ブラッディ・チェイサー

猫山はる

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第1章 吸血鬼編

第2話 夜のにおい

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店の隅に蹲って、私はずっと膝を抱えていた。
日射しが怖い。
夕方の一瞬、陽の光に腕が焼けたときのあの痛みが、まだ肌に残っている気がした。

懐中時計の針は、静かに進み続ける。
誰も来ない、声もしない、ただ時間だけが過ぎていく。カチカチと時計の針が時を刻む音だけが聞こえる。
やがて、ステンドグラス越しに差し込む光がゆっくりと赤から群青に変わっていく。

——もう、陽は落ちた?

窓から差し込む光に手を伸ばしたが、先ほどのような痛みはない。

そっと、立ち上がる。
体の感覚はどこか異質で、自分のものじゃないみたいだった。
でも、それ以上におかしいのは——

制服の腹部のあたりが赤黒く汚れ、穴があいている。自分のおなかを恐る恐る撫でてみる。
しかし、腹部に傷はない。

(……最近の記憶が、曖昧だ)



名前は思い出せる。
九條環、私の名前だ。
家族の顔も、通っていた学校も、何気ない日常も。普通の女子高生として学校に通っていたはずだ。
それなのに、とある記憶がまるで霧がかかったように思い出せなかった。学校での記憶や家での記憶は思い出せるが、この喫茶店のことを思い出そうとすると頭が割れるように痛むのだ。

この喫茶店には見覚えがある。どこか懐かしいような、安心するような、けれどどうしようもなく胸が苦しくなるような。
だけど、なぜここにいるのか、この場所に誰がいたのか、思い出せない。

両親や友人が心配しているだろうか。
でも、記憶喪失で倒れていたなんてどう説明すればいい?


膝の上にあるコートを見つめながら、少しの間考える。テーブル上にある懐中時計をコートのポケットに入れた。
きっとこのコートと懐中時計の持ち主のことを思い出せば、何かわかるはずだ。
おもむろにコートを羽織った。
深緑色の、少し大きめのコート。
なんとなくこのコートの持ち主に守られているようで、羽織ると少し安心した。
コートの襟元をぎゅっと握る。

「……行かなきゃ」



理由はわからない。
このコートと懐中時計の持ち主を見つけなければ。
このままじっとしていたら、何かを失ってしまいそうな気がした。

私は、喫茶店のドアを開けた。ドアに取り付けられたベルがカランカラン、と鳴った。

そして、夜の街へと踏み出した。




外に出ると、夜の空気が肺にしみ込んだ。
季節は春。
3月下旬の少し冷たいはずの風が、なぜか心地いい。
喫茶店の裏路地を抜けると、夜の街が広がっていた。

街灯が灯る歩道。人通りの少ない住宅街。
窓越しにこぼれるオレンジの光と、人々の笑い声。
でもそのすべてが、どこか遠く、現実から一枚隔てられているように感じた。

(……こんなに夜って、綺麗だったっけ)



星の瞬き。
木々のざわめき。
車の音すら、風のように柔らかく聞こえる。

私は深緑のコートをぎゅっと握りしめた。
これが誰のものなのか、まだわからない。
けれど、不思議と離したくなかった。

ふと、足を踏み出した。

——軽い。

一歩、また一歩。
どんどんスピードが増すのに、息は切れなかった。
心臓は静かに脈打っていて、寒さも感じない。

「っ……ははっ」

駆ける足音が、夜の静けさを裂く。
建物の壁を蹴って、私はひとつ目の屋根へと跳んだ。

——飛べる。

信じられない高さに、風が髪をさらっていく。
ひらりと屋根から屋根へ。
空を駆けるような感覚に、自然と笑みがこぼれた。

(なんで、こんなに……自由なんだろう)



自分が何者か、まだわからない。
けれど、確かに何かが変わっている。
この夜の世界に、私は違和感なく溶け込んでいた。

やがて、廃ビルの屋上にたどり着いた。
使われなくなって10年以上経つが、未だに解体されずに、時が止まったように佇んでいる。
屋上の柵に手をかける。
長年放置されたせいで、すっかり土埃をかぶって、ざらっとした感触が手に伝わる。
遠くで電車が走る音。静かに瞬く街の明かり。
私は柵に寄りかかって、夜空を見上げる。

思い出したい。
彼の顔。
あの言葉の続き。

『僕を許さなくていい。ただ……』



……なんだったの?

その続きを思い出せない。
まるで、もやがかかったように記憶の輪郭が滲んでいる。

「……君は誰なの?」

誰に向かって呟いたのかも、わからない。

——そのときだった。

背後で、ざりっという音がした。

「見つけた」

低く静かな声。
振り返ると、そこに立っていたのは、黒いコートの青年だった。
暗くて表情は見えないが、こちらを真っ直ぐ見据えている。


——私は知らなかった。
この出会いが、私の運命を大きく変えていくことになることを。
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