翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

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八月二十二日

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 かおりは夢を見ていた。
 その夢はいつも通り、海の中から始まった。あの太陽の光が突き刺す、透明なほどの翠緑色エメラルドグリーンの海だ。しかし今回は太陽の光などどこにもない。昏い空が広がっていた。まるで翠緑色エメラルドグリーンに黒の水彩絵の具を混ぜたような海の中に、かおりはいた。
 水を弾く大きな膜で覆われたまま、上昇していくのが分かった。近づいていく波の音、人の声があった。しかし、人の声はいつもよりも遠くから聞こえているような気がした。声よりも波音の方が大きかったのだ。
 目を開けても何ら問題はないはずだが、なぜか開けることができなかった。怖かった。昏いからかもしれないし、別の理由があるからかもしれない。このまま空へ向かっていくと、怖いところに連れて行かれてしまうのでは、と不安に駆られた。そんなかおりを嘲笑うかのように、膜はスピードを増して上昇を続けた。
 翠緑色エメラルドグリーンが消えて、闇一色の世界に投げ出された。下を見ると、もう海はなかった。空を仰げば闇が迫っている。泣き出しそうになった。それに反応したのか、頭上から泣き声が聞こえた。その叫び声は自分の声にそっくりであることに気がついた。もしかすると自分は泣いているのかもしれない。空に反響して、あたかも空が泣いている錯覚に陥っただけかもしれない。
 いやだ、怖いところはいやだ。闇は届きそうで届かない距離で待ち構えていた。闇を拒む術はないのにもかかわらず、それを必死に見つけようとした。無意識にかおりは泣き叫んでいた。小粒の涙が頬に跡を引いた。昏い空はもう少しで自分を飲み込んでしまうだろう。徐々に泣き声が近くなり、海の中では聞こえていた人の声はどこからも響かなかった。いや、泣き声がその声をかき消しているのだと思ったが、泣き止むことができなかった。ああ、怖いところに連れて行かれてしまう。
 その時、周りが、ぱぁと明るくなった。太陽よりは弱々しい光であっても、闇を照らすには十分だった。つぶっていた目を恐る恐る開けた。瞼に溜まっていた涙が一斉に流れ出た。眩しくて何も見えなかった。やっぱり怖くて、また固く視界を閉ざした。すると女の人のうめきが周囲に反響し、上昇するごとにさらに苦しそうに喘いだ。こんな声は聞いたことがなかった。海の中で聞こえた声はこの人のだったのだろうか。名前は思い出せないが、自分が知っている男の人ではなかったのか?もう、分からなかった。
 出口はすぐそばだと悟った。呻き声と自分の泣き声で、他の音が入り込む余地などなかった。下を向こうとしたが、左右から締め付けられていたので身動きが取れなかった。取り囲んでいるのは闇ではなかったが、出口の先は闇に違いない。ああ、怖いな、怖いな。もう一度だけ静かな海の中で眠りたい。多分、一生、叶わないけれど。
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