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11章 タイアップ

179 パッケージ

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 10月と11月のライブをわずかに減らした結果、レコーディングの時間が取れた。
 そしてこの間に、新しく作った曲の音源が出来ていく。
 日程に余裕を持っていたのに、結局リテイクの要請はなかった。
 この空いた時間で、アルバムの音源を作ろうとしたということだ。
 高校生組が週末を除いては、夕方以降にしか来れないという時期ではあるが、なんとかフルアルバムをまた作ろうとしていたのだ。

 これまでにオリジナルアルバムを一枚、カバーアルバムを一枚、ミニアルバムを一枚出しているノイズ。
 インディーズとしては上々の売上であり、そしてDL販売も想像以上に好調ではある。
 ただしいまだにサブスクへ参加せず、MVのある二曲を除けば、無料で聞く手段がない。
 ここで以前にも言っていた海賊版の問題が出てくるのだが、面白い現象が存在する。
 確かに海賊版は拡散してはいるのだが、思ったほどには拡散していない。
 その理由は、ノイズの名称のシンプルさによるのだ。

 つまりノイズというあまりにシンプルで、日常でも使われる単語がバンド名であるために、検索しても他のものが出てきて、海賊版に行き着きにくい。
 皮肉な話ではあるが、検索が難しいことが、海賊版に到達することも難しくしているのだ。
 さらに言えば、アニソンカバーはともかく、一曲目のアルバムは「1」というタイトルであったのだし。
 ミニアルバムはファーストアルバムほどは売れていないが、曲の全体の質はあちらの方がいい。

 アルバムの売れる条件の一つには、やはりキラーチューンが存在する、ということが大きいだろう。
 ノイズは俊の作った新曲を、どんどんとライブで演奏している。
 新しい曲の音源は、もちろんファンは欲しがってくれる。
 だが切り売りするようなことは、俊はしない方針だ。
 これは悪手であると、阿部は何度も言っている。
 ライブでオーディエンスが期待するのは、知っている曲を歌ってもらって、そのフィーリングを感じ取ること。
 なので普段は音源として出した曲と、カバー曲を中心に行い、新曲は一つか二つずつの演奏にとどめている。

 その中でアンケートを取り、評判のいいものに順番をつけている。
 求められるものを中心としながらも、全体の構成がおかしくならない程度に、実験的な曲も収録する。
 それが俊の考えで、レコーディングもその体制で行われている。
 今回は12曲を入れようかと考えているが、暁がどうしてもアレンジを加えていってしまう。
 俊が苦難の末にたどり着き完成させた楽曲を、その場のフィーリングで改変してしまう。
 多くの蓄積があるとはいえ、天才の所業に思える。

 映画アマデウスの中で、サリエリがモーツァルトに渡した曲を、モーツァルトがその場で即興で、発展させてしまうシーンがある。
 俊はあの映画を何度か見たが、モーツァルトが狂気に犯される姿や、サリエリの心情がよく分かる。
 でなければサリエリなどという名前をボカロPとして名乗ったりはしない。
 実際のサリエリは、再評価されているのが現代だ。
 そもそもモーツァルトは破滅的な人格であり、天才である代わりに常識がなかった。
 なので成功するのは、サリエリの方が当たり前であった、とさえ言える。

 俊自身も実は、モーツァルトはそんなに好きではない。
 クラシックで好きなのは、もっと時代が違うバッハや、あるいはモーツァルトに近い年代ならばベートーベンである。
 モーツァルトはとんでもないタイトルの曲を残しているし、確かに今でも残る名曲が多いが、軽快すぎると言えるだろうか。
 当人のことまでも知っているだけに、軽薄という感想を抱いてしまう。



 12月のワンマンライブまでの間に、アルバムを制作し終えないといけない。
 フェスでも売るスペースはあるが、やはりワンマンの時に売りたい。
 今回はまた、さらに多い2000人規模のハコを予定している。
 巨大なホールやアリーナを別とすれば、ほぼ最大規模のハコになる。
 ここを二日間で四回、ライブをすることになる。
 どれだけの体力が必要かを考えると、ちょっと気が遠くなってしまうぐらいのものである。

 年末の年越しフェスは、時間こそ短いものの、とんでもなく大きなハコで開催される。
 夏のフェスで二万人以上を集めたが、それよりも多い人数が入る。
 アリーナを使っての、贅沢なフェスになることは分かっている。
 それをおよそ一週間の間に、両方行うというわけだ。

 またコミケの参加もその間にある。
 音楽はさほど大きなジャンルではないが、それでもアニメーションMVを使っていると、顔をつないでおきたくなる。
 打算的なことを言うのならば、伝手を作っておくことで、今度のアニメタイアップに有利になるかもしれない。
 もちろん圧倒的な実力差があれば、話は別であろう。
 だが俊は原作を何度も読み込み、あの作品のための曲を作った。
 2クールで放送される星姫様は、OPもEDも1クールごとに変更する。
 四曲の中の一つぐらいには、選ばれてもおかしくはない。

 そう考えていた俊であるが、まだ〆切りは先の話。
 アメリカから届けられたのは、オリバー・ウィンフィールドからのアニメーション。
 霹靂の刻を使ったOP映像である。
 まだ発表されてはいない。このOP映像をもって、スポンサーなどを探して説得していく必要があるのだ。
 だがまずは、楽曲の提供者に対して、こうやって完成品を送ってきた。
 ただバトルシーンに使うであろう、雷についてはまだ何も言ってこない。

 この映像はYourtubeでも流れる予定である。
 その反応すらも、スポンサーを説得する要因となる。
 もっともオリバーはアニメーターなので、実際のプロデュースは他の人間が行うらしいが。
 日本のような30分枠のアニメであり、一話完結の作品となっている。
 それを1クール放送するのだが、実際に完成して配信するまでには、半年以上先の話となる。



 基本的には、設定は俊が考えた、霹靂の刻のアニメMVをリスペクトしたものとなる。
 だがアメリカ人が日本のチャンバラを、果たして面白いアニメーションに出来るのか。
 正直なところそれは、懐疑的な俊であった。
 しかし少なくとも、OPはしっかり、日本のアニメの影響を受けたような作りとなっている。

 舞台がファンタジー日本であるのは、オリバーにとってその方が都合がよかったからだ。
 日本は鎖国時代もそうであるが、それ以前の戦国時代も、ほとんどアジア系の人間しか存在しない。
 ポルトガルの宣教師が来たことは確かであるが、それもごく限られた数。
 他の有色人種は、黒人が一人だけ、というまさに世界の東の果てという地域であった。

 そんな日本をなぜ舞台にしたかというと、オリバーはアメリカの映画やアニメーションにおける、ポリコレに嫌悪を抱いているからであるらしい。
 純粋な作品の面白さではなく、それがいかに政治的に正しいか、という馬鹿らしい理由をもって最近のアメリカの作品は作られている。
 アニメーションもそうであるが、他の映画やドラマなどもそうである。
 思想が入るのは別にいい。思想をテーマにした作品もあるからだ。
 だが思想を絶対視して、従来の価値観を古いと決め付けてしまうことこそ、まさに愚かな考えであるのだ。
 ルッキズムの行き過ぎた否定により、アメリカでは女性の美しさというものが消滅しかけたと思える。
 そもそも誰が作っているかというのは、能力によって評価されるべきだ。
 黒人や少数民族が作っているから、それで正しいなどとしてしまうのは、芸術に対する冒涜であろう。

 よく例えられるのが、色の問題だ。
 日本のアニメ作品というのは、様々な価値観がある。
 それは赤であったり青であったり、白であったり黒であったりする。
 だがアメリカの場合は、全てが虹色でなければいけない。
 平等や公平に見えるが、全てをその虹色で染めてしまうというのは、傲慢以外の何者でもない。
 多様性を本当に認めているのは、どちらの文化であるのかは、言うまでもない。

 アメリカ人の考える日本人風時代劇に近い。
 まさに元ネタは荒野のガンマンという西部劇なのだろう。
 それを主人公を女にしているあたり、まさにMVの設定をパクっているとは言える。
 もっともあれは、そこから発展性などなかっただけに、別にパクられても構わない。

 本編を見てみないと感想などは言えないが、少なくともOPの作画は素晴らしかった。
 ヌルヌル動くところは、さすがアメリカのアニメーションと言ったところか。
 ただ日本で受けるかどうかは、本編次第と言えるだろう。 
 OPだけがよかったアニメ、と日本で評価されたなら、得をするのはノイズだけである。
 どのみちアメリカでの配信はまだ半年先なのだから、今はもうこちらで考えることなどはない。



 俊はアニメとアニメーションを、全く別のものと考えている。
 いや、日本のアニメとアメリカのアニメーションを、全く別と考えていると言った方がいいだろうか。
 アメリカの場合は作品の中に、唐突にミュージカルが入ってくることがあり、そういった作品はどうにも好きになれない。
 音楽を作っている俊であるが、アニメの主役はストーリーとアニメーションだと思うので、そちらを考えるべきだという思想なのだ。
 とりあえず今は、二月が〆切りのコンペに対して、出来た曲のアレンジを考えている。
 曲をそのまま丸ごとと、90秒にカットしたバージョン、両方を提出ということになる。

 ノイズが求められているのは、OPの方である。
 だいたいアニメはOPが軽快か派手なものになり、EDはバラードやブルースっぽくなるものだ。
 別にそちらも作ろうと思えば作れたのだが、ノイズには求められていない。
 ぎりぎりまでアレンジを考えていくのは、俊たちの仕事である。
 ただこの仕事のおかげで、他にも色々な曲が作れてきた。
 毎週一曲どころか、一日で一曲を作った場合などもある。
 ポール・マッカートニーは朝起きてそのままピアノに向かい、Let it be を完成させたと言われているが、ノっている時はどんどんと曲が生まれるものなのだ。

 時間をかければいいものが出来るとは限らない。
 もちろん物理的な限界というのは存在するが。
 インスピレーションからすぐに、曲が生まれるということはある。
 色々と考えて作った曲よりも、生まれるままに作った曲の方が、自然といい曲になったりするのだ。
 ノイジーガールがそうであったし、アレクサンドライトもそうであった。
 その後はしばらく、かなり悩みながら作った曲が多いが。

 アニメOPのイメージに使えそうな曲も、色々と出来ている。
 ただし実際のコンペに出すとなると、採用されるなり不採用が決まるなりしないと、先にライブなどで発表することが出来ない。
 比較的出来のいい曲ほど、使えないというジレンマ。
 もちろん作った曲の全てを提出するわけでもないし、正式に発表されて使われた後は、ライブでも演奏出来ることになる。
「そういやあそのアニメ、いつ放映されるんだ?」
「夏アニメって聞いたから、来年の七月だと思うけど」
 阿部はそう言うが、俊は少し気になった。
「今から七ヶ月ぐらいで、2クールアニメって作れるものなのかな」
 霹靂の刻のアニメーションは、なんだかんだ言いながらCGをかなり使えるものであった。
 基本的に殺陣のシーン以外は、複雑な動きなどはない。

 テレビアニメの場合はどうなのだろう。
「昔は放送日の30分前にフィルムが完成するとかもあったらしいけど」
 千歳は地獄のような事実を言うが、それよりももっとひどいものもある。
「エヴァンゲリオンの最終回は凄かったわ」
 阿部は遠い目をしているが、俊たちは本放送が終わった時代に生まれていて、そもそも新しい方の劇場版ぐらいしか見ていない。
 それすらも見ていないメンバーが普通にいるのだ。

 ちなみにマンガの神様手塚治虫には、もっとひどいエピソードがある。
 既に放送されているアニメの絵を、それを見ながら描いていたというものだ。
 もう絶対に間に合わないのに、なぜそんなことをしているのか。
 手塚治虫はちょっと人間をやめているレベルの創作者なので、奇行に走ってもおかしくないのだろう。

 ノイズとしては作品自体がいまいちであっても、曲が聞かれればそれでいい。
 ぶっちゃけてしまえばそういうものなのだ。
 ただ原作者などが可哀想な出来になることもあるという。
 いまだに日本では、なんだかんだ数合わせのように、B級品と言うべきアニメも作られているのだ。
「アメリカと日本で同時に、曲が使われるようになったら凄いな」
 俊はのんびりと呟いていたが、まずは12月のワンマンライブに向けて、しっかりと告知をしていかなければいけない。
 そしてそれまでに、アルバムも作っていかなければいけないのだ。
 音源だけではなく、ジャケットやライナーノーツなども、ある程度は凝ったものが作れる。
 それぐらいの金はかけられるぐらいには、ノイズは期待されるようになっている。
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