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家計にやさしい攻略潰し
74. 悪い魔法が解ける時
しおりを挟む傷んだものでも食べたのか、転んで頭でも打ったのか。
あるいはお祖父様の手紙を読めなかったこと、それを妨害して悪びれないヒルダ、俺の手紙の内容、そういったすべてが初めてこいつの中でリンクし、今さらやっと現実が見えるようになってきたのか。
その変化に、俺が感じるのは怒りすらも通り越した、果てしない虚しさだけだった。
むしろ、何も変わらなければ面倒がなかった。
真実を悟っても相変わらず自分本位なクズのままであれば、処理が楽だったのに。
なんで中途半端に善良っぽくなっているんだ。こういうのが一番嫌なんだよ。
「それで? 先ほどから僕ばかり喋っていますが、あなたから何か言いたいことはないんですか?」
さっさとこの部屋を出たい。誰にも監視されていないし、鍵もかけられていないのだから、ちゃんと話したフリで出られなくもないんだろうが。
母上様にはそういう手抜き、確実にバレるからな。
「……今まで、すまな」
「黙れ」
カップをソーサーへ叩きつけるように置いてしまった。
ああ、この音と手応え、割れたな。ごめんなさい母上様、職人さん、清掃係さん。ちょっと我慢できなかったんです。
中身を飲み干していたのだけが幸いだった。
「まさか謝るつもりでした? やめてくださいよ。――……その程度で片付けられることだと思ってんのか。あんたがお母様にやってきたこと。お姉様にやってきたこと。俺にしてきたこと。ゴメンナサイの一言で片付くことだと思われちゃ、たまったもんじゃないんだよ」
「ら、ランハート?」
「跡継ぎのくせに役立たず、おまえは無価値だ、不要な子だと言われ続けて。お腹がすいても何も食べさせてもらえず、夜になったら熱を出す。熱い、苦しい、全身が痛い、頭が痛い、身体が動かない、言葉が出なくて助けを呼ぶこともできない。誰もいない。誰も来ない。だから俺は――」
死ぬしかなかった。死ぬしかなかったんだ。
自分に何が起きているのかも理解できない子供のまま、五回も。
「――生きるために、殺すしかなかった。俺を殺そうとした者、生かしておけば殺しに来るであろう者を」
あ、涙腺が壊れた。くっそ、目からぼたぼた落ちてきやがる。
チッ、ガキの身体って面倒だな。感情の制御がすぐに破綻して、格好がつかねぇ。泣き落としの時は便利なんだがな。
「……ランハート」
うるせぇ、今話しかけんな。てめぇはそこで地蔵にでもなってろ。
手巾を取り出して顔をぬぐった。ヨハンが今どんな表情をしているのか見たくない。驚いているのか、憐れんでいるのか、どんな気持ちがそこに表れていようと、俺は苛立ちしか感じないだろう。割れたカップだけをひたすら睨んだ。
謝られても許したくはない。反省して謝っているのだから許してやれ、という空気が俺は心底嫌いだ。異世界産の魂が融合していようと、間違いなく俺はランハート・フォン・ムスター本人であり、自分が殺され続けた瞬間をすべて憶えている。
「許せない俺は酷いか? 悪人なのか? 生きるか死ぬかの瀬戸際に、誰も来ないから俺のほうから会いに行った。そんな俺の言葉を、子供の冗談で片付けようとしたおまえを俺は絶対に許したくない……!」
声が震える。ああくそ、マジ格好つかねぇわ。
顔を拭きながら何度か深呼吸をした。ゆっくり息を吸って吐く、それを繰り返すだけで結構落ち着くのだ。
何分も経たずに呼吸は落ち着き、俺に断りもなく落ちやがった塩水もようやく止まった。
喉が渇いたな。
「俺が言いたいことは以上です。謝る以外で、何か言いたいことはありますか」
バツが悪いから、この際くだらない決意表明でも聞いてやる。
ヨハンの顔に視線を戻せば、そこには俺の想像していたどの表情も浮かんではいなかった。
困惑と、それから、どうにも形容のしにくい表情だ。
「その……ランハート」
「なんでしょう」
「平民のような言葉遣いに、驚いたのだけれど。どこで憶えたのだい?」
そこかよ。
いや、俺もついカッとなってスラング使っちまったわ。普通に驚くか。
どう説明すっかな……。
「カーラが俺に付けた阿婆擦れどもが、お上品にふるまっていたと思いますか? 俺の部屋の一室に愛人を連れ込んで、仲良くしていた女もいましたよ」
「うっ……!!」
事実だ。抜け出して遊びに行く女もいれば、別室でくすくすギシギシあんあんやってる女もいたぜ。奴らの本命はヨハンだったから、欲求不満解消のための単なる遊び。
純粋なランハートくんだった頃は、あれは何をやっているんだろうと不思議だったっけな。教育に悪い環境だったわー。
そんな女ばかりなのに、ヨハンの寝込みを襲う女が出なかったのは、手ぇ出しやがったらブッコロスと全員で牽制し合っていたからだろう。もしうまうまとヨハンのお手付きになった女がいたら、カーラあたりに殺されてたんじゃねぇかな。
「……ぼ、僕は、僕は……」
ヨハンは目が落ちそうなほどに見開いた後、がっくりと項垂れた。
項垂れてぇのはこっちだよ。酒でもなきゃやってらんねぇ。
こんなツラで、のこのこリシェルの前に出らんねぇし。
「僕は……どうしたら、いいんだろう……」
知るかよ。俺に訊くな。
反射的にそう言いかけて口をつぐむ。自分で考えて行動させたら、この男はまた頓珍漢な思考回路でアホなことをしでかしかねない。
こいつが思ったことをそのまま垂れ流した結果が、婚約破棄された悪役令嬢アデリナ様への「彼に対するお前の言い方もきつかったよ」発言なんだからな。
「そういえば、お姉様には謝ったのですか?」
「いや……謝ろうと思ったけれど、『わたくしよりもランハートが先です』と言われたんだ」
「そうなのですね。では、のちほどお姉様に謝る際は、許すことをお姉様に強要しないでください。許さなくていいと最初に伝えて、それから謝罪です。あなたが反省しているということと、謝罪の気持ちがあることを伝えるのは絶対に必要です」
「うん、わかった」
「それと、許してくれない相手を責める言動は厳禁です。いかにも傷付いている顔を見せるのもダメですよ。表情は言葉の一種ですから、『許してくれないあなたは酷い』と顔に出していたら相手に伝わります」
「わかった。気を付ける。それから、どうすればいい?」
まるで必死に縋る子供の目だ。なんだか、幼児の躾をしている気分になってきた。
ここで変われなければ終わると、うっすら察しているのかもしれない。
「以前もお願いしたことです。お母様やノイマンの邪魔をしないこと」
「わかった、邪魔をしないようにする。それから?」
「一気にあれこれ詰め込んでも、全部憶えて実行することは難しいでしょう。先ほど決めたことを言えますか? お姉様に関する部分からです」
「許さなくていいと最初に伝えること。その上で僕が反省していることと、謝りたいことを伝える。許してもらえないことを責めるような表情は決してしない。それから、イゾルデやノイマンの邪魔をしない」
つっかえずにちゃんと言えたな。記憶力自体はそう悪くないのか。
「それで結構です。あとは自分が何をすればいいか、追い追い周りの者に相談していけばいいでしょう。今のあなた付きの使用人はノイマンが選んだ者達ですから。勝手な行動は取らず、何かをする時は彼らに意見を仰いでください」
「わかった。そうする」
俺の年齢の三倍以上ある大人が、まるで幼子だ。これがどうして公爵家当主なんだと、改めて現実逃避をしたくなるな。
「はぁ……さっさと切り上げて風呂にでも入りたいのに、このみっともない顔じゃ外にも出られやしない」
「す、すまない……っと。いや、その」
「ああ、謝ること自体を禁止はしませんよ。許すか許さないかは相手の自由ということを、ちゃんと心得てくれたらいいんです。ただし我が家以外の貴族が相手だった場合、謝罪や同意を示す行為は危険を伴いますから、軽々に行わないことですね」
「危険を伴う……以前、シュピラーレ公爵邸から帰る時に、イゾルデが言っていた?」
「なんだ、憶えていたんですか。それですよ」
アデリナお姉様とティバルト坊ちゃんの婚約話が永遠に消えてなくなった、祝福すべきあの日のことだ。
ちゃんと憶えていたのなら、やはり記憶力に問題はない。要は思考回路が見当違いな方向に行きがちな点が問題で……というかその回路自体が、間違った一本道しかないような状態だったのだろうか。
すべての枝を切り落とされた丸裸の樹と、目の前のヨハンが重なる。
「……チッ」
「っ!!」
青くなってビクッと震えるヨハン。
別におまえに舌打ちしたわけじゃないんだがな。教えてやる義理もないし、誤解させとくか。
それより水が欲しい。喉が渇いたし、目元を冷やしておきたい。放置して腫れが酷くなったら、ますますリシェルに会えなくなる。
「……みっともなくは、ないよ?」
「はい?」
「みっともない顔と言っていたけれど、そのようなことはないよ」
「…………」
何のことかと思った。
ゴマすり、ではないな。本音で言っている。
おまえは自分に似ているから、みっともなくはないって?
俺は頭を軽く振って立ち上がった。
「ランハート?」
「水を飲みたいだけです」
この部屋には見当たらない。寝室にはありそうだ。別の部屋への移動は禁止されてないしな。
昔、一時的に住まわせてもらった母上様のお部屋。思った通り、寝室のコンソールテーブルに水差しがある。申し訳ないけれど、勝手に飲ませてもらおう。
その近くには鏡台もあった。母上様がお顔の手入れをするためのもの。俺はそれを覗き込まないよう、存在を常に視界から外していた。
……。
……腫れの状態を、見なきゃいけないな。
酷い状態なのか、ヨハンが言った通りにそこまでではないのか。
そこにあいつそっくりの顔を見つけたくなくて、鏡自体をずっと嫌悪していた。
どうしてか今は、そこまでではない、気がする。
一連のやりとりで、毒気が抜かれでもしたのか。あれほど嫌だったのに、こだわるのがバカらしくなってきた。
「はぁ……」
溜息をつき、床に視線を落とす。
俺はほんの二~三歩で鏡台の前に立ち、顔を上げた。
「…………え?」
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