獄に入れられた百鬼丸は己の浅薄さを呪うしかなかった。義光は現れない。日に一度、粥が下人の手で運ばれてくるが、百鬼丸は一切口を付けなかった。
不気味なことに、拷訊は一切加えられていない。いままで百鬼丸が目にしてきた拷問の数々を思い浮かべるだに、いったいいかなる責苦が圧し掛かるのだろうと初日は身を固くしていたものだが、一向に音沙汰無いのである。
その分言い訳も用意してはならないということか。
このまま処刑されるのであろうか。ならば、いっそ早い方がいい。だが、こんなところで朽ちるつもりもない。いずれ牢を抜けてやるくらいの腹づもりで、下人の挙動を窺っていた。木造の牢獄は背面が天然の岩板を用いた半地下で、大力を使うごときで倒壊させることは出来ない。
食器を差し出す口は粗末な木椀を通すのがやっとというところだ。大小便の用を足す木桶が奥にある。幸いなのは気温が低いことで臭気はましだ。
思索に飽いて、寒さにも饐えた臭いにも慣れてうつらうつらしていると、百鬼丸は昔日の情景を思い返すようになった。
水の匂い。焦げた川魚の香気。
菜畑の上に連なる白い雲が綿のように美しいのは、短い春のみ。夏は怒りを孕みて月山から見下ろしてくる入道雲が好きではなかった。
長瀞城は最上川を天然の外濠とする三重堀の平城。急流最上川が比較的緩やかに蛇行し、合流する白水川の落合あたりを長瀞と呼んだ。淀みを知らない清水が絶えず郷邑を流れる。そのまま流れに乗れば何処へ行くのだろう、と百鬼丸は朧げに思ったことがある。
その白水川を引き込み、満々と水を湛えた二の堀。居館は二の丸にあった。
川は度々氾濫した。堤が破れたあと、上手から流されてきた山女魚や岩魚を獲るのが幼い兄弟の愉しみでもあった。
美童丸はそういえば、その頃から残酷な漁りをしていたような気がする。魚の目を刺して無邪気に喜んでいた。ただ、百鬼丸はそれ以上のことを感じる分別もなかった。
人を斬り血を見て恍惚を覚える魔物のごとき男。だが、武芸においては比類ない天賦の才を持つ。誰もが扱いかねるその美童丸が唯一懐いているからこそ、百鬼丸はともに生かされているのだろう。己がそれだけの存在だと思うと虚しさしかない。
いや、容色の衰えた果ては、美童丸とて義光の閨にも呼ばれなくなるだろう。それが憐れだ。
「だからどうだというのだ」
己を嵌めた美童丸を憎いと感じたものの、それ自体どうでもよくなっていた。美童丸は昔からああなのだから、騙される己が間抜けなのだ。それでもなお、いつもうまうまと口車に乗ってしまうのは、美童丸を信用したいからなのではない。
可愛い弟の他愛もない嘘や調略などものともしない己自身を信じてみたかったのだろう。おおよそ、他者から見れば気が狂っていると思われても。
繰り返し思い返すうちに、己はどうしたいのかも怪しくなってきた。朦朧としている。空腹が堪えた。
三日目の晩、百鬼丸は椀を持った男の手首を掴んだ。中の冷えた粥がひっくり返る。
「は、離して下さりませ」
「ならぬ。牢の鍵を寄越せ」
百鬼丸は掴んだ手に力を込めた。
「寄越さねば、握り潰して構わぬな」
あわや骨が軋み、下人の右手が砕けようとした刹那、女の声が百鬼丸を制した。
「おやめ下さい、忠九郎様」
小鶴であった。血の気の引いた瓜実顔で、下人と百鬼丸を見下ろしている。百鬼丸が手を緩めると、下人は溝鼠のように素早く逃げ去った。
小鶴は牢の前に膝を折ると、百鬼丸を無言で見詰めた。手燭をかざす。三日三晩何も食していない百鬼丸の頬は少し削げ、髭が顎から頬を覆いはじめていた。髷はほつれ、ただ白目だけがぎらぎらと光っている。
「食わねばお体にさわりましょう」
百鬼丸は首を振る。小鶴は眉間を寄せて牢に縋った。
「何故あの男を殺さなんだのです」
美童丸のことだろう。
「血を分けた同胞だ」
「お館様の命ではありませぬか」
小鶴の目尻が裂けんばかりに吊り上がった。
「そなたが大伯父に嗾けたのであろう」
「妾はあの男が好かぬのです。人をまるで虫けらのように嬲り殺して愉しんでおるような狂者です。妾の願いは聞き入れぬと申されるのですか」
小鶴の声は痛切だった。ある種、この女も義光の、この家の被害者といえよう。だが、牢に囚われては致し方ない。百鬼丸の消沈した面に小鶴は手を伸ばそうとしたが、椀の差入れ口以外は五指の入る隙がない。
「お待ち下さい。きっとここから出して差し上げます。あの男を仕留められるのは貴方様しかありません」
つと小鶴に覆い被さる影が差した。
「ふうん。どうやって兄者をここから出すつもり」
みるみる小鶴の白面が凍り付く。影から伸びた手が小鶴の後ろ髪をむずと掴んだ。女の身体が岩壁に叩き付けられる。
「お前も牢にぶち込まれたいのか売女め」
美童丸は小鶴の頬を摘み上げた。平手で何度も殴り付ける。小鶴がしたたかに後頭を岩にぶつけぐったりとなるのを、美童丸はあたかも蓑に掛かった粉雪でも払うかのように簡単に行った。
小鶴の整った貌が腫れ、鼻血が滴る様を美童丸は眺めた。
「この女はおれに色仕掛けを使い、それを爺さんに讒訴しやがったのさ。美童丸様に手籠めにされました、とね」
くくく、と美童丸は押し殺した声で笑う。小鶴の髪を掴んで引き摺り、牢の前に突き出す。
「大伯父が信じるわけもない。犯されたのはおれのほうだよ。おれは大伯父にしか身体を許していないのに。小鶴は淫蕩のあまりおれをものにしたかったのさ、と」
百鬼丸は昏い思いが腹部を満たしていくのを感じた。謀られたと覚った時、あれほど憎いと思った美童丸に、いま哀れを感じている。
「それに飽き足らず、この女は兄者と通じておると言うた。その時の爺さんの顔ときたら」
喧しい笑声が岩屋に反響した。笑いながら美童丸は小鶴の襟首を掴み鍔無しの刀を抜いた。束ねられた射干玉の黒髪をばっさりと断つ。小鶴は泣き叫んだが、お構いなしに美童丸はその背中から小袖を裂く。
「忠九郎様ッ」
柵に掛かった小鶴のほっそりとした手指が落ちた。百鬼丸の膝前に、芋虫のような指片が転がる。指から夥しい血を噴き出させる女の肩に、美童丸は刀をさくりと突き立てた。
「見ていてよ、兄者」
美童丸はそう言うと着物の前を割り、骨気していた一物を小鶴の尻に埋めた。悲鳴が上がる。
「ああ、いいじゃないのさ。その声。もっと泣き喚けよ」
美童丸は四つん這いになった小鶴の尻を激しく責め立てる。血と涙に塗れて前も見えない小鶴は獣のような喉声を発した。百鬼丸は柵を揺さぶった。びくともしない。
「さァ、もっと叫びなよ。おれに哀願する声を聞かせてくれよ」
美童丸はそう言いながら、小鶴の二の腕を裂いた。鮮血が流れる。犯されながら小鶴が忘我の中で快感を示す度、美童丸は容赦なく刃を突き立てた。
「ゆるして下さい。美童丸様、もう死にまする。死なせてください」
「お前のような薄汚いすべた、気持ちよがらせて死なせるものか。痴れ者が」
美童丸は言い放ち、小鶴を突き離すと、背中から一突きにした。
「つまらん。女子は面白うない」
血刀を抜くと、小鶴は突っ伏した。既に事切れていた。百鬼丸は格子に顔を押し付けて、言葉にならない声を張り上げた。獣の咆哮と紛うほどの。岩が震える。
美童丸は兄の無残な髭面を見て、僅かに小首を傾げた。
「これだから女子は嫌いだよ。脂も多いし研ぎ直さないと」
小鶴の首にとどめを刺すと、美童丸は裾で刀を拭いながら、去って行った。
(九)
明後日、百鬼丸は牢から出された。朝からどんよりと重々しい灰色雲が西の方から垂れ込めている。明らかな冬空が出羽の上を覆っていた。
砂洲の上に縛められたまま、百鬼丸は膝まづく。風の寒さすら感じない。心が凍てついているといってもよい。
義光を見る両眼にも薄い膜が張っているかのように見えた。
主殺しを企てようとした者がいかなる末路を辿るのか。それは百鬼丸自身にも、そして今百鬼丸を遠巻きに見守っている家臣たちにも判然とししていた。
かつて父である義守、次弟の義時と争い、長男・義康を葬った義光という男が、外孫とはいえその所業を赦すはずもない。小鶴は反逆者の脱走を手助けしようとしたとして、処分されたことになっている。
はるか館の北方に馬塁と思しき黒い樹木が連なって、警固の為に疾駆する馬の姿がちらついて見えた。
「斬首はいけないよ、伯父貴」
美童丸が椿の枝を弄びながら言った。義光は横目で美童丸を見た。
「木馬も石抱きも水責めも糞食らえも、兄者にはそんな不様はよして欲しいと望んだのはおれだよ」
美童丸は真顔で答える。
「おれは兄者を武士らしく死なせてやりたい」
「腹を切らせるというのか。本来ならば磔であろう」
いつもなら耳を貸さない義光が、何か思うところでもあったのらしい。美童丸はゆっくりと首を横に振る。
「勝負をしたい」
居合わせた一同が息を呑んだ。百鬼丸も刮目した。
「よかろう」
義光の許可が出た。美童丸は目を細めた。
「でも、この刀じゃあ駄目だ。鬼切を貸して頂けまいか」
「何を言うか」
義光はむっとなった。美童丸は艶麗な笑みで大伯父を見返す。
「兄者は縛められて衰えている。おれは慣れない刀を使う。これで条件は五分ではないか」
こういう時の美童丸の理屈には舌を巻く。
「百鬼丸を斬るのさ。鬼切でなくて他に何があるのさ」
そう言われては仕方なく、義光は家臣の一人を手招きした。
やがて「鬼切」が運ばれてくると、百鬼丸の呪縛が解かれた。
二人は対峙した。美童丸は相変らずの得も言われぬ微笑を留めたまま、義光と百鬼丸を交互に見た。
「行くよ、兄者」
微笑みが瞬時にして消えた。
抜き打ちで鬼切が唸った。足音も立てずに美童丸は百鬼丸の懐深くへ入った。だが、百鬼丸は迎え討たず避けた。すれ違いざまに振るった剣先が、美童丸の着流しの裾をかすめた。
食事もろくに摂取していない為に、百鬼丸の体力は誰の目にも減退している。踏み込みが甘かったようだ。
「あははは。やるじゃないよ、兄者」
素早く振り向いた美童丸の黒髪が風になびく。にやりと紅唇が引き結ばれると、再び美童丸は刀を下げた。構えというものを見せぬ。強いて言うなら、美童丸は居合を達者とする。
その実、百鬼丸は美童丸と刃を交えたことはほぼ、なかった。
美童丸が母・真砂の方を殺害した時。あの夜以来、百鬼丸ははじめて弟と真剣を交わす。受太刀を許さない剣がどういうものか、初めて知るのだ。
長い睨み合いに飽いて、美童丸が踏み込んだ。切先が百鬼丸の左腕を深く斬りこむ。遅れて血が流れ出す。
「斬られたことに気付かないね」
百鬼丸は流血する己の腕を見ず、美童丸の狂気を孕んだ双眸を見詰めた。面白くなさそうに美童丸は刀を振り、ややあって仕掛けた。
驚愕の表情で百鬼丸は後ろに飛んだ。一挙動の間に刀を振るい、空打ちを仕掛ける。咄嗟の空打ちに、美童丸はにやっと白い歯を見せた。すでに美童丸は攻撃の横正眼にあって、疾風のごとく打ち込みを加えた。
百鬼丸の左拳に放たれた。鮮血が砂上に迸る。喜悦の表情を湛えた美童丸が、避けて砂を踏む。あくまで静謐の中で、二人の剣技は繰り広げられた。観覧者は茫然としていた。ただ、息を呑む音だけが響いた。
拳を割られながら、百鬼丸は敏捷に斬り返した。
「言ったろ兄者。おれは受太刀しない」
美童丸は背中で躱し、軸足を変えて舞うように刀を繰り出した。
「頂き」
百鬼丸の刀が、切断された指とともに砂洲に落ちた。百鬼丸は素早く左手で拾い上げた。
「駄目じゃないの兄者。もっともっと、おれを愉しませてくれないと」
百鬼丸が走った。血が糸を引く。美童丸はわずかにたたらを踏んだ。その隙を突いて、百鬼丸の剣が美童丸の袂を切り裂いた。二の腕まで大きく裂けた生地の裂け目から白い肌膚が覗く。一筋の赤いものが滲んだ。
「うふふ。そうこなくちゃ」
美童丸は舌なめずりすると、恐るべき速さで百鬼丸の懐へ入った。胴払いを繰り出し、返す刀で背中を突く。百鬼丸の巨躯は顔から砂地にめり込んだ。
「どうよ兄者。苦しいかえ」
美童丸が覗き込む。仰向けになり、肘を付いて起き上がろうとした百鬼丸は四肢から力が抜け落ちていくのを覚った。鳩尾の下を割られた腹から、どくどくと血が溢れ出した。
「び、美童丸よ」
腸がはみ出そうとするのを押さえながら、百鬼丸はようやく声を発した。
「なぜおれを裏切った」
「裏切りとは」
美童丸は顔を近付けた。微かな声は、やがて周囲にもそれとわかるほどの笑声になった。
「笑わせるなよ百鬼丸。あんたはそう。おれのいちばん大事なものを奪った最初で最後の男なんだよ。あんたこそ盗人だ」
美童丸は屈み込んだ。割れた裾から細く長い脛が剥き出しになる。
「おれは見ていたよ、兄者」
犬のようにぐるぐると中腰で百鬼丸の周囲を回り、頭の後ろに立つと、手水鉢でも覗き込むかのように青褪めた髭面を見下ろす。
「松根城で母上の寝所に忍び込む兄者の姿を見たよ」
一同は微動だにしなかった。寒空の下、しわぶき一つない。ただ一人、義光のみが重く目を瞬いた。
百鬼丸は美童丸を見上げた。そのほっそりとした面長の美貌が真砂の方に瓜二つに思えた。
十五になるやならぬ頃、雷の夜、百鬼丸をそっと臥所に引き入れた継母の顔を思い出させた。吸い付くような白い肌、小高い胸乳、長い優美な手足が、少年百鬼丸の身体に纏わり付いた。悪いこととは知りつつも、その甘美さを忘れられず、一度ならず抱かれた。
その行為は継母のやさしさからなのだ、と百鬼丸は思い込むことにしていた。
「ねえ、思い出したろう」
美童丸はそう言うと、鬼切の柄を逆手に握り替え、おもむろに百鬼丸の股間に突き立てた。百鬼丸は声音にならない呻きを上げた。
「化生でも見るような目付きをしやがって。さんざかおれに汚れ仕事をさせてきた己らが。化生のほうがましだ。きれいなべべ着て、どいつもこいつも腸腐れた外道めが。このおれもだがね」
美童丸は周りを見回し高らかに言う。瞬時、義光と目が合った。
出羽合戦を機にさらに確執を募らせていった家臣団。江戸と大坂の間に跳梁し、御家の中で権力を争う者たち。その板挟みで嫡男を失った義光。父子離反を唆した重臣・里見一族ら。美童丸にとっては皆が皆魑魅魍魎にしか見えぬ。
美童丸は刀を兄の股間から抜いた。血飛沫が白砂を這う。
「おれは母上を奪った兄者がいっとう憎かったのさ」
この化け物を生み出したのが己自身だったのかと、百鬼丸は薄れゆく意識の中で覚った。憐れな己を笑えもしないが、笑うしかない。
美童丸は鬼切を覆う兄の血を拭い、その指を舐めた。
「さ、そろそろ死ぬかい」
百鬼丸は渾身の力を振り絞った。左手で砂上の刀を探った。鬼切が無情にそれを阻む。切断された百鬼丸の手首が、数間飛んだ。
「美童丸」
百鬼丸はひと声叫んだ。かっと目を見開いて果てた。鬼切がその喉笛を貫いていた。
「どうでおれらは戦もなくなりゃ用済みさ。兄者はお先に逝ってな」
美童丸は微笑み、片膝ついた姿勢から立ち上がる。白い衣は朱に染まっていた。
美童丸の黒瞳が義光を見据えた。鬼切は血を滴らせながら、美童丸の手の中にある。義光は我知らず震える両の親指を握り隠した。
誰もが怖気をふるいつつ、美童丸から目を逸らせなかった。
槍を構えた兵は恐らく、義光の指呼一つで闘いの勝者を討つ為に控えていたのだろう。その誰もが身じろぎすら出来ずにいた。
「鬼退治は終わったよ。伯父上」
美童丸は義光に背を向けた。手の甲で化粧を拭い、鬼切を投げ捨てた。
憑き物が落ちたかのような男の真顔に様変わりした美童丸を、義光は呼び留めようとした。
「やっぱりその刀要らない。使い難いよ」
美童丸は振り向きざまに嗤笑を送った。
叶わず、義光は茫漠と目を見開いたまま、歩み去る美童丸の背を見詰めているだけだった。砂上に残された百鬼丸の屍から切り離された腕は、まるで伝説の酒呑童子の腕のように毛むくじゃらだった。
遠く馬塁の彼方まで男の高らかな笑い声が聞こえた。だが、笑う男の双眼から止め処なく涙が迸っているのを見た者はいない。
その晩、出羽の山々に初雪が降った。
ほどなくして、義光は病がちになる。五年後の大坂の陣で鍔無しの太刀を携えた無双の剣士を見たという者がいたが、その後の消息は知れない。
(了)
東国の谷間に霜が降りようとする季節になった。色づき始めた木立の間合にぽっかりと沢が生じていた。沢下の平らな畔で煙がくすぶっている。
「もっと薪をくべないと火が燃えないよ」
白い小袿の男が振り向かずに言い放った。しゃがみ込んだままである。
言われたほうは「ああ」と生返事を返す。柴が足りない。一昨日に降り注いだ驟雨の為に山は濡れて夥しい湿気を孕んでいた。生木をくべたのでは火が付かない。
これでも精一杯集めたのだ、と百鬼丸は呟いた。
「兄者は物ぐさだからあてにならないね」
なかなか赤い炎を上げない焚火を弄いながら、美童丸が首を捻った。下から舐め上げるように切れ長の目で見られると、百鬼丸は目が眩んだ。白皙が炎に炙られて女子の肌のように艶めいている。
赤銅色に日焼けした肌に身の丈六尺を超す巨躯の百鬼丸とは、あまりに対照的だった。
「これが我が弟か」
と思うほどの美童丸の容姿は、生母に生き写しといってよいだろう。
「誰にも黙っていろ。いいか」
百鬼丸は美童丸の前に回って言った。
「なにをさ」
「おれはこのまま南へ下ろうと思うのだ。美童丸、おれに付いてくるか」
美童丸は俯いて焚火を弄り続けていた。長く結った束髪が肩を滑り、白い着物の胸元に落ちている。
美童丸には長瀞次郎五郎義矩という諱がある。百鬼丸にも忠九郎義迪という名があった。だが、美童丸は元服もして十七になっているのにいまだに髷も結わず、幼名を名乗っている。家臣にも美童丸と呼ばせている。ゆえに、百鬼丸も美童丸と呼び続ける。
「南というのは越後や信濃のことか」
美童丸はようやく言った。
「ああ。どこへなと。伯父貴に習うものはもうない。そもそもが近頃の伯父貴のやり方にはついてゆけぬ」
「それでは、上方へゆくのか、兄者は」
皮肉めいた赤い唇が蠢く。男のくせに薄っすらと紅さえ差している。
江戸に徳川幕府が開かれて七年経つ。関ケ原の陣ののち、表面上は徳川家と摂家豊臣家との関係は悪くない。だが、いつ不満を持つ牢人らがかつての豊家の隆盛をいまひとたびと担ぎ上げないとも限らない。そういった火種もくすぶり続けている。
出羽・最上家は昔日の遺恨あって関ケ原では東軍に与した。以来、大坂とは疎遠になったままだ。その流れで美童丸もそのような事を言う。
「そうとは限らん」
「大坂で戦があれば随分と面白いだろうよ」
「どうだろう」
「何も考えていないのだな。ふふ」
美童丸は自然に笑った。
「兄者らしいよ、とても」
「おれは」
百鬼丸は言葉を切り、腰の打刀を抜いた。夜の闇に白刃が青い光を放つ。
「こうして粛清の残党狩りをしているのに倦んだ。何のために学問も武芸も身に付けたのか。おれはもっと大きな仕事がしたい」
「ならば、そうすればよい」
美童丸は手元の枯葉を焚火の上に撒き散らした。
「兄者がそうしても、伯父上は怒らないよ、きっと」
「伯父貴はおれの存在が鬱陶しい。おれがいなくなれば、さぞ喜ぶやもしれんな」
百鬼丸は嬉々として言った。
「で。おぬしは付いて来るのか」
「兄者の行くところなら、どこへでも。どうでおれには剣しか能がない。政事などとんと出来ぬし、伯父貴のように連歌の達者でもない。平らかな世では無駄飯食いさ」
美童丸は立ち上がった。この一族の血統は皆、上背がある。美童丸の身の丈は百鬼丸には及ばぬとも高い。しかし華奢とも言える体つきだった。
「出奔してあの爺さんたちの狸面にひと泡吹かせてやるのも一興さ」
美童丸は妖しく目を細めた。
その高い腰には鍔のない長い刀が帯びてある。鍔は斬り合いの際に受太刀する為に欠くべからざる部位である。鍔がなくては刀を受けた時に利き手を斬られてしまう。
鍔がないということは、つまり受太刀無用。仕太刀のみの無敵の剣を意味する。わざわざそうして見せる顕示の強さが、美童丸にはあった。
「だが兄者。ひとつお願いがあるんだよ」
美童丸の黒瞳に百鬼丸の真顔が映り込んだ。
(二)
山形盆地を根城に出羽地方を平定した最上義光が後嗣を決めた。今年、慶長十五年(1610)の夏である。時に義光六十五歳。あまりにも遅い家督譲渡と言える。
これもひとえに義光の猜疑心の強さからとも、独断政治の結果とも言えたが、義光という男は冬の狐のように用心深く物事を運ぶ性質だったようである。
「家親小父が相続というのは妥当と思うか」
百鬼丸は、前を行く美童丸に訊ねた。
「おれには訊かないでよ」
美童丸は相変らず振り向かない。
正確には義光はこの兄弟の大伯父にあたる。
義光には下に四人の弟妹がいた。次男・義時、三男・義保、四男・義久、長女・義姫。この義姫は仙台の伊達家へ嫁ぎ、伊達輝宗の室となり、政宗を生む。そのうち義光は次弟・義時と継承者を争って勝ち取り、これを討伐した。義光に従った義保は一度、長瀞城へ移り長瀞義保を名乗る。その後、光広という男子を生む。これが松根城に居る松根光広であった。義保の次男・光良が百鬼丸、美童丸の父である。
光良は二度目の唐渡り(慶長の役)で戦死し、残された二子は母とともに領内を転々と遷り、いまは大伯父の館に仕えていた。
実務としては義光の次男・家親が家督を継ぎ、義光自身は隠居に入りつつある。
七年程前、長男・義康を家臣同士の争いから死なせてしまった義光は、その頃からさらに猜疑心を強めた。家臣らの動きに目を光らせているのもその理由が大きかった。
老いてなお気難しい義光に近しいのは、家親を除いて側近の氏家家の人間と百鬼丸、美童丸の兄弟のみであった。
百鬼丸は闇の中を進んで来て、はたと気付いた。いつの間に城内へ戻っていたのか。
「ここは開かずの蔵ではないか」
言うや否やで美童丸が振り向いた。
「おぬしまさか」
「ここまで来て臆したなどと言うんじゃないよ、兄者」
美童丸はそう言って蔵の錠前を断ち切った。目にも止まらぬ速さだった。蔵の中へ入る美童丸を、百鬼丸は茫然と見遣った。
「鬼切」
嘯く声が夜鳥の音のように響いた。
最上家に代々伝わりし名刀「鬼切」。源頼光が酒呑童子を退治した時に、その首を断ったものと言われる源家重代の太刀である。「鬼切」は新田義貞に受継がれたが、これを討ち果たしたのが斯波高経である。実際に首を獲ったのは氏家重国(しげくに)といい、両氏の関係は現在の主家、最上氏と重臣氏家氏との間柄に受継がれる。
「鬼切」は重国から高経へと渡った。
「兄者は源(足利)尊氏という大盗人が鬼切を所望したことをご存知か」
美童丸は出し抜けに言った。百鬼丸は「ああ」と短く答えた。
時の征夷大将軍・足利尊氏は「源家重代のものならば、我が家の宝刀として代々伝えたい」といい高経に迫ったらしいが、屋敷が火災に有った時この太刀も燃えてしまったと偽ったという。のちに嘘はばれたが、叛乱の有耶無耶で尊氏の命は消し飛んだ。
「馬鹿な奴だよ尊氏って男はさ。そんな馬鹿には無用の長物さ」
美童丸は薄い笑みを浮かべつつ、錦袋に包まれた「鬼切」を手にした。
「どうせ館を出るのなら、これが欲しかったんだ」
「それではおぬし、やはり盗人ではないか」
百鬼丸は咎めた。だが、手燭で照らした抜き身の「鬼切」を目にした途端、二の句は喉の奥へ引っ込んだ。
二尺七寸九分二厘の刀身は、数百年も前に打たれたものとは思えぬ生々しい青黒い光を帯びていた。
ふふふ、と美童丸は喉を震わせた。
「なにを言うのさ兄者。新田を討ち取ったのは氏家重国じゃないか。それを最上が取り上げたんだよ。元は氏家のものだろう。おれが貰ってなんの不都合もあるまいよ」
美童丸は屈託なく言う
「そもそも宝の持ち腐れさ。天下が収まってしまえば刀の出番もなかろうに。その前にお目見えとさ」
百鬼丸と美童丸では母が違う。百鬼丸の生母は下士の娘だが、美童丸の生母は真砂の方と言って氏家の姫だった。
「しかし、おれには少し短いような気がするな。兄者が持つよりはましかもしれないけど」
美童丸の端麗な横顔に邪悪な陰影が差した。刀の光の加減だったろう。だが、百鬼丸には、それがかつて頼光が退治したという悪鬼のように思えた。惹かれてはならないと知りつつも、火取虫が炎に吸い寄せられるように、百鬼丸は異母弟の美しい貌に見入ってしまった。
二人の目論見は、あっさりと崩れ去った。館に戻ったがゆえに家臣に見咎められ、翌日義光の元に引き出された。
百鬼丸は十日の謹慎で済んだが、「鬼切」を持ち出そうとした美童丸には二十一日間の謹慎が申し渡された。このような軽い処分で済んだのは、むしろ御の字といえた。義光が隠居同然であるからだろう。
「出羽の鬼神」と恐れられた勇将も老いて丸くなったものか、と家臣らは囁き合っていた。
(三)
「おや。薪などお割りになって。そのようなことは下人にさせなさるものを」
薪割りをしていた百鬼丸に、小鶴が声を掛けた。諸肌脱いだ百鬼丸の逞しい半身に玉のような汗が浮き上がっている。日に焼け、筅を束ねたような筋肉のうねりは若者らしく柔軟にしなって鉈をふるう。
眩しげに見る小鶴に、百鬼丸はいささか胡乱な気配を感じた。
「これも大伯父の仕置きなのだ。当分おれは老人らの湯を沸かさねばならん」
百鬼丸は鉈を下した。
「美童丸様は」
「まだ離れにおる。あやつはあと十日ほど押し込めにござる」
「おかわいそうに」
小鶴は眉を顰めた。だか口調は謡うようで、まるで小気味よいといわんばかりに百鬼丸には聞こえた。
小鶴は義光の側女だった。一度軽輩に嫁して、戦で夫を失ってのち義光に買われて来た。まだ二十歳頃の、鄙には稀な垢抜けた女といえる。羽州の女独特の白い肌のむっちりとした肉感は衣越しにも漂っている。
兄弟が城に迎え入れられた時、小鶴はすでに奥向きの主然としていた。とかく、美貌に加えて手際が鮮やかなのだ。ものの差配に長けている。
美童丸はそんな小鶴を好かない。否、小鶴のほうが美童丸を蛇蠍のごとく嫌っているのではないかと、百鬼丸は思う。
「いちどお聞きしたかったのですが、忠九郎様」
と、小鶴は百鬼丸の通名を呼んだ。
「美童丸様はなぜあのようにいつも女子の化粧(けわい)をなさっておられるのですか」
小鶴はまるで忌まわしいものでも見るような視線を、庭の奥へ走らせる。いつもは百鬼丸の傍らに美童丸が居る。その留守を機に、問うてみようと思ったのか。
「うむ」
百鬼丸は汗を拭った。
美童丸の女装癖がはじまったのは、数えで十三からである。父・光良が死に、母・真砂の方とともに楯岡、中野と転々と居を遷して各々の館に身を寄せていた頃のことである。光良の正室と百鬼丸の母はすでに病を得て死去し、僅かな男衆と女こどもばかりの流浪の日々でもあった。松根の伯父は快く彼等を迎え入れたが、彼の正室とはそりが悪く、数カ月と経たぬうちに追い出されたのが、はじまりであった。
その理由は幼かった兄弟にはまだ咀嚼し得ぬものだったろう。
だが、成長するに従って口さがない噂が母子を取り巻いていることを知る。
「真砂の方は天性の妖婦。身を寄せる館の主をすべて籠絡している」
というものであった。松根を追い出されたのも、伯父光広を誘惑したからだという。
真砂の方は十七で美童丸を生み、まだ三十になるやならぬの女盛り。子を生したとは思えぬほどの若々しい肌を持ち、吉祥天のように艶やかで気品ある美貌に溢れていた。落飾したとはいえ、そのような寡婦がいれば下心なくとも哀れを誘うし、噂も立つ。
何より百鬼丸は、継母が皆の言うような、ただ淫奔な女子とは信じたくはなかった。心根の優しい女性なのだと。
「情けないかな、おれが大きななりをして雷が恐ろしいと震えておれば、嘲笑いもせずに宥めてくれるようなお方だった」
天童にいた時のことである。
骨まで凍える真冬の夜。百鬼丸は小水を催して目覚めた。ふと脇を見ると美童丸の姿がなかった。
「まさか、いまだし母の懐が恋しいわけでもあるまい」
母の寝所を見に行くと、はたしてそこにもいなかった。どころか、真砂の方の姿もない。慌てて館の中を探しまどうと、主の寝所のほうで魂消(たまぎ)る声が聞こえた。
急ぎ駆け付けると、まずひどい悪臭が鼻をつく。襖にはのたうつ蟒蛇のような赤い血が飛び、室内に屍が横たわっていた。
「母上」
どす黒い闇と同化した血溜まりの中に突っ伏していたのは、半裸の真砂の方であった。白い肉片は手首で、ぱっくりと割けた腹からどろりとした臓物が流れ出していた。その奥に倒れているのは、館の主であった。生きているのかどうかもわからない。百鬼丸は後退った。
すると、背中に柔らかいものが当たった。
「ひ」
美童丸であった。引き摺るように血刀を提げており、寝間着は蘇芳色に染まっていた。
「母上は醜いのう、兄者」
美童丸は声変わりしたての擦れ声で言った。
「あんなに美しい貌をして。滑らかな茶碗のような頬をしておっても、腹の中はどろどろじゃ。腸は臭い。川魚よりも臭い。そこらの百姓や乞食も母上も皆同じだのう」
百鬼丸はようやく我に返り、血刀を奪った。美童丸は童子のように兄の腕の中へ倒れ込んだ。
このことは氏家の本家では内密に処理された。詳細を知った大伯父・義光が手を回したという。なぜなら美童丸は生かされたからである。寡婦とはいえ、不義密通を働いた母を成敗したというのが、義光にとって他人事と思えなかったのかもしれない。
「それ以来、美童丸は好んで女子の格好をする。好かぬ女子を寄せ付けぬ為なのか。おれにもあやつの考えていることはわからんのでござる」
百鬼丸は語り終えて大きく息を吐いた。思い出すことすら忌々しい。いまだに、あの凄まじい血と臓物の臭気と生温かい感触は拭い切れない。
「不憫なお方ですこと」
「ああ。最近とみにあやつは己の斬った母に己自身が似てきておるので」
いえ、と小鶴は首を振る。
「不憫なのは忠九郎様にございましてよ」
小鶴はいつの間にか、そっと百鬼丸の背後に回り、肩に触れていた。瞬時、己が腹の底から雷鳴が轟いたかのように、百鬼丸には感じられた。
「このお館の人々は皆どうかしているのです。不憫なのは、人として真っ当なあなた様」
小鶴の言葉が靄のように百鬼丸の脳裏に広がった。女の肌が噎せ返るほどに強く匂った。
(四)
近在の百姓らから夜な夜な作物が荒らされ、民家が襲われては人が斬られるという訴えが最上の館に告げられた。
戦時分ならばとまれ、もしや米沢や本庄から賊が侵入したかと思われたため、義光は家臣らに命じて夜警を行わせることになった。
こう見えても義光の行政は領民に寛容であり、微に入り細に入り領地の様子を検分する。地子銭や役(税)はかけず、山形城下の整備に余念がない。一揆を恐れる細心さもあったが、とにもかくにもこれまでの戦で荒れた領地を豊かにすることに専心していた。
美童丸は夜目にも一際目立つ白い小袖と袴で馬を駆り、城外へ出た。三叉路のある衢地で立ち止まる。小者が龕燈で照らすが、人の気配はない。
「賊が出たというのはまことか」
美童丸はひとりごちた。夜警を気取り、引き揚げたか。だがこの暗夜、賊もそう足早に立退くことは困難だろう。
美童丸はさくさくと馬を進めた。耳を澄ますと、岨道から女の細い声が聞こえた。美女丸は馬を降り、脇道を分け入った。
黒い闇森の間に女が蹲っていた。小鶴である。
「美童丸様」
小鶴は鬼気迫る声音でよろりと立ち上がり、駆け寄ろうとした。小袖の胸元と裾が乱れ切っていた。美童丸はすでに抜き身の大振りの刀を小鶴に向けた。
「かような夜更けに女子が出歩くものじゃないよ。何をしていたのさ」
「お館様の痔疾に効くという蓬を摘んでおりました。そうしたらすっかり暮れてしまって」
小鶴は哀願するように答えた。裾からはみ出た肉付きの良い腿を見遣り、さも汚らわしそうに美童丸は顔を背けた。
「ひとりでかい。小女はいかがした」
「賊に襲われそうになったのです。ゆえに先に逃がしました」
ふうん、と美童丸は鼻で笑った。
「ほう。先ほどまでお前のよがり声が聞こえていたように思えたけどねえ」
言い切らないうちに、美童丸の頬桁に痛みが走った。小鶴の平手が翻った。
「この売女め」
と、美童丸は刀を返した。だが、切先を小鶴の鼻先に突き付けただけだった。
「おれは兄者を捜していたのさ。兄者はどこにいる。さっきまでここにいたのは兄者ではないのかい」
「存じませぬ」
小鶴は肩を震わせながら言った。美女丸は片頬を歪めた。
「言えぬというのか。ならば、その口要らぬよのう。ふふ」
小鶴は後退った。斬られる。城内でも随一の達者。そして残忍な人斬りである美童丸の手に掛かればどのような死に方をするか。小鶴はいつだったか、義光に苦言を呈した家臣の一人を処刑する美童丸の姿を見たことがある。
家臣は木馬に四肢を縛められ、さんざん苔打ちに遭ったのち股間から血を滴らせる無残な半裸姿を晒していた。放っておいても数日内に失血で死んでしまうだろう。
「据え物を斬るのは嫌じゃ。この男も武士であろう」
美童丸はそう言い、脅え切った男に打刀を持たせた。だが美童丸の初太刀一振りで男の利き手指は宙に飛んだ。じょじょに男の肉体を切り刻み、四肢が切れて虫の息になっても、さらに腿を削ぎ、耳を削ぎ、目を潰し、男が残った口で断末魔に「迅く殺せ」と叫ぶまでやめなかった。それでもまだ止めを刺さないので、辟易して来た義光が「よい」と命じてようやく男は死なされた。
「面白うない。これからなのに」
美童丸は刀を回し、薄く笑っていた。
人斬りを快楽とする異常者。このような男にだけは斬られたくない、と小鶴は戦慄した。
「口を開けな」
言うが早いかで小鶴の唇の隙に刃先が滑り込んだ。歯に金気がしみる。女の身は竦んだ。小鶴は気付いているかいまいか、刀はそれでいて微動だにしない。動けば小鶴が自ら傷付けるのだ。
恐るべき達者の所作といえた。
「おや」
ところが。美童丸の矛先はやにわに変わった。小径の奥から賊と思しき男が二人飛び出して来た。小鶴は覚えず安堵した。
「そこなあんつぁ(兄さん)、へなこ(女子)に刃物を向けるもんじゃね」
命知らずの男達が太刀をかざして二人の間に割って入ろうとした。美童丸は黙って刃先を動かした。
銀色の筋光が弧を描いたかと思うと、男一人の手指が裂けていた。股のところで親指がぶらりと下がって刀が落ちた。
「あっ、あっ」
男は叫んだ。間をおいて血が噴き出す。美童丸は歩み寄り、男の腕を斬り付けた。もう一人の男が逃げ出した。すると、美童丸は身軽に駆け出し、背中から袈裟懸けに一刀を叩き付ける。身動き出来ないようにしてから、美童丸は男達の体を切り苛みはじめた。
阿鼻叫喚が夜の森に谺する。小鶴は耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
ようやく静まった時、小鶴はそっと木の蔭から這い出した。視界の端に無残な屍が入った。血溜まりの中に千切れた虫の脚のように肉片が浮いている。
「人を斬るのはやはり白昼がよいな。こうも暗くては血の華が咲くのが見えぬ」
美童丸は冷然と言った。
「いかに無礼不細工な輩だとも、血潮の色は同じだ。美しく等しく花開く。知ろうが知るまいが、おれは赤い彩を見たいが為に白衣を着るのだ」
何食わぬ顔で美童丸が小鶴の前に立ちはだかる。白い衣の前はすっかり鮮血に染まり、幽鬼のようである。中腰になっている小鶴の顎を捉え、細腕にしては意外な膂力で木の幹に押し付けた。
「お前にはまだ兄者の居場所を聞いてないよ」
「ゆ、ゆるして」
「兄者を誘いやがって、この遊女が」
美童丸は笑いながら血腥い刀の先を小鶴の頬に擦り付けた。嘔気を催す悪臭が小鶴の頭を麻痺させる。
「だけどお前は簡単に殺さないよ。お前は何が欲しいのさ。銭か男か」
美童丸の吐息が小鶴の鼻に掛かった。甘く妖しい花のような香がした。
「女子は悪鬼のような生き物だよ。だから退治てやるのさ。お前も母上も同じだ。お前の狙いは何なのさ。大伯父がくたばれば御家でも乗っ取るかい」
「その通り」
小鶴の震えが止まった。
「しょうもない足軽の嫁からようようここまで来られたのよ。もう戻りとうはないわ」
「へえ」
美童丸は夜鷹のようにキョキョと声を上げた。
「大伯父を殺すのか。殺したいのか。それで兄者を籠絡しようとしたな」
小鶴は否定しなかった。
「だけどねえ。お前は間違っている。兄者は大男のくせに臆病だ。こないだも己から城を出るなどと言っておいてさ」
美童丸は刀を下した。
「それが証拠に、さっきもお前を置いて逃げたじゃあないのさ。まぐわってるところを見られると縮み上がるだなんて、胆が小さいじゃないかい。到底、城主の器などじゃあない」
小鶴は黙って聞いていたが、やがて美童丸の血走った眼を見上げると、やにわに赤い唇に吸い付いた。
咄嗟のことで、美童丸は飛び退こうとした。だが、小鶴は美童丸の袖を掴んで離さなかった。
「おれは女は嫌いだよ」
「ならば男と思えばいいではありませぬか。あなたの兄者とお思いなされば」
美童丸は狼狽した。百鬼丸のことを言われ、覚えず頭に血が上った。
「貴方様は兄上を好いておるのでしょう。妾に嫉妬しておられる」
小鶴は含み笑いをする。美童丸は踵を踏み躙った。草の匂いが強まる。
「お前死にたいのか」
「どうせ貴方様に殺されるのならば、一度なりとも女子をお試しなさって。それからお斬りあそばせ」
小鶴は胸を開いた。見事な胸乳の盛り上がりに、美童丸の手を誘う。
「妾も中途で逃げ出されて持て余しておったのです」
小鶴の顔に淫蕩な笑みが浮かんだ。
(五)
数カ月ぶりに義光が鷹狩に出た。体調が良いのと公務がない身軽さからである。鷹狩の晩は必ず陣屋に宿泊して帰るというので、百鬼丸もこの時ばかりは羽を伸ばせた。
「だが、なぜ大伯父はいつもおれではなく美童丸を連れて行くのだろう」
百鬼丸はふと疑問を抱いた。弓馬のほうは百鬼丸のほうが得手であるというのに、だ。
「それは夜になればおわかりですよ」
小鶴は百鬼丸の腕の中で身を屈めた。
「忠九郎様はお駒様をご存知ですか」
小鶴はふと顔を上げた。
「駒姫様のことか」
百鬼丸自身、直接はその事件を知らない。
駒姫は義光の次女で、かつては「東国一の美女」と呼ばれ家中に慈しまれて育った。その美貌と教養の高さから豊臣家の再三の申し入れあって、当時の関白秀次の側室にと迎え入れられた。
義光が目に入れても痛くない愛娘。渋りに渋ってようやく差し出したその駒姫が、秀次切腹事件に連座して処刑されたのは、輿入れの為に京に到着して間もなくのことだった。
生母の大崎夫人は悲嘆激しく後を追って逝去、自身も秀次との関与を疑われた義光の憤激は苛烈にて誰にも宥めること容易でなかったという。
この経緯から義光は豊臣家には大いに不信と憎悪を抱いた。徳川に近付いたのもむべなるかな。
「駒姫様を手放しなさるのが惜しくて、お館様はよく似た別の娘を用意しようとなさったそうですよ」
「替え玉など通じると思うてか」
「それが真砂の方だったそうです」
なんと。百鬼丸は小鶴の顔を凝視した。小鶴は笑んでいるような悲しんでいるような、奇妙な表情を湛えていた。
果せるかな、駒姫本人ほどの教養があるか否かを疑われては元も子もない、と計略は頓挫した。長瀞光良が行き場を失った真砂の方を引き取って側室としたという。
寝物語に小鶴が義光当人にでも聞いた話だろうか。
「さようで、か」
義光は真砂の方の存命中は兄弟に冷たい態度を取っていた。されば、駒姫の身代りになって死んでくれたかもしれない女が生きている姿を見るのは不愉快だったのだろう。
「知ったこっちゃあない」
というのが百鬼丸の本音だ。義光自身も随分な仕打ちを数多の人間に行っているではないか。己のみが逃れようなどと望むのは理屈が通らない。
だが、東国の昏い冬雲が年々義光の心の虫蝕を大きくしているように百鬼丸には思えた。
夜半になり、少々遠いが百鬼丸は単騎早駆けして、左沢の陣屋へ向かった。陣屋の警備は固くない。
そっと邸内に忍び込んで、義光の寝所と思しき離れの裏へ隠れ潜んだ。
女の喘ぎ声が微かに聞こえる。六十五にもなって精力衰えないものだ、と百鬼丸は呆れた。だが、その女のものと思われる声に時折低く押し殺したような呻きが入る。最初は義光の声かと思ったが、もっと若いだろう。
百鬼丸の掌にじっとりと汗が滲んだ。
半刻ほど経って、襖が開き、白い着物の男が出て来た。男は裸足のまま庭へ下り、夜風の凍える中を歩いた。美童丸であった。
百鬼丸が潜んでいることに気付かず、美童丸は椿の木の前まで歩くと、まだ開き切らない紅い蕾をうっとりと撫でた。
紛れもなく、あの嬌声は美童丸のものだった。老いた義光を相手に女子のような声を上げていたのだ。そう思うと百鬼丸の腹はかっと熱くなった。
美童丸は椿の枝を手折ると、気付かぬまままた館の中へと戻って行った。
百鬼丸は城に戻ると、小鶴を寄せ付けず一人で寝所へ入った。転々としながらぼんやりと寝入りかけた頃、そっと寝所の襖が開いた。百鬼丸は横たえていた体を起こし、枕元の刀に手を掛けた。
「おれだよ、兄者」
美童丸の柔和な顔が間近にあった。美童丸は百鬼丸の手をおさえ、覆い被さる様にして膝を折った。
「嫌がらないでよ。昔はあんなに毎日一緒に寝ていたじゃないかよ」
美童丸は頬を摺り寄せるようにして、百鬼丸の胸に圧し掛かった。長く優美な手指が百鬼丸の胸元を這う。
「兄者と離れたくないんだよ。老人の相手なんざもううんざりだ」
百鬼丸は帯を解かれた。もどかしそうに美童丸は自らの寝間着を脱いだ。肩幅こそ広いが、痩せ肉の華奢な体は百鬼丸の腕の中にすっぽりと納まる。
「あの爺ィ気持ち悪くて。時折おれの顔を見て、お駒、お駒と泣くのさ」
「お駒」
百鬼丸は鸚鵡返しに呟いた。
確かに気味が悪い。美童丸を見て亡娘の名を呼ぶとは。身内を裏切り裏切られながらも、その身内に固執する部分が義光には大いにある。伊達家に嫁した実妹の義姫に対しても、まるで思い人にでも寄越すような文を送っていたと聞く。
「哀れな」
百鬼丸は己の身体の変化に驚いた。すでに股間の一物は痛いまでに骨気していた。美童丸の首を掻い寄せ、唇を吸う。甘い香がした。美童丸は抱き返して顔を百鬼丸の胸元へ寄せた。
「獣と血の臭いがする。兄者のにおい。おれは大好きだよ」
百鬼丸の分厚い胸板に舌を這わせながら、美童丸は巧みに下帯を解き、兄の陽物を扱きはじめた。戦慄するほどの快楽が百鬼丸を揮い立たせた。
まるきり女子と同じ、否それ以上に巧者ではないか。大伯父はいったいいつから美童丸に斯様な奉仕をさせていたのだ。そう思うと百鬼丸は業腹だった。百鬼丸は己の陽物を舐め始めた美童丸の髪を掴んだ。無理矢理に喉の奥まで押込み、上下させ口で扱かせる。
「やめてよ兄者。えずきそうだよ」
口を離した美童丸が言う。百鬼丸は我慢がならず、美童丸の肢体をひっくり返すと尻を抱えた。
「兄者」
擦れ声の美童丸の哀願も虚しい。貫いて、百鬼丸はおお、と声を漏らした。抽送を何度か繰り返したが「いいよ、いいよ」と笑い声に似た美童丸の喘ぎを引き出し切らぬうちに百鬼丸は果ててしまった。
翌朝起き出してみると、美童丸の姿はなかった。だが、股間は気持ち悪く湿っていた。
午過ぎになって義光と美童丸が城に戻ったと聞き、慌てて飛び出してみるとはたしてその通りだった。
美童丸は椿の小枝を携え、義光の後から上機嫌で歩いて来た。百鬼丸は狐に抓まれた心地がした。
(六)
その日を境に、百鬼丸の義光に対する嫌悪は募っていった。やはり城を出るしかない。今度こそ美童丸を連れ出さねばならぬ、と固く思った。それが老人に対する激しい嫉妬であるのか、仕事を与えられぬ不満なのか、いずれともつかないが。
数日経って、義光は書院に百鬼丸を呼んだ。一人で呼ばれるということなど数えるほどもなかったのに、と訝りながら応じる。
「何用に御座りますか、伯父上」
義光は外孫達には伯父と呼ばせている。まさに二毛と呼べるほど白いものが目立つ髪、目の下は弛み、小豆のようなしみが出来てかつての精悍な風貌は衰えた。それでも義光の目には、飛ぶ鳥をも射抜く鋭さが残っていた。百鬼丸の顔立ちには、どこかこの大伯父の片鱗が見受けられた。
「小鶴が密通しておる」
唐突に義光の口から出て来た言葉は、百鬼丸の心臓を鷲掴みにした。いくら側女とはいえ、女色の相手をする意味も含めて小鶴は義光の所属といえる。その女と通じてしまった己の短慮は、いまさら悔いても仕方ない。
だが、どう切り抜けるか。切り抜けようもないのか。
「密通とは。お館様のお目を盗んで、よほど豪胆な奴輩ですな」
「いかにも」
義光はゆっくりを顎を引く。
「何者かもわかっておる」
百鬼丸の掌に脂汗が滲んだ。心臓が早鐘を打つ。義光の目をまともに見られない。もし己が名を出されれば、場合によっては義光を斬るか出奔せねばならないだろう。今度ばかりは謹慎では済まされまい。
だが、義光の二の句は百鬼丸を瞠目させた。
「美童丸じゃ」
「は」
「あやつ。わしが夜回りを命じたのを良いことに、小鶴を誘い出し、やりおった。太々しい童よ」
まさか美童丸が、と百鬼丸は驚愕するのと同時に血の気がみるみる引いていくのを感じた。小鶴はともかく、美童丸こそ義光の愛玩物ではなかったのか。陣屋で女子と紛うほどの嬌声を上げているくせに。
百鬼丸は混乱する心を抑えながら、
「そのことは美童丸が申し上げたのですか」
「いや。近頃小鶴がわしの寝間を避けておるのでな。問い質したまでだ」
かりに義光の言うよう、美童丸にとって女色が本懐とは思えない。それは小鶴のほうから誘ったものに違いない。こうなることを見越して、小鶴は美童丸を罠にかけ、追い出そうとしているのではなかろうか。百鬼丸は思い至った。
「あやつを斬れ」
義光はまるで鷹を放つ時のような軽やかな声色で言った。百鬼丸は動揺を隠せない。
「先立っても、家伝の鬼切を盗み出そうとしおった。出来心と思うて謹慎に処したが、あたらわしの側女にまで手を出すとは」
義光は立ち上がった。
「このままでは所領まで欲しがらんとも限らぬ」
すでに家督は次男に譲ることとなっているが、分封という形で所領を拡大していた最上家には庶子および隠居する義光の領地も残されている。
「飯を食うより血を見るのが好きというおかしな童。あやつを飼う理由は、二つとないあの武才のみぞ。それをこうと心得違いしては困る」
飼い犬に手を噛まれるとはこのことか、と義光は呟いた。
否それは大伯父の私怨であって、美童丸には物への欲など微塵もないのだろうが、と百鬼丸は思った。だが、頭の固くなった老人に忠告しても無駄だろう。
「御意にござる」
百鬼丸はそうとだけ答えて退出した。
(七)
翌日、雨上がりの朝に百鬼丸と美童丸は連れ立って野駆けに出た。蔵王が見えた。越えれば伊達家の所領になる。近日、賊の侵入もない。霜の上った赤い山々の間に二人は馬を止めた。指笛を鳴らすと、森の中から獣の声が応じた。野猿であろう。
「兄者」
美童丸は馬を降りて言った。
「どうじゃ一本」
馬を一頻り撫で擦ったあと、刀を抜き白い歯を見せる。
「木刀ではないのか」
すると美童丸は弾かれたように笑った。百鬼丸の胸先まで近付いて、舐め上げるように見る。百鬼丸はいつかの艶夢を思い起こした。
「しらばっくれるんじゃないよ、兄者」
退いて、鍔無しの刀を美童丸がかざす。百鬼丸の顎に切先が触れるか触れないかで止まった。
「おれを殺す為に野駆けに誘ったんだろう。お見通しさ」
くくく、と美童丸は喉を鳴らした。
「何を出たらめな」
「知っているよ。小鶴が爺さんに告げ口したんだろう。女ってのは本当に業深いさね。それで大伯父はおかんむり。おれを殺せと言ったんだろう」
まるで義光との遣り取りを聞き耳立てていたかのように言う。美童丸は刀を下した。一歩詰め寄る。
「兄者はおれを殺すかい」
美童丸は刀を捨てた。細長い指で百鬼丸の襟元を撫でた。太くがっしりとした頸を、十指が這い回り、胸元までまさぐる。
「おれを斬れるのかい」
百鬼丸は黙した。頭の中は白い靄が掛かっているかのようだ。美童丸は頬を百鬼丸の顎の下に寄せた。無精髭が当たる。
「おれは受太刀したことないよ。兄者の腕でおれを斬れるのかい。返り討ちにされたって文句は言えないよ」
赤い唇が囁く。絶大な自信に満ちている。
「やってみねばわかるまい」
「ふふふ。無理はご禁物」
美童丸は嘯いた。
「兄者にはおれを斬る気はない」
美童丸の身体が離れた。
「人を斬る殺気が感じられないよ」
百鬼丸は否定しなかった。殺気どころか、この場で美童丸を押し倒して凌辱したい衝動が突き上げる。ただ一つの理性のみが百鬼丸の腹に座っているだけだ。
「殺してやる」
美童丸は不意に曇天を振り仰いだ。
「爺を殺してやるさ」
「お前正気か」
「兄者も大伯父が邪魔だと思わぬか」
そう言われて、百鬼丸は返す言葉に窮した。確かにこのところ義光には憤懣を覚えている。美童丸のことも含めて。
「叔父兄弟にも喜ばれてしかり。何の躊躇が要るものか。伊達家を喜ばすのは詰まらんがな。おれは鬼切さえ手に入ればいいんだよ」
美童丸はうっとりした目付きで百鬼丸を見た。百鬼丸は上気した弟の白い面を食い入るように見詰めた。修羅だ。だが、いかんともし難い力に引き寄せられるようにして、百鬼丸は弟の身体を抱き竦めた。美童丸は童女のようにくすくすと震え、身体をくねらせた。
いやいやをしながら、百鬼丸の顔を押し退けるが、自分から袴を脱ぎ下草の上に百鬼丸を押し遣った。
百鬼丸と美童丸はまろびつつお互いの身体を抑え込もうとした。
白い袷の胸元がはだけ、赤く火照った美童丸の肌が露わになる。百鬼丸はその乳首を弄うように吸った。すると、美童丸は上体をのけぞらせ、兄の横面を張った。
「何をする」
「兄者はさようなことせんでいい。おれが兄者をよろこばせてやるよ」
美童丸は立ち上がり、百鬼丸の頬を叩いた。
既に骨気している百鬼丸の股間を裸足で踏み躙る。痛みと快楽の境目で、百鬼丸は呻いた。美童丸は自らの帯を解くと、百鬼丸の手首を合わせ縛り上げた。帯の端を木の股に括り付け、百鬼丸の小袖を剥いだ。
美童丸の目が三日月のようになった。
鍔無しの刀を拾い上げ、刃文を見詰めつつ百鬼丸に近付く。切先を百鬼丸の鼻先に向けたところで、美童丸は動きを止めた。
「やっぱり止した。大伯父を殺ってからにしようよ」
そのほうが興が乗る、と美童丸は言った。この人殺しならさもありなん、と百鬼丸は眩暈がする思いながらどうしようもなく惹かれる己に愕然となった。
体は吹き晒され、冷え冷えとした。
その晩、百鬼丸は一度寝所に入ってからまた外へ出、庭をぐるりと大回りして義光の寝間へ入り込んだ。小姓をやっつけてから雨戸を叩き壊し、賊の侵入のように見せ掛けた。廊下側に美童丸が立っている。手招きされ、百鬼丸は寝具の膨らみの頭側に立った。
百鬼丸は義光の胸の上を目掛けて刀身を付き立てた。
「うぬ」
しかし、手応えはなかった。何やら柔らかいものを突き刺しただけである。
寝具をはがすと、丸められた着物が現れた。
「謀られた」
と叫んで百鬼丸は美女丸を振り返る。美童丸の微かに歪んだ唇の端が大きく割れた。
「愚かな兄者」
言うが早いかで襖の奥が開き、数名の兵が飛び出した。各々が手槍を持ち、示し合わせたように百鬼丸へ差し向ける。
「おのれ美童丸」
百鬼丸は唇を噛んだ。
「あははは。容易く騙されたものだねえ、兄者」
美童丸は槍の間に割って入った。
「でも騙されるほうが悪いのさ。考えてもごらんよ。おれに大伯父を殺す理由なんてあるわけがない。爺のご機嫌を取って尻を貸してりゃ、そのうち鬼切はおれのもの」
「おれを嵌めやがって」
百鬼丸の飛ばした唾が美女丸の頬に飛ぶ。美童丸は顔色一つ変えず、それを指で拭った。
「小鶴と寝たのは兄者ではないか。最上義光の側女を偸盗した上に殺害まで企てようなんて、太い奴だよ。そのうち駿府の大御所様からお褒めを頂くやも」
徳川からすれば、最上家が御家騒擾で勝手に潰れてくれれば儲けものだ、くらいに考えているだろう。ただし義光を欠いては、陸前や越後に睨みを利かせる者がいなくなる。つい最前も、越後高田では堀家が継嗣問題から騒動を起こし改易に遭っている。
「やよ、者共」
美童丸が指図すると、兵らは無言で百鬼丸を捕縛した。無念の表情で美女丸を睨みつつ、百鬼丸は連行されていった。
(八)
牢獄に入れられた百鬼丸は己の浅薄さを呪うしかなかった。義光は現れない。日に一度、粥が下人の手で運ばれてくるが、百鬼丸は一切口を付けなかった。
不気味なことに、拷訊は一切加えられていない。いままで百鬼丸が目にしてきた拷問の数々を思い浮かべるだに、いったいいかなる責苦が圧し掛かるのだろうと初日は身を固くしていたものだが、一向に音沙汰無いのである。
その分言い訳も用意してはならないということか。
このまま処刑されるのであろうか。ならば、いっそ早い方がいい。だが、こんなところで朽ちるつもりもない。いずれ牢を抜けてやるくらいの腹づもりで、下人の挙動を窺っていた。木造の牢獄は背面が天然の岩板を用いた半地下で、大力を使うごときで倒壊させることは出来ない。
食器を差し出す口は粗末な木椀を通すのがやっとというところだ。大小便の用を足す木桶が奥にある。幸いなのは気温が低いことで臭気はましだ。
思索に飽いて、寒さにも饐えた臭いにも慣れてうつらうつらしていると、百鬼丸は昔日の情景を思い返すようになった。
水の匂い。焦げた川魚の香気。
菜畑の上に連なる白い雲が綿のように美しいのは、短い春のみ。夏は怒りを孕みて月山から見下ろしてくる入道雲が好きではなかった。
長瀞城は最上川を天然の外濠とする三重堀の平城。急流最上川が比較的緩やかに蛇行し、合流する白水川の落合あたりを長瀞と呼んだ。淀みを知らない清水が絶えず郷邑を流れる。そのまま流れに乗れば何処へ行くのだろう、と百鬼丸は朧げに思ったことがある。
その白水川を引き込み、満々と水を湛えた二の堀。居館は二の丸にあった。
川は度々氾濫した。堤が破れたあと、上手から流されてきた山女魚や岩魚を獲るのが幼い兄弟の愉しみでもあった。
美童丸はそういえば、その頃から残酷な漁りをしていたような気がする。魚の目を刺して無邪気に喜んでいた。ただ、百鬼丸はそれ以上のことを感じる分別もなかった。
人を斬り血を見て恍惚を覚える魔物のごとき男。だが、武芸においては比類ない天賦の才を持つ。誰もが扱いかねるその美童丸が唯一懐いているからこそ、百鬼丸はともに生かされているのだろう。己がそれだけの存在だと思うと虚しさしかない。
いや、容色の衰えた果ては、美童丸とて義光の閨にも呼ばれなくなるだろう。それが憐れだ。
「だからどうだというのだ」
己を嵌めた美童丸を憎いと感じたものの、それ自体どうでもよくなっていた。美童丸は昔からああなのだから、騙される己が間抜けなのだ。それでもなお、いつもうまうまと口車に乗ってしまうのは、美童丸を信用したいからなのではない。
可愛い弟の他愛もない嘘や調略などものともしない己自身を信じてみたかったのだろう。おおよそ、他者から見れば気が狂っていると思われても。
繰り返し思い返すうちに、己はどうしたいのかも怪しくなってきた。朦朧としている。空腹が堪えた。
三日目の晩、百鬼丸は椀を持った男の手首を掴んだ。中の冷えた粥がひっくり返る。
「は、離して下さりませ」
「ならぬ。牢の鍵を寄越せ」
百鬼丸は掴んだ手に力を込めた。
「寄越さねば、握り潰して構わぬな」
あわや骨が軋み、下人の右手が砕けようとした刹那、女の声が百鬼丸を制した。
「おやめ下さい、忠九郎様」
小鶴であった。血の気の引いた瓜実顔で、下人と百鬼丸を見下ろしている。百鬼丸が手を緩めると、下人は溝鼠のように素早く逃げ去った。
小鶴は牢の前に膝を折ると、百鬼丸を無言で見詰めた。手燭をかざす。三日三晩何も食していない百鬼丸の頬は少し削げ、髭が顎から頬を覆いはじめていた。髷はほつれ、ただ白目だけがぎらぎらと光っている。
「食わねばお体にさわりましょう」
百鬼丸は首を振る。小鶴は眉間を寄せて牢に縋った。
「何故あの男を殺さなんだのです」
美童丸のことだろう。
「血を分けた同胞だ」
「お館様の命ではありませぬか」
小鶴の目尻が裂けんばかりに吊り上がった。
「そなたが大伯父に嗾けたのであろう」
「妾はあの男が好かぬのです。人をまるで虫けらのように嬲り殺して愉しんでおるような狂者です。妾の願いは聞き入れぬと申されるのですか」
小鶴の声は痛切だった。ある種、この女も義光の、この家の被害者といえよう。だが、牢に囚われては致し方ない。百鬼丸の消沈した面に小鶴は手を伸ばそうとしたが、椀の差入れ口以外は五指の入る隙がない。
「お待ち下さい。きっとここから出して差し上げます。あの男を仕留められるのは貴方様しかありません」
つと小鶴に覆い被さる影が差した。
「ふうん。どうやって兄者をここから出すつもり」
みるみる小鶴の白面が凍り付く。影から伸びた手が小鶴の後ろ髪をむずと掴んだ。女の身体が岩壁に叩き付けられる。
「お前も牢にぶち込まれたいのか売女め」
美童丸は小鶴の頬を摘み上げた。平手で何度も殴り付ける。小鶴がしたたかに後頭を岩にぶつけぐったりとなるのを、美童丸はあたかも蓑に掛かった粉雪でも払うかのように簡単に行った。
小鶴の整った貌が腫れ、鼻血が滴る様を美童丸は眺めた。
「この女はおれに色仕掛けを使い、それを爺さんに讒訴しやがったのさ。美童丸様に手籠めにされました、とね」
くくく、と美童丸は押し殺した声で笑う。小鶴の髪を掴んで引き摺り、牢の前に突き出す。
「大伯父が信じるわけもない。犯されたのはおれのほうだよ。おれは大伯父にしか身体を許していないのに。小鶴は淫蕩のあまりおれをものにしたかったのさ、と」
百鬼丸は昏い思いが腹部を満たしていくのを感じた。謀られたと覚った時、あれほど憎いと思った美童丸に、いま哀れを感じている。
「それに飽き足らず、この女は兄者と通じておると言うた。その時の爺さんの顔ときたら」
喧しい笑声が岩屋に反響した。笑いながら美童丸は小鶴の襟首を掴み鍔無しの刀を抜いた。束ねられた射干玉の黒髪をばっさりと断つ。小鶴は泣き叫んだが、お構いなしに美童丸はその背中から小袖を裂く。
「忠九郎様ッ」
柵に掛かった小鶴のほっそりとした手指が落ちた。百鬼丸の膝前に、芋虫のような指片が転がる。指から夥しい血を噴き出させる女の肩に、美童丸は刀をさくりと突き立てた。
「見ていてよ、兄者」
美童丸はそう言うと着物の前を割り、骨気していた一物を小鶴の尻に埋めた。悲鳴が上がる。
「ああ、いいじゃないのさ。その声。もっと泣き喚けよ」
美童丸は四つん這いになった小鶴の尻を激しく責め立てる。血と涙に塗れて前も見えない小鶴は獣のような喉声を発した。百鬼丸は柵を揺さぶった。びくともしない。
「さァ、もっと叫びなよ。おれに哀願する声を聞かせてくれよ」
美童丸はそう言いながら、小鶴の二の腕を裂いた。鮮血が流れる。犯されながら小鶴が忘我の中で快感を示す度、美童丸は容赦なく刃を突き立てた。
「ゆるして下さい。美童丸様、もう死にまする。死なせてください」
「お前のような薄汚いすべた、気持ちよがらせて死なせるものか。痴れ者が」
美童丸は言い放ち、小鶴を突き離すと、背中から一突きにした。
「つまらん。女子は面白うない」
血刀を抜くと、小鶴は突っ伏した。既に事切れていた。百鬼丸は格子に顔を押し付けて、言葉にならない声を張り上げた。獣の咆哮と紛うほどの。岩が震える。
美童丸は兄の無残な髭面を見て、僅かに小首を傾げた。
「これだから女子は嫌いだよ。脂も多いし研ぎ直さないと」
小鶴の首にとどめを刺すと、美童丸は裾で刀を拭いながら、去って行った。
(九)
明後日、百鬼丸は牢から出された。朝からどんよりと重々しい灰色雲が西の方から垂れ込めている。明らかな冬空が出羽の上を覆っていた。
砂洲の上に縛められたまま、百鬼丸は膝まづく。風の寒さすら感じない。心が凍てついているといってもよい。
義光を見る両眼にも薄い膜が張っているかのように見えた。
主殺しを企てようとした者がいかなる末路を辿るのか。それは百鬼丸自身にも、そして今百鬼丸を遠巻きに見守っている家臣たちにも判然とししていた。
かつて父である義守、次弟の義時と争い、長男・義康を葬った義光という男が、外孫とはいえその所業を赦すはずもない。小鶴は反逆者の脱走を手助けしようとしたとして、処分されたことになっている。
はるか館の北方に馬塁と思しき黒い樹木が連なって、警固の為に疾駆する馬の姿がちらついて見えた。
「斬首はいけないよ、伯父貴」
美童丸が椿の枝を弄びながら言った。義光は横目で美童丸を見た。
「木馬も石抱きも水責めも糞食らえも、兄者にはそんな不様はよして欲しいと望んだのはおれだよ」
美童丸は真顔で答える。
「おれは兄者を武士らしく死なせてやりたい」
「腹を切らせるというのか。本来ならば磔であろう」
いつもなら耳を貸さない義光が、何か思うところでもあったのらしい。美童丸はゆっくりと首を横に振る。
「勝負をしたい」
居合わせた一同が息を呑んだ。百鬼丸も刮目した。
「よかろう」
義光の許可が出た。美童丸は目を細めた。
「でも、この刀じゃあ駄目だ。鬼切を貸して頂けまいか」
「何を言うか」
義光はむっとなった。美童丸は艶麗な笑みで大伯父を見返す。
「兄者は縛められて衰えている。おれは慣れない刀を使う。これで条件は五分ではないか」
こういう時の美童丸の理屈には舌を巻く。
「百鬼丸を斬るのさ。鬼切でなくて他に何があるのさ」
そう言われては仕方なく、義光は家臣の一人を手招きした。
やがて「鬼切」が運ばれてくると、百鬼丸の呪縛が解かれた。
二人は対峙した。美童丸は相変らずの得も言われぬ微笑を留めたまま、義光と百鬼丸を交互に見た。
「行くよ、兄者」
微笑みが瞬時にして消えた。
抜き打ちで鬼切が唸った。足音も立てずに美童丸は百鬼丸の懐深くへ入った。だが、百鬼丸は迎え討たず避けた。すれ違いざまに振るった剣先が、美童丸の着流しの裾をかすめた。
食事もろくに摂取していない為に、百鬼丸の体力は誰の目にも減退している。踏み込みが甘かったようだ。
「あははは。やるじゃないよ、兄者」
素早く振り向いた美童丸の黒髪が風になびく。にやりと紅唇が引き結ばれると、再び美童丸は刀を下げた。構えというものを見せぬ。強いて言うなら、美童丸は居合を達者とする。
その実、百鬼丸は美童丸と刃を交えたことはほぼ、なかった。
美童丸が母・真砂の方を殺害した時。あの夜以来、百鬼丸ははじめて弟と真剣を交わす。受太刀を許さない剣がどういうものか、初めて知るのだ。
長い睨み合いに飽いて、美童丸が踏み込んだ。切先が百鬼丸の左腕を深く斬りこむ。遅れて血が流れ出す。
「斬られたことに気付かないね」
百鬼丸は流血する己の腕を見ず、美童丸の狂気を孕んだ双眸を見詰めた。面白くなさそうに美童丸は刀を振り、ややあって仕掛けた。
驚愕の表情で百鬼丸は後ろに飛んだ。一挙動の間に刀を振るい、空打ちを仕掛ける。咄嗟の空打ちに、美童丸はにやっと白い歯を見せた。すでに美童丸は攻撃の横正眼にあって、疾風のごとく打ち込みを加えた。
百鬼丸の左拳に放たれた。鮮血が砂上に迸る。喜悦の表情を湛えた美童丸が、避けて砂を踏む。あくまで静謐の中で、二人の剣技は繰り広げられた。観覧者は茫然としていた。ただ、息を呑む音だけが響いた。
拳を割られながら、百鬼丸は敏捷に斬り返した。
「言ったろ兄者。おれは受太刀しない」
美童丸は背中で躱し、軸足を変えて舞うように刀を繰り出した。
「頂き」
百鬼丸の刀が、切断された指とともに砂洲に落ちた。百鬼丸は素早く左手で拾い上げた。
「駄目じゃないの兄者。もっともっと、おれを愉しませてくれないと」
百鬼丸が走った。血が糸を引く。美童丸はわずかにたたらを踏んだ。その隙を突いて、百鬼丸の剣が美童丸の袂を切り裂いた。二の腕まで大きく裂けた生地の裂け目から白い肌膚が覗く。一筋の赤いものが滲んだ。
「うふふ。そうこなくちゃ」
美童丸は舌なめずりすると、恐るべき速さで百鬼丸の懐へ入った。胴払いを繰り出し、返す刀で背中を突く。百鬼丸の巨躯は顔から砂地にめり込んだ。
「どうよ兄者。苦しいかえ」
美童丸が覗き込む。仰向けになり、肘を付いて起き上がろうとした百鬼丸は四肢から力が抜け落ちていくのを覚った。鳩尾の下を割られた腹から、どくどくと血が溢れ出した。
「び、美童丸よ」
腸がはみ出そうとするのを押さえながら、百鬼丸はようやく声を発した。
「なぜおれを裏切った」
「裏切りとは」
美童丸は顔を近付けた。微かな声は、やがて周囲にもそれとわかるほどの笑声になった。
「笑わせるなよ百鬼丸。あんたはそう。おれのいちばん大事なものを奪った最初で最後の男なんだよ。あんたこそ盗人だ」
美童丸は屈み込んだ。割れた裾から細く長い脛が剥き出しになる。
「おれは見ていたよ、兄者」
犬のようにぐるぐると中腰で百鬼丸の周囲を回り、頭の後ろに立つと、手水鉢でも覗き込むかのように青褪めた髭面を見下ろす。
「松根城で母上の寝所に忍び込む兄者の姿を見たよ」
一同は微動だにしなかった。寒空の下、しわぶき一つない。ただ一人、義光のみが重く目を瞬いた。
百鬼丸は美童丸を見上げた。そのほっそりとした面長の美貌が真砂の方に瓜二つに思えた。
十五になるやならぬ頃、雷の夜、百鬼丸をそっと臥所に引き入れた継母の顔を思い出させた。吸い付くような白い肌、小高い胸乳、長い優美な手足が、少年百鬼丸の身体に纏わり付いた。悪いこととは知りつつも、その甘美さを忘れられず、一度ならず抱かれた。
その行為は継母のやさしさからなのだ、と百鬼丸は思い込むことにしていた。
「ねえ、思い出したろう」
美童丸はそう言うと、鬼切の柄を逆手に握り替え、おもむろに百鬼丸の股間に突き立てた。百鬼丸は声音にならない呻きを上げた。
「化生でも見るような目付きをしやがって。さんざかおれに汚れ仕事をさせてきた己らが。化生のほうがましだ。きれいなべべ着て、どいつもこいつも腸腐れた外道めが。このおれもだがね」
美童丸は周りを見回し高らかに言う。瞬時、義光と目が合った。
出羽合戦を機にさらに確執を募らせていった家臣団。江戸と大坂の間に跳梁し、御家の中で権力を争う者たち。その板挟みで嫡男を失った義光。父子離反を唆した重臣・里見一族ら。美童丸にとっては皆が皆魑魅魍魎にしか見えぬ。
美童丸は刀を兄の股間から抜いた。血飛沫が白砂を這う。
「おれは母上を奪った兄者がいっとう憎かったのさ」
この化け物を生み出したのが己自身だったのかと、百鬼丸は薄れゆく意識の中で覚った。憐れな己を笑えもしないが、笑うしかない。
美童丸は鬼切を覆う兄の血を拭い、その指を舐めた。
「さ、そろそろ死ぬかい」
百鬼丸は渾身の力を振り絞った。左手で砂上の刀を探った。鬼切が無情にそれを阻む。切断された百鬼丸の手首が、数間飛んだ。
「美童丸」
百鬼丸はひと声叫んだ。かっと目を見開いて果てた。鬼切がその喉笛を貫いていた。
「どうでおれらは戦もなくなりゃ用済みさ。兄者はお先に逝ってな」
美童丸は微笑み、片膝ついた姿勢から立ち上がる。白い衣は朱に染まっていた。
美童丸の黒瞳が義光を見据えた。鬼切は血を滴らせながら、美童丸の手の中にある。義光は我知らず震える両の親指を握り隠した。
誰もが怖気をふるいつつ、美童丸から目を逸らせなかった。
槍を構えた兵は恐らく、義光の指呼一つで闘いの勝者を討つ為に控えていたのだろう。その誰もが身じろぎすら出来ずにいた。
「鬼退治は終わったよ。伯父上」
美童丸は義光に背を向けた。手の甲で化粧を拭い、鬼切を投げ捨てた。
憑き物が落ちたかのような男の真顔に様変わりした美童丸を、義光は呼び留めようとした。
「やっぱりその刀要らない。使い難いよ」
美童丸は振り向きざまに嗤笑を送った。
叶わず、義光は茫漠と目を見開いたまま、歩み去る美童丸の背を見詰めているだけだった。砂上に残された百鬼丸の屍から切り離された腕は、まるで伝説の酒呑童子の腕のように毛むくじゃらだった。
遠く馬塁の彼方まで男の高らかな笑い声が聞こえた。だが、笑う男の双眼から止め処なく涙が迸っているのを見た者はいない。
その晩、出羽の山々に初雪が降った。
ほどなくして、義光は病がちになる。五年後の大坂の陣で鍔無しの太刀を携えた無双の剣士を見たという者がいたが、その後の消息は知れない。
(了)
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【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
焔と華 ―信長と帰蝶の恋―
幸
歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。
政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。
冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。
戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。
※全編チャットGPTにて生成しています
加筆修正しています
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
山本五十六の逆襲
ypaaaaaaa
歴史・時代
ミッドウェー海戦において飛龍を除く3隻の空母を一挙に失った日本海軍であったが、当の連合艦隊司令長官である山本五十六の闘志は消えることは無かった。山本は新たに、連合艦隊の参謀長に大西瀧次郎、そして第一航空艦隊司令長官に山口多聞を任命しアメリカ軍に対して”逆襲”を実行していく…
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