聖なる衣

丸井竹

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16.神官長の頼み

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 墓地を出て三か月が経った頃、神官長のロベルが男の店に訪ねてきた。
今までにないことで、男は胸騒ぎがして店番を人に任せてロベルと近くのベンチに移動した。

「何かあったのですか?」

何かあるとしたらエリンのことだとわかっていた。
墓に残してきた女は息子の母親だ。
無関係ではいられない。

「お願いがあって来たのです」

ロベルはかぶっていた平たい神官帽を外し、頭を下げた。

「エリンの傍に戻ってくださらないでしょうか」

身構えていた男は、複雑な心境で体の力を抜いた。

「その答はもう出ています。俺達の間には、家族の絆は育たなかった。努力はしました。同情と慰めで始まり、成り行きと過ちで終わりました。
子供を産んでくれたことには感謝しています。ですが、俺達の間には愛はなかった。それが全てです」

「もう諦めてしまうのですか?あなたは努力しておられた」

「その努力は無駄に終わりました。あんな薬を使われてまで、俺はすがりたくない。彼女だって仕事を持って自立している一人前の女性です。世話をされなければならない子供ではないはずだ。俺は、息子を守るので精一杯です。
俺が彼女にこだわったせいで、かなり傷つけてしまった」

「それは……そうかもしれません。ですが……愛がなかったわけではないと思うのです。彼女は仕方なくあなたの子供を産んだわけではありません。望んで産んだのです。それだけは本当です」

「流す選択肢がなかっただけでしょう」

なぜ今更そんな話を蒸し返されるのかと、男は苛立って立ち上がろうとした。その手をロベルが掴んだ。

「少しでいいのです。どうか、同情でいい。あなたの悲しみに同情し、彼女が慰めを与えたというのなら、あなたも、エリンを哀れに思って様子を見に来て下さい。彼女は……」

「俺がいなくなって寂しがっていますか?」

目を逸らし俯いたロベルに、男はうんざりと息を吐いた。

「そうでもないようですね。俺は彼女には必要ない。そういうことでしょう?」

一回り小さくなってしまったようにロベルは頭を垂れていたが、さらに低く頭を下げた。

「後悔したくないのです。どうか、お願いします」

高齢のロベルは、棺桶職人の女を男に押し付けてしまえると考えていたのだろうと男は思った。
この機会を逃せば、無口で人と関わらない女と結婚を考えてくれる男はもう二度と現れない。

元に戻ることをちらりと考えたが、男は素直になれなかった。
仕方なく戻るとしても、歩み寄るなら女の方からであるべきだ。
男が差し出した手は何度も払いのけられた。

「無理です」

一礼し、男はロベルを置いて店に戻った。


 急速に季節は進み、騎士達の剣技大会が行われる春になった。
人が集まれば町も活気づき、お祭り気分で屋台も立ち並んだ。

大門近くで騎獣屋を開く男の仕事も忙しくなった。
店を回すのに忙しくしていた男は、クルムの実を墓で育てていたことを思い出した。
教会の敷地を開拓し、厩舎や菜園を作って売り上げを増やしたのだ。

ロベルの好意であったことを思い出し、女と別れた今、土地の利用料を払うべきだろうかと男は考えたが、すぐにその考えを否定した。
墓に残してきた女は息子の母親であり、菜園も厩舎も息子を養うために必要なものだったのだ。
女の住まいの裏手にあるのだから、それぐらいは女が負担するべきだ。
父親と一緒に世話をしてきた息子も菜園のことを気にしていた。

「菜園の世話とか、クルムの実の収穫はどうするの?あの人はやらないだろうし、荒れ放題になっちゃうよ」

「今のところ、仕入れで回せているから問題ないが、せっかく開拓したのにもったいないな。取りに行ってくるかな」

「教会に本を返しに行くから、ついでに見てこようか?クルムの実を収穫するだけでいい?」

「菜園の世話までは手が回らないだろう。それだけで良い。それから、余計なことはしなくていいからな」

男は息子が母親に傷つけられることを恐れたが、エリンは滅多に作業小屋の外には出ない。
顔を合わせることはないだろうと考えた。

その翌日、息子は緑トカゲのパトに乗って教会の菜園に向かった。



 教会の表の道は手入れがされていたが、厩舎や菜園に続く裏の小道は、すっかり雑草だらけになっていた。
女を訪ねる客はいないし、男も息子もいなくなり、その道を使う者はいなくなったのだ。
ちらりと女の暮らす二軒並びの小屋の方に続く表の道を覗いたが、そちらも歩く者がいなくなり、雑草が小道を覆い隠していた。

こんなことでは、菜園も荒れているだろうと、息子は考えた。
クルムの実を入れる袋を背中に背負い、息子はパトから下りると作業小屋の裏に回った。

井戸があり、厩舎がある。それから日当たりの良い開けたところに男が切り開いた土地があった。
低い柵で囲まれた菜園に近づいた時、息子は足を止めた。

菜園の中ほどで、女がしゃがみこんで雑草を抜いている。

三人で暮らしていた時は、父親と息子のやることに無関心だったくせに、今更になって何を始めたのかと、怒りが込み上げてきた。

二人が出て行った後に、歩み寄ろうとしてみせても遅いのだ。

「今更なんだよ!そんなことしたって父さんは帰らないからな!」

息子は女に向かって声の限り叫んだ。
女は一瞬動きを止めたが、顔を上げずに手元の作業に戻った。

菜園はきれいに耕され、新しい苗が植えられていた。
既に収穫が可能な野菜まである。

「ここを手入れして作ったのは父さんだ!勝手に入って来て、収穫するなよ!」

女を追い出そうと息子は突進した。
逃げるように、女は立ち上がり、柵をまたいで外に出た。
土を払った手袋を柵にかけ、女は裏口から作業小屋の中に入ってしまった。

息子はひどく嫌な顔をして、口を堅く結んだ。
さきほど、女が手袋を外すところが見えたのだ。

その手は遠目からでもはっきりわかるほど、傷だらけで汚れていた。
棺桶作りと菜園の仕事を両方しているせいだろうかと考え、唇を噛みしめた。

今更、良い妻のふりをされても、父親を返す気はなかった。
きれいに手入れをされた菜園の中に、目的のクルムの実を発見すると、息子はそれを一つずつ収穫し始めた。

不愉快な気持ちのまま息子は町の家に帰ったが、菜園が手入れされていたことは男に話さなかった。
男も女と顔を合わせたかなどと、聞いたりしなかった。

なんとなくその日、男二人の食卓は静かだった。


 数日後、もう一度男の店にロベルが現れた。
その手には木箱が抱えられていた。
仕方なく店から出てきた男に、ロベルはその木箱を差し出した。
中には菜園でとれた野菜が入っていた。

「これは……私が手伝ったものでは断じてありません。彼女が、エリンが育てました。
あなたが残して行った菜園を手入れして、雑草を抜いて世話をし、彼女が収穫し木箱に入れました。
彼女にどうか、もう一度だけ機会を下さい」

教会の神官長でありながら、ロベルは驚くほど腰が低かった。
散々世話になってきた神官長に頭をさげられ、男は困惑した。
残念ながら、男の心は少しも動かなかった。

「彼女に望まれていないし、もう新しい生活に馴染んできています。何度も生活環境を変えてきている息子に安定した暮らしをさせてやりたいのです」

誠実に返答したが、ロベルは帽子を脱いだまま、さらに白い頭を下げた。

「一度で良いのです。どうか、彼女に会いに来てください。せめて……」

「なぜ……あなたではないのですか?彼女に手を差し伸べたいのなら、あなたがすればいい」

ロベルは小さく震えながら帽子をかぶり直した。

「彼女は私を頼るようなことはしません」

「あなたから、薬をもらっていた」

「いいえ……。それには事情が……。いえ、今はそんな話をしている場合では。私は……あなたがあの家に住み始めて、ほっとしました。
あなたが出ていったり、戻ってきたりを繰り返したことは問題ではありません。
彼女が、人と関わることを拒まなかったことがうれしかった。どんな形であれ、彼女と繋がっていようとしてくれたことが意味のあることだと思ったのです。あなたも、あなたの息子も、もう少し一緒にいれば彼女の心が見えてくるはずです。そしてきっと彼女は……」

顔を上げず、ロベルは男の右手に両手で触れた。

「私ではだめなのです」

掠れた声でロベルは囁き、手を離した。
遠ざかるロベルの丸まった背中を男は憂鬱な顔で見送った。

 その日の夕食時、男は息子に、菜園で女の姿を見なかったかと尋ねた。
息子は見なかったと答えた。


 翌日、男は墓に出かけた。教会の門番は、男を見ると黙って門を開けた。
今更、女と話すこともないと思いながらも、男は早朝から緑トカゲに乗って朝靄のなかを進み裏庭に入った。

手入れのされなくなった小道は雑草が生い茂り、足場は悪くなっている。
しかし、作業小屋の裏手に近づくと、そこはきれいに手入れがされた庭になっていた。

柵で囲まれた菜園にも、雑草はなく、水やりもされている。
収穫された物が木箱に入ってそのまま柵の外に置かれている。

家の裏口が開き、フードを被った女が出てきた。
咄嗟に男は厩舎の中に隠れた。
囲いの上から女の様子をうかがう。

女は井戸で水を汲み、菜園の水やりを始めた。
雑草を抜き、熟れたものを収穫し、木箱に入れる。
クルムの実を確かめると、収穫して小さな袋に入れ、柵にかけた。

背筋を伸ばして立ち上がった女のフードが後ろにふわりと落ちた。
青ざめた顔が朝の日差しの下に現れる。

たった数か月離れていただけなのに、そのどこか幼い顔立ちは懐かしく、やはり男の胸に愛おしさが溢れた。
何度も抱いた体だし、やはり息子を抱いて乳をやっていた姿や、背負って仕事をしていた姿が忘れられない。

しかし愛情を示さず、息子を傷つけたことも事実なのだ。

手袋を外し、女が柵にかけた。
相変らず手は痛々しいほど荒れている。

いつものように作業小屋の扉に消え、すぐに棺を作る音が聞こえてきた。
なぜ、今になって男の作った菜園の手入れをするのか。
木箱に近づいてみると、手つかずの野菜が底の方でしなびていた。

女が食べるわけでもないのに、収穫しているのだ。
それは、誰かを待っているのだろうか。

背後でかすかな音がして、男は急いで緑トカゲを引っ張って小屋の方へ回った。
小屋の陰から覗くと、ロベルが雑草の生い茂る裏道を使い、菜園の方に向かってきていた。

ロベルは木箱の中身を確認し、それから作業小屋に近づいた。
窓越しに中を確かめ、肩を落とすと、女が収穫した野菜の入った木箱を持ち上げる。
女に声をかけることも、会おうともせずロベルはそのまま立ち去った。

棺を削る音を聞きながら、男は今日一日、女は誰とも顔を合わせないのだと気が付いた。
エリンを抱きしめたい気持ちは再確認できたが、やはり子供を守ることの方が優先される。
息子の心の平穏を考え、男はそこを立ち去った。


 騎士達の剣技大会が続いていた。
試合は一カ月近くも行われ、大会の最後には一般の人々も観戦できる上位騎士達の試合があった。

ある日、それを見に行きたいと息子が言い出した。
レオに誘われたのだと息子が話すと、男は渋い顔をした。

騎士の子供が試合を見ることは将来のためになるが、息子がそれに付き合っても意味がない。
影響を受けて軍学校に行くと言い出しても困るのだ。

「国を守ってくれる騎士達を尊敬しているし感謝もしているが、それは生まれた時からその道を約束された人達であり、物心ついたときから訓練を積んでいるからこそ、命をかける覚悟が出来ている。
俺達とは住む世界が違う。
この時期は店も忙しい。騎獣も増やしたばかりだし、預かっていた個体は狂暴でやはり野生と思われる。
調教中の個体も多いし、今は目を離せない。
俺の仕事を引き継ぐつもりがあるなら、試合のことは忘れて仕事に集中しろ」

「一日も?半日もだめ?」

「駄目だ。剣は禁止だ」

十代の男の子が騎士に憧れるのは当然のことだ。
訓練次第では優れた家柄の出身でなくても、下級騎士ぐらいには簡単になれると聞いたこともある。
剣技大会で優勝すれば、血筋に関わらず高い階級を与えられる。

騎士の身につける磨き上げられた輝く甲冑や、見事な刺繍が入った分厚いマント、立派な隊服に重そうな剣を目にすると、彼らが同じ人ではなく、特別な存在のように思えてくる。
男にも憧れた時期があったが、大人になって考えてみれば彼らは人を殺しにいく集団だ。

正しいことをするために、武力が必要なことはわかるが、人を殺す覚悟はそう簡単に身につくものではない。
少しの努力や、まぐれの勝利では、とても乗り切れない過酷な世界だ。

息子のためであれば、手を血で染めることも厭わない覚悟はあるが、国のために人を殺すとなるとそれはまた別の話しだ。
男は守るべき家族に、もうエリンは入っていないのだと気が付いた。

エリンのことも守っていきたかったが、息子と天秤にかけることになっては、エリンは選べない。
子供を守るのは親の勤めだ。

エリンも不幸な子供時代だったのかもしれないが、もう大人だ。
生き方に責任を持てる歳だし、仕事もある。

二度も訪ねてきたロベルのことを思い出し、男は憂鬱な気持ちになった。
妻でもなく、子供でもないエリンを見捨てることはそんなに責められることだろうか。

菜園で見たエリンは少し大人びて、最初にあった時よりずっときれいになっていた。愛していると告げた言葉に嘘はない。

「父さん、本当にだめ?」

物思いに沈む父親に、息子が最後のお願いだからと手を合わせる。
男は苦笑しながらも、試合の観戦は駄目だと、はっきりとした口調で息子の頼みを退けた。





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