各駅停車のブルー、快速のオレンジ

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各駅停車のブルー、快速のオレンジ

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 第1章:ノイズキャンセリングの向こう側

 瀬戸遥の耳には、常に高機能なノイズキャンセリングイヤホンが張り付いている。

 それは彼女にとって、世界から自分を隔離するための防壁だった。

 二十七歳。都心の広告代理店で働く彼女の日常は、分刻みのスケジュールという鋭利な刃物によって細切れにされている。朝、スマホの不機嫌なアラームで目覚めた瞬間から、彼女は「効率」という名の快速列車に放り込まれる。

 地下鉄のホームに渦巻く湿った風。他人と肩が触れ合うたびに削れる神経。オフィスで飛び交う「コンセンサス」「ベネフィット」「タイトなリスケ」といった、血の通わないカタカナ語の群れ。

 その日、遥は決定的なミスを犯した。

 数ヶ月かけて準備したキャンペーンのローンチ当日、提携先のロゴが古いデータのままになっていることが発覚したのだ。致命的なミスではなかったが、クライアントからの冷徹な電話と、上司の「期待していたんだけどな」という短く、重い溜息が、彼女の心に深い伝線を作った。

「……あ」

 帰りの電車。無意識に乗ったのは、いつも使う「特急」ではなく、各駅停車だった。

 吊り革に掴まり、スマホの画面に並ぶ謝罪メールの履歴を眺めているうちに、車内アナウンスが聞き慣れない駅名を告げた。

『次は、九十九、九十九――』

 ふと顔を上げると、窓の外にはオレンジ色の夕焼けが、まるで海に溶け出す絵具のように広がっていた。高層ビルに遮られない、広大な空。

 遥は、何かに導かれるように、まだ閉まりきらないドアをすり抜けてホームへ降り立った。

 九十九駅(つくもえき)。

 そこは、都心からわずか四十分とは思えないほど、時の流れが澱(よど)んでいる場所だった。

 自動改札ではない、木製の手すりがついた古い改札機。コンクリートの隙間から勝手気ままに顔を出すペンペン草。そして、ホームの中央に鎮座する、駅の屋根を突き破らんばかりに枝を広げた巨大な銀杏の木。

 遥は耳からイヤホンを外した。

 途端、世界が「音」を取り戻す。

 遠くで鳴る踏切の、のんびりとした打鐘音。

 帰宅途中の小学生が振るう、防犯ブザーの小さな揺れ。

 そして、カサカサという、乾いた紙を擦るような音。

「……そこ、特等席ですよ。夕日が一番きれいに影を作る場所」

 低い、けれど少年の名残がある声に、遥はびくりと肩を揺らした。

 ホームの端にある、ペンキの剥げた木のベンチ。そのさらに端に、一人の青年が座っていた。

 使い込まれたダッフルコート。首元に無造作に巻かれた、少しくたびれたマスタード色のマフラー。

 膝の上には大きなスケッチブックが広げられ、彼の指先は鉛筆の黒鉛で真っ黒に汚れていた。

「え?」

「あ、すみません。驚かせるつもりじゃなかったんです」

 青年は顔を上げた。

 二十歳、あるいはもう少し下か。透明感のある瞳は、遥のような「戦う大人」のそれではなく、ただひたすらに、目の前の光景を肯定するためだけに開かれているようだった。

「絵、描いてるの?」

 遥が問いかけると、彼は少し照れくさそうにスケッチブックをこちらに向けた。

 そこに描かれていたのは、遥の期待した「美しい風景画」ではなかった。

 描かれていたのは、駅のベンチの「足」の部分だった。

 錆びつき、ペンキが何層にも塗り重ねられた、鉄の脚。その周囲に散らばる小石と、誰かが落としたであろう、一本のヘアピン。

「どうして……そんな地味なところを?」

「ここは、誰かがずっと待っていた場所だからです」

 青年――湊は、鉛筆を動かすのを止めずに言った。

「快速電車に乗っている人は、この駅をただの『点』として通り過ぎます。でも、このベンチの足元には、誰かが恋人を待っていた時間や、お年寄りが一息ついた重みが、傷になって残っている。僕は、その『不在の温度』を写し取りたいんです」

 不在の温度。

 その言葉が、遥の空っぽになった胸に、すとんと落ちた。

 彼女が今日、オフィスで必死に積み上げようとして崩してしまったものは、一体何だったのだろうか。誰の目にも触れない、この駅の錆びたベンチの脚よりも、価値のあるものだったのだろうか。

「……君は、この駅が好きなの?」

 遥が訊ねると、湊は初めて筆を止め、夕闇に沈み始めたホームを見渡した。

「はい。ここには、僕たちが忘れてしまった『余白』がある。だから好きなんです」

 遥は、自分の履いている汚れ一つないパンプスと、彼の泥にまみれたスニーカーを交互に見た。

 七年の月日という断絶。

 けれど、今の彼女にとっては、この見知らぬ青年の青臭い言葉だけが、世界で唯一の、ノイズのない真実に聞こえた。

「……ねえ。もう一本、電車を見送ってもいいかな」

「いいですよ。ちょうど、銀杏の影がホームを横切る、一番いい時間になりますから」

 二人の間に、静かな沈黙が流れる。

 それはノイズキャンセリングで作られた偽物の静寂ではなく、九十九駅という古い駅が、長年かけて蓄積してきた本物の静寂だった。

 遥は、久しぶりに自分の腕時計を見なかった。

 その代わり、湊の動かす鉛筆の音と、次第に長くなっていく銀杏の影を、ただじっと見つめていた。


 第2章:駅を愛する理由

 九十九駅のホームに、また一つ、長い影が落ちる。

 オレンジ色の世界がじわじわと紫のヴェールに浸食されていく、その境界線の美しさに、遥は言葉を失っていた。

「……ねえ、さっき言っていた『駅の呼吸』って、どういう意味?」

 遥は、ベンチの端で一心不乱に指を動かす湊に問いかけた。

 湊は、スケッチブックから顔を上げることなく、少しだけ口角を上げた。その表情は、秘密の遊び場を教える子供のようでもあり、あるいは、遥よりずっと長い時間を生きてきた老人のようにも見えた。

「例えば、あそこを見てください」

 湊が指差したのは、改札機のすぐ横にある、手書きの時刻表だった。

「あのアクリル板、角が少しだけ白く濁っているでしょう? あれは、毎日あそこを通る駅員さんが、指先で時刻を確認しながら撫でるから付いた傷なんです。それから、ほら、足元」

 湊の視線を追うと、タイル張りの床の一部だけが、妙に黒光りしている場所があった。

「あそこは、冬になると一番日が当たる場所なんです。だから、電車を待つ人が無意識にあそこに集まって、靴底で磨かれていく。駅が呼吸をしているっていうのは、そういうことです。人の営みが、目に見えない積層になって、この場所に命を吹き込んでいるんです」

 遥は、自分の足元を見つめた。

 彼女が普段利用している都心のオフィスビルの床は、毎晩、清掃ロボットが寸分狂わず磨き上げている。そこには「誰かがいた跡」なんて、一欠片も残っていない。

 効率化され、無菌化された世界。

 自分がその世界で必死に守ろうとしていたものは、この駅の「濁り」や「傷」よりも、ずっと脆く、実体のないものに思えてきた。

「君の絵、見せて」

 遥の言葉に、湊は少しだけ躊躇(ためら)う仕草を見せたが、やがて「いいですよ」とスケッチブックを差し出した。

 ページをめくるたび、遥の指先に黒鉛のざらついた感触が伝わる。

 そこには、湊が語った「駅の細部」が、暴力的なまでの密度で描き込まれていた。

 木の節(ふし)のうねり、錆びたボルトの歪み、風に揺れる銀杏の葉の一枚一枚。

 湊の描くモノクロームの世界は、現実の景色よりもずっと雄弁に、この場所の「孤独」と「愛おしさ」を訴えていた。

「……君は、美大生なの?」

「はい。でも、教授にはいつも怒られます。もっと全体を見ろ、もっと大きなテーマを描けって。でも、僕はどうしても、こういう端っこにばかり惹かれてしまうんです」

 湊は自嘲気味に笑い、真っ黒になった自分の指先を見つめた。

「二十歳にもなって、駅のホームで一日中座り込んで、石ころの絵を描いているなんて……普通の大人が見れば、ただの『無駄な時間』ですよね」

 その言葉に、遥の心臓がちくりと疼いた。

 それは、昼間に上司から投げられた「期待していたんだけどな」という言葉よりも、ずっと鋭く彼女を射抜いた。

「無駄なんて……思わないわ」

 遥の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。

「私はね、今日、その『無駄』がない世界で、息ができなくなってここに来たの。一分一秒を惜しんで、数字や効率ばかり追いかけて……そうしないと、脱落しちゃうって怖くて。でもね、湊君。あなたの描くこの『傷』を見ていると、なんだか……自分もここにいていいんだって、許されているような気がする」

 遥は、ずっと耳を塞いでいたノイズキャンセリングイヤホンを、バッグの奥底へ押し込んだ。

 イヤホンを外した世界は、静かではなかった。

 むしろ、何十種類もの音が、色鮮やかに彼女の耳に飛び込んできた。

 銀杏の葉が擦れ合う「サワサワ」という囁き。

 線路が冷えていく際の「キン」という微かな金属音。
 そして、隣に座る湊の、穏やかな呼吸。

「遥さん」

 湊が初めて、彼女の名前を呼んだ。

「この駅は、立ち止まるための場所なんです。快速電車を一本見送るだけで、見える景色がこんなに変わる。それを知っているのは、僕と、今ここにいる遥さんだけです」

 湊の瞳が、沈みゆく夕日の光を反射して、琥珀色に輝いた。

 二十七歳の遥にとって、二十歳の彼の言葉は、あまりにも純粋で、あまりにも残酷だった。

 いつか、彼も社会という大きな渦に飲み込まれ、駅のベンチの傷なんて見えなくなる日が来るのかもしれない。

 けれど、今この瞬間に流れている「贅沢な無意味」だけは、何物にも代えがたい真実として二人の間に存在していた。

「湊君。……また、ここに来てもいいかな。君が駅を描くのを、隣で見ていてもいい?」

 湊は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。

「もちろんです。九十九駅は、いつでもここにありますから」

 遥は、今日初めて、深く、長い呼吸をした。

 冷たくなり始めた冬の空気が、肺の隅々まで行き渡る。

 駅の自販機から、ガタンと低い音がして、誰かが温かい飲み物を買った。

 その日常の何気ない音が、今の遥には、どんな音楽よりも美しく響いていた。


 第3章:重なる放課後と退勤後

 九十九駅を包む空気は、刺すような冷たさを帯び始めていた。

 あの夕暮れの出会いから、一ヶ月。遥の日常には、ある「奇妙な空白」が定着していた。

 週に一度、木曜日。

 遥は定時を告げる時計の針を合図に、魔法から解かれたようにオフィスを飛び出す。同僚たちが「これから一杯どう?」と誘い合う声を、スマートな会釈でかわしながら。

 彼女が向かうのは、煌々としたネオンが踊る繁華街ではなく、各駅停車だけが律儀に停まる、あの静かなホームだった。

「こんばんは。……今日も、そこにいたのね」

「こんばんは、遥さん。今日は少し、お仕事早かったんですか?」

 ベンチの定位置。湊はいつものように、分厚いコートの襟を立てて座っていた。

 首元には、あの日と同じマスタード色のマフラー。

 一ヶ月前はあんなに遠く感じた七歳の年齢差が、並んで座り、自販機で買ったばかりの缶ココアを分け合う時間の中では、不思議なほど透けて見えなくなっていた。

「今日はね、企画書を一本、通してきたの」

 遥は、手袋を外した指先で、温かいアルミ缶の感触を確かめながら言った。

「湊君に言われた『不在の温度』っていう言葉。それをヒントに、生活の跡を感じさせる広告を作ってみたの。……上司には『お前、急に作風が変わったな』って驚かれちゃった」

「……嬉しいです。僕の言葉が、遥さんの世界に何かを残せたなら」

 湊は少し照れくさそうに笑い、スケッチブックの端に鉛筆を走らせる。

 この一ヶ月で、二人の会話からは少しずつ「敬語」の棘が抜け、代わりに名前を呼び合う際の柔らかな余白が生まれていた。


 遥は二十七歳。湊は二十歳。

 本来なら、交わるはずのない二つの時間軸。

 遥が後輩の指導やキャリアの分岐点に頭を悩ませている間、湊は卒業制作のテーマが決まらずに、冬の凍てつくホームで孤独な格闘を続けていた。

「湊君。卒業したら……やっぱり、どこかのデザイン事務所にでも入るの?」

 遥が何気なく投げかけた問いに、湊の筆が、ぴたりと止まった。

 乾いた風がホームを通り抜け、銀杏の枯れ葉をカサカサと踊らせる。

「……正直、分からなくなっちゃったんです」

 湊の声は、冬の夜気に溶けてしまいそうなほど、頼りなげだった。

「この駅にいると、時間はこんなに優しくて、確かなものに思える。でも、一歩外に出ると、世界はもっと速くて、僕が描いているものなんて、誰も求めていないんじゃないかって……怖くなるんです」

 湊の手元を見ると、スケッチブックの新しいページには、大きな「余白」が残されていた。

 それは、彼が抱える将来への茫漠とした不安そのもののようだった。

 かつての遥なら、「若いうちは何でもできるよ」という、大人特有の無責任な励ましを口にしただろう。けれど今の彼女には、その「余白」が、今の彼にしか持てない尊い財産であることを知っていた。

「……湊君、手。見せて」

 遥は、湊の右手をそっと取った。

 指先は黒鉛で真っ黒になり、寒さのせいで赤くひび割れている。

「この汚れはね、君がちゃんと、この世界に触れようとした証拠だよ」

 遥は、自分のバッグから小さなハンドクリームを取り出し、彼の指先に少しだけ乗せた。

「効率的に生きることは、誰にでもできる。でも、一つの駅のベンチの傷を愛おしむことは、君にしかできない。……少なくとも、私はその感性に救われた一人だよ」

 遥の指先が、湊の掌に触れる。

 二十七歳の彼女が持つ、少しだけ現実の苦さを知った熱。

 二十歳の彼が持つ、まだ何にも染まりきっていない、真っ直ぐな震え。

「遥さん……」

 湊が顔を上げた。

 二人の距離が、いつもより数センチだけ近くなる。

 駅のアナウンスが『まもなく、下り電車が参ります』と無機質に告げ、遠くからヘッドライトの暴力的な光がホームを真っ白に染め上げた。

 その光の中で、湊は初めて、遥の瞳を正面から、逃げずに見つめ返した。

「……もう、快速には乗らなくていいかな」

 遥の冗談めかした呟きは、電車の進入音にかき消されて、誰にも届かなかった。

 けれど、湊だけは、彼女の唇の動きを読み 取ったかのように、静かに頷いた。

 電車がホームに滑り込み、重い風圧が二人を包み込む。

 その瞬間、遥は気づいてしまった。

 自分が「この駅」を好きになった本当の理由は、この古い建物や銀杏の木ではなく、そこにいる「湊」という存在そのものに、自分自身の失くした欠片を見つけたからなのだと。

 電車のドアが開き、数人の乗客が降りてくる。

 束の間の喧騒。

 それが過ぎ去ったあと、二人の間には、今までで一番深く、一番温かい沈黙が降りてきた。


 第4章:静かなクライマックス

 冬の深まりとともに、空の色はより硬質で、冷徹な青へと変わっていった。

 九十九駅を訪れる遥の心には、駅のホームを吹き抜ける北風よりも鋭い、ある「通告」が突き刺さっていた。

「……シンガポール?」

 湊の声が、白く濁った吐息とともに夜気に溶ける。

 仕事帰り、いつものように並んで座る二人の間に、数枚の資料が置かれていた。

「来春からの海外赴任候補。……キャリアとしては、これ以上ないチャンスよ。普通なら、手放しで喜ぶべきことなの」

 遥は自嘲気味に笑い、冷え切った指先をコートのポケットに隠した。

 二十七歳の現実。

 それは、積み上げてきた努力が報われる瞬間に、何かを捨てなければならないという選択を強いてくる。今の遥にとって、捨てるべきものは、週に一度のこの「空白」であり、目の前で真っ黒な指先を握りしめている湊だった。

「遥さんは、行きたいんですか」

 湊の問いは、あまりにも真っ直ぐで、剥き出しだった。

「分からない。……ただ、ここ一ヶ月、この駅であなたと過ごしてから、何が『正解』なのかが分からなくなっちゃったの」

 遥は顔を上げ、ホームを照らす水銀燈を見つめた。

「快速に乗って、誰よりも早く目的地に着くことが幸せだと思ってた。でも、ここで止まっている時計を見て、君の絵を見て……何もない時間にこそ、私の本当の心が宿っていたんだって、気づいちゃったから」

 その時、夜空から音もなく白い結晶が舞い落ちてきた。

 初雪だった。

 街の騒音を吸い込み、すべてを等しく塗りつぶしていく純白の侵入者。

「遥さん」

 湊が立ち上がり、遥の前に立った。

「僕は……この駅が、大嫌いになりそうです」

「え……?」

「ここに来れば、遥さんに会える。この駅の傷も、古い匂いも、全部遥さんと結びついてしまった。もしあなたが明日からいなくなったら、僕は、この景色を二度と正視できない」

 湊の瞳が、雪の反射を受けて濡れたように輝いている。

 七歳の差。

 二十歳の彼にとって、今の絶望は世界の終わりと同じ重さを持っていた。一方で、二十七歳の遥は、どんなに悲しくても明日の朝にはヒールを履き、何食わぬ顔でオフィスへ向かわなければならない自分を知っている。

 その「大人の狡さ」が、彼女の胸を締め付けた。

「湊君……ごめんね。私は、君のように真っ直ぐに、この場所を愛せなかった」

「違います」

 湊は強く首を振った。

「愛していたのは、僕の方じゃない。遥さんが、この駅の『余白』を愛してくれたから、僕の描くものに意味が生まれたんです。僕を、ただの『学生』じゃなく、一人の『表現者』にしてくれたのは、あなただった」

 湊が震える手で、自分のバッグから一冊のスケッチブックを取り出した。

 それは、彼がこの数ヶ月、片時も離さず持ち歩いていたものだった。

「これ、受け取ってください。……最後の一ページは、まだ描いていません」

 遥が震える手で受け取り、ページをめくる。

 そこには、九十九駅の細部――錆びた釘、割れたタイル、銀杏の幹。けれど、後半に進むにつれて、構図にある「変化」が起きていた。

 背景の中に、小さな、けれど確かな存在感を持って描かれている、一人の女性の影。

 快速を見送る横顔。缶ココアを両手で包む指。笑うと少しだけ細くなる目。

 湊は、駅を描きながら、その景色の一部として溶け込んでいた「遥」という孤独を、執拗に、そして愛おしむように描き続けていたのだ。

「……ひどいよ、湊君。こんなの、置いていけなくなるじゃない」

 遥の瞳から、堪えていた熱い滴がこぼれ、スケッチブックの余白に小さな染みを作った。

「置いていかなくていいです」

 湊が、遥の肩を抱き寄せた。

 分厚いダッフルコート越しに伝わる、彼の心臓の鼓動。若くて、不器用で、けれど驚くほど力強い拍動。

「どこへ行っても、何をしても、遥さんの中には、この駅で過ごした『各駅停車の時間』が残っているはずです。効率や数字に追いかけられたら、このスケッチブックを開いてください。そこには、世界で一番ゆっくり流れる時間が閉じ込められていますから」

 雪は勢いを増し、ホームにある巨大な銀杏の木を白く装飾していく。

 二人は、どちらからともなく手を握り合った。

 凍えるような冬の夜。けれど、繋いだ手のひらからは、かつて自販機のココアで分け合った、あの温もりよりもずっと確かな熱が、互いの体温を溶かし合っていた。

『まもなく、上り、最終電車が参ります』

 非情なアナウンスが、終わりの始まりを告げる。

 遥は、湊の胸に顔を埋め、雪の匂いを深く吸い込んだ。

 この駅が好き。

 この駅を教えてくれた、この人が好き。

 その想いが、告白という形を借りずに、静かな雪の中に溶けて、二人の記憶に深く刻まれていった。


 第5章:エピローグ:それぞれの出発

 三年の月日が流れた。

 シンガポールの空港に降り立った時、遥の耳を塞いでいたのは、かつてのノイズキャンセリングイヤホンではなかった。彼女は、異国の喧騒、多言語が飛び交う熱気、そしてスコールが舗装路を叩く激しい音を、そのままの輪郭で受け入れながら三年間を過ごしてきた。

 かつて「ノイズ」だと思っていた世界のすべてが、湊とあの駅で過ごした時間以降、かけがえのない「生きている証」に聞こえるようになっていた。

 帰国後の休暇。遥が向かったのは、都心の洗練されたオフィスでも、華やかな再会の場でもなかった。

 手に提げた小さな紙袋。中には、現地で見つけた良質なデッサン用の木炭と、少しだけ高価なスケッチブックが入っている。

 オレンジ色の中央線を乗り継ぎ、各駅停車に揺られること数十分。

 窓の外に広がる景色が、徐々に背の低い家々と、冬の眠りにつく畑へと変わっていく。

『次は、九十九、九十九――』

 ホームに降り立つと、そこには三年前と変わらない「沈黙」があった。

 巨大な銀杏の木は、葉を落としきって寒空に力強い枝を伸ばしている。木製の手すりがついた改札機も、タイルの欠けた床も、誰かが磨き上げた時刻表のアクリル板も、すべてがそこにあった。

 けれど、一つだけ決定的に違うものがある。

 ホームの中央に設置された、真新しい展示スペース。

 そこには、駅の利用者が自由に眺められる「九十九駅・記憶のギャラリー」というコーナーが設けられていた。

 遥は、鼓動が高鳴るのを感じながら、その一角に歩み寄った。

 展示されているのは、数枚のモノクロームの絵。

 そこには、遥がよく知る「駅の細部」が描かれていた。ベンチの錆びた脚、改札の傷、そして――雪の降る夜、最終電車を見送る一人の女性の、小さくも凛とした後ろ姿。

「……あ」

 キャプションには、若き新進芸術家として注目され始めた彼の名前があった。

 湊は、あの「余白」を埋める術を見つけたのだ。この駅を愛し、その傷跡に物語を見出すことで、彼は自分の居場所を世界に作り上げていた。

「あの、すみません。そこ、僕の指定席なんですけど」

 聞き覚えのある、けれど三年前より少しだけ厚みを増した声が、背後から届いた。

 遥がゆっくりと振り向くと、そこには、履き古したスニーカーを泥で汚し、首元にあのマスタード色のマフラーを巻いた湊が立っていた。

 手には、新しいスケッチブック。指先は、相変わらず黒鉛で真っ黒だった。

 湊は、目の前の女性が誰であるかを理解するのに、数秒の時間を要した。

 やがて、その瞳に驚きと、それ以上の深い歓喜が灯る。

「……遥、さん」

「ただいま、湊君。快速を一本、見送ってきちゃった」

 遥が微笑むと、湊の顔が、あの冬の夜と同じようにくしゃりと崩れた。

 七歳の年齢差。それは今でも厳然として存在するが、今の遥にはそれが、お互いの人生をより豊かに彩るための「必要な距離」であるように思えた。

 彼女は二十七歳の焦燥を脱ぎ捨て、三十歳の静謐を手に入れた。

 彼は二十歳の彷徨を抜け、二十三歳の情熱を形にし始めていた。

「この駅、少しだけ変わったわね」

「はい。でも、あのベンチの傷はそのままです。……隣、座ってもいいですか?」

「ええ。あなたの指定席、半分貸して」

 二人は、ペンキの剥げた木のベンチに並んで腰を下ろした。

 遥はバッグから、あの日湊からもらったスケッチブックを取り出した。海外の空の下で、何度も、何度も読み返した、彼女の宝物。

 その最後の一ページは、今でも真っ白な「余白」のままだった。

「湊君。この最後のページ、今ここで描いてくれない?」

 湊は、手渡されたスケッチブックと、隣に座る遥の横顔を交互に見た。

「いいですよ。でも、風景だけじゃ足りない気がします」

 湊は、鉛筆を走らせ始めた。

 冬の柔らかな光が、二人の肩を包み込む。

 銀杏の枝が風に揺れ、線路が冷えていく音がする。

 自販機から、温かい飲み物を買うガタンという音が聞こえてくる。

 湊が描き始めたのは、駅の景色ではなかった。

 真っ白な余白の中に、重なり合う二つの手のひら。

 それは、かつて雪の降るホームで、言葉にならない想いを分かち合った瞬間の熱量。

「完成です」

 湊が差し出したページを見て、遥は静かに涙をこぼした。

 そこには、過去の感傷でも、未来への約束でもない、ただ「今、ここにいる」という確かな存在が刻まれていた。

『まもなく、下り電車が参ります』

 アナウンスが響くが、二人は立ち上がらなかった。

 もう、急いでどこかへ行く必要はない。

 二人が愛したこの駅には、十分すぎるほどの時間と、これから綴られるはずの無限の物語が、余白として残されているのだから。

「私、やっぱりこの駅が好き」

「僕もです。……この駅にいる、遥さんのことが」

 遥はイヤホンを外し、隣で響く湊の笑い声に耳を澄ませた。

 快速電車が轟音と共に通過していく。その風圧に吹かれながらも、二人の座るベンチだけは、どこまでも穏やかで、静かな「各駅停車」の時間の中に、いつまでも、いつまでも留まっていた。

(完)
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