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いつもの場所に座って
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1. 日常と「いつもの場所」
今年も、窓際の席に座る。
ここは「カフェ・リュミエール」。薄暗い木製のテーブルと、使い古されたベルベットのソファ、そして壁にかけられた古いモノクロ写真が心地よい、私の聖域だった。そして、この場所に来る理由の半分を占める、彼がいる場所。
佐藤葵は、いつものように窓際の特等席に腰を下ろした。柔らかな秋の午後の光が、マグカップに注がれたブレンドコーヒーの水面に、微かに反射する。この席は、外を歩く人々をぼんやり眺めながら、心を落ち着けるのに最適だった。
五分後、ドアベルが澄んだ音を立てた。
田中律が入ってくる。私よりも少し背が高い。彼はいつも黒のシンプルなコートを羽織り、革のブリーフケースを持っている。そして、迷うことなく店内の奥、入口近くのカウンター席に向かった。彼の席は、店内で一番雑然としている場所だ。
律はパソコンを開き、すぐに作業を始める。私は窓の外を見ているふりをして、彼の横顔を視界の隅で捉えた。真剣な表情、時折、コーヒーを一口飲むために動きを止める手の仕草。彼はいつもノートパソコンに向かっていて、一度も私の方を見たことはない。
今日もまた、この席に座る。私の席は窓際で、彼の席は入口の近く。たった数メートルの物理的な距離が、私たちにとっては世界の端と端だった。私たちは互いの日常を共有しているようで、決定的に交わらない、二本の平行線だった。彼がここに来るたびに、私の心の中でだけ物語が綴られていく。
「今日も来ている」という事実だけで、私の日常は満たされていた。私は彼の生活の観測者でいることを選んでいた。一歩踏み出す勇気も、理由も見つけられずに。
2. すれ違いと心の変化
私の日課は、彼を観察することだった。今日は、いつものブレンドではなく、カフェラテを頼んでいる。ああ、今日は少し疲れているのかもしれない。昨日は、髪を少し切ったようだ。彼の小さな変化を拾い上げることが、私の秘密の宝探しだった。
ある日、律が誰かと電話で話す声が、微かに聞こえてきた。
「……うん、納期は大丈夫。ああ、来週、またそっちに顔出すよ。」
彼の言葉は、彼が私とは全く関係のない、忙しい日常を送っていることを改めて突きつけた。彼は私の日常の一部ではない。私の一方的な日常にいるだけだ。
そう考えると、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
そして、週末を挟んだ月曜日。
律はカフェに来なかった。
席は空っぽだ。彼の定位置には、別の常連客が新聞を広げている。私は落ち着かず、コーヒーの味もわからなかった。二時間粘ったが、彼は現れなかった。その夜は、彼のいないカフェを思い出して、妙に心細かった。私の日常が、彼という名の部品を失って、音を立てて崩れていくようだった。
火曜日も、水曜日も、律は来なかった。
木曜日の午後三時。半分諦めかけていたその時、ドアベルが鳴った。
律だ。彼はいつものように席に着いたが、すぐに何かを探すように視線を彷徨わせた。そして、ため息をついた。
私が視線を彼の席に移すと、カウンターの小さなテーブルの下に、何か小さなものが落ちているのが見えた。彼が立ち上がった時に、滑り落ちたのだろうか。
律が席を立った後、私はすぐに彼のテーブルに近づいた。そこにあったのは、彼がいつも使っているのを見たことのある、ボロボロになった小さな手帳だった。
私はそれを拾い上げ、手のひらに握りしめた。どうしよう。すぐに彼に渡すべきだろうか。でも、私は彼に話しかけたことがない。これを渡すという行為は、「いつもの場所」にいるという均衡を崩すことになる。
しかし、手帳には付箋がたくさん貼ってあり、仕事のメモらしきものが覗いていた。彼はこれがないと困るはずだ。彼の日常を取り戻す、唯一のチャンス。
私は、窓際へ戻り、コートのポケットに手帳を忍ばせた。
3. 決断と変化する世界
次の日の金曜日。私は朝から胸が張り裂けそうだった。
午後、律はいつものようにカフェに入ってきた。彼は席に着いた後も、まだ落ち着かない様子で、カバンの中やポケットを探っている。
私は深呼吸をした。これは私の日常を壊し、彼に近づく、最初で最後の一歩だ。
私は「いつもの場所」、私の聖域である窓際の席を立ち、彼の席へ向かった。たった数メートルの距離が、永遠に続くように感じられた。
律は、私が近づく気配に気づき、顔を上げた。初めて、真正面から目が合う。彼の瞳は、私が想像していたよりもずっと穏やかで、少し驚きを湛えていた。
「あの……すみません。」
私の声は、ひどく震えていた。私はポケットから手帳を取り出し、彼のテーブルに置いた。
「これ、昨日、そちらに落ちていました。多分、田中さんのものかと……。」
律は手帳を見て、目を見開いた。
「ああ!これだ。探していたんです。本当にありがとうございます。」
彼は安堵した様子で、深々と頭を下げた。私は、彼の近くに来るだけで心臓がうるさく鳴るのを感じた。
「あの……いつも、あの窓際の席にいますよね。」律はそう言いながら、手帳を胸に抱え、困ったように微笑んだ。
私は動揺した。彼は私の存在に気づいていた?私が一方的に見つめているだけだと思っていたのに。
「え、はい。よく、あそこに……。」
「これで助かりました。本当に。僕は田中律です。ありがとう、……。」彼は立ち止まり、私の名前を待った。
「佐藤、葵です。」
「佐藤さん。助かりました。今度、お礼させてください。」
私は、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。
窓際の席に戻ると、コーヒーはすっかり冷めていた。だが、カフェの空気、コーヒーの香り、光の加減、全てが変わって見えた。壁のモノクロ写真にさえ、色が付いたように感じた。
世界の端と端だった数メートルの距離が、今、わずかに、たった一歩分だけ縮まったのだ。
4. 未来への一歩
それからの数日間、私たちの関係は微妙に変わった。
律は時折、作業の手を止め、私の方に視線を寄越すようになった。目が合うと、彼は少しだけ微笑んで、すぐに作業に戻る。それは一瞬の出来事だが、私にとっては十分すぎるほどの変化だった。
水曜日の午後。律はいつもより早くカフェに来ていた。彼はいつものカウンター席に座っている。
私は窓際の席へ向かい、コートを脱いだ。
その時、律は立ち上がった。彼は、私の「いつもの場所」である窓際の席の横まで歩いてきて、立ち止まった。
「佐藤さん。」
彼は小さな声で私を呼んだ。私はドキリとして顔を上げる。
「今日、少し早く切り上げる予定なんです。」律はブリーフケースのストラップを握りしめながら、少しだけ照れたように言った。
「あの、よかったら……少しだけ、話しませんか?お礼もまだちゃんとできていませんし。この近くに、少し面白いブックストアがあるんですよ。」
私は、彼の「いつもの場所」ではない、新しい場所への誘いに息を呑んだ。
窓の外は、すでに夕暮れの光に染まっていた。
私は冷めたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。コートを羽織る。律が少しだけ先に歩き、ドアを開けてくれた。
「ありがとう。」
「いえ。」
私はカフェ・リュミエールの重い扉を通り抜けた。
外は少し肌寒いが、心地よい風が吹いていた。律が隣で歩いている。私は今日まで、このカフェの中でしか世界を見ていなかった。しかし、扉の向こうに、少しだけ開かれた新しい世界が広がっていることを、はっきりと感じた。
「じゃあ、行きましょうか。」律が優しく促す。
「はい。」
そう答えて、私は一歩を踏み出した。
今年も、窓際の席に座る。
ここは「カフェ・リュミエール」。薄暗い木製のテーブルと、使い古されたベルベットのソファ、そして壁にかけられた古いモノクロ写真が心地よい、私の聖域だった。そして、この場所に来る理由の半分を占める、彼がいる場所。
佐藤葵は、いつものように窓際の特等席に腰を下ろした。柔らかな秋の午後の光が、マグカップに注がれたブレンドコーヒーの水面に、微かに反射する。この席は、外を歩く人々をぼんやり眺めながら、心を落ち着けるのに最適だった。
五分後、ドアベルが澄んだ音を立てた。
田中律が入ってくる。私よりも少し背が高い。彼はいつも黒のシンプルなコートを羽織り、革のブリーフケースを持っている。そして、迷うことなく店内の奥、入口近くのカウンター席に向かった。彼の席は、店内で一番雑然としている場所だ。
律はパソコンを開き、すぐに作業を始める。私は窓の外を見ているふりをして、彼の横顔を視界の隅で捉えた。真剣な表情、時折、コーヒーを一口飲むために動きを止める手の仕草。彼はいつもノートパソコンに向かっていて、一度も私の方を見たことはない。
今日もまた、この席に座る。私の席は窓際で、彼の席は入口の近く。たった数メートルの物理的な距離が、私たちにとっては世界の端と端だった。私たちは互いの日常を共有しているようで、決定的に交わらない、二本の平行線だった。彼がここに来るたびに、私の心の中でだけ物語が綴られていく。
「今日も来ている」という事実だけで、私の日常は満たされていた。私は彼の生活の観測者でいることを選んでいた。一歩踏み出す勇気も、理由も見つけられずに。
2. すれ違いと心の変化
私の日課は、彼を観察することだった。今日は、いつものブレンドではなく、カフェラテを頼んでいる。ああ、今日は少し疲れているのかもしれない。昨日は、髪を少し切ったようだ。彼の小さな変化を拾い上げることが、私の秘密の宝探しだった。
ある日、律が誰かと電話で話す声が、微かに聞こえてきた。
「……うん、納期は大丈夫。ああ、来週、またそっちに顔出すよ。」
彼の言葉は、彼が私とは全く関係のない、忙しい日常を送っていることを改めて突きつけた。彼は私の日常の一部ではない。私の一方的な日常にいるだけだ。
そう考えると、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
そして、週末を挟んだ月曜日。
律はカフェに来なかった。
席は空っぽだ。彼の定位置には、別の常連客が新聞を広げている。私は落ち着かず、コーヒーの味もわからなかった。二時間粘ったが、彼は現れなかった。その夜は、彼のいないカフェを思い出して、妙に心細かった。私の日常が、彼という名の部品を失って、音を立てて崩れていくようだった。
火曜日も、水曜日も、律は来なかった。
木曜日の午後三時。半分諦めかけていたその時、ドアベルが鳴った。
律だ。彼はいつものように席に着いたが、すぐに何かを探すように視線を彷徨わせた。そして、ため息をついた。
私が視線を彼の席に移すと、カウンターの小さなテーブルの下に、何か小さなものが落ちているのが見えた。彼が立ち上がった時に、滑り落ちたのだろうか。
律が席を立った後、私はすぐに彼のテーブルに近づいた。そこにあったのは、彼がいつも使っているのを見たことのある、ボロボロになった小さな手帳だった。
私はそれを拾い上げ、手のひらに握りしめた。どうしよう。すぐに彼に渡すべきだろうか。でも、私は彼に話しかけたことがない。これを渡すという行為は、「いつもの場所」にいるという均衡を崩すことになる。
しかし、手帳には付箋がたくさん貼ってあり、仕事のメモらしきものが覗いていた。彼はこれがないと困るはずだ。彼の日常を取り戻す、唯一のチャンス。
私は、窓際へ戻り、コートのポケットに手帳を忍ばせた。
3. 決断と変化する世界
次の日の金曜日。私は朝から胸が張り裂けそうだった。
午後、律はいつものようにカフェに入ってきた。彼は席に着いた後も、まだ落ち着かない様子で、カバンの中やポケットを探っている。
私は深呼吸をした。これは私の日常を壊し、彼に近づく、最初で最後の一歩だ。
私は「いつもの場所」、私の聖域である窓際の席を立ち、彼の席へ向かった。たった数メートルの距離が、永遠に続くように感じられた。
律は、私が近づく気配に気づき、顔を上げた。初めて、真正面から目が合う。彼の瞳は、私が想像していたよりもずっと穏やかで、少し驚きを湛えていた。
「あの……すみません。」
私の声は、ひどく震えていた。私はポケットから手帳を取り出し、彼のテーブルに置いた。
「これ、昨日、そちらに落ちていました。多分、田中さんのものかと……。」
律は手帳を見て、目を見開いた。
「ああ!これだ。探していたんです。本当にありがとうございます。」
彼は安堵した様子で、深々と頭を下げた。私は、彼の近くに来るだけで心臓がうるさく鳴るのを感じた。
「あの……いつも、あの窓際の席にいますよね。」律はそう言いながら、手帳を胸に抱え、困ったように微笑んだ。
私は動揺した。彼は私の存在に気づいていた?私が一方的に見つめているだけだと思っていたのに。
「え、はい。よく、あそこに……。」
「これで助かりました。本当に。僕は田中律です。ありがとう、……。」彼は立ち止まり、私の名前を待った。
「佐藤、葵です。」
「佐藤さん。助かりました。今度、お礼させてください。」
私は、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。
窓際の席に戻ると、コーヒーはすっかり冷めていた。だが、カフェの空気、コーヒーの香り、光の加減、全てが変わって見えた。壁のモノクロ写真にさえ、色が付いたように感じた。
世界の端と端だった数メートルの距離が、今、わずかに、たった一歩分だけ縮まったのだ。
4. 未来への一歩
それからの数日間、私たちの関係は微妙に変わった。
律は時折、作業の手を止め、私の方に視線を寄越すようになった。目が合うと、彼は少しだけ微笑んで、すぐに作業に戻る。それは一瞬の出来事だが、私にとっては十分すぎるほどの変化だった。
水曜日の午後。律はいつもより早くカフェに来ていた。彼はいつものカウンター席に座っている。
私は窓際の席へ向かい、コートを脱いだ。
その時、律は立ち上がった。彼は、私の「いつもの場所」である窓際の席の横まで歩いてきて、立ち止まった。
「佐藤さん。」
彼は小さな声で私を呼んだ。私はドキリとして顔を上げる。
「今日、少し早く切り上げる予定なんです。」律はブリーフケースのストラップを握りしめながら、少しだけ照れたように言った。
「あの、よかったら……少しだけ、話しませんか?お礼もまだちゃんとできていませんし。この近くに、少し面白いブックストアがあるんですよ。」
私は、彼の「いつもの場所」ではない、新しい場所への誘いに息を呑んだ。
窓の外は、すでに夕暮れの光に染まっていた。
私は冷めたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。コートを羽織る。律が少しだけ先に歩き、ドアを開けてくれた。
「ありがとう。」
「いえ。」
私はカフェ・リュミエールの重い扉を通り抜けた。
外は少し肌寒いが、心地よい風が吹いていた。律が隣で歩いている。私は今日まで、このカフェの中でしか世界を見ていなかった。しかし、扉の向こうに、少しだけ開かれた新しい世界が広がっていることを、はっきりと感じた。
「じゃあ、行きましょうか。」律が優しく促す。
「はい。」
そう答えて、私は一歩を踏み出した。
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