ムーヴ・べイン

オリハナ

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【1・光の聖守護獣 編……第一章 開花】

4・異変③

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優兎ゆうと君の症状の程はいかがですかな?」

 優兎の担当医である男性が尋ねた。小さな子供が好きそうな、動物のシールがぺたぺたと貼ってあるペン立てからボールペンを引き抜く。

「先週の二十五日に四十度近くの風邪、それから二十九日には胸の痛みを訴えていました」 母は手帳をめくって言った。「二十五日のは一日で完治。二十九日のは四日ばかりかかっています」

 母の報告を受けて、医者は診療記録ファイルにペンで書き込んでいった。「目の方は大丈夫ですか?」と書きながら尋ねる。

「昨晩なりました。夕食を食べていた後でしたわ。いつものようにすぐ収まりましたが、また目の白い部分ではなく、虹彩こうさいが真っ赤になりました」

「うーむ……関連性があるかどうか……。チャンスがあれば写真を撮ってきてもらえますかな?」

「分かりました」

 二人のやり取りはこの後も長々と続いた。話の中心であるはずの優兎は会話には参加せず、イスにじっと座っていて、壁にかかったカレンダーを見ていた。もう、こんな会話は聞き飽きていた。医者がここ最近の優兎の具合を尋ね、母が報告する。治る見込みも見られずに二・三週間ごとに病院を訪れていれば、優兎がこの報告会を興味無さそうに聞いているのも仕方がなかった。

 胸が痛んだという事なので、優兎はレントゲンの検査を受ける事になった。優兎は素直に承諾したが、心の内では「レントゲン代って結構するんだよな……」と考えている。

 部屋を移動する際、前から親子がやってくるのが見えた。足に包帯を巻いた男の子と母親だ。二人の穏やかな表情から、彼らは退院していくのだと一目で分かった。母親の腕に下がっている紙袋は二つ。どちらも大きく、一方は膨らんでいる。一週間程入院していた事と友達に恵まれている事が予測された。

 車イスを押す看護師から母親が避ける際、膨らんだ紙袋から千羽鶴の一束がぶら下がった。それを目にした瞬間、胸がチクリとした。

 すれ違う寸前、折り鶴が一羽、束から転げ落ちた。優兎はほとんど無意識に拾っていた。

「あの、これ落ちましたよ」

 親子に声をかけるまでの流れも早いものだった。

 その後、検査の結果は異常がないと伝えられ、入院は免れた。優兎は風邪薬の二週間分と目薬を貰った。

「優兎、あんたずっと仏頂面ぶっちょうづらだったわね。先生に失礼だから次は気をつけなさいよ」

 帰り道、母はハンドルを握りながら言った。信号が黄色から赤に変わったので、二人を乗せた車はストップする。車体が揺れて、薬の入った袋が座席から落っこちた。

「そりゃあ仏頂面にもなるよ。あの先生あんまり好きじゃないし。僕をただ単に体の弱い奴だって思ってる。おまけに少しニンニクの匂いがした。ちょっと意識が低いんじゃないかな。シールも貼ればいいってもんじゃないくらい露骨だし……」

「ちょっと抜けてるだけよ。それに、目が赤くなった事をしつこく押し出していけば、ただの体の弱い子じゃないって本腰入れてくれるかも」

「……僕が何か発病する事を喜んでるみたいだね?」

「まっ、入院しない程度っていうのは前提にね。今度は懐中電灯くらいペカーッ! って光ってみせるようあんたの目に言っといてくれる?」

「あはは、なんか便利そう」

 優兎は苦笑しながら落ちた袋を拾って、自分の横に置いた。

 後部座席の窓からぼんやりと外を眺める。遠方の住宅地の中を走っている電車を目で追っていると、ふと、反対車線側の道路に一人の老人が歩いているのが目についた。英国紳士えいこくしんしといったなりだ。こんなところを外人が歩いているなんて珍しいものだが、優兎がいろいろと予測を付ける前に車が発進してしまったので、すぐに見失った。

「優兎、ちょっとスーパーに寄っていくわよ。牛乳切らせちゃって」

 優兎も何か買う? と母は聞いた。優兎は考える間もなくいい、と答える。別段普通の会話だが、優兎が遠慮ところが母には気がかりだった。

「そうねえ。なら、ケーキは瑠奈るなにだけ買ってあげようかしら。優兎にはもっと大きなプレゼントが待ってるんだものねえ。近々、優兎の欲しがっていた『DRGリング』、買ってあげようかとお父さんと相談しているんだもんねえ~」

 重要な部分を強調して母は言った。

「え! 嘘、本当に!?」 優兎の目の色が変わる。

「本当よ。なんで嘘つかなきゃいけないのよ」

「うう、瑠奈と同じ事を……」

 DRGリングとは、今日本で話題沸騰中のゲーム機器の事だ。DRG社が開発したもので、主にファンタジーアクション系のソフトに用いられる。腕輪のようになっており、両手首にはめてプレイするスタイルだ。魔法を打つさまをCMとして発表してから、わずか三ヶ月あまりでブームとなった。これを受けて世界進出も考えられているらしい。

 注目しているのは優兎も例外ではなかった。特殊な手当がかず、診察代などを払うのに手いっぱいなので、大げさに欲しい欲しいと駄々をこねる事は避けていたが、会話の中に混ぜ込んでさり気なくアピールした事はあった。両親の気が向いた時に少しでも安く手に入るよう、新聞の中に時折挟まっている、五パーセントオフの券付きおもちゃ広告も集めていた。

「目はおかしな事になっているけど、視力に問題があるわけじゃないし。ゲームして病に支障が出るとは思えないものね。――優兎、オフ券はいくつ集まってる?」

「この間ゴミ捨て場から拾った一枚を合わせて六枚。最初の一枚は怪しいけど、残り五枚の期限はまだいけると思う。買ってくれるなら、もっと探してくるけど?」

「あんたのそういう抜け目のないところも、雑草根性も、感心するわ。じゃあもう少し待とうかしら。ソフトの事もあるし、少し経てばそっちも安くなるかもしれないわね」

 車の列が途切れるのを待ってから、母はハンドルを回し、車をカーブさせた。

「優兎、ソフトとそれからリングの色、何色にするのか決めときなさいよっ!」

 優兎は嬉しそうに頷いた。――しかしこの後、ソフトや色を決めるだなんて悠長な事を考えられない事態におちいった。




「三十七度八分…ちょっと高いわね」

 母は温度計の数値を読んで顔をしかめた。

「まったく……さっき病院に行って、何もないって言われたばかりなのに。これはどういう事なのかしら」

「そんなの、こっちが聞きたいよ」

 ベッドに横になった優兎は呆れ返っていた。額には熱冷ましのシートを貼付けている。

 母が買い物を済ませて車に戻ると、優兎は苦しげにうめいて横になっていた。症状は動悸と発熱。動悸は移動中に治まり、今現在は熱のみとなっている。咳をしている人に出会ったり、冷たい風に晒されたわけでもないので、例の病である線が高い。二人はまたかと頭を悩ませた。

不知ふじの病、ね……。ホント、誰か知ってる人はいないのかしらねえ……」 母は呟く。「優兎、ちゃんと安静にしてるのよ。小説書いたり、本読んだりするんじゃないわよ」

「分かった」

 優兎は寝返りを打つと、目を閉じた。母は優兎が寝る体勢になったのを見届けると、部屋を出て行った。そうして階段を下りていく音が遠くなると、優兎は目を開け、布団をはいで勉強机にある本を取った。

 その時、バンッ! と部屋のドアが開かれた。

「あー! お兄ちゃん、本読んでる! いけないんだー!」

 瑠奈が現れて、部屋に入ってきた。後ろからヒナ鳥のようにちゅん子もついてきている。優兎は意味もないのに、慌てて本を布団の下に潜り込ませた。

「シー! 瑠奈、母さんには内緒で!」

 じゃないとちゅん子の事を話すぞとおどすと、瑠奈は膨れっ面になって黙った。目に見えないものの存在を説明するのは一筋縄ではいかないのに、瑠奈はその辺を分かってはいないようだった。ふうむ、この手は使えるな。

「あ! そうだお兄ちゃん、瑠奈ね、すっごい事発見しちゃったの!」

「その前にマスクつけなよ。イスの下にあるから。ひょっとしたら感染するかもしれない」

「ううん、大丈夫。お兄ちゃん元気そうだし、瑠奈強いもん」

 すっぱりと断る。けれど普通に接してくれる妹が、優兎には少し嬉しかった。

「で、凄い発見って?」

「あのね、お兄ちゃんとお母さんが出掛けた後、ちゅん子を散歩に連れてってあげたの」

「……犬でもないのに?」

「ちゃんとついてきてくれたよ。ダメ? ――でね、近くの公園の周りをぐるっと回って、ちょっと遊んでから帰ってきたんだけど、なんと! だーれもちゅん子の事聞いてこなかったの!」

 瑠奈は興奮した面持ちで言った。優兎は眉をひそめる。

「誰も? 子供には?」

「見えてなかったみたい。公園で瑠奈より小さい子がいっぱいいたんだけど、何も言ってこなかった。歩いてる時に犬を散歩してるお爺ちゃんとか、走ってるお姉さんにも会っておしゃべりしたけど、やっぱり見えてるようには見えなくて――」

 そこまで言って、瑠奈はハッとする。

「あ! 違う。一人だけいた! お隣さんちの女の子! ちゅん子の方を見て、首を傾げてたから、もしかしたら見えてたかもしれない」

「へえ、瑠奈、やるじゃないか」

 とりあえず、瑠奈の調査(という名の散歩)で分かった事は二つ。一つ目はちゅん子が半透明状態になると、人の目には写らなくなるという事。二つ目は例外もあるという事。砂粒が降り掛かった優兎と瑠奈には見えているし、それがなくても見える子には見えるらしい。ますます興味深い生き物だ。優兎自身も、親に迷惑がかからないのなら秘密裏ひみつりに飼っても問題ないだろうという考えになっていた。

「えへへ、こんなふうに消えちゃうんだもん、なんだかみたいだね」

「それを言うならDRGリングだろう?」

 はしゃぐ瑠奈を見て、フッと笑う。DRGリング、つまり魔法のようだと言いたいのだろう。DRGリングの特集をテレビでやっていた時に、リングをはめて画面に魔法を撃ち込む人を見て感激していたのを覚えていた。兄妹揃いも揃ってファンタジー好きである。

 ……魔法、か。優兎はふと、うら悲しい気持ちになった。確かにちゅん子は他の鳥に比べて不可思議な点が多いし、瑠奈の言い分も分からなくはない。しかし、魔法というのは映像や本なんかの空想や、勘違いから成り立っているものだ。残念だが、現実では絶対に

 優兎は空想世界を愛している裏で、現実には存在しないものであることを、きちんとわきまえていた。それでいて、そんなふうに考えてしまう自分を嫌悪してしまうのだった。

「――うん、よし! じゃあ瑠奈、今度はちゅん子の餌について調べてみようか」

 悲しくなる考えを振り払うように、優兎は切り出した。

「うん!」 瑠奈は話に乗ってきた。

「鳥専用の餌はないから、まずは食パンとか、生米なまごめでいこうか」

「お菓子もどうかなあ? クラッカーとかビスケットとか。だいちゃんちのインコは食べてたような気がする」

「ビスケットか。いいね、あったら頼むよ」

「ん?」 優兎の言い方におかしいところを見つけた瑠奈は、キョトンとする。「あれ? 瑠奈が持ってくるの?」

「当たり前。僕が下に降りていったら、母さんに叱られるし。それに、飼いたいって言い出したのは誰だったっけ?」

「うー、分かった」

 瑠奈はおいで、とちゅん子を誘った。ちゅん子は細い二本足を動かして方向転換をし、素直に従う。随分懐ずいぶんなついているなあ。本当に瑠奈を親鳥だと思い込んでいるみたいだ。
 優兎は部屋から出て行く一人と一匹を、面白そうに眺めた。
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