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16話:居酒屋に召喚された北極星
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
楽しい雰囲気の中で、誰もが時計を無視しようとしている。けれど、時刻は既に22時半を回っていた。
赤提灯が揺れる大衆居酒屋の片隅で、恵の意識は完全に崩壊していた。今の彼女の頭の中には、社長からの警告など1ミリも残っていなかった。
恵よりは飲んでいない真友が、「あんた大丈夫? 終電は?」と背中を叩いてくれるが、恵は虚空を指さして断言する。
「車、呼ぶ」
酔った友人のよく分からない発言に、真友が「くるまぁ?」と怪訝そうに繰り返した。
「あんたの家、車なんてないじゃん」
「運転手呼ぶ」
恵の目元は眠たげで、ほとんど開いていない。周囲は、好きに飲ませすぎたかという後悔はありながらも、ここまで楽しそうに飲んでくれた恵が微笑ましくもあった。そんな中で、真友だけが少し焦って介抱している。
「運転手ぅ?いないでしょそんなの。タクシーのこと?タクシーは高いから使わないっていつもあんた……」
「タクシーじゃなくて、運転手」
酔った恵はまともにやり取りできず、短く主張を繰り返すだけだ。
恵が、覚束ない手つきでスマホを操作し始めた。液晶に表示された名前を見て、真友の顔から血の気が引く。
「……ちょっと待ちなさい、えっ?今、社長の連絡先開いてるよ?わかってる?」
画面に映っているのは、『社長』の二文字だ。
「そう、運転手。運転手が、文月天征」
理解不能な訴えを続ける恵に、真友の声もボリュームが大きくなる。
「逆逆逆逆! あんたが雑用で、あんたが運転手でしょうが!」
「ううん。文月天征が、運転」
「んなわけないから。何杯飲んだ」
「まだ、4」
「メガで、でしょうが!いいからスマホ下ろしなさい。あああぁあ、電話かけないの!!」
真友が手を伸ばしたが、惜しくも恵のスマホには届かず、空を切った。真友の絶叫も虚しく、恵の指はそのまま通話ボタンを押してしまう。
「しゃちょう?酔いました!家帰りたいです」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
その、僅か15分後のことだった。ガヤガヤと騒がしかった居酒屋の空気が、まるで瞬間冷凍されたように凍りついたのは。
入り口の引き戸が開き、場違いなほど上質なスーツを纏った男が姿を現す。到着したのは、紛れもなく、他の誰でもなく――文月天征だ。
彫刻のような彼の背後にあるのは、ホッピーと書かれた煤けた短冊。足元は油で少し滑る床。そこに、非現実的なまでの美貌を、鬼のように険しくした若社長が立っている。その異常事態に、居酒屋中の視線が釘付けになった。
中でも凍り付いているのは、その人物の身分を知っている情シスの卓だ。彼らにとって、ここまで近くで社長を見るのはこれが初めてだった。
「ふ、文月社長!ごめんなさい!この子のこと、止められなくて……」
明らかに怒りを露わにしている社長に、真友が椅子から転げ落ちんばかりの勢いで謝罪する。
課長や佐藤、情シスメンバーはみな、箸を止めたまま石像のように固まっていた。あのビジネス界の北極星が、平社員に呼ばれて実際に来た、ということよりもまず、文月天征が実在することや顔の小ささに驚いてしまい、不躾であることにも気づかずに、社長の顔を食い入るように見上げてしまっている。
そんな社員たちの困惑を置き去りにして、社長は殺気立ったオーラを隠そうともせずにテーブルへと歩み寄る。課長が慌てて立ち上がると、他も全員椅子を飛ばす勢いで起立した。座っているのは、卓に突っ伏している恵だけになる。
「社長、申し訳ありません!お忙しいのに、こんなことに巻き込んでしまって」
真友が大焦りで頭を下げるが、社長はそれを手で制した。
真友は恵の背中を叩き、必死に話しかける。
「ほら、帰るよ恵!家までの道、最近危ないんじゃなかったの!?」
真友のその一言を聞いた瞬間、社長の表情が劇的に変わった。怒りの色は一瞬で焦燥に塗りつぶされ、彼は血相を変えてその場にしゃがみ込む。眠気に船を漕いでいる恵の肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
「おい、まだ不審者いんのか。最近も出るのか」
スーツが汚れることも厭わず、地面に膝をついている。恵は、やっと社長の姿を視界に認めると、少し笑った。
「え?あ社長か……。い、ないです。さいきんはいません。気のせいだったかもしれな……」
ぽわぽわとした返事に、社長の眉間の皺はさらに深まった。
「あ、あの……社長。送るのは我々がどうにかしますよ。本当に申し訳ないです。来ていただいて」
課長が慌てて割って入る。続けて佐藤も「そそそそうです!」と緊張で震えながら同意した。しかし、社長は考える素振りもなくその申し出を拒絶した。
「いい。疲れただろ君たちも。この子は俺が面倒見れるから、心配しないで君たちも帰って」
静かな声なのに、居酒屋の雑音に飲み込まれない凛とした声。一瞬怯むが、佐藤は食い下がった。
「いやいやいやいや、お、恐れ多いですが社長、自分が送りますよ。社長の手そんな煩わせられないっす」
「いや、大丈夫。家の場所は知ってるから」
有無を言わせぬトーン。社長はそのまま、ぐったりとした恵の腕を掴むと、ひょいと軽々と自分の背中に担ぎ上げた。
年商7000億を動かす、一般人の手は届くはずのない北極星が、酔っ払いの平社員をおんぶして、居酒屋の暖簾を潜ろうとしている。
社長は、ただでさえ高身長の自身におぶられている、これまた高身長な恵の頭が戸口にぶつからないよう配慮しながら、情シスの卓を振り返った。
「それじゃ、お疲れ様」
颯爽と去っていく社長の広い背中と、そこにだらりと任された恵の長い手足。情シスメンバーは、突っ立ってテーブルを囲んだまま、ただただ唖然としてそれを見送るしかなかった。
楽しい雰囲気の中で、誰もが時計を無視しようとしている。けれど、時刻は既に22時半を回っていた。
赤提灯が揺れる大衆居酒屋の片隅で、恵の意識は完全に崩壊していた。今の彼女の頭の中には、社長からの警告など1ミリも残っていなかった。
恵よりは飲んでいない真友が、「あんた大丈夫? 終電は?」と背中を叩いてくれるが、恵は虚空を指さして断言する。
「車、呼ぶ」
酔った友人のよく分からない発言に、真友が「くるまぁ?」と怪訝そうに繰り返した。
「あんたの家、車なんてないじゃん」
「運転手呼ぶ」
恵の目元は眠たげで、ほとんど開いていない。周囲は、好きに飲ませすぎたかという後悔はありながらも、ここまで楽しそうに飲んでくれた恵が微笑ましくもあった。そんな中で、真友だけが少し焦って介抱している。
「運転手ぅ?いないでしょそんなの。タクシーのこと?タクシーは高いから使わないっていつもあんた……」
「タクシーじゃなくて、運転手」
酔った恵はまともにやり取りできず、短く主張を繰り返すだけだ。
恵が、覚束ない手つきでスマホを操作し始めた。液晶に表示された名前を見て、真友の顔から血の気が引く。
「……ちょっと待ちなさい、えっ?今、社長の連絡先開いてるよ?わかってる?」
画面に映っているのは、『社長』の二文字だ。
「そう、運転手。運転手が、文月天征」
理解不能な訴えを続ける恵に、真友の声もボリュームが大きくなる。
「逆逆逆逆! あんたが雑用で、あんたが運転手でしょうが!」
「ううん。文月天征が、運転」
「んなわけないから。何杯飲んだ」
「まだ、4」
「メガで、でしょうが!いいからスマホ下ろしなさい。あああぁあ、電話かけないの!!」
真友が手を伸ばしたが、惜しくも恵のスマホには届かず、空を切った。真友の絶叫も虚しく、恵の指はそのまま通話ボタンを押してしまう。
「しゃちょう?酔いました!家帰りたいです」
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その、僅か15分後のことだった。ガヤガヤと騒がしかった居酒屋の空気が、まるで瞬間冷凍されたように凍りついたのは。
入り口の引き戸が開き、場違いなほど上質なスーツを纏った男が姿を現す。到着したのは、紛れもなく、他の誰でもなく――文月天征だ。
彫刻のような彼の背後にあるのは、ホッピーと書かれた煤けた短冊。足元は油で少し滑る床。そこに、非現実的なまでの美貌を、鬼のように険しくした若社長が立っている。その異常事態に、居酒屋中の視線が釘付けになった。
中でも凍り付いているのは、その人物の身分を知っている情シスの卓だ。彼らにとって、ここまで近くで社長を見るのはこれが初めてだった。
「ふ、文月社長!ごめんなさい!この子のこと、止められなくて……」
明らかに怒りを露わにしている社長に、真友が椅子から転げ落ちんばかりの勢いで謝罪する。
課長や佐藤、情シスメンバーはみな、箸を止めたまま石像のように固まっていた。あのビジネス界の北極星が、平社員に呼ばれて実際に来た、ということよりもまず、文月天征が実在することや顔の小ささに驚いてしまい、不躾であることにも気づかずに、社長の顔を食い入るように見上げてしまっている。
そんな社員たちの困惑を置き去りにして、社長は殺気立ったオーラを隠そうともせずにテーブルへと歩み寄る。課長が慌てて立ち上がると、他も全員椅子を飛ばす勢いで起立した。座っているのは、卓に突っ伏している恵だけになる。
「社長、申し訳ありません!お忙しいのに、こんなことに巻き込んでしまって」
真友が大焦りで頭を下げるが、社長はそれを手で制した。
真友は恵の背中を叩き、必死に話しかける。
「ほら、帰るよ恵!家までの道、最近危ないんじゃなかったの!?」
真友のその一言を聞いた瞬間、社長の表情が劇的に変わった。怒りの色は一瞬で焦燥に塗りつぶされ、彼は血相を変えてその場にしゃがみ込む。眠気に船を漕いでいる恵の肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
「おい、まだ不審者いんのか。最近も出るのか」
スーツが汚れることも厭わず、地面に膝をついている。恵は、やっと社長の姿を視界に認めると、少し笑った。
「え?あ社長か……。い、ないです。さいきんはいません。気のせいだったかもしれな……」
ぽわぽわとした返事に、社長の眉間の皺はさらに深まった。
「あ、あの……社長。送るのは我々がどうにかしますよ。本当に申し訳ないです。来ていただいて」
課長が慌てて割って入る。続けて佐藤も「そそそそうです!」と緊張で震えながら同意した。しかし、社長は考える素振りもなくその申し出を拒絶した。
「いい。疲れただろ君たちも。この子は俺が面倒見れるから、心配しないで君たちも帰って」
静かな声なのに、居酒屋の雑音に飲み込まれない凛とした声。一瞬怯むが、佐藤は食い下がった。
「いやいやいやいや、お、恐れ多いですが社長、自分が送りますよ。社長の手そんな煩わせられないっす」
「いや、大丈夫。家の場所は知ってるから」
有無を言わせぬトーン。社長はそのまま、ぐったりとした恵の腕を掴むと、ひょいと軽々と自分の背中に担ぎ上げた。
年商7000億を動かす、一般人の手は届くはずのない北極星が、酔っ払いの平社員をおんぶして、居酒屋の暖簾を潜ろうとしている。
社長は、ただでさえ高身長の自身におぶられている、これまた高身長な恵の頭が戸口にぶつからないよう配慮しながら、情シスの卓を振り返った。
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