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第49話:未来を賭ける契約と、生きた証
しおりを挟む#### 女当主の執務室
ディアナ・シルバーの執務室は、応接室のような華やかさとは対極にある、実用性と知性で満たされた空間だった。壁一面を埋め尽くす書棚、巨大な地図が広げられた作業机、そして、部屋の隅で静かに時を刻む、精巧な天球儀。そこは、商会のトップであると同時に、一人の戦略家でもある彼女の「城」そのものだった。
「おかけになって、アーク様」
ディアナが勧めた革張りの椅子に、アークは深く腰を下ろした。アルフォンスとローランは、護衛として彼の背後に控えている。
ディアナは、侍女が用意した、希少な茶葉で淹れた紅茶を一口含むと、商人の顔に戻り、銀色の瞳を細めた。
「さて……先ほどの『黒い水の宝石』と『大地の黄金』。聞かせていただけますかしら。あなたが、ポーション以上に自信を隠さない、その『宝』の正体を」
#### 旨味という名の衝撃
アークは、言葉ではなく、実物で応えた。
懐から、ダグが作った美しいガラスの小瓶を二つ取り出し、テーブルの上に静かに置く。一つには、夜の闇を溶かしたかのように黒く澄んだ液体が、もう一つには、大地の色を凝縮したかのような、赤銅色の練り物が入っていた。
「言葉で説明するより、味わっていただくのが一番です」
ディアナは、侍女に命じて、焼いただけのシンプルな白身魚の切り身と、小さなパンを運ばせた。
アークは、その魚の切り身に、黒い液体――『醤油』を、ほんの一滴だけ垂らす。そして、パンには、赤銅色の練り物――『味噌』を、ごく少量、薄く塗りつけた。
ディアナは、その所作を、鋭い観察眼で見つめていた。そして、覚悟を決めると、まず、醤油のかかった魚を、銀のフォークで口に運んだ。
咀嚼した、瞬間。
彼女の、常に冷静沈着な銀色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「なっ……!?」
しょっぱい。だが、違う。塩の、鋭く、単調な塩味ではない。その奥に、どこまでも広がる、深く、複雑で、豊かな味わい。魚本来の淡白な味が、この一滴によって、何十倍にも増幅され、口の中で、至福の交響曲を奏でる。
彼女は、震える手で、次に味噌を塗ったパンを口にする。
今度は、より力強く、発酵した豆の香りと、大地そのものを思わせる、濃厚な味わいが、彼女の味覚を支配した。
これは、知らない。この大陸の、どの国の、どの宮廷料理にも存在しない、第五の味覚。『旨味(うまみ)』という名の、味覚の絶対王政。
ディアナの商人としての脳が、焼き切れるほどの速度で回転を始める。
(違う、これは「商品」などではない! これは「支配権」そのものだわ! 貴族の舌を、王侯の胃袋を、この味で支配する! 食を制する者は、人を制する。軍隊の士気すら、この一滴で左右できる! 金貨の山を生む? 馬鹿を言ってはいけない。これは、金貨を**「刷る権利」**そのものじゃないの!)
#### 未来への投資
「……恐れ入りましたわ」
ディアナは、深く、長いため息をつくと、アークを真っ直ぐに見つめ返した。
「ですが、アーク様。これほどの『宝』は、それ相応の『厄災』を呼び寄せます。特に、この地方の交易路を牛耳る、代官ゲルラッハという、強欲な男が」
彼女は、冷静に、この取引の最大のリスクを指摘する。
「彼を敵に回して、あなたに勝算は?」
「もちろん、あります」
アークは、即答した。そして、彼は、この交渉における、最大の切り札を、静かにテーブルの上に置いた。
「僕らは、ゲルラッハの支配する道を、通る必要がないからです。僕らは、彼が知らない、もう一つの道を知っている。山脈を、安全に、そして、彼の通行税に煩わされることなく越えられる、**『忘れられた王の道』**をね」
その言葉に、ディアナの呼吸が、一瞬、止まった。
彼女の、常に冷静さを保っていたポーカーフェイスが、初めて、わずかに崩れる。銀色の瞳に宿ったのは、もはや単なる興味ではない。神話の時代の遺物を、現実のカードとして、この交渉のテーブルにこともなげに置いた少年に対する、畏怖にも似た、純粋な驚愕だった。
(この子、一体どこまで持っているの……? 私が、喉から手が出るほど欲しかった、最後のピースまで……!)
「……はぁ」
ディアナは、天を仰ぐと、心の底から、楽しそうな、そして、どこか呆れたような笑い声を上げた。
「アーク様、あなたという方は、本当に……。わかりましたわ。わたくしの、完敗です」
彼女は立ち上がると、アークの前に進み出た。そして、これまでの交渉相手としてではなく、未来を共にするパートナーとして、その小さな手を、両手で、固く握りしめた。
「独占販売契約などという、小さな話はやめにしましょう。わたくし、ディアナ・シルバーは、この銀月商会の全てを賭けて、あなたと、あなたの創る未来に**『投資』**します。我々は、対等なパートナーとして、共に、この世界を動かしましょう」
#### 生きた証
ディアナは、即座に、法務顧問を呼び寄せ、完璧なパートナーシップ契約書を作成させた。
秘密の交易路の共同利用、利益の公正な分配、そして、外部の脅威に対する、相互防衛義務。それは、血よりも濃い、運命共同体の誓約書だった。
アークとディアナは、ダグが漉いた、極上のライナス和紙で作られた契約書に、それぞれの名前をサインした。
そして、アークは、その契約書の上に、懐から取り出した、一粒の、不思議な輝きを放つ種を、そっと置いた。
「ディアナ様。僕らの契約の証人は、神でも、王でもありません。これから生まれる、新しい『生命』です」
アークが、その種に、そっと手をかざす。
「**『契約の木(コントラクト・ツリー)』**」
彼の魔力に応え、種が、淡い光を放ち始めた。種から伸びた、ごく細い根が、契約書に書かれたインクの文字を、まるで養分を吸い上げるかのように、ゆっくりと辿っていく。
そして、二人のサインが交差する中心点から、力強い、美しい双葉が、芽吹いた。
それは、ほんの数分で、青々とした葉を茂らせる、小さな、しかし、生命力に満ち溢れた苗木へと成長した。
「これは……」
ディアナが、その神秘的な光景に、息を呑む。
「この苗木が、僕らの契約の証です。僕らのパートナーシップが、誠実で、健やかである限り、この木は青々と茂り続けるでしょう。ですが、もし、どちらかが、相手を裏切る心を持てば……この木の葉は、その心を映すかのように、枯れ落ちていきます」
ディアナは、その「生きた契約書」に、そっと指で触れた。温かい。確かに、生命が宿っている。それは、冷たいインクと羊皮紙の契約とは次元が違う、魂と魂を結びつける、温かい約束の鼓動だった。
彼女は、アークという存在の、そのあまりにも深い、底知れぬ魅力に、もはや、抗うことなどできなかった。この契約は、どちらかが裏切れば枯れるのではない。この苗木を、互いの誠意で、未来永劫、大樹へと育て上げていくのだ。その、あまりにもロマンチックで、絶対的なパートナーシップの形に、彼女の心は完全に、奪われていた。
二人は、固い握手を交わした。
「これから、よろしくお願いします、ディアナさん」
「ええ、こちらこそ、アーク様」
「さて、我らがパートナー。私たちの記念すべき最初の共同事業は、そうですね……領地の街道でふんぞり返っている、強欲で、頭の悪い蝿(ハエ)を、どうやって『お掃除』して差し上げるか、から始めましょうか」
ディアナは、先ほどまでの厳格な商人の顔はどこへやら、これから始まる最高のゲームを前にした子供のように、悪戯っぽく、そして、心の底から楽しそうに笑った。その笑みは、アークにとって、何よりも心強い、共犯者の笑みだった。
辺境の少年と、中立都市の女傑。
二つの知性が交わった時、世界の経済を、そして、歴史を揺るガす、壮大なる物語の歯車が、今、確かに、音を立てて回り始めた。
***
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