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ある日突然、口と性器の価値観が入れ替わっていた
しおりを挟むある日突然、世の中の口と性器の価値観が入れ替わっていた。
確かに昨日までは全く変わらない、自分が知る常識が支配する世界であったはずなのに。
何故か朝起きたら、口というものは隠して秘すべきものであり、人前で晒すなどとても卑猥で恥ずかしいことになっていた。
アパートの部屋を出て、掃き掃除をしている大家のおばあさんに声をかけたときの向こうの驚きようで初めてそうと知る。
しわしわだらけの老人班の浮いたところに何時に無く木綿布のようなものを巻いた顔が開口一番。
アラマァ、あんた、そんなものを丸出しにして!!
まったく、寝ぼけてんのかい?
それとも朝から酒でも飲んで酔っ払っちゃってんのかい?
早く何か履きなさいよぉ!
昨日まではちゃんとしてたのに、いきなりどうしちゃったの!
なにいってんの、むかしっから世の中ずっとそうでしょ!
そういうことらしい。
勿論最初は半信半疑であったけど、大家さんが嘘をついたり冗談を言っている風でもない。
ちらほらと道行く人々の姿が目に入るに従ってますますそう思わざるをえなくなる。
確かに顔の下半分、口の部分が露出しないように何かしらの方法で覆っており、こちらに対して信じられないものを見るような軽蔑か滑稽なものを笑うような好奇、いずれかの視線を向けているようだ。
なるほど。
そんな大掛かりなドッキリを仕掛けられる理由も仕掛けるメリットも全く思いつかないから、まずはあらゆる疑念も疑問も置いて、この自分にとって奇妙奇天烈な目新しいルールの方が正しいのだという前提で行動することを心に決める。
理由や原因など考えるのは後である。
とにかく今確実なのはそうなってしまったということと、否定できる何かを自分がもっているわけではないということなのだ。
こういう時にはまずは周りと同じように振舞うのが賢いやり方であるはず。
それなりに積んだ社会経験で風習や文化が異なる場所での対応方法は身につけたつもりだ。
ようはそれと一緒だと思えばいい。
そうして自分が狂ったのか、世界が狂ったのか、その判断もつかぬままにマスクをしてから出社をやりなおす。
まず、駅に着くまでの道行きで大家さんが嘘をついていたり、自分が担がれている可能性は完全に捨て去った。
誰もが何がしかの方法で確かに口を隠蔽しており、徹底している。
自分が今しているような使い捨てのマスクはごく珍しいようで、ほとんどの人間は繰り返し使用すること前提の一種の衣料品といっていいほど手の込んだ縫製されたものを使っているのがわかった。
特に女性はバリエーションが豊富で、デザインから材質、色彩まで様々なもので己の顔を覆っている。
年若の女の子、中学生くらいまでは綿のような生地で白一色の布を顔の下半分、輪郭に沿う様にぴったりと当てて覆うことが多いようだ。
ランドセルや学生鞄、リュックを背負った彼女達の制服とあいまったその統一感に規律めいた堅苦しさと清楚な印象を受ける。
対照的に女子高生と思しき年頃の娘さんから一気に広がりを見せる、色と形の多彩さ。
桃色やイエローのパステルカラー、赤や青の原色に黒や紫、ゴールドまで。
しましまに水玉、チェック花柄マーブル、迷彩やアニマル柄も。
やわらかそうな綿地、ツルツルのサテン、ポリエステルやレーヨンらしき伸縮性を見せているもの、高級感のある光沢を放つシルク。
飾り気の無いシンプルなものから、レースやフリルの装飾がこまごまとされているもの。
顔半分をくまなく覆うようなものから、側頭部や顎先にかけて急激に細くなっているもの、果ては唇の上を帯のように覆うだけでギリギリまで露出しているものなど。
若々しい女子高生や女子大生、ケバケバしい水商売風の女、中年の主婦に艶っぽいOLらしき女まで皆それぞれに似合った(あるいは似合わない)多種多彩な布を用いて口を覆っている、その圧倒的なまでの光景。
なんというか、女のおしゃれに対する執念はなんであれきちんとこうして発揮されるのだなぁと感心してしまう。
どれだけこれが自分にとって異常な事態であろうとそのルールを前提とした人の営み自体にはなるほどと思わせる合理性や必然性を感じてしまう。
やがて会社につくころには、もう一つ自分が知る常識とは違うところがあるのに気がついた。
口を露出することが禁忌であるのに対して、股間についている性器については全く問題視されないようだった。
季節柄、皆厚着をしているからわからなかっただけで少し注意力を発揮すれば容易にその事実は確認される。
そこかしこで何かの拍子にコートの下が覗くたび、ちらりちらりと男も女も排泄と生殖に用いるための器官をあっけらかんと晒しているのだ。
もはや完全に異世界に迷い込んでしまったのだと割り切り始めていた自分は、多少の驚きと欲情を得てから淡々とその事実を受け入れる。
動じるところが無かったといえば嘘であるが、一度そうと知ってしまえば後は好奇心の方が勝ってくる。
ズボンやスカートといったものを着ている場合もあるようだが、必ずしも必須というわけでもないらしい。
単に防寒以上の意味合いがあるわけではなく、基本的には下半身には何も纏わない。
オフィスに入った自分を待っていたのはそういう光景だった。
男も女も皆、一様にマスクで顔の下半分を隠し、それでいて下半身は完全に露出している。
その姿のまま互いに全く気にすることなどなく、自分がよく知る会社という営利組織でのやりとり、仕事の業務をこなしているのだ。
上半身にはきっちりとスーツなりYシャツなりを着ているのがさらにその異常さに拍車をかける。
時々スカートや一体型のワンピースタイプの服を着ている女もいるが、その下には何も着ていないのを無防備にちらちら露出されるたびに容易に確認できる。
椅子に座ったり、階段で上を歩かれるたびに簡単に晒されて、さらには向こうは特にそれを問題視する様子は微塵も無い。
羞恥や嫌悪といった心理的抵抗を感じることが一切無いことはもはや確実であった。
それは唇を見るのがとても無礼で侮辱的なことらしいのとは全く対照的である。
たとえ布の上からだろうと、その場所に視線を向けるだけで激しい抵抗と拒否感を誰もが覚えるようなのだ。
これが無理やり露出させて直接視認しようとしたりすれば、言語道断の強制猥褻行為に他ならないらしい。
ましてや触れることなどはいわずもがなであろう。
当然のことながら、排泄と食事という行為に対する取り扱いも全く真逆である。
排泄というのが比較的おおっぴらにやられるのに対して、食事は人目をさけて一人きりになって行うものとなっていた。
それぞれを行う場所の設備や機能などには大きな違いは見られないが、トイレにあった男女の別と個室の壁は基本的になくなっており、逆に食事を行うスペースは男女別になっており間仕切りなどが敷かれて個室であることがほとんどである。
稀に仕切られているトイレも、仕切りが無い飲食場所もあるようだが、それぞれごくごく特殊な用途、一部の趣味嗜好のためにそうなっているだけで一般的ではないということだ。
そんな風にこの世界のルールを反芻する自分の周りには、恥じらいもせず局部を晒してなんら憚ることのない同僚達。
あまりにも当たり前で日常的な、遥か昔から慣れ親しんで生活の一部であることを確信させるごくごく自然な様。
やがてぶらぶらと揺れるものが目前を堂々と行き来する滑稽な可笑しみも、本来であれば絶対にお目にかかれないであろう女性の象徴がそこかしこに開陳されている衝撃も、数日もすると慣れてくる。
我ながら自分のそんな順応に戸惑うが、あまりにもたくさんのものが溢れるように周囲を固めているのだから感覚が麻痺してくるのは当然であろう。
さらには当の本人達が全く気にしていないと、それまで自分にとってはどれだけいやらしくて卑猥なものであったはずでも、そう感じることが難しくなるらしい。
倫理や社会通念にもとづいた禁忌、性的なものとして受容し欲情する心理作用が成り立つためには、たった一人そう思う人間がいるだけではどうやら駄目なようである。
最低限二人、認識の相互作用が発生して初めて成立するものなのだとなんとなく理解する。
つまり自分がいやらしいものだ、恥ずかしいものだ、性的に興奮してしかるべきものなのだとどれだけ言い聞かせても、もはや相手がどうとも思ってないことが完全に把握されて実感してしまえばもうダメだった。
一方的に心を寄せて憧れていた同僚の一人、その女の痴態に抑えられない反応が起こってしまったのもほんの僅かの時間で、むしろあまりにも自然で日々の生活に溶け込んだ態度と風景にみるみる欲情の火は小さくされていき。
最初こそ感じた驚愕と興奮は日常の風景に取り込まれて簡単に消え去っていってしまった。
そうしてそれ以外は全く変わることの無い日々を繰り返し始めると、もう何らも感じることもなく新たな常識を受け入れた生活を我が物にしてしまう。
半年ほども経つころには既にこの状態こそが当然なのだとすら思うようにまでなりつつある。
だが同時にそれまで感じていなかったものがこみ上げるように自分を襲い始めていた。
もはやほとんど目にすることがない、女の口、唇を見たい、触りたいという欲求が抑えきれないほど大きくなっていたのだ。
その場所を隠蔽し秘匿するのが常識だという世間の意思はとても強く磐石なもので、日々の生活の中で見るのが叶うことなど全く無い。
とても親密な、心から愛する者でないと開陳などできない、極め付けにプライベートで恥ずかしい場所。
それが唇なのだから。
インターネットや猥褻な本など、ポルノとして閲覧する以外にはもう全然女の唇を見ていなかった。
それらを利用することである程度欲求を満たせたものの、一時的に解消されただけでその後にはさらに強くなっていくようですらあった。
己が心を寄せる同僚のあの女(ヒト)。
彼女の唇を見たい。
触りたい。
思うままに我が物にしたい。
我慢がならなくなったので、これまでにない勢いと情熱をもって口説き始めた。
上手くいかなかったことを想像する怯えとか恥をかきたくないという見得などが阻んでいた彼女へのアプローチ、それまで二の足を踏んでいたあらゆる理由を超えて我が身をなげうって只管心を掴もうと励んだ。
そして遂にこの想いが通じた時には天にも昇る心持になったのは言うまでも無い。
やっと。
やっと愛する女の最も大切な場所をこの手にすることができるのだ。
奮発した高級シティホテルの一室に彼女を誘(いざな)う。
肩を抱くその手が震えてしまう。
艶々した生地感でレースのついたピンクの薄布で顔の下半分を覆っている彼女。
露出している耳、鼻から額までを真っ赤にしながら言う。
明りを消して。
暗闇にうっすらと輪郭だけが浮かぶ。
ゆっくりと震える指先を近づけていき。
顔を覆う薄布の上から触れる。
弾力のあるやわらかい感触が伝わってきた瞬間にこの身を襲う衝動。
無理やりに抑えつけて、自制する。
焦りや緊張が動きに伝わらないように最大限の注意を払う。
形と感触を確かめるようになぞっていく。
何度も往復させて堪能する。
彼女がそのたびに反応して身じろぎしているのがわかった。
怯えと悦び。
これまで必死で守り隠してきたものを、心を許した相手に捧げつつあることへの心の震え。
やがて顔を覆うものに手をかけて。
とうとう全てを外した。
ああっ!
慄く彼女の姿が暗闇に浮かんでいる。
その声が出てきた場所をじっと見詰める。
たとえ真っ暗であっても確かにわかる、その姿。
色と形。
なんて生々しく官能的な器官。
これ以上に卑猥で美しいものがこの世にあるのだろうか。
愛する女の最も神秘的で淫靡的な場所をこの目にした感動。
もはや抑えることは叶わなかった。
次の瞬間には荒々しいほどの勢いで露出した己の唇をそこに押し付けて貪っていた。
その匂いと味、感触とあたたかさ。
最も大切な存在の穢れ無き聖域を犯して蹂躙する破戒の快感、征服欲と支配欲が同時に満たされていき。
待ち望んだものを手にした目もくらむような恍惚がそこにはあった。
………
始まったときと同様に、ある日突然その異常はすっかり元に戻っていた。
もはや意識するまでもなく身について習慣になってしまっているままにマスクを着用してから外に出ると誰も顔を覆っている者など一人もいない。
すぐに何が起こったのかを察する。
理屈ではなく、なんとなく直感で全てを理解した。
一応そのまま出社すると、その道行きの途中で確信になっていく。
やがて会社に到着するころにはマスクを外していた。
それまで性的象徴そのものであったものが開陳されている違和感と衝撃、ずっと顔を覆い守っていたものが無い心もとない感覚に初めこそ悶々とするも、結局それも半日ほどであった。
口を露出して性器を隠す日常を難なく受け入れて、もうすっかり戻った価値観と常識の中に安住し始める。
数日も経つと完全に順応し、あの異なる法則に支配されていた日々を忘れつつすらある。
ただ、愛する女の唇を前にしたときだけは、あの異常な日々の感覚そのままの抑えきれない熱い衝動が沸き立つことにしばらく悩まされた。
了
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