ブラッディ・チェイサー

猫山はる

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第2章 犬神編

第44話 赤く染まる

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環たちが乗った車は、十三課の庁舎の前で停まった。

美琴がシートベルトを外す。
居ても立ってもいられないというように車から降りた。
シエラ、玖狼もそれに続く。
誰もが無言だった。
環は胸の奥がざわつくのを抑えながら、早足で建物へ近づく。


夜の十三課の建物は、不自然なほど静まり返っていた。
冷たい風に震えそうになるが、それが本当に寒さから来るものか、これから目の当たりにするかもしれない光景への恐怖から来るものなのか、環にはわからなかった。

本来ならここは、夜でも人の気配があるはずだった。
当直の職員、巡回の警備員、待機中のハンター――
誰かしらの足音や、話し声が絶えない場所だ。

なのに今は、音がしない。

「……静かすぎる」

玖狼が低く言った。

――嫌な予感がする。

ゆっくり、建物に近づいていく。
すると、

「止まれ」

シエラが鋭い声で皆を制した。

「血の匂いがする」

皆に緊張が走った。

「…う」
血の匂いは環にも感じ取れた。

甘く、濃厚で理性を溶かすような香り。

普段から定期的に血液を摂取していなければ、飢餓感でおかしくなりそうだ。
どこかで大量の血が流れている――。
そんな匂い。

環は思わず足が竦んだ。
――が、

「行くぞ」

玖狼に先を促される。
玖狼は真っ直ぐに前だけを見据えていた。
庁舎に近づいていくと、その全容が明らかになってくる。

玄関ロビーは変わり果てた姿になっていた。

自動ドアは砕け散り、ガラス片が地面一面に広がっている。
受付カウンターは横倒しになり、壁には巨大な爪痕が刻まれていた。

「ひどい…」
美琴は口元を抑えた。

「玄関でこの有様では、この先はどうなっていることか」

シエラも眉根を寄せて、険しい顔で言った。
玖狼は何も言わなかったが、静かな緊張が伝わってきた。


環はただ、この先に広がる惨状を思い、息苦しくなった。
緊張で口がからからになり、指先が冷え切っている。

――どうか、みんな無事でいて。
そう願うことしかできない。

4人は警戒しながら玄関をくぐる。

玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、
環の鼻腔に、先ほどより強く甘い匂いが流れ込んできた。

それは、脳を痺れさせるような、強烈な血の匂い。

「……っ」

無意識に息を止める。
むせ返るような匂いに喉が詰まった。

その匂いを辿ると、人影が見えた。

見たことのある職員だった。
壁にもたれかかるように倒れている。

「……たす、け……」

かろうじて意識があったのか、職員がゆっくり目を開ける。
焦点が合わない視線が環達の顔をとらえる。

「――あ」

彼の胸元は深く裂け、赤黒い穴が空いていた。
血溜まりが、彼自身を浸している。

それに構わず、シエラが近づく。

――ぱしゃ

シエラの足が、血溜まりを踏んだ。
職員の上体を支えて起こしてやる。

職員は、虚ろな目でひゅー、ひゅーと浅い呼吸を繰り返す。

「1106…番、逃げ…暴れ…みん、な…やられた」

職員は息も絶え絶えに言った。
――1106番、とは恐らく収監されている人外番号のことだろう。
前に職員同士が話しているのを、小耳に挟んだことがある。

目の前にいる男性は、だんだん瞳が濁り、今にも命の灯が消えてしまいそうだ。

「――い…やだ、死に、たく…ない…」

職員が虚空に手を伸ばす。
シエラがその手を握ってやる。

「苦しかっただろうに、よく頑張ったな
――もう大丈夫だ」

労るようなその言葉に、
職員は安堵したのか、ゆっくりと目を閉じる。

すると、糸が切れたように、彼の体からふっと力が抜けた。
――もう、息をしていなかった。

シエラがそっと目を閉じてやる。

環は胸元をぎゅっと握った。

「…ひどい」
視界が、ぐらりと揺れた。
怒り、恐怖、悲しみ。さまざまな負の感情が駆け巡る。

「……なんで……どうして……」

視界の端が赤くにじむ。
瞳が金色に輝き始めた。

「たま」
玖狼が気づき、鋭く呼びかけた。

「落ち着け。深呼吸しろ」
玖狼が環の肩に手を置く。

「まずいわね…」
美琴が札のような紙の束を懐から取り出す。
環が暴走するようなら、力尽くで抑え込むしかない。

環は必死に息を吸う。
だが、呼吸は震え、抑えきれない飢餓感が再び込み上げる。


喉の奥が、ひくりと吊り上がった。
呼吸が、荒くなる。

心臓が早鐘のように打ち、
耳の奥で血液が流れる音が膨れ上がる。

吸血鬼の本能が――環の体を支配しようとする。

(いやだ)

だが、拒絶するほどに、
匂いは甘く、熱を持って迫ってくる。

「たま……!」

玖狼の声が遠い。

視界の色が、じわじわと変わっていく。
赤く――
黒く――

そのときだった。

廊下の奥から――
何かが壊れる大きな音が響いた。

ズガン……ッ!!
ゴリ……ミシ……!

建物そのものが、呻くように軋む。

「何、この音……?」

美琴の声が、小さく震えた。

――刹那。

天井が、爆ぜた。

――バァン!!ガラガラガラガラ…

粉塵と破片が舞い散る中、
巨大な影が、廊下に降り立つ。

「敵か……!」

シエラが目を見開いて叫ぶ。

血に濡れた身体。
髪を逆立て、黒い服を着ている。

現れたのはつぎはぎだらけの男だった――。
耳まで裂けた口を大きく歪め、にい、と笑う。

「今度はお前らが俺のおもちゃになるか?」

その言葉と同時に、つぎはぎだらけの男が環たちの方へ突っ込んでくる。

―――ミシッ

重く鈍い音が響き、
空気がビリビリと震えた。

突っ込んできたつぎはぎ男を、シエラが細い腕で止めていた。

「この有様はお前の仕業か――?」

シエラの表情は今まで見たことがないくらい、冷たく殺気をはらんでいた。

「はは、お前、人間じゃねえな!」
つぎはぎ男は飛び下がる。

「久しぶりに頭にきたぞ」

シエラは環達を庇うように立つ。
そして、振り向かずに言った。
「ここは儂に任せよ」

玖狼がシエラの背に向かって声をかける。

「…わかった、俺達は奥へ進む」

シエラが構える。

「たま!行くぞ!」
玖狼が本当に抗う環を小脇に抱えた。
「……う、シエラさ、ん」
環は朦朧とする意識の中で、シエラの細い背中を見る。
相対するつぎはぎ男とは、明らかに体格が違う。

「じいさんの見た目に騙されんな。
あれで昔は相当やんちゃしてたらしいぜ」

玖狼はいたずらっぽく言ったが、どこか余裕がなかった。

「心配ないわ。彼、強いもの」
美琴は自身に言い聞かせるように言った。

背後から、シエラとつぎはぎ男の戦う音が聞こえてくる。

環は歯を食いしばる。
大人しく玖狼に腕を引かれるままに歩いた。

(私にもっと力があれば……)

泣きたくなった。でも、今はそれどころじゃない。わかってる。

怒りと、悲しみと、情けなさ。
そして――それよりも、もっとドス黒い“渇き”が。

胸の奥に、渦巻いていた。
自分の体ひとつさえ上手く操れない。

「ごめん……」

ぽつりとこぼれた声は、
誰にあてたものかもわからない。

「謝んな。
…お前のせいじゃねえよ。
あんなの見たら、誰でも動揺する」

玖狼の声は普段よりも優しかった。

「…うん」



3人は廊下の突き当たりの事務室のある部屋へと入った。

目に飛び込んできた光景は、あまりにも悲惨だった。

壁に叩きつけられた職員。
裂けた制服。
倒れ伏したまま、動かない人影。

まだ、かすかに息のある者もいた。

「とりあえず、息のあるやつの手当てが先だ」
玖狼が一歩踏み出そうとした。


そのとき。


部屋の奥から、拍手が聞こえた。

ぱち、ぱち、ぱち――

「いやあ。ご苦労さま
それにしても、ひどい有様だね
一体誰がこんなことをしたのかな」

何度も聞いた声。

気だるげで、飄々とした口調。
そのあまりにも軽い調子は、ひどく場違いだった。

環の視線が、ゆっくりと上がる。

非常灯の緑色の光の中、
壁にもたれる少年。

茶色の髪。
掴みどころのない話し方。
汚れ一つないゆったりとした服。

――犬飼夏樹。

その隣に、熊のぬいぐるみを抱いた無表情の少女が立っていた。

「……っ!」

「こんばんは、先輩」

夏樹は、にこりと笑った。

血に濡れたこの場所で。
手をひらひらとのんきに振りながら。

「さっきぶり。
ずいぶんと遅かったね?」

まるで、環達を挑発するように嘲笑っていた。
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