聖なる衣

丸井竹

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9.夏の訪れ

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 季節は夏を迎えた。凍り付いていた大地にも草が生い茂る季節になり、聖職者たちが朝から草むしりを始めていた。草を食べる緑トカゲを連れて歩き、息子もその手伝いをした。

水汲みに薪割り、菜園の手入れと外仕事が増え、満天の星が夜空を彩った。
温かな日差しは町を活気づけ、農園の実りを豊かにする。
町には人が集まり、男の商売も順調だった。

平和な時代のおかげで、女の商売は少しだけ停滞していた。
それは幸いなことで、女は窓を開けた作業小屋の中で、心行くまで細かな装飾を施した棺桶を作った。

息子は学びながら教会の雑用をこなし、さらに男の店で本格的に働き始めた。
父親に教わり緑トカゲを調教し、乗りこなすための練習も始めた。

「乗るのは簡単だが、維持するのは意外に難しい。定期的に命令を聞く立場なのだと教える必要がある」

男は田舎の牧場を売ったお金で、町の郊外の土地を買い、屋根付きの大きな厩舎を建てた。
大型の馬車を預かっていない時は、そこが息子の学びの場だった。
緑トカゲは魔獣であり、人に慣れさせるにも時間がかかる。
音に反応する制御石を嵌めこんだ首輪を付け、笛で制御する。

首輪は家畜の印であり、野生と勘違いされ人間に殺されることも防ぐ。

「繁殖は難しい。個体の性質を見極めなければ、雄が雌を食い殺すことがある。卵を産む雌の方を守る必要があるため、臆病な雄を選ぶ方が良い」

市場に出回っている個体は、ほとんどが野生を知らない完全飼育の個体であり、人に慣れ、温厚な性格だ。
しかし稀に、魔獣であった名残が出るのか、気性の荒い個体が生まれることがある。
それが売られてしまうと、店の信用を落とすことになるのだ。

「年に一度、国の審査がある。昨年度の販売実績や事故の報告などをしなければならない。飼育頭数や繁殖に成功した頭数、そうしたことも書類に書いて提出する必要がある。毎年決まった書類であるから、記入方法さえ覚えてしまえば簡単だ」

男は本気で息子に仕事を継がせるつもりだった。まだ子供だが、仕事を任せられるようになれば、その分、女に関わる時間も増やせると考えた。
息子とはうまくいっていたが、女との関係に進展はなかった。

同じ寝台を使って寝ているが、手を繋ぐことさえない。
時々、その背中を抱きしめて眠ったが、女は棺桶で眠っているかのように微動だにしなかった。


 忙しく日々は過ぎて行き、夏の盛りを迎えたある日、王国の騎士達が西の町にやってきた。
軍学校や要塞の訓練所からやってきた騎士見習の少年たちも混ざっており、通りには長い行列が出来た。

西の要塞で行われる剣技大会に参加する人々だった。
毎年春から夏にかけて行われるはずの大会だったが、どういうわけか、今年は開催が遅れていた。

その日、大門を入ってきたその立派な隊列を見て、息子は咄嗟に厩舎の裏に隠れようとした。
その体を捕まえ、男はどうしたのかと問いかけた。

近隣の要塞から派遣されてきた騎士団の隊列は、ほとんどが通り過ぎてしまっていた。
その時、門の向こうから息子を呼ぶ大きな声がした。

「ルカ!」

行列の後方には少年たちの姿があり、そこから一人の見習い騎士が手をふっていた。
見るからに育ちの良さそうな顔立ちで、真新しい隊服に身を包んでいる。

金銭的な事情で寮の学校をやめ、さらに軍学校を反対されたことで進学を諦めたルカは、眩しそうにかつての友人を見上げ、おずおずと手を上げて挨拶を返した。
その卑屈な笑顔に、男は胸をいためながらも馬上の少年たちを振り返った。

手を振ってきた少年は、すぐに隣の仲間に合図をし、その少年もルカに軽く手を振った。
彼らは貴族でなければ身につけられないような立派な衣服をまとい、その上に軽い甲冑を着こんでいた。
胸や肩を覆うだけの簡単なものだが、まるで宝石のように磨き上げられ、皮のブーツまで光ってみえた。
行列はあっという間に町を抜けて行き、男は息子の肩に大きな手を置いて、彼らの姿を見送った。

ルカは少しだけ元気をなくし、目を伏せた。

「ルカ、そろそろボーラと仕事を変わって来い」

男の言葉に息子は素直に頷き、ボーラの方に走って行った。
感嘆の声を上げ、立ち止まって騎士の隊列を眺めていた群衆はいつの間にか去り、大門の前にはいつもの光景が戻っていた。


 その夜、いつものように食卓についた息子は、やはり暗い表情だった。
女は無表情で食べ終わり、さっさと席を立った。
会話もないが、男は三人が揃うこの時間を大切にしていた。
家族で会話をするにはきっかけが必要であり、三人が顔を合わせる機会がなければそのきっかけも生まれない。

男と息子の会話に女が加わることはないが、一緒にいれば家族の一員だと感じてもらえるのではないかとも思っていた。しかし、息子は女に話しを聞いてもらいたいとは思っていなかった。

女の姿が通路の奥に消えると、息子が口を開いた。

「父さん、牧場を売ったのはあの人のためでしょう?あそこがあれば……繁殖だってもっと出来たはずだ」

両親の死後、残された牧場は売ってしまったのだ。
それ故、繁殖や飼育に関わる部分の仕事は縮小せざる得なかった。
町と牧場を数日おきに往復できていれば、収入を落とすことはなかった。

あるいは住まいを牧場に変え、両親の家から町に通うようにすれば、個体の仕入れに余計なお金を使わずに済んだのだ。

それを断念したのは、毎日この家に帰るためだった。

「ここを離れて、牧場に住めばよかったのに!」

そうすれば、収入も増え、寮のある学校にも通えたかもしれない。
今日、昔の友達の前で惨めな思いをしなくて済んだ。
息子は俯いて唇を噛みしめた。

まだ十年に満たない人生だが、息子の記憶の大半は、男が考えも無しに入れた全寮制の学校のことばかりだった。
きれいな服を着て新品の本で学ぶのが当たり前であり、寮の食事はフォークとナイフで友人たちと食べていた。

友人たちから聞かされる話には、ついていけないことも多かった。
裕福な実家のこと、誕生会やパーティーのこと、新しい甲冑や武器のことなど、穴の開いた靴を履いていた息子には無縁の話ばかりだった。

だけど、中には息子のように貴族ではない子供もいて、親が貧乏な者同士で楽しく過ごしていた。
そんな友人たちは皆、軍学校に行ってしまった。

剣に興味のなかった息子も、その世界に憧れた。
馬から見下ろされる人間になるのか、あるいは馬から見下ろす立場の人間になるのか。
軍学校はその境目にあった。
貴族も通う全寮制の学校に通えなくなった子供達にとって、軍学校は最後の希望だった。

「騎士になりたかったのか?」

男の問いかけに、息子は首を横に振った。

「ならば、これで良かっただろう。危険な目にあって欲しくないし、確かに国の役人になれる可能性もあったかもしれないが、そうしたところで出世するにはやはり貴族や騎士の家系でなければ難しい。
国の機関で働くには、家柄の審査があると聞く。俺は……田舎の牧場の生まれで……」

「あの人は、棺桶屋だものね。そんなの、友達に言えないよ。こんな墓より、牧場に住みたかった」

「ルカ!彼女のおかげでここに住めているし、食事にも困らない生活が出来ている」

男はたしなめたが、急速に成長している息子は引き下がらなかった。

「牧場で父さんと二人で暮らしたかったよ!」

叫んだ瞬間、息子は冬の終わりにやってきた女の母親のことを思い出した。
事情はよくわからなかったが、自分の娘に対して金を寄越せと、ヴィーナは口汚く叫んでいた。

息子にも、女がヴィーナよりはましな母親であることはわかっていた。

だけど、息子にとって女は母親というより、ただの同居人だった。
さらに、よくわからないところで怒ったりもする、少し不気味な存在だった。
墓に住まなければならなくなったのも、学校に行けなくなったのも、全て母親のせいなのに、大好きな父親は母親のことを一番気にかけている。
それも息子には気に入らなかった。

息子の主張を聞いていた男は、我儘が言えるようになってきたのは、息子が心を許してきた証拠だと考えた。しかし、女を排除しようとする発言は容認できなかった。

「ルカ、彼女は俺達に必要な人だ。彼女がいなければ、お前は生まれてこなかった。
俺はお前に仕事を継いでもらいたいと思っているし、頼りになる息子だと思っている。それも、全て彼女のおかげだ」

癇癪を起すようなことはしなかったが、息子は不満顔だった。
誇らしげに馬に乗っていた旧友たちの姿を見て、自分の未来は断たれたのだと思い知らされた。
それもこれも、女のせいだと思っていた。

男は息子を宥めようと、優しく語り掛けた。

「夢が抱けない子供だって多い。教会で学んでいる子供たちはどうだ?お前以上に勉強が出来る子はいないだろう?」

確かにその通りだった。
教会の学校では最低限の読み書きしか教えていない。
息子の場合は、ロベルの許しを得て、上位神官になるための勉強会に参加させてもらっているし、難しい字も読めるから書庫を利用し、自習で学力を伸ばすことが出来ている。

「今あるものを大切にすることだ。教会の書庫も、学びの場も、当たり前にあるものじゃない。今ある物を全て捨てて、もっと良い物を手に入れようとした結果、逆に全てを失うこともある」

息子は黙り込み、黙々と食事を終えた二人は食器を片付け、寝支度に入った。


 その夜、男は寝台で背中を向けて眠る女を、背後からそっと抱きしめた。

「エリン、戻ってきた俺を拒絶しないでくれたこと、俺は感謝している。息子も一緒に受け入れてくれた。
俺は君の傍を離れるべきではなかった。悲しみから逃げるために、君を抱いたかもしれないが、今ここにいるのは、責任感からだけではない。君に惹かれているし、ルカも、良い息子だ。君の傍にいたいと思っている」

それは男の本心だった。
返答はなかったが、男は女の後頭部に口づけをした。


 翌朝、空が白み始め、窓からうっすらと光が差し込むと、女は無言で体を起こした。
それに合わせて男は腕を引いた。
もうその瞬間を体が覚えていた。

女が寝台を出ると、男は目をあけて背後の音に耳を澄ませた。
音だけで女が何をしているのかわかってしまう。
男物のシャツとズボン、それから色あせした分厚い灰色の上着を着こみ、外に出て行く。
扉が閉まり、しばらくすると台所の音が聞こえてくる。

眠ってまだいくらも経っていないほどの早朝だ。
いつからそんな生活をしているのか、男にはわからなかったが、息子を連れて帰ってきた時から女は毎朝そうして一日を始めている。

いつもなら、もう一度目を閉じて眠るところだったが、男は体を起こし部屋を出た。
台所のオーブンの前に女がいた。
昨夜の残り物と固くなったパンを温めている。

裏口から外に出ていく女を追いかけ、男も外に出た。
冷たい空気に身を切られながら、女の手にしている桶の取っ手を上から掴む。
驚いたように女が振り向いた。

「俺が汲みに行く。火をみていてくれ」

朝の淡い光の中で目にした女の顔は、あまりにも無防備でまだ何も知らない子供のようにまっさらに見えた。
逃げ場もない子供を追い詰めたような気がして、男は胸が痛くなった。
女が桶から手を離し、男の手に桶の重みが落ちてきた。

血の繋がらないラバータとの暮らしでも、こうして水を汲みに行っていたのかもしれないと男は考えた。
男がしたように、ラバータが女を襲えば、女に為すすべはない。

意外にもヴィーナの発した言葉は男の頭に残っていた。
ラバータやヴィーナの男をエリンが寝取ったという言葉は信じられないが、逆に襲われた可能性はあるのではないだろうか。

しかしロベルから聞いたラバータの印象は、棺桶づくりの技術を教えた父親だ。
愛した女性の娘にそんな気持ちになるだろうか。
ヴィーナの悪意ある言葉がくっきりと蘇って来て、男は嫌な気持ちになった。

汲み上げポンプを押すと、冷たい水が桶を溢れ飛び散った。

何度も往復する井戸に向かう道は常にぬかるみ、草一本生えていない。
雨どいの下には、洗濯に使う台や桶が石壁に立てかけられており、隣に苔むした古びた椅子が置かれている。

水瓶に水を満たし終えると、男は裏口に立てかけられていた道具類を抱えて小屋の正面に回った。
日の差さない裏に置いたままでは、木製の道具はぬるついてかびてしまう。

日当たりのよくなるあたりにそれらを並べ、男は朝日の降り注ぐ墓地を眺めた。

小屋は教会の敷地の外れにあり、墓地を囲む柵の角が、扉の正面から見える位置にあった。
その右側は斜面になっており、外壁までは手入れのされていない土地だった。

その中間あたりに、まるい空き地があった。
周囲には雑草が生い茂っているのに、丸く開けた部分には短い芝しか生えていない。

子供の頃に、エリンが遊んだ場所かもしれないと男は考えた。
ラバータの養女であった時、ほんの少しだけ母親とラバータとエリンはこの家で暮らしたのだ。
両親と子供、それだけで幸せな光景に思える。

笑うことのない、無口なエリンにも幸せな時代があったのだろうかと、男は知るすべのない女の幼少期に思いを馳せた。


 その日の朝、起きてきた息子はまだ不貞腐れた表情だったが、男に笑いかけられると、ちょっとだけ嬉しそうに顔を赤らめた。
さらに食事を終え、教会まで父親が送っていこうと口にすると、なんとなく鼻の穴を大きくして、にやけてしまう口元をごまかそうとした。

それから、教会に向かって歩き出すと、息子はいつものように父親にうれしそうにおしゃべりを始めた。
男がそれに応じ、優しく言葉を返すと、軍学校のことや、昨日の気まずい会話のやりとりは記憶から消えたように息子の足取りは軽くなった。

教会に続く道が見えてきた時、息子は父親の手を振り払って走り出した。

その向こうには、同じように教会の学校に通う町の子供達の姿がある。
手を振り合い、友人たちと合流して去っていく息子の背中を、男は足を止めて見送った。



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