藍色のポジャギ、雪の設計図

Y.

文字の大きさ
1 / 1

第1章:藍色の境界線

しおりを挟む
 石川県金沢市、午後四時。

 この街の冬は、色彩が死んだような鉛色の空から始まる。湿り気を帯びた重たい雪が、ひがし茶屋街の紅殻格子の街並みを、音もなく白く塗りつぶしていく。

 瀬戸悠真(せと ゆうま)は、首元までコートのボタンを留め、愛機のライカを右手に抱えて歩いていた。建築家としての彼は、機能性と構造美を追求する現代建築の世界で生きてきた。だが、仕事が多忙を極め、心に余裕をなくすたびに、彼はこの古都を訪れる。ここには、計算では導き出せない「時間の堆積」があるからだ。

「……今日は、光が足りないな」

 独り言が、白い呼気となって空気に溶ける。ファインダーを覗き込んでも、見えるのは彩度の低い灰色の世界ばかりだ。かつて付き合っていた女性から「あなたは建物の骨組みばかり見て、そこに住む人の体温を見ていない」と言われた言葉が、冷たい風と共に蘇る。彼はそれを振り払うように、シャッターを一度だけ切った。乾いた金属音だけが、無人の路地に響いた。

 彼は、ふと足を止めた。

 古い町家を改装した、看板すら出ていない小さなギャラリーの窓に、一点の「青」が灯っていたからだ。

 それは、一枚の布だった。

 日本の藍染めとも、デニムの青とも違う、透き通るような、それでいて深い海のような青。幾枚もの薄い絹の端切れが、繊細な手縫いで繋ぎ合わされている。
 規則的なようでいて、どこか呼吸するように不規則なその縫い目は、彼が知るどの設計図よりも複雑で、そして自由だった。

「ポジャギ……か」

 その伝統工芸の名を、彼はかろうじて知っていた。韓国の、端切れを繋ぎ合わせて作る風呂敷のようなもの。だが、窓越しに見るその作品は、単なる日用品の域を超えていた。布と布の継ぎ目が、まるで境界線を溶かし合うように重なり、そこだけが雪の降る金沢の路地で、異質な熱を放っているように見えた。

 悠真は吸い寄せられるように、ギャラリーの重い木製の扉を押し開けた。

 店内に踏み込むと、白檀の香りが微かに鼻をくすぐった。外の凍てつく寒さが嘘のように、室内は柔らかな暖房の熱で満たされている。

「いらっしゃいませ(オソオセヨ)」

 奥から響いた声に、悠真は肩を揺らした。

 そこに立っていたのは、一人の女性だった。

 ベージュのカシミアのセーターに、ゆったりとしたウールのスカート。髪は後ろで無造作にまとめられているが、そこから覗くうなじの白さが、薄暗い店内ではっとするほど鮮やかだった。

 彼女こそが、この作品の作者、イ・ソユンだった。

「あ、すみません。窓の作品に、目を奪われてしまって」

 悠真が咄嗟にそう言うと、彼女は少しだけ首を傾げた。そして、困ったような、しかし春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべた。

「すみません。日本語……まだ、少しだけです」

 彼女の声は、低く落ち着いていた。彼女はカウンターの上に置かれていたスマートフォンを手に取り、慣れた手つきで画面を操作した。数秒後、無機質な合成音声が響く。

『見てくださって、ありがとうございます。それは、私の母の国の海をイメージして作りました』

 悠真は、その無機質な声と、彼女の潤んだような大きな瞳のギャップに戸惑った。彼女の瞳には、言葉以上の情報が詰まっているように見えたからだ。

「建築をやっているんです。瀬戸といいます」

 悠真は、自分の名刺を差し出した。ソユンはそれを両手で丁寧に受け取り、じっと見つめる。「設計事務所……」と、彼女はたどたどしく漢字を読み上げた。

「この縫い目……構造的に、とても興味深い。どうして、こんなに細かく、それでいて力強く繋げるんですか?」

 悠真が思わず一歩踏み込んで問いかけると、彼女は再びスマホに向かった。今度は少し長く、画面をなぞる。

『ポジャギは、捨てられるはずの端切れに、新しい命を吹き込む仕事です。バラバラだったものが一つになる時、そこには新しい物語が生まれます。私は、その瞬間の“情(ジョン)”を縫い込んでいます』

「情(ジョン)……」

 悠真はその言葉を反芻した。日本語の「情」よりも、もっと重く、湿り気を帯びた、韓国特有の絆や愛情を意味する言葉であることを、彼は知識として知っていた。

「私の仕事は、コンクリートや鉄筋で、頑丈な壁を作ることです。でも……あなたの作るものは、境界線そのものを愛で満たしているように見える。今の僕には、それがとても、眩しいです」

 彼は、自分でも驚くほど素直に心情を吐露していた。言葉の壁があるからこそ、かえって余計な虚飾が削ぎ落とされ、本音だけが零れ落ちる。

 ソユンはスマホを置き、まっすぐに悠真の目を見つめた。翻訳アプリの音声を介さず、彼女の唇が動く。
「……マブシイ? 眩しい……ですか?」

「ええ。とても」

 二人の間に、数秒の沈黙が流れた。外を走る車の走行音が、雪に吸い込まれて遠く聞こえる。店内の赤い安全灯のような照明が、彼女の頬を淡く染めていた。その沈黙は決して不快なものではなく、むしろ現像液の中で写真がゆっくりと浮かび上がってくるのを待つ時のような、静かな高揚感に満ちていた。

 だが、その静寂を破ったのは、ソユンのスマホに届いた着信音だった。彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、電話に出た。韓国語の、速くて情熱的な響きが狭い店内に満ちる。悠真は、自分が彼女の「聖域」に土足で踏み込んでしまったような奇妙な寂しさを感じ、軽く会釈をしてギャラリーを後にした。

 外に出ると、雪の勢いは増していた。

 悠真は首をすくめ、駐車場へと続く坂道を歩き始めた。だが、心はまだあの青い布と、彼女の静かな眼差しの余韻に囚われていた。

「あ……」

 前方を歩く人影が見えた。先ほどの彼女、ソユンだった。彼女は大きな荷物を抱え、滑りやすい雪道に足を取られそうになりながら急いでいる。電話の内容が緊急だったのだろうか。

 その時、彼女が抱えていた包みの隙間から、小さな、小さな絹の束がこぼれ落ちた。

 それは、彼女が「命を吹き込む」と言っていた、大切な端切れの束だった。

 ソユンはそれに気づかず、角を曲がって消えていく。

「待ってください! ソユンさん!」

 悠真は叫んだ。自分の喉から、出会ったばかりの彼女の名前が自然と溢れたことに驚きながら、彼は雪を蹴って走り出した。

 落ちていたのは、あの青い布と同じ色の、小さな端切れだった。

 雪の上に落ちたそれは、まるで白い大地にこぼれた涙のように見えた。

 悠真はそれを慎重に拾い上げ、指先でその柔らかな感触を確かめた。冷たい雪に触れているはずなのに、その布はどこか微かな体温を宿しているような気がした。

「ハァ、ハァ……待って、ソユンさん!」

 坂を駆け上がった先、街灯の下で立ち止まっている彼女の背中が見えた。彼女は荷物を雪の上に置き、途方に暮れたように自分の手元を見つめていた。大切なものを失くしたことに、ようやく気づいたのだろう。

 悠真の声に、彼女が振り返る。

 街灯のオレンジ色の光が、彼女の目からこぼれ落ちた一筋の雫を、ダイヤモンドのように輝かせた。

 街灯の下で立ち尽くすソユンの肩は、寒さのせいか、それとも喪失感のせいか、小さく震えていた。悠真は荒い息を整えながら、彼女の数歩手前で足を止めた。急激に動かした身体が熱を持ち、冷たい空気と混ざり合って、視界が白く煙る。

「ソユンさん、これ……」

 悠真は、掌に載せた藍色の端切れを差し出した。

 雪の結晶がその小さな布の上に舞い降り、一瞬で溶けて消えていく。ソユンは、信じられないものを見るかのように目を見開いた。彼女の濡れた瞳に、オレンジ色の街灯と、差し出された青い布が映り込む。

「あ……」

 声にならない吐息を漏らし、彼女は吸い寄せられるように一歩踏み出した。そして、震える手でその布を受け取ろうとした。

 その時だった。

 冷え切った彼女の指先が、悠真の掌に触れた。

 凍てつく冬の夜、互いの皮膚が触れ合った瞬間の衝撃は、電気的な痛みにも似ていた。悠真は、彼女の指先が氷のように冷たいことに驚き、反射的にその手を包み込むようにして布を渡した。

「……冷たい。ずっと、探していたんですか?」

 ソユンは、自分の指先を包み込んだ悠真の手の熱に驚いたのか、一瞬だけ身体を硬くした。しかし、すぐにその強張りは解け、代わりに深い安堵の色が彼女の顔に広がった。

「カムサハムニダ……本当に、カムサハムニダ」

 彼女は何度も深く頭を下げた。その拍子に、彼女の髪から雪がはらりと悠真のコートの袖に落ちる。彼女は慌てて自分のスマートフォンを取り出そうとしたが、かじかんだ指は思うように動かず、スマホを雪の上に落としそうになった。

「いいんです、翻訳機なんて」

 悠真は、彼女のその不自由な動きを止めるように、優しく首を振った。

「大切なものだってことは、見ればわかります。これ、あの窓にあった作品の一部でしょう?」

 ソユンは、悠真の顔をじっと見つめた。日本語の意味をすべて理解したわけではないだろう。だが、彼の声のトーンや、自分を見つめる眼差しの穏やかさから、彼が「心」を差し出していることを感じ取ったようだった。

 彼女は、手の中の藍色の布を愛おしそうに撫でた。

「これ、オンマ……母の、遺した布です。私の、命の……ひとかけら(チョガク)」

「ひとかけら」という言葉だけが、日本語として彼女の口から零れた。その一言の重みが、悠真の胸の奥を静かに突いた。

 雪はさらに激しさを増し、二人の周囲を白い帳のように包み込んでいく。もはや、ここが日本なのか、それとも海の向こうの知らない国なのか、その境界すら曖昧に思えるほどの静寂だった。

 ソユンは、預けていた荷物の中から、一冊の古いスケッチブックを取り出した。彼女はそれを悠真に向け、ページの間に挟まっていた「何か」を指し示した。

 それは、彼女が金沢の街を歩きながら集めた、落ち葉や押し花、そして古い建物の格子の模様を写し取ったメモだった。

「ユウマさん、建築……作る。私、布……作る」

 彼女は、たどたどしい言葉を一つずつ、大切に紡ぎ出した。

「形は、違います。でも……光、探している。一緒、です」

 悠真は息を呑んだ。

 自分の心の奥底、効率や数字ばかりを求められる日常で枯れ果てていた「何か」が、彼女の言葉によって潤いを取り戻していくのを感じた。

「そうですね……。僕は、壁を作って人を守るのが仕事だと思っていました。でも、あなたは布を繋いで、心を通わせる場所を作っている。僕も……そんな風に、誰かの体温を感じられる場所を作りたいと思っていたはずなのに」

 悠真は、肩に提げたライカに手を置いた。

「ソユンさん、一枚だけ、撮らせてもらえませんか。あなたを、ではなく。あなたのその手が、その布を抱きしめているところを」

 ソユンは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑んで、藍色の端切れを胸の前で優しく包み込んだ。

 悠真はファインダーを覗いた。

 オレンジ色の光、降りしきる白、そして深い藍色。

 シャッターを切った瞬間、フィルムに刻まれたのは、単なる視覚情報ではなかった。それは、二人の間に流れる「言葉にできない交流」そのものだった。

「明日、ソウルに帰ります」

 ソユンは、少しだけ寂しげな表情でそう告げた。

 悠真の胸に、冷たい風が吹き抜ける。ようやく出会えた、自分と似た魂を持つ人。せっかく見つけた「青い光」が、また遠くへ消えてしまう。

「……そうですか。展示会は、もう終わりなんですね」

「はい。でも、春……桜の季節、また、来ます。金沢、好きになりました」

 彼女はそう言うと、持っていた包みの中から、小さなポジャギのコースターを取り出した。それは、先ほどの大きな作品の習作のようにも見えたが、もっと温かみのある、日常の「情」を感じさせるものだった。

「これ……お礼です。繋いで、ください。私と、日本」

 彼女から手渡されたその布は、まだ彼女の手の温もりを宿していた。悠真はそれを大切にポケットに仕舞い、自分のマフラーを解いて、彼女の首に巻き直した。

「……っ」

 ソユンが小さく肩を跳ねさせる。悠真の体温が残るマフラーが、彼女の白い肌を包み込んだ。

「これ、貸しておきます。春に、金沢で返してください。それまで、僕があなたの作品の展示を、もっと美しく見せられる場所を探しておきますから」

 それは、控えめな、しかし彼にとって最大限の告白に近い約束だった。

 ソユンは驚いたように目を見開き、やがてその大きな瞳を細めて、今日一番の笑顔を見せた。

「約束……ヤクソク、ですね」

 二人は、雪の積もる坂道で、しばらくの間、言葉もなく見つめ合った。

 言葉が通じないもどかしさは、もうなかった。むしろ、言葉がないからこそ、雪が降り積もる音や、お互いの鼓動の響きが、雄弁に愛を語り合っているようにさえ感じられた。

 やがて、彼女を迎えに来たタクシーのライトが、雪の夜を切り裂いて近づいてきた。

 ソウルへと続く長い旅路の始まり。

 だが、悠真の心は、かつてないほどに静かで、そして熱かった。

 タクシーが去った後、悠真は一人、再びファインダーを覗いた。

 そこには、彼女が歩いた後に残った、点々とした足跡があった。雪がそれを埋めていく前に、彼はその光景を心に焼き付けた。

 鉛色の冬の終わり。

 二人の物語は、まだ現像液の中に浸されたばかりの、一枚の印画紙のように、ゆっくりと、しかし鮮やかに色づき始めていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

抱きしめて

麻実
恋愛
夫の長期に亘る不倫に 女としての自信を失った妻は、新しい出会いに飛び込んでいく。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

【完】まさかの婚約破棄はあなたの心の声が聞こえたから

えとう蜜夏
恋愛
伯爵令嬢のマーシャはある日不思議なネックレスを手に入れた。それは相手の心が聞こえるという品で、そんなことを信じるつもりは無かった。それに相手とは家同士の婚約だけどお互いに仲も良く、上手くいっていると思っていたつもりだったのに……。よくある婚約破棄のお話です。 ※他サイトに自立も掲載しております 21.5.25ホットランキング入りありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ  Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.  ⓒえとう蜜夏(無断転載等はご遠慮ください)

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

侯爵様の懺悔

宇野 肇
恋愛
 女好きの侯爵様は一年ごとにうら若き貴族の女性を妻に迎えている。  そのどれもが困窮した家へ援助する条件で迫るという手法で、実際に縁づいてから領地経営も上手く回っていくため誰も苦言を呈せない。  侯爵様は一年ごとにとっかえひっかえするだけで、侯爵様は決して貴族法に違反する行為はしていないからだ。  その上、離縁をする際にも夫人となった女性の希望を可能な限り聞いたうえで、新たな縁を取り持ったり、寄付金とともに修道院へ出家させたりするそうなのだ。  おかげで不気味がっているのは娘を差し出さねばならない困窮した貴族の家々ばかりで、平民たちは呑気にも次に来る奥さんは何を希望して次の場所へ行くのか賭けるほどだった。  ――では、侯爵様の次の奥様は一体誰になるのだろうか。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

処理中です...