どうやら悪の令息に転生したようだ

日村透

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家計にやさしい攻略潰し

70. 甘い毒が抜け落ちて -sideヨハン

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 その子はランハートの婚約者だった。そのはずだった。
 なのに、あの姿はなんだろうか。
 ヴェルク公爵家の息子と聞いていたのに、あんなにもやせて。似合わないだぶだぶの服を着て、道化みたいな化粧をされている。
 好きでそんな格好をしているはずがなかった。その子の付き人は、主人の息子が酷い姿をしているというのに、何ら気にする様子がない。
 彼女らがやったのだ。その子供を辱めるために。
 どうして。何故、こんな小さな子にそんなことを。

 僕が、僕というものを本当の意味で考え始めたのは、その時からだったように思う。



   ■  ■  ■ 



 僕の周りには大勢の優しい女性がいた。母ヒルダを筆頭に、女性はみな僕に優しい言葉をかけ、褒めてくれるものだと信じていた。
 父のことは苦手だった。いつも厳しく、苦手なことばかりやらせようとする。
 でも母上が庇ってくれたら、父上は引き下がった。そうか、父上よりも母上のほうが偉いのだ。だから僕はいつも母上と一緒にいた。
 僕は気ままに絵を描き、気ままに音楽を楽しむのが好きだ。母上も侍女もメイド達も、皆それでよいと言ってくれる。ヨハン様は素敵な方です、感受性が豊かなお方です、きっと将来とても麗しい殿方におなりです……。

 イゾルデのことは最初から苦手だった。はっとするほど美しい顔立ちの少女だったけれど、ちっとも愛想がなくてお人形よりも無機質だ。
 それだけじゃなく、言葉はきついし、性格もきついし、僕を褒めずに注意しかしない。まるで父上みたいに厳しいその子が、僕の婚約者だなんて。

「お可哀想に、ヨハン様」
「旦那様もあんまりですわ。いくら側近のご令嬢だからと、あのような方をヨハン様の奥方になんて」

 そうだよ。なんて不幸なんだ。僕は本気でそう思っていた。
 結婚は家同士の約束ごとだから、勝手に破棄はできない。しかも父上は、僕と彼女が結婚してからお亡くなりになった。
 当主になった途端に離縁するなんて、いくらなんでも外聞が悪過ぎる。
 結婚生活は息苦しかった。公爵は僕だというのに、まるで彼女が主人であるかのようにふるまう。おまけに僕はこの家を継いだ者の義務として、子をなさなければならない。

 最初に産まれたのは娘だった。僕は母上とお茶をしながら、その報告を聞いた。

「娘ですって? はぁ……がっかりだわ」

 母上が目の前で落胆し、赤い唇に嘲笑が浮かぶのを見た。
 僕も胸の内側にザラリと不快感を覚え、頷いていた。
 娘か。……イゾルデの娘だ、きっと彼女そっくりになる。嫌だな。またあのイゾルデと次の子を作らなければいけないなんて。
 僕のことを何とも思っていない氷の魔女。僕にも母上にも敬意を払わず、公爵夫人の立場を利用し、好きにしている。
 どうして僕は、こんな息苦しい日々を送らねばならないんだろうか。

 彼女がアデリナと名付けた娘は、やはり彼女の分身だった。年々イゾルデそっくりになり、僕はその子の顔をあまり見たくなかった。
 自分の子と言われても、なんだか信じられない。イゾルデが頻繁に『あなたの子です。少しは祝ってあげなさい』と言ってくるのも鬱陶うっとうしかった。
 どうして僕を放っておいてくれないんだ。娘の教育は母親の仕事だろう。母上だってそう仰っている。

 ――待望の息子が生まれて一年か二年が経った頃、母上が亡くなった。
 領都で建設中の建物が崩落し、たまたま近くを通りかかった母上と侍女達が巻き込まれたのだ。
 僕は絶望しそうになった。もう僕の味方はいないのか。

「ヨハン様、わたくしどもがおります」
「お可哀想なヨハン様。わたくし達がお守りいたします」

 そうだ。僕にはまだ味方がいた。
 いつだって優しく、あたたかな言葉をかけてくれる、僕の味方。
 そう信じていた。



「おまえのせいで、おまえのせいで、おまえのせいでわたくしのヨハン様が、わたくしの……!」

 あの女は、誰だろう。
 髪を振り乱し、この家の跡継ぎ息子のベッドを、短剣で何度も突き刺す女。
 イゾルデを『心まで凍り付いた恐ろしい魔女』と言っていた女。

「あ……よ、ヨハン様……違うのです。これは、違うのです……」

 僕が見ていたと知ったその女は、眉尻を下げ、笑みを浮かべて言い訳をしようとした。
 背筋に悪寒が走り、僕は後退った。

「話しかけないでくれ。……魔女」
「なっ!? ――ち、違うのですヨハン様! わたくしはっ!」

 ……これは彼女の本性を暴くための、ランハートの仕掛けた罠だったらしい。
 ランハートは僕の周りのメイドを、イゾルデ達と一緒にどんどん解雇していった。
 彼女らは皆、僕に縋った。けれど僕には彼女らの顔が、どれもカーラという魔女の顔にしか見えなかった。



 ……自分はなんて不幸なのだろうと、その時もまた僕は思っていた。
 何よりも、あんな子供なのに、大人を陥れる罠を平気で仕掛けられるランハートが恐ろしかった。
 アデリナ以上にイゾルデそっくりな子供。僕の息子であることは知っているけれど、その実感が湧かない。
 新たな僕付きの使用人は誰一人僕を褒めず、優しくしてくれる者はもう誰もいなくなってしまった。
 本を読み、絵を描き、音楽隊を呼んで奏でさせ、時に僕も何かを奏でる。
 ずっとそんな日々。いったい僕は、何のためにここにいるのだろう。
 何か、心が晴れるような楽しみはないのだろうか。

 そして、あの子が訪れた。
 ランハートが自分で決めた婚約者。僕と違い、自由に婚約者を決められるなんてうらやましいと思った。
 僕はフェーミナについて知識だけはあった。第二夫人になることがほとんどなのに、公爵家の正妻として迎えられるのだから、きっとその子はヴェルク家で大切に育てられてきた幸せな子であるに違いない。
 そんな思い込みにヒビを入れたのは、怯えて泣きじゃくっている子供と、その子の付き人がまるで案じる様子のない、おぞましい光景そのものだった。

 ヴェルク家の令息リシェルを救ったのはランハートだった。ほかの四公の子供に興味を持ったランハートが、イゾルデからヴェルク公爵家について話を聞き、その子の危機を感じ取ったのだそうだ。
 救う手段として婚約を思い付き、実行したのだと執事が話してくれた。

「救うため? ……愛のない形だけの婚姻など、むなしいだけだろう?」
「坊ちゃまは誓約に、ほかの妻は迎えられぬこと、離縁もせぬことを盛り込まれました。ご婚約を選択された時点で、お相手様と愛情を育むことをお決めになったのではないかと」

 あの子達は、あの日まで会ったことなどない。初対面だと聞いていた。なのにどうしてそんなことができるんだ?
 姿だって、普通の子なら眉をひそめて逃げ出したくなる相手ではないか。厚く化粧を塗りたくられ、やせた身体に全然合わない服を……。
 ……。

 ……ランハートは。
 もっと、やせていた。

 骨と皮膚だけだった。
 僕は最初、その子が誰なのかわからなかった。
 いや、髪と瞳の色でわかってはいたんだ。けれど、あまりにも……。
 なのにその直後の出来事で、僕の頭はパニックになっていたのだろう。
 カーラを断罪するあの子の前で、僕は言った。


『ランハートは子供なのだし、物の道理もよくわからないだろうから、本当のことを言っているのかどうかわからないじゃないか』


 口もとを手で押さえ、訝しげな顔をする執事を下がらせた。しばらく一人にして欲しいと伝えて。

「……なんてことを」

 手も声も震えていた。
 なんてことを。なんてことを。
 立っているだけで死にそうだったランハート。僕があの子を救わなかったから、生き延びるために知恵を尽くすしかなかった子供に、僕は何を言ってしまったんだ。
 イゾルデにランハートを見舞えと言われ、生返事をするばかりで。
 僕はあの時まで、自分の息子があんな状態になっていたことを、まるで知らなかったんだ。
 何故、それを忘れていられたんだろう。

『この家で最も贅沢に過ごし、最も自由で、最も勝手にしているのはお父様なのです。今後もどうぞ、お好きになさるがいいでしょう。ただしお母様やノイマン達の邪魔は一切しないでください』

 あの子供の瞳は、父親を見るそれではなかった。

 僕は逃げた。いつも通りの日々を過ごした。
 僕は、僕が悪いのだと気付きたくなかった。認めたくなかった。
 けれど無為に月日が経ち、むなしさが現実を突きつけてくる。
 僕は被害者ではなかった。跡継ぎ息子ではないからと関心を持たず、勝手な苦手意識を持って避け続けたアデリナの父親でもなかった。
 どうして今になって、イゾルデやノイマン達に言い聞かされてきた数々の言葉が、こうも実感を伴うようになったのか。
 それを考えるようになって、ふと浮かんだのは母上の顔だった。
 それから、僕を褒めそやす何人もの女達。
 次々に浮かぶ顔がすべて、髪を振り乱し短剣を握りしめた魔女の顔に変わった。

 ……僕は、どうすればいいんだろう。

 僕はあの子らにとって父親ではなく、イゾルデにとって夫ではなく、きっと誰にとっても当主ですらない。



   ■  ■  ■ 



 十歳になったランハートが、リシェルとともにファーデンへ向かった。
 まさかそれが、十五年前の父上の手紙に繋がることになるなんて。
 イゾルデが素早く対応し、僕は何をすることもなく、ただ息子の帰りを――この家を継ぐことを誰もが切望している少年の帰りを待つことになった。
 あちらでの用事を済ませ、やっと戻ったランハートの一行を、僕はかつてない緊張とともに迎えた。
 出迎えの中に、何故僕の姿があるのか不可解だったのだろう。あの子は訝しそうにして……僕と同じ色の瞳はどこまでも冷ややかに、無感動に僕を見上げた。


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