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孤独な嗅覚
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橘 薫は、その日もまた、無機質なラボで香りの迷宮に囚われていた。
細く、長い指で、ガラス棒の先に付着したわずかな液体をそっと手首に乗せる。目をつむり、深く息を吸い込む。
「……うん、いいわね。トップはベルガモットの爽快感、ミドルはローズとジャスミンの王道。でも、ラストノートが弱い。もう少し、肌に残る暖かさが欲しいわ」
隣でメモを取っていたチーフ調香師の安藤が、ため息混じりに尋ねる。
「薫、君の鼻は本当に優秀だが、どうにもシトラス系への評価が厳しすぎる気がするね。このベルガモットはかなり質の高いものを選んだんだが」
「質の高さと、私の好みは別です、安藤さん」
薫は曖昧に笑った。好みではない。正確には、避けたい香りだ。
シトラス系の香りは、彼女にとって危険なトリガーだった。それは十年前の、夏。急に降り出したスコールと、強く抱きしめられた時に嗅いだ、誰にも言えない秘密の香り。
そして、その香りを纏ったまま、何も言わずに姿を消した、初恋の人。
神崎 蓮。
あの時の記憶が、ベルガモットの鋭いアコードで引きずり出されそうになる度に、薫は無意識のうちにそれを拒絶していた。
彼女はアロマテラピストとして、人の心に安らぎを与える香りを生み出す仕事をしている。だが、自分自身の心の奥底にある、あの痛みだけは、どんな精油でも癒すことができない。
彼女の鋭敏すぎる嗅覚は、香りの分子だけでなく、それに付随する感情の粒子まで拾い上げてしまう。それは、天賦の才能であると同時に、孤独な呪いでもあった。
数日後、薫の勤める小さなアロマラボに、巨大な波が押し寄せてきた。
「橘さん、聞きましたか? あの神崎フレグランスの『ルナ・ノアール』と、私たちのラボがコラボレーションですって!」
後輩が興奮気味に声を潜める。
「ルナ・ノアール」。
数年前に彗星のように現れ、瞬く間に世界を席巻したフレグランスブランドだ。
そして、その若き経営者こそが、神崎 蓮。
「コラボ……ですか」
薫の心臓が一瞬、妙な音を立てた。まさか、あの蓮だろうか。そんなはずはない。この世に神崎蓮という名前の人間は何人もいる。
だが、嫌な予感は的中する。
翌週、提携の打ち合わせのために、薫は安藤と共に、都心の一等地にそびえ立つ神崎フレグランスの本社ビルへ向かった。
応接室に通され、緊張しながら待っていると、ドアが開いた。
現れたのは、磨き抜かれたグレーのスーツに身を包んだ、洗練された男性だった。艶のある黒髪をオールバックに撫でつけ、その端正な顔立ちからは一切の感情を読み取ることができない。
歳月は彼を研ぎ澄まし、鋭い刃物のようにした。
彼は少しだけ目を見開き、そしてすぐに無表情に戻った。
「安藤様、本日はお越しいただきありがとうございます。神崎フレグランス代表の、神崎 蓮と申します」
低く、落ち着いた声が応接室に響く。
蓮は薫を一瞥し、まるで初めて会うかのように、形式的な微笑みを向けた。
「こちらは、アシスタントの橘様ですね。本日はどうぞよろしく」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
薫は、喉の奥が張り付いたかのように、か細い声しか出せなかった。
彼の纏うスーツは、上質な羊毛の匂いしかしない。あの日の「シトラス系の香り」は、もうどこにも存在しなかった。
彼は、薫のことを覚えていない――そう装っているのか。
あるいは、本当に、全く覚えていないのか。
その日の打ち合わせは、薫にとって、香りの分子一つ一つが、過去の記憶を刺激する拷問のような時間だった。会議が終わる頃には、彼女は頭痛と、強烈な吐き気に襲われていた。
別れ際、蓮は立ち上がり、安藤と握手を交わした。次に、形式的な挨拶として、薫に手を差し伸べる。
「橘様、今後ともよろしくお願いします」
薫は震える指先で、彼の冷たい手を握り返した。
その瞬間。
蓮のスーツの袖口から、ごく微かに、かすかに、あの記憶の香りが漂った。
シトラス系。ベルガモット。そして、奥底に隠された、熱を持ったムスクの残り香。
それは、彼が大人になって洗練されたフレグランスを纏うようになっても、彼の肌の奥底に残る、十年前と全く同じ「神崎蓮の香り」だった。
薫の頭の中で、ベルガモットの香りが炸裂した。
(嘘……)
彼女の視界が歪む。突然、十年前の、雨の日の映像が脳裏にフラッシュバックした。
『薫、ごめん……もう、会えないんだ』
泣きながら別れを告げた蓮の、強い腕の感触と、シトラスの香り。
「橘様?どうかされましたか」
蓮の声が、遠くから聞こえる。彼の表情は依然として冷たい。まるで、自分の過去を知らない第三者を心配しているかのように。
「い、いえ……失礼しました。少し、貧血で」
薫は慌てて手を離し、後ずさった。彼の香りが、強すぎる。まるで、彼女の記憶をこじ開けようとしているようだ。
神崎蓮は、確実に、彼女の初恋の相手、あの時の少年だった。
だが、彼の眼差しは、初めて会う人間を見るそれだ。
(どうして……私を忘れたふりをするの?それとも、私だけが、あの日の香りに囚われたままなの?)
薫は、彼が自分を避ける理由、そしてあのシトラスの香りの秘密を探ることを、このコラボレーションの期間中に誓った。
それは、彼女にとって、香りの迷宮の最も深い場所への入り口だった。
細く、長い指で、ガラス棒の先に付着したわずかな液体をそっと手首に乗せる。目をつむり、深く息を吸い込む。
「……うん、いいわね。トップはベルガモットの爽快感、ミドルはローズとジャスミンの王道。でも、ラストノートが弱い。もう少し、肌に残る暖かさが欲しいわ」
隣でメモを取っていたチーフ調香師の安藤が、ため息混じりに尋ねる。
「薫、君の鼻は本当に優秀だが、どうにもシトラス系への評価が厳しすぎる気がするね。このベルガモットはかなり質の高いものを選んだんだが」
「質の高さと、私の好みは別です、安藤さん」
薫は曖昧に笑った。好みではない。正確には、避けたい香りだ。
シトラス系の香りは、彼女にとって危険なトリガーだった。それは十年前の、夏。急に降り出したスコールと、強く抱きしめられた時に嗅いだ、誰にも言えない秘密の香り。
そして、その香りを纏ったまま、何も言わずに姿を消した、初恋の人。
神崎 蓮。
あの時の記憶が、ベルガモットの鋭いアコードで引きずり出されそうになる度に、薫は無意識のうちにそれを拒絶していた。
彼女はアロマテラピストとして、人の心に安らぎを与える香りを生み出す仕事をしている。だが、自分自身の心の奥底にある、あの痛みだけは、どんな精油でも癒すことができない。
彼女の鋭敏すぎる嗅覚は、香りの分子だけでなく、それに付随する感情の粒子まで拾い上げてしまう。それは、天賦の才能であると同時に、孤独な呪いでもあった。
数日後、薫の勤める小さなアロマラボに、巨大な波が押し寄せてきた。
「橘さん、聞きましたか? あの神崎フレグランスの『ルナ・ノアール』と、私たちのラボがコラボレーションですって!」
後輩が興奮気味に声を潜める。
「ルナ・ノアール」。
数年前に彗星のように現れ、瞬く間に世界を席巻したフレグランスブランドだ。
そして、その若き経営者こそが、神崎 蓮。
「コラボ……ですか」
薫の心臓が一瞬、妙な音を立てた。まさか、あの蓮だろうか。そんなはずはない。この世に神崎蓮という名前の人間は何人もいる。
だが、嫌な予感は的中する。
翌週、提携の打ち合わせのために、薫は安藤と共に、都心の一等地にそびえ立つ神崎フレグランスの本社ビルへ向かった。
応接室に通され、緊張しながら待っていると、ドアが開いた。
現れたのは、磨き抜かれたグレーのスーツに身を包んだ、洗練された男性だった。艶のある黒髪をオールバックに撫でつけ、その端正な顔立ちからは一切の感情を読み取ることができない。
歳月は彼を研ぎ澄まし、鋭い刃物のようにした。
彼は少しだけ目を見開き、そしてすぐに無表情に戻った。
「安藤様、本日はお越しいただきありがとうございます。神崎フレグランス代表の、神崎 蓮と申します」
低く、落ち着いた声が応接室に響く。
蓮は薫を一瞥し、まるで初めて会うかのように、形式的な微笑みを向けた。
「こちらは、アシスタントの橘様ですね。本日はどうぞよろしく」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
薫は、喉の奥が張り付いたかのように、か細い声しか出せなかった。
彼の纏うスーツは、上質な羊毛の匂いしかしない。あの日の「シトラス系の香り」は、もうどこにも存在しなかった。
彼は、薫のことを覚えていない――そう装っているのか。
あるいは、本当に、全く覚えていないのか。
その日の打ち合わせは、薫にとって、香りの分子一つ一つが、過去の記憶を刺激する拷問のような時間だった。会議が終わる頃には、彼女は頭痛と、強烈な吐き気に襲われていた。
別れ際、蓮は立ち上がり、安藤と握手を交わした。次に、形式的な挨拶として、薫に手を差し伸べる。
「橘様、今後ともよろしくお願いします」
薫は震える指先で、彼の冷たい手を握り返した。
その瞬間。
蓮のスーツの袖口から、ごく微かに、かすかに、あの記憶の香りが漂った。
シトラス系。ベルガモット。そして、奥底に隠された、熱を持ったムスクの残り香。
それは、彼が大人になって洗練されたフレグランスを纏うようになっても、彼の肌の奥底に残る、十年前と全く同じ「神崎蓮の香り」だった。
薫の頭の中で、ベルガモットの香りが炸裂した。
(嘘……)
彼女の視界が歪む。突然、十年前の、雨の日の映像が脳裏にフラッシュバックした。
『薫、ごめん……もう、会えないんだ』
泣きながら別れを告げた蓮の、強い腕の感触と、シトラスの香り。
「橘様?どうかされましたか」
蓮の声が、遠くから聞こえる。彼の表情は依然として冷たい。まるで、自分の過去を知らない第三者を心配しているかのように。
「い、いえ……失礼しました。少し、貧血で」
薫は慌てて手を離し、後ずさった。彼の香りが、強すぎる。まるで、彼女の記憶をこじ開けようとしているようだ。
神崎蓮は、確実に、彼女の初恋の相手、あの時の少年だった。
だが、彼の眼差しは、初めて会う人間を見るそれだ。
(どうして……私を忘れたふりをするの?それとも、私だけが、あの日の香りに囚われたままなの?)
薫は、彼が自分を避ける理由、そしてあのシトラスの香りの秘密を探ることを、このコラボレーションの期間中に誓った。
それは、彼女にとって、香りの迷宮の最も深い場所への入り口だった。
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