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第一章 企み
1.貴族だった男
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霧の立ち込める広場の縁には墓石が並んでいる。
太古の昔、犠牲になった人々だ。
墓を作る習慣などないが、人の真似をしてみたのだと師匠は言った。
大樹の中に作られた一室で、本を読む男のもとに、一人の少女が駆けてきた。
「師匠!師匠!見てください!」
男は本から顔を上げ、膝ぐらいの背丈の少女を見おろした。
少女は前にごろんと転がり、角ウサギの姿に替わる。
得意げに跳ねると、一瞬でもとの姿に戻ってしまった。
「ああっ!戻っちゃった!師匠、どうしたらいいの?」
がっくりと少女がうなだれる。
魔法使いの弟子にしてほしいとやってきた少女は、勉強熱心だが優秀ではない。
くるくる変わるその表情を見おろし、男は少女の魂の形を見ていた。
きらきらと輝き、時折悲しそうに光は沈む。
時を止めた空間で、少女の魂だけが年を重ね、肉体を成長させていく。
男が少女の部屋に入ると、驚いたように少女が顔をあげる。
銀盤を覗いていたところだったらしく、その中央を指さして、少女が泣きそうな顔で話し出す。
「師匠……。見つけました。この人が私の運命の人……。気づいてほしくないけど、気づかれたい。でも、もし出会ったらまた同じことを繰り返してしまう」
惹かれ合う魂は美しい輝きを放つ。
ついに時がきた。小動物のようだった少女はだいぶ姿を変えていた。
手足は長くなり、のっぺりとしていた体には女らしい凹凸が生まれた。
「師匠、出来ました!確認してください」
男は本から顔を上げ、飛び込んできた少女をまじまじと見る。
魂の輝きは大きく力強くなり、悲しみは深く鋭い光を内に向けている。
二人は外に出る。
少女が広場の中央に立ち、男に向かって得意げに胸を張る。
その足元には美しいガラスの棺が置かれている。
「ほら、ようやく完成しました。確認してください。何年眠っていられますか?」
男はそのガラスの棺の完成具合を確かめ、良くできていると声に出す。
「本当ですか?良かった……。私、あの人の幸せのためだと言いましたが、本当はあの人が他の人と幸せになる姿を見たくないだけなのかもしれません。
だって、ここで眠っていれば、あの人が私以外の人と幸せに暮らす姿を見なくてすみますから。眠っている間って夢を見ますか?」
泣いているのか笑っているのかわからない少女の顔を見返して、男は青く澄んだ輝きを放つ魂にそっと手を触れる。
「師匠……私がここで眠っている間も、師匠はずっとここにいますよね?」
薄氷のように壊れてしまいそうな肌に触れ、男は「そうだな」と答える。
うれしそうに少女は微笑み、鼻をすする。
「私、行ってきます。今度こそ、幸せになれますように……」
強く輝く魂はまた旅を始める。
男は最後の弟子を見送り、ガラスの棺を一瞥し、また大樹の自室に戻っていく。
霧が立ち込め、ガラスの棺を覆い隠そうとするが、棺はまるで主を待つように光を放ち、白い霧をかき消した。
――
暗闇の中、一組の男女がむつみ合っている。
ランプは消され、小さな暖炉の火は周辺の床ばかりを照らしている。
寝台の上は真っ暗で、獣の息遣いだけが聞こえる。
「あっ」
女の嬌声が小さく混じるが、声は押さえ込まれたようにすぐに聞こえなくなる。
互いが見えないまま事が終わると、男が深い息を吐きだした。
ほっとしたような少女の甘い息遣いが重なった。
男の行為が終わるまで、懸命に声を押さえていた少女は男の首を引き寄せる。
舌を絡め、甘く貪るような口づけが終わると、二人は並んで横たわる。
「ジェイス……」
思いがけず幼い声に、男はどきりとしたが、すぐに腕を広げ少女を胸に抱きよせる。
ローナ国西辺境に広がる森の入り口に小屋が建ったのは二年前。男が最初に住み始めた。そこに一年少し前に少女が押しかけ、今は二人で暮らしている。
最初は少女を追い出そうとしていた男も、今では守らなければならない女性と認識を変えている。
甘いひと時を終え、眠りに落ちかけていた二人の耳に突然恐ろしい唸り声が飛び込んできた。
男は雷神のごとく飛び起きると壁に立てかけていた剣を引き抜き外に飛び出した。
「ジェイス!」
少女の声に男は振り返らずに指示を出す。
「灯りを持って町へ走れ!警鐘を鳴らせ!」
一緒に戦う術をもたない少女は、男の傍にいても役に立たない。
少女が町の方へ遠ざかるのを確認し、男は片手で松明をかざす。
小屋の裏から現れたのはやはり魔獣の群れだった。
広い街道に誘導し、息をつく間もなく戦闘に突入する。
遠くで警鐘が鳴りだした。
すぐに町から騎士達が駆け付けた。
街道沿いが一気に昼間のように明るくなる。
空が白み始めた頃、戦闘はようやく終わり、魔獣の死骸が積み上げられた。
「ジェイス!」
町に応援を呼びに行っていた少女が戻って来て、血まみれの男に抱き着いた。
「ローゼ、怪我人は出たか?」
返り血に濡れた男の体に怪我はないか確かめていたローゼが頷く。
「少しね。トーナの村が最初に襲われて、それから町に向かって群れが移動したみたい。野営を禁止する看板を立てたから、街道沿いのけが人は出なかったけど、村の囲いは改良をする必要がありそう」
「ローゼ、俺は森を出る気はないが、君は……」
「私も一緒にいる。足手まといにならないように、今日もすぐに町に逃げたでしょう?」
不安そうな少女の声に、ジェイスは何も言えなくなった。
初めて会った時から、この少女は精神的に不安定で、年齢よりもずっと幼く見えた。
それ故、ジェイスも最初は男女の関係になる気などまったくなかったのだ。
ところが、もう結婚が出来る年齢だと告白され、灯りを消した部屋でジェイスの方が襲われた。拒絶し続けるには男の意思も弱かった。
もともと、自暴自棄になり世捨て人として森に住みついた男だった。
毎日酒におぼれ、自分自身の心も救えない男に女の体を拒み切ることは難しい。
男は失恋したてであり、暗闇の中で奪われた恋を追い求めた。
最初に少女を抱いた晩のことを男は心の底から後悔していた。
その夜、少女を抱きながら何度も口に出して呼んだ名前はローゼの名前ではなかった。
朝になり、ジェイスは抱いていると思い込んでいた女性が全くの別人だったことに気がついた。
他の女の身代わりにされ、純潔を失うことになった少女に申し訳なく、その罪悪感から一緒に住み始めた。
森で暮らす獣のような男など面白味もなく、退屈なだけだ。
すぐに愛想をつかし、離れていくだろうと思ったが、ローゼはジェイスの傍を離れようとしなかった。
一年が経つ頃、ローゼの一途な思いに押され、そろそろ本気で責任を取った方が良いだろうと考えるようになった。
冬間近に物騒な噂が聞こえ始めると、ジェイスはローゼのために町に家を用意しようとした。
ジェイスは森に住み、物資を売りに町に出る時だけ一緒に過ごせば、ローゼを捨てることにもならないし、一緒に暮らしているともいえる。
冬の森自体が危険だし、魔獣の出現も増えている。
その話をすると、ローゼはジェイスと離れるのは嫌だと泣いた。
幼い子供が親から引きはがされることを恐れるようにも見えて、男はそんな子供を傍に置いていいのだろうかとまた別の罪悪感に駆られた。
だからといって、少女が男に依存しているわけでもなかった。男に会う前から少女の仕事は刺繍売りで、朝市に間に合うように仕事に出る。
その一風変わった刺繍は町では評判で、物騒になった昨今は飛ぶように売れている。
それは幸運のお守りなのだ。
兵隊に行く家族のために、あるいは出稼ぎに行く子供のためにと、様々な客が幸運のお守りを買いにやってくる。
それなりにお金を稼ぎ、ローゼは宿屋暮らしだった。
ジェイスもローゼが刺繍を施したハンカチを身に着けている。
幸運など信じたこともないが、ローゼに持っていて欲しいとお願いされたら断ることもできない。
「とりあえず、今日は帰るか」
ローゼはジェイスと一緒に帰れることに喜んだ。
その表情を見おろしながら、ジェイスの心の内は複雑だった。
今夜のようなことが起きるなら、ローゼの安全のためには別々に暮らす方が良いのだ。
二人が歩きだした時、一人の騎士が近づいてきた。
「ジェイスだな?」
ローゼを背後にかばい、ジェイスは穏やかな物腰で振り返る。
「第七騎士団のエリックだ。今回の戦いぶり見事だった。騎士団に是非勧誘したい。募集には一度も来ていないな?実はこの辺りの防衛に成功しているのは君のおかげだと噂には聞いていた。第七騎士団はリュデンの町周辺を管轄する。参加してみないか?」
ローゼが、ジェイスを引き止めようと腕に抱き着く。
「いえ、騎士団に入ることは考えていません」
首を横に振り、森に戻ろうとするジェイスの背中をさらに別の声が引き止めた。
「ジェイス・フォスター様ではないですか?」
丁重な呼びかけに、驚いて振り返ったのはジェイスだけではなかった。
第七騎士団のエリックも目を丸くしてふり返る。
馬で近づいてきたのは王国騎士団の隊服に身を包んだ立派な騎士で、盾の国章には十五と刻まれている。
第十五騎士団は戦場に立つ騎士団の後方を支える部隊であり、主な任務は騎士たちの家族への手紙の配達だ。
「第十五騎士団、ユーリ・バラスです。調査と配達を任務としております。フォスター家のレアナ様からのご依頼です」
レアナと聞いた途端、ローゼの顔は真っ白になった。
馬から滑り下りてきた騎士は、鞄からフォスター家の紋章が押された手紙を取り出し、ジェイスに差し出した。
「これは……騎士であられたのか?」
第七騎士団のエリックが、手紙の紋章印を見て驚きの声をあげた。
ローゼは小さく震えた。
ジェイスは黙って封筒を受け取り、手紙を取り出した。
ざっと目を通したジェイスは渋い顔をした。
「返事が必要か?」
王国の騎士に対等に口をきくジェイスにローゼはさらに怯え、ジェイスの腕から手を離した。
「受け取りの証だけ頂きます」
別の書類を取り出し、ユーリはサイン欄を指で示した。
ジェイスが指を押し付けると、金色の文字が紙の上に光りながら現れた。
素早くそれを丸め、鞄に戻すと、ユーリは一礼し町の方へ駆け去った。
「ジェイス殿、ご事情はあると思いますが、どのような形であれ、国のために働くことを考えて頂きたい」
残ったエリックも、丁重に頭を下げると町の方へ去っていった。
魔獣の死骸は片付けられ、街道にいた人々も引き上げていく。
静かな森の道にジェイスとローゼが残された。
「ジェイス……貴族様だったの?……」
数歩離れてみていたローゼが問いかけた。
ジェイスは腕を伸ばしローゼの体を引き寄せた。
「昔のことだ。今の俺は無一文の世捨て人だ。すべてを奪われ家を出された」
それでも、家に戻る必要が出来た。ジェイスは説明しないわけにはいかないだろうと考えた。
二人は森の小屋に場所を移した。
話しが始まる前から、ローゼの大きな瞳は涙でいっぱいだった。
「ローゼ……」
はっとしたようにローゼは袖で涙を拭った。
「ご、ごめんなさい。ちゃんと聞くから……」
唇を噛みしめ、覚悟を決めた様子のローゼに、ジェイスは自身の身の上について語りだした。
太古の昔、犠牲になった人々だ。
墓を作る習慣などないが、人の真似をしてみたのだと師匠は言った。
大樹の中に作られた一室で、本を読む男のもとに、一人の少女が駆けてきた。
「師匠!師匠!見てください!」
男は本から顔を上げ、膝ぐらいの背丈の少女を見おろした。
少女は前にごろんと転がり、角ウサギの姿に替わる。
得意げに跳ねると、一瞬でもとの姿に戻ってしまった。
「ああっ!戻っちゃった!師匠、どうしたらいいの?」
がっくりと少女がうなだれる。
魔法使いの弟子にしてほしいとやってきた少女は、勉強熱心だが優秀ではない。
くるくる変わるその表情を見おろし、男は少女の魂の形を見ていた。
きらきらと輝き、時折悲しそうに光は沈む。
時を止めた空間で、少女の魂だけが年を重ね、肉体を成長させていく。
男が少女の部屋に入ると、驚いたように少女が顔をあげる。
銀盤を覗いていたところだったらしく、その中央を指さして、少女が泣きそうな顔で話し出す。
「師匠……。見つけました。この人が私の運命の人……。気づいてほしくないけど、気づかれたい。でも、もし出会ったらまた同じことを繰り返してしまう」
惹かれ合う魂は美しい輝きを放つ。
ついに時がきた。小動物のようだった少女はだいぶ姿を変えていた。
手足は長くなり、のっぺりとしていた体には女らしい凹凸が生まれた。
「師匠、出来ました!確認してください」
男は本から顔を上げ、飛び込んできた少女をまじまじと見る。
魂の輝きは大きく力強くなり、悲しみは深く鋭い光を内に向けている。
二人は外に出る。
少女が広場の中央に立ち、男に向かって得意げに胸を張る。
その足元には美しいガラスの棺が置かれている。
「ほら、ようやく完成しました。確認してください。何年眠っていられますか?」
男はそのガラスの棺の完成具合を確かめ、良くできていると声に出す。
「本当ですか?良かった……。私、あの人の幸せのためだと言いましたが、本当はあの人が他の人と幸せになる姿を見たくないだけなのかもしれません。
だって、ここで眠っていれば、あの人が私以外の人と幸せに暮らす姿を見なくてすみますから。眠っている間って夢を見ますか?」
泣いているのか笑っているのかわからない少女の顔を見返して、男は青く澄んだ輝きを放つ魂にそっと手を触れる。
「師匠……私がここで眠っている間も、師匠はずっとここにいますよね?」
薄氷のように壊れてしまいそうな肌に触れ、男は「そうだな」と答える。
うれしそうに少女は微笑み、鼻をすする。
「私、行ってきます。今度こそ、幸せになれますように……」
強く輝く魂はまた旅を始める。
男は最後の弟子を見送り、ガラスの棺を一瞥し、また大樹の自室に戻っていく。
霧が立ち込め、ガラスの棺を覆い隠そうとするが、棺はまるで主を待つように光を放ち、白い霧をかき消した。
――
暗闇の中、一組の男女がむつみ合っている。
ランプは消され、小さな暖炉の火は周辺の床ばかりを照らしている。
寝台の上は真っ暗で、獣の息遣いだけが聞こえる。
「あっ」
女の嬌声が小さく混じるが、声は押さえ込まれたようにすぐに聞こえなくなる。
互いが見えないまま事が終わると、男が深い息を吐きだした。
ほっとしたような少女の甘い息遣いが重なった。
男の行為が終わるまで、懸命に声を押さえていた少女は男の首を引き寄せる。
舌を絡め、甘く貪るような口づけが終わると、二人は並んで横たわる。
「ジェイス……」
思いがけず幼い声に、男はどきりとしたが、すぐに腕を広げ少女を胸に抱きよせる。
ローナ国西辺境に広がる森の入り口に小屋が建ったのは二年前。男が最初に住み始めた。そこに一年少し前に少女が押しかけ、今は二人で暮らしている。
最初は少女を追い出そうとしていた男も、今では守らなければならない女性と認識を変えている。
甘いひと時を終え、眠りに落ちかけていた二人の耳に突然恐ろしい唸り声が飛び込んできた。
男は雷神のごとく飛び起きると壁に立てかけていた剣を引き抜き外に飛び出した。
「ジェイス!」
少女の声に男は振り返らずに指示を出す。
「灯りを持って町へ走れ!警鐘を鳴らせ!」
一緒に戦う術をもたない少女は、男の傍にいても役に立たない。
少女が町の方へ遠ざかるのを確認し、男は片手で松明をかざす。
小屋の裏から現れたのはやはり魔獣の群れだった。
広い街道に誘導し、息をつく間もなく戦闘に突入する。
遠くで警鐘が鳴りだした。
すぐに町から騎士達が駆け付けた。
街道沿いが一気に昼間のように明るくなる。
空が白み始めた頃、戦闘はようやく終わり、魔獣の死骸が積み上げられた。
「ジェイス!」
町に応援を呼びに行っていた少女が戻って来て、血まみれの男に抱き着いた。
「ローゼ、怪我人は出たか?」
返り血に濡れた男の体に怪我はないか確かめていたローゼが頷く。
「少しね。トーナの村が最初に襲われて、それから町に向かって群れが移動したみたい。野営を禁止する看板を立てたから、街道沿いのけが人は出なかったけど、村の囲いは改良をする必要がありそう」
「ローゼ、俺は森を出る気はないが、君は……」
「私も一緒にいる。足手まといにならないように、今日もすぐに町に逃げたでしょう?」
不安そうな少女の声に、ジェイスは何も言えなくなった。
初めて会った時から、この少女は精神的に不安定で、年齢よりもずっと幼く見えた。
それ故、ジェイスも最初は男女の関係になる気などまったくなかったのだ。
ところが、もう結婚が出来る年齢だと告白され、灯りを消した部屋でジェイスの方が襲われた。拒絶し続けるには男の意思も弱かった。
もともと、自暴自棄になり世捨て人として森に住みついた男だった。
毎日酒におぼれ、自分自身の心も救えない男に女の体を拒み切ることは難しい。
男は失恋したてであり、暗闇の中で奪われた恋を追い求めた。
最初に少女を抱いた晩のことを男は心の底から後悔していた。
その夜、少女を抱きながら何度も口に出して呼んだ名前はローゼの名前ではなかった。
朝になり、ジェイスは抱いていると思い込んでいた女性が全くの別人だったことに気がついた。
他の女の身代わりにされ、純潔を失うことになった少女に申し訳なく、その罪悪感から一緒に住み始めた。
森で暮らす獣のような男など面白味もなく、退屈なだけだ。
すぐに愛想をつかし、離れていくだろうと思ったが、ローゼはジェイスの傍を離れようとしなかった。
一年が経つ頃、ローゼの一途な思いに押され、そろそろ本気で責任を取った方が良いだろうと考えるようになった。
冬間近に物騒な噂が聞こえ始めると、ジェイスはローゼのために町に家を用意しようとした。
ジェイスは森に住み、物資を売りに町に出る時だけ一緒に過ごせば、ローゼを捨てることにもならないし、一緒に暮らしているともいえる。
冬の森自体が危険だし、魔獣の出現も増えている。
その話をすると、ローゼはジェイスと離れるのは嫌だと泣いた。
幼い子供が親から引きはがされることを恐れるようにも見えて、男はそんな子供を傍に置いていいのだろうかとまた別の罪悪感に駆られた。
だからといって、少女が男に依存しているわけでもなかった。男に会う前から少女の仕事は刺繍売りで、朝市に間に合うように仕事に出る。
その一風変わった刺繍は町では評判で、物騒になった昨今は飛ぶように売れている。
それは幸運のお守りなのだ。
兵隊に行く家族のために、あるいは出稼ぎに行く子供のためにと、様々な客が幸運のお守りを買いにやってくる。
それなりにお金を稼ぎ、ローゼは宿屋暮らしだった。
ジェイスもローゼが刺繍を施したハンカチを身に着けている。
幸運など信じたこともないが、ローゼに持っていて欲しいとお願いされたら断ることもできない。
「とりあえず、今日は帰るか」
ローゼはジェイスと一緒に帰れることに喜んだ。
その表情を見おろしながら、ジェイスの心の内は複雑だった。
今夜のようなことが起きるなら、ローゼの安全のためには別々に暮らす方が良いのだ。
二人が歩きだした時、一人の騎士が近づいてきた。
「ジェイスだな?」
ローゼを背後にかばい、ジェイスは穏やかな物腰で振り返る。
「第七騎士団のエリックだ。今回の戦いぶり見事だった。騎士団に是非勧誘したい。募集には一度も来ていないな?実はこの辺りの防衛に成功しているのは君のおかげだと噂には聞いていた。第七騎士団はリュデンの町周辺を管轄する。参加してみないか?」
ローゼが、ジェイスを引き止めようと腕に抱き着く。
「いえ、騎士団に入ることは考えていません」
首を横に振り、森に戻ろうとするジェイスの背中をさらに別の声が引き止めた。
「ジェイス・フォスター様ではないですか?」
丁重な呼びかけに、驚いて振り返ったのはジェイスだけではなかった。
第七騎士団のエリックも目を丸くしてふり返る。
馬で近づいてきたのは王国騎士団の隊服に身を包んだ立派な騎士で、盾の国章には十五と刻まれている。
第十五騎士団は戦場に立つ騎士団の後方を支える部隊であり、主な任務は騎士たちの家族への手紙の配達だ。
「第十五騎士団、ユーリ・バラスです。調査と配達を任務としております。フォスター家のレアナ様からのご依頼です」
レアナと聞いた途端、ローゼの顔は真っ白になった。
馬から滑り下りてきた騎士は、鞄からフォスター家の紋章が押された手紙を取り出し、ジェイスに差し出した。
「これは……騎士であられたのか?」
第七騎士団のエリックが、手紙の紋章印を見て驚きの声をあげた。
ローゼは小さく震えた。
ジェイスは黙って封筒を受け取り、手紙を取り出した。
ざっと目を通したジェイスは渋い顔をした。
「返事が必要か?」
王国の騎士に対等に口をきくジェイスにローゼはさらに怯え、ジェイスの腕から手を離した。
「受け取りの証だけ頂きます」
別の書類を取り出し、ユーリはサイン欄を指で示した。
ジェイスが指を押し付けると、金色の文字が紙の上に光りながら現れた。
素早くそれを丸め、鞄に戻すと、ユーリは一礼し町の方へ駆け去った。
「ジェイス殿、ご事情はあると思いますが、どのような形であれ、国のために働くことを考えて頂きたい」
残ったエリックも、丁重に頭を下げると町の方へ去っていった。
魔獣の死骸は片付けられ、街道にいた人々も引き上げていく。
静かな森の道にジェイスとローゼが残された。
「ジェイス……貴族様だったの?……」
数歩離れてみていたローゼが問いかけた。
ジェイスは腕を伸ばしローゼの体を引き寄せた。
「昔のことだ。今の俺は無一文の世捨て人だ。すべてを奪われ家を出された」
それでも、家に戻る必要が出来た。ジェイスは説明しないわけにはいかないだろうと考えた。
二人は森の小屋に場所を移した。
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