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第1話:死の静寂と黒髪の残像
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世界は、いつだってひどく色褪せて見えていた。
僕の目に映る大学のキャンパスは、埃っぽいアスファルトと、意欲の欠片も感じられない学生たちの濁った瞳で構成された、単調な灰色の記録画に過ぎなかった。講義、バイト、空疎な友人との会話。
それらは僕の皮膚を一枚も突き破ることなく、ただ表面を滑り落ちていくだけの無意味な記号だった。
「……忘れた」
深夜二十二時を回った頃。
激しく降り始めた雨の音に急かされるようにして、僕は守衛の目を盗み、古い旧講堂へと足を踏み入れた。忘れ物――使い古したノート一冊のために戻ったわけではない。
ただ、雨に濡れる自分の体が重く、何かに引き寄せられるようにして、その「死にかけた建物」へと逃げ込んだだけだった。
旧講堂は、建て替えを待つだけの巨大な墓標のようだった。
天井の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、空気は湿った埃の匂いで満ちている。外の豪雨が窓ガラスを叩く音だけが、ここがまだ地上にあることを教えてくれていた。
僕は暗い廊下を歩いた。窓から差し込む街灯の微かな光が、床に落ちた僕の影を不気味に引き伸ばしている。
その時だった。
廊下の奥、かつては華やかな演劇が繰り広げられていたであろう大ホールの重厚な扉から、ある「音」が漏れてきた。
……ピチャリ、ピチャリ……
それは、水溜まりを叩くような軽快な音ではない。もっと重く、粘り気のある何かが、硬い床に滴り落ちる音。
同時に、鼻を突くような強烈な臭気が漂ってきた。鉄錆を濃縮し、そこに生温かい湿り気を混ぜ合わせたような、生存を拒絶する匂い。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。だが、僕の足は逆の方向へと動く。
灰色の世界に飽き飽きしていた僕にとって、その禍々しい匂いは、この日初めて触れた「本物の色彩」のように感じられたのだ。
僕は音を立てないよう、大ホールの扉に手をかけた。重い木製の扉は、僕の好奇心を受け入れるように、音もなく数センチだけ隙間を作った。
そこは、僕が知っている世界ではなかった。
ステージの上。天窓から差し込む青白い月光が、そこを特設の舞台へと変えていた。
床一面には、鏡のように滑らかな紅い湖が広がっていた。それは紛れもなく、さっきまで誰かの体内を巡っていた熱い血液だった。その中央に、もはや「人間」としての形を保つことをやめた肉の塊が横たわっている。
だが、僕の視線はその無惨な遺体には向かなかった。
そこに、彼女がいた。
死体の傍らに跪き、祈るような、あるいは慈しむような姿勢で佇む女性。
腰まで届く夜色の黒髪が、溢れ出た血に浸り、艶やかな鱗のように鈍く光っている。彼女の着ている白いブラウスは、もはや元の色を思い出せないほどに、鮮やかな紅い花びらで埋め尽くされていた。
彼女は、何かをしていた。
細い指先を、まだ温かいであろう肉の裂け目へと潜り込ませ、愛撫するように動かしている。
僕は呼吸を忘れた。
恐ろしい。震えが止まらない。だが、その感情の正体は、恐怖ではなかった。
それは、震えるほどの「感銘」だった。
灰色の街で、死んだように生きていた僕の前に現れた、圧倒的な「死」と「生」の融合。
返り血を浴びて、月光の下で微笑む彼女は、どの名画よりも、どの文学よりも、残酷なまでに美しかった。
僕の心臓が、かつてないほど激しく、痛いほどの鼓動を刻み始めた。ドクン、ドクンと、血管が裂けそうなほどの熱を帯びる。
(ああ、僕は……この瞬間のために、今まで生きてきたんだ)
倫理。道徳。法律。それまで僕を縛り付けていた透明な鎖が、彼女の美しさという烈火に焼かれて、一瞬で溶け落ちた。
殺人現場。死体。そして殺人鬼。
世間一般が「最悪」と呼ぶその情景が、僕にとっては生まれて初めて目にする「楽園」だった。僕は彼女を愛してしまった。彼女に殺される未来さえ、この瞬間に受け入れてしまった。
その時、彼女の動きが止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女が顔を上げる。
血に濡れた黒髪の隙間から、宝石のように冷徹な瞳が僕を射抜いた。
彼女の顔には、隠しきれないほどの「狂気」が宿っていた。だが、それは下俗な狂気ではない。あまりにも高い場所から下界を見下ろす神のような、あるいは全てを拒絶した果てにある虚無のような、純粋な静謐さ。
彼女の頬を、一筋の赤い雫が伝い、顎から床へと落ちた。
……ピチャリ。
さっき聞いた音が、今度は僕の鼓動と同調した。
彼女は僕を見つけた。
隠れることも、逃げることもできなかった。というより、その場から一歩も動きたくなかった。
彼女の瞳の中に、僕の情けない姿が映り込む。僕は自分が彼女の「獲物」になったことを悟った。だが、その事実にさえ、僕は言いようのない快感を感じていた。
彼女の唇が、微かに動いた。
声は聞こえない。だが、その薄い唇が描いた曲線は、嘲笑ではなく、どこか哀れみを含んだ慈愛のようにも見えた。
彼女は立ち上がり、血の湖を優雅に横切って、僕のいる扉へと歩き出す。一歩ごとに、床に残る赤い足跡。
僕は逃げない。
扉を閉めようともしない。
彼女の指先が、僕の視界を覆う。
死の匂いが、彼女の体温と共に僕を包み込む。
「……ねえ」
彼女の声が、鼓膜を震わせた。
それは、夜の底で鳴り響く銀の鈴のように、どこまでも透き通っていた。
「私の……何を見ていたの?」
その問いに、僕の喉は鳴らなかった。言葉の代わりに、僕は自分でも気づかないうちに、口元を緩めていた。
恐怖で顔を引き攣らせているのではない。
僕は、心の底から笑っていた。
彼女に出会えた喜び。彼女の手で終わるかもしれない幸福。
その歪んだ情愛は、この瞬間、僕という一人の人間の魂を完全に作り変えてしまった。
(殺してほしい)
僕は心のなかで、祈るようにそう唱えた。
(君のその美しい手で。君のその冷たい指で。僕の呼吸を止めて、僕をこの灰色の世界から、君のいる鮮やかな赤の世界へ連れて行ってほしい)
僕の瞳には、狂信的な光が宿っていた。
彼女はそれを見て、初めて不思議そうに首を傾げた。
「変な子」
彼女が僕の頬を、血に濡れた指でなぞる。
温かく、ひどく熱い。
そこだけが、僕の体の中で唯一「生きている」と感じられた。
窓の外では、依然として雨が降り続いている。
世界を灰色に塗り潰そうとする冷たい雨の中、この廃墟だけが、熱を持った赤色に染まり続けていた。
僕と彼女の、終わりの始まり。
それは、死という名の救済へと続く、最も美しい地獄の幕開けだった。
僕の目に映る大学のキャンパスは、埃っぽいアスファルトと、意欲の欠片も感じられない学生たちの濁った瞳で構成された、単調な灰色の記録画に過ぎなかった。講義、バイト、空疎な友人との会話。
それらは僕の皮膚を一枚も突き破ることなく、ただ表面を滑り落ちていくだけの無意味な記号だった。
「……忘れた」
深夜二十二時を回った頃。
激しく降り始めた雨の音に急かされるようにして、僕は守衛の目を盗み、古い旧講堂へと足を踏み入れた。忘れ物――使い古したノート一冊のために戻ったわけではない。
ただ、雨に濡れる自分の体が重く、何かに引き寄せられるようにして、その「死にかけた建物」へと逃げ込んだだけだった。
旧講堂は、建て替えを待つだけの巨大な墓標のようだった。
天井の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、空気は湿った埃の匂いで満ちている。外の豪雨が窓ガラスを叩く音だけが、ここがまだ地上にあることを教えてくれていた。
僕は暗い廊下を歩いた。窓から差し込む街灯の微かな光が、床に落ちた僕の影を不気味に引き伸ばしている。
その時だった。
廊下の奥、かつては華やかな演劇が繰り広げられていたであろう大ホールの重厚な扉から、ある「音」が漏れてきた。
……ピチャリ、ピチャリ……
それは、水溜まりを叩くような軽快な音ではない。もっと重く、粘り気のある何かが、硬い床に滴り落ちる音。
同時に、鼻を突くような強烈な臭気が漂ってきた。鉄錆を濃縮し、そこに生温かい湿り気を混ぜ合わせたような、生存を拒絶する匂い。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。だが、僕の足は逆の方向へと動く。
灰色の世界に飽き飽きしていた僕にとって、その禍々しい匂いは、この日初めて触れた「本物の色彩」のように感じられたのだ。
僕は音を立てないよう、大ホールの扉に手をかけた。重い木製の扉は、僕の好奇心を受け入れるように、音もなく数センチだけ隙間を作った。
そこは、僕が知っている世界ではなかった。
ステージの上。天窓から差し込む青白い月光が、そこを特設の舞台へと変えていた。
床一面には、鏡のように滑らかな紅い湖が広がっていた。それは紛れもなく、さっきまで誰かの体内を巡っていた熱い血液だった。その中央に、もはや「人間」としての形を保つことをやめた肉の塊が横たわっている。
だが、僕の視線はその無惨な遺体には向かなかった。
そこに、彼女がいた。
死体の傍らに跪き、祈るような、あるいは慈しむような姿勢で佇む女性。
腰まで届く夜色の黒髪が、溢れ出た血に浸り、艶やかな鱗のように鈍く光っている。彼女の着ている白いブラウスは、もはや元の色を思い出せないほどに、鮮やかな紅い花びらで埋め尽くされていた。
彼女は、何かをしていた。
細い指先を、まだ温かいであろう肉の裂け目へと潜り込ませ、愛撫するように動かしている。
僕は呼吸を忘れた。
恐ろしい。震えが止まらない。だが、その感情の正体は、恐怖ではなかった。
それは、震えるほどの「感銘」だった。
灰色の街で、死んだように生きていた僕の前に現れた、圧倒的な「死」と「生」の融合。
返り血を浴びて、月光の下で微笑む彼女は、どの名画よりも、どの文学よりも、残酷なまでに美しかった。
僕の心臓が、かつてないほど激しく、痛いほどの鼓動を刻み始めた。ドクン、ドクンと、血管が裂けそうなほどの熱を帯びる。
(ああ、僕は……この瞬間のために、今まで生きてきたんだ)
倫理。道徳。法律。それまで僕を縛り付けていた透明な鎖が、彼女の美しさという烈火に焼かれて、一瞬で溶け落ちた。
殺人現場。死体。そして殺人鬼。
世間一般が「最悪」と呼ぶその情景が、僕にとっては生まれて初めて目にする「楽園」だった。僕は彼女を愛してしまった。彼女に殺される未来さえ、この瞬間に受け入れてしまった。
その時、彼女の動きが止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女が顔を上げる。
血に濡れた黒髪の隙間から、宝石のように冷徹な瞳が僕を射抜いた。
彼女の顔には、隠しきれないほどの「狂気」が宿っていた。だが、それは下俗な狂気ではない。あまりにも高い場所から下界を見下ろす神のような、あるいは全てを拒絶した果てにある虚無のような、純粋な静謐さ。
彼女の頬を、一筋の赤い雫が伝い、顎から床へと落ちた。
……ピチャリ。
さっき聞いた音が、今度は僕の鼓動と同調した。
彼女は僕を見つけた。
隠れることも、逃げることもできなかった。というより、その場から一歩も動きたくなかった。
彼女の瞳の中に、僕の情けない姿が映り込む。僕は自分が彼女の「獲物」になったことを悟った。だが、その事実にさえ、僕は言いようのない快感を感じていた。
彼女の唇が、微かに動いた。
声は聞こえない。だが、その薄い唇が描いた曲線は、嘲笑ではなく、どこか哀れみを含んだ慈愛のようにも見えた。
彼女は立ち上がり、血の湖を優雅に横切って、僕のいる扉へと歩き出す。一歩ごとに、床に残る赤い足跡。
僕は逃げない。
扉を閉めようともしない。
彼女の指先が、僕の視界を覆う。
死の匂いが、彼女の体温と共に僕を包み込む。
「……ねえ」
彼女の声が、鼓膜を震わせた。
それは、夜の底で鳴り響く銀の鈴のように、どこまでも透き通っていた。
「私の……何を見ていたの?」
その問いに、僕の喉は鳴らなかった。言葉の代わりに、僕は自分でも気づかないうちに、口元を緩めていた。
恐怖で顔を引き攣らせているのではない。
僕は、心の底から笑っていた。
彼女に出会えた喜び。彼女の手で終わるかもしれない幸福。
その歪んだ情愛は、この瞬間、僕という一人の人間の魂を完全に作り変えてしまった。
(殺してほしい)
僕は心のなかで、祈るようにそう唱えた。
(君のその美しい手で。君のその冷たい指で。僕の呼吸を止めて、僕をこの灰色の世界から、君のいる鮮やかな赤の世界へ連れて行ってほしい)
僕の瞳には、狂信的な光が宿っていた。
彼女はそれを見て、初めて不思議そうに首を傾げた。
「変な子」
彼女が僕の頬を、血に濡れた指でなぞる。
温かく、ひどく熱い。
そこだけが、僕の体の中で唯一「生きている」と感じられた。
窓の外では、依然として雨が降り続いている。
世界を灰色に塗り潰そうとする冷たい雨の中、この廃墟だけが、熱を持った赤色に染まり続けていた。
僕と彼女の、終わりの始まり。
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