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伯爵夫人の断罪

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ダリアによる拷問や虐殺が二年近く続いたある日、ルマドロフ帝国の首都ペテルサントール市の宮殿にとある領民からの嘆願書が届けられた。それはサルバドゥールイゴーヴァ伯爵領の領民から五年前に皇帝位についた女性君主、エカテリーナ二世にあてた必死の嘆願であった
エカテリーナはダリアの悪行に酷く心を痛めたが名門貴族を罰するということは他の貴族から批判を受けことを避けることができない。五年前に即位したばかりで高位貴族の支持なくば帝位を存続させることができないエカテリーナにとってダリアを処罰することは非常に難しいことであった。しかし、領民が無差別に虐殺されているこの状況を捨ておく訳にはいかず、一先ずの措置としてダリアの身柄を確保し警察当局による取り調べを開始した

「なんということか……」

多少はダリアのことを庇おうと考えていたエカテリーナは警察から提出された報告書に目を通して絶句する。あまりにも酷いダリアの罪状に目を背けたくなった

「生きた人間の爪をはぎ、四肢を切断するなど、民の手本となる伯爵夫人のすることではない」

エカテリーナはダリアを罰することを決意した。
しかしこの時点ですでに事件発覚から6年近くが経過しており処罰反対派の貴族も多かったためにエカテリーナは減刑を余儀なくされた。最終的にダリアには「民への晒し刑」が行われた。ダリアは首に「民を虐殺した女」という看板をかけられてペテルサントール市の人が多く集まる噴水広場に1時間立たされた後にペテルサントール市郊外にある教会の地下室で無期刑に処されることになった

「どうしてわたくしがこのような目に?だってわたくしは高貴な伯爵の妻なのですよ。メドウレの名門ギヴァルシュ家の娘、グリムクラーク侯の娘ですのよ!サルバドゥールイゴーヴァ家の伯爵代理であるわたくしに!」

彼女は晒し刑に処されている時も態度を変えず地下室に閉じ込められてからも態度を変えなかったそうだ。
この出来事によりサルバドゥールイゴーヴァ家は取り潰されるかと思われたが処罰反対派の貴族たちによって寄付が集められセオドア・アマティウス・サルバドゥールイゴーヴァがホールシュテイン伯爵位を継承したため家門は存続されることとなった

グリムクラーク侯ヴァレール・エレメントルート・ギヴァルシュは娘が処刑されることに何も異議申し立てをしなかったと言われている。彼はあまりの罪悪感から侯爵位を息子に譲り渡しその後は教会に通いつめたと言われている。



そして全ての元凶であるダリアは地下室に閉じ込められたてから31年後の大陸歴1801年12月27日に71歳で死去した。彼女は31年間身体を洗うことすら許されず小さな小窓から差し入れられる食べ物を食べて生きるだけの時間を過ごしたと言われている。幼き頃から優雅な生活をしていた彼女にとっては死よりも屈辱的な刑であったと言えるだろう。しかしそれでもなお地下室で31年間もの年月を生き続けたのは彼女なりの信念があったのかもしれない……



彼女の農奴大量虐殺事件はルマドロフ帝国が180年後に滅亡した後もこの地に語り継がれ、3代悪女として歴史の教科書に乗ることになった
この事件の被害者数は138人であったといわれている
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