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エルザ・フォルギエーリの葬送
しおりを挟む『エルザ・フォルギエーリの葬送』
レンツォ・ベルターリはイタリア人にしては寡黙な男である。
女と見れば口説きに掛かる軽薄なところもなく、むしろ過去の恋愛経験から女を苦手とするきらいがあった。同僚で後輩のシルヴィオなどにはそれでよく揶揄されている。「イタリア男にあるまじき奴だ」。
レンツォの性格は彼の容貌にも素直に現れている。厳つい顎、薄い眉と眉間に寄った深い皺、切れ長の三白眼はいつも鋭く光り、唇はやや厚い。鼻筋は通っているが、決して美男子ではなかった。北方イタリア人にしてもやたら高い身長や骨ばった長い手足は、誰彼構わず威圧感を植え付ける。
しかし勤勉で、実直な三十九歳の彼はナポリ近郊のこの街、アントネッリを取り仕切るマフィアの、すぐにでもボスに目通り願えるほどの位置にいる幹部でもあった。
バッソ一家――と言えば近隣の住民は震え上がる。それは懐に忍ばせた飛び道具よりもずっと確実だった。一家の若きボス、ドン・バッティスタは恐怖の象徴。だが何も無闇に無法を行うわけではない。
恭順者には庇護を、裏切り者には死を。それがマフィアの掟である。
そのドン・バッティスタの郊外にある邸(やしき)の一つに、一人の女が保護を願い出たのは秋も終わりに差し掛かる頃だった。
他のマフィアのご多分に漏れずバッソ・ファミリーは、街の地下政府的役割を担っている。女が警察に駆け込まずバッソ一家を訪ねたのは、それはやはり女が訳ありであったからだった。女は言った。
「ドン・バッティスタに御目文字願いたい」と。
女はエルザと名乗った。
「ドン・バッティスタはお前など知らないと言っている」
構成員の男が、椅子に腰掛けバッソの男たちに両脇を固められたエルザに冷たく言い放った。
「彼が覚えていなくても、わたしはドン・バッティスタを知っています。お会いできれば分かるはずです。お願いします」
女は悲痛なほどの懇願を男に向ける。
レンツォがバッティスタの邸の居間に足を踏み入れたのはそのときだった。
「どうした」
低い声で構成員に問うと、男はレンツォに事情を話した。如何に女がボスの知り合いだと主張しても、おいそれと本人に会わせるわけにはいかない。女――エルザが敵対勢力の鉄砲玉ではないという根拠はどこにもないのだ。
「おい女」
ぶっきらぼうにエルザを見下ろして、レンツォはぎくりとした。「ボスは貴様になどお会いにならん」――そう言おうとしていた筈だったのに。
アーモンド形の大きな黒い瞳がレンツォを見返していた。長い睫毛、白皙の肌、艶やかな長い黒髪は緩く一つに束ねて横に流してある。一目でアジア系の混血だと分かった。レンツォが言葉を続けられなかったのは、彼が確かに女に見覚えがあったからだ。女、エルザもそれを確信したようだった。形の良い、肌の色に比べて鮮やか過ぎる唇が開いた。
「お願いします」
レンツォは、その唇にしばし見入って、「分かった」とだけ言った。
バッソ一家のボス、ドン・バッティスタは横暴な男だ。気に入らない部下の失態には己が拳で制裁を加えることも珍しくない。気分屋で自己中心的な、しかし鎬(しのぎ)にはそれなりに真面目な男でもある。しかも、尊大な態度とは裏腹に、部下には慕われていた。
そのバッティスタが、私邸の一室でエルザを見たとき一瞬目を見開いた。エルザの言う通り、バッティスタは彼女に会ったことがある。見覚えがあるはずだ――。彼は得心した。
随分と昔のことだが、それはどこかのファミリーとの会食の場で、相手の次期ボスだとかいう男が飾り物のように連れていた童女だ。洗練された、幼いながら貴婦人を思わせる立ち居振る舞いの少女は、微笑みながら男の養女だと名乗った。
可憐な少女の面影が、今もその顔立ちに残っている。
「……エルザ・フォルギエーリ、か?」
バッティスタが尋ねた。その場にいたレンツォと、護衛筆頭のシルヴィオは顔を見合わせる。暴君バッティスタがそんな昔に会った人物を、それもさほど重要でない他人を記憶していたことに驚いたのだった。エルザと呼ばれた女は、しかし小さく首を横に振った。
「わたしはキリマ、です。エルザは、……死にました」
冷ややかな声は感情を押し殺していたゆえか。言葉の最後が揺れたのは聞き手の気のせいではない。常から不機嫌そうなバッティスタの眉がぴくりと持ち上がった。怪訝そうな顔を向けるバッティスタに、キリマは怖じながらも言葉を紡ぎ始める。
「“エルザ”が死んだというのには少し語弊があります」
キリマ――エルザの目は暗く、表情が読めない。
「わたしも“エルザ”なのです」
正面で聞いていたバッティスタが眉根を寄せた。
「“エルザ”は二人の人間から構成されていました……エルザ本人と、その身代わりのわたしです。子供の頃から容姿が似ていて、本物のエルザに何かあった時のために、わたしはエルザではない“エルザ”として育てられました。エルザと衣服も勉学も振舞いもすべて同様にし、エルザに起こったことはわたしの記憶にもなり、わたしの経験はエルザのものにもなった……」
教科書を読むようにすらすらと語る。
内容は他の者にはにわかに信じがたい話だったが、実際に“エルザ”と面識のあったバッティスタはどこか理解できているようだった。
目の前の女と昔会ったエルザとされる娘の相違点でも見つけたのだろうか、とエルザの後ろから彼の様子を見るレンツォは思う。その視線を鬱陶しがるように一度ゆっくり瞬きをし、バッティスタはエルザに問う。
「俺が会った女はてめぇか?」
質問にキリマは明らかに狼狽し、数多くの選択肢から正答を選ぶように下を向いて目を泳がせる。
「推奨される『正解』じゃねえ、事実を答えろ」
「…………エルザです」
エルザ、いやキリマは俯いたまま、低く述べた。あの日バッティスタに目通りかなった娘はキリマではなくエルザであると。それが真実かどうかは、キリマにしか判らない。キリマは、或いはそれが自分とエルザどちらの記憶なのか、定かではないのかもしれなかった。
「どうしてえんだ」
「えっ、」
「そのエルザ・フォルギエーリの替え玉だったっつー告白を聞かせてどうしてえんだっつってんだ」
同情でもされたいのか、と言わんばかりだった。バッティスタは興味のない人間に対してはとことん情のない男だ。レンツォはバッティスタを心底から敬愛しているが、キリマに対しては少し哀れに思った。つまりこれには生きてきた時間ずっと、自己を与えられる機会がなかったのではないかと推察できたから。
レンツォがバッティスタに対して感じる忠誠とそれに付随する喜びや誇りを、あるいはそれに似た何かを、十八歳のキリマは一度でも手にしたことがあるのだろうか。尊大なバッソ・ファミリーのドンを前に、キリマはうつろに見えた。
「身を守りてえなら警察にでも言やいい」
「わたし――」
席を立とうとせんばかりのバッティスタに、キリマは言葉で縋った。
「わたし、逃げてきたんです。エルザの父親から」
エルザ・フォルギエーリの父親とは、つまりある街を仕切るファミリーのドン、リカルド・フォルギエーリだった。
「あの人は……」
キリマは一度言葉を区切った。
「……異常者なのです。これまでは浮浪児を攫っては『趣味』の犠牲にしてきました。ファミリーの裏切り者は勿論、彼自身の手によって拷問され、殺されました。それでも、当然ながら身内に手を出すことはありませんでした。けど」
キリマの視線が、バッティスタの座るソファの猫足に注がれていた。レンツォはキリマの斜め後ろから、その睫毛が瞬くのを見た。
「けど、彼は『知って』しまったのです」
キリマが、自分の身体を抱いた。
「大切なものを、自分で壊す悦びを、か?」
バッティスタの言葉に、キリマは泣きそうになりながら頷いた。
「あの人はエルザを、……エルザを」
キリマの目元が引き攣った。両手で顔を覆い、それ以上話そうとはしなかった。
レンツォにも、一体フォルギエーリ・ファミリーの中枢で何があったのか、何とはなしに察しが付いた。養子とはいえ自分の娘を、リカルド・フォルギエーリは無残にも蹂躙したのだ。
そして、エルザの経験はキリマのものにもなる。キリマは、エルザがされたのと同じことを。
「リカルド・フォルギエーリはエルザの父親ですが、同時に敵です。わたしはあの人が嫌い。エルザ、は、……『神は秩序を欲する』と。あいつはエルザの大切なものを全部壊して、最後は彼女……も、」
その左手が右手をきつく握っていた。
バッティスタは嫌悪感もあらわにフンと鼻を鳴らし、レンツォに言った。
「しばらく置いてやれ」
「……よろしいので?」
「俺がいいと言っている」
「……御意に、ボス」
キリマを客間に案内しその場を去ろうとすると、彼女はレンツォに対してにこりと微笑んだ。
「どうもありがとう」
その仕種に、なるほど、と彼は瞠目せざるを得なかった。“エルザ”として厳しく訓練されていただろうその物腰は、役割の束縛から解放されても尚優雅と言うに相応しかったので。
「……貴様、本名を何という」
澄んだ瞳でつっけんどんなレンツォを見ながら、キリマは赤い唇から答えを発した。
「千代子。桐間、千代子。あなたは?」
「レンツォ・ラザリオ・ベルターリ。チヨコ、か。何故苗字を名乗る?」
「最後がO(オー)で終わるから」
男性名のようで、とキリマが言った。
「出身は」
「日本です」
「何故イタリアに?」
そこで初めて、キリマの表情から笑みが消えた。
「実父が、フォルギエーリ・ファミリーの構成員だったので。父はわたしが幼い頃、抗争に巻き込まれて他界しました」
なるほどそれでリカルドの庇護下に入ったのか。或いは、エルザによく似ていた彼女はもとよりその為にイタリアに連れて来られたのかもしれなかった。
「ベルターリさん。わたしは」
「レンツォでいい。何だ」
「……いえ。何でもありません。おやすみなさい」
「……? ああ」
キリマが客間に消えてから、レンツォはようやく、自分が久しぶりに女に興味を持って話し込んだことに気付いた。廊下の向こう側からシルヴィオがにやにやと笑いながらやって来た。
「見てたぜレンツォ。珍しく口説いてたのか?」
「莫迦を言え。基本情報を聞き出していただけだ」
「つまらん。俺が食っちまおうかな」
「やめておけ、シルヴィオ。仮にも余所のファミリーの女だ。後になって問題が起こったらどう責任を取る。ボスの怒りを買うぐらいでは済まんぞ」
へいへい、とシルヴィオは不真面目そうに去っていった。
ぱしゅ。秋空の下、消音器を通した小さな破裂音がして、弾丸が前方へと飛び出した。それは高速で回転しながら、人の上半身型に整えられた木製の板に命中する。
キリマは殺しの術を心得ていた。
迷いなく他者の命を奪う方法を。
本人は語らずにいたが、それはかつてエルザとともに誰かに仕込まれた手管であったのだろう。
深夜、レンツォはバッティスタに報告書を持って訪ねた。時間が遅くなったことにバッティスタは怒り、癖の悪い足でレンツォの脛を蹴りつけた。
痛む向こう脛を引きずりながら客間の前を通ると、客間からはごく小さな話し声がした。元々重厚な造りの邸宅である。漏れ聞こえるということは、それなりに大きな声で喋っているのだ、と思い、レンツォは何気なしに耳を澄ませた。いや、これは話し声ではない。
(泣いている……?)
居ても立ってもいられず、レンツォは思わずドアを開けた。
「キリマ?」
「ひっ!」
客間の明かりは点いていなかった。廊下の電燈から光が部屋の中を横切る。ソファの横に、キリマが蹲っていた。
「あ、いや……っ」キリマが顔を背ける。
「どうしたキリマ、具合でも……」
ここで“エルザ”の片割れを喪った心情故の嘆きかと思い至らないところがレンツォである。しかし、どのみちそうではなかった。キリマの右手が、己の脚の間にある。女の匂いがつんとレンツォの鼻に届いた。
「む……っ?」
「見、ないで」
消え入りそうな声でキリマが懇願した。一体キリマが何をしていたのか、いくら鈍感なレンツォにも解った。彼女は暗い部屋の中で、一人自分を慰めていたのだ。
「ご、めんなさい、こんな、こんな」
「……あ……、」
身動きが取れずにいたレンツォは、自分の中の雄が頭をもたげるのを感じた。朴念仁のレンツォとて何も経験がないわけではない。つい、手を伸ばし、キリマの肩を掴む。キリマは拒まなかった。後ろ手に客間のドアを閉める。ソファに座らせて後ろから掻き抱き、無骨な手でシャツの中をまさぐった。下着の隙間から指を差し込むと、既に硬く尖った突起が触れる。人差し指と親指で優しくつまみ、残りの指はふくらみをやわやわと揉み解した。暗い部屋にキリマが切なげな吐息を落とす。
「あ、あ」
微かに震えるキリマの身体を、焦らすように右手でくまなく撫でさすると、キリマが身を捩った。レンツォは昨日爪を切ったばかりだということを神に感謝して、そろりと指を濡れそぼった秘部に這わせた。「っん」キリマが呻く。しなやかな陰毛を掻き分けて、ぷっくりとした萌芽をつまむと、キリマはびくりと仰け反った。
「い、いつも、この時間……、だったから……っ」
いつもというのは、リカルドがエルザを、或いはキリマを組み敷いていた時間のことだろう。レンツォにはやけにそれが腹立たしく思えた。一体いつごろから、どれほどの間彼女はリカルドの餌食になっていたのだろう? レンツォはキリマの、身体の肉付きからするとやや厚ぼったい割れ目に骨ばった中指を沈めた。「あっ……、はぁっ……」キリマは深く息を吐いて、それを受け入れる。にゅるり、と奥まで入った中指を前後に動かすと、くぐもった嬌声が聞こえた。キリマが自分の口を手で塞いだのだ。
「んっ、ん、ふ、んんっ」
他者の気配をはばかる喘ぎは、股の間から漏れるくちゅくちゅとした粘液の音に相まって卑猥さを増す。
「んっ、う、あ、」
指の抽送に合わせて秘所の締め付けがきつくなった。レンツォの指の節がキリマの感じやすい場所を行き来するたび、吐く息が激しくなる。レンツォの長い腕ならば、指を根元まで咥え込ませるのは容易かった。そのうち、キリマの感じる場所がレンツォにも判った。「あっ、ん、ああっ」腰をくねらせていたキリマが、レンツォが『そこ』を忠実に刺激するようになってからはほとんど大人しくされるがままになっている。時折自分でレンツォの腕を押さえ、『ここだ』『もう少し長く』と示しさえする。
「んっ、ふっ、ふ、う、あぁ…………っ!」
何度も繰り返し齎された快感に、キリマはとうとう気をやってしまったようだった。
ソファに倒れこみ、ぐったりと肩で息をしているキリマの太ももがぐっしょり濡れている。
レンツォはスーツのズボンの上から自分自身の昂ぶりを確かめ、ジッパーを下ろそうとして……やめた。
「レン、ツォさん……?」
何も言わずに立ち上がったレンツォを、キリマは不思議そうに見ている。どうして、これ以上のことをしてくれないの? そんな疑問が聞こえてくるような視線を振り切り、レンツォは部屋を出て邸の手洗いに向かった。
危なかった。シルヴィオに自重しろと言っておきながら、自分が一線を越えそうになるなど。厳密に言うともうかなり危険なところまできている。レンツォは鏡の前で頭を抱えた。こんな。敬愛するボスの立場のことすらも忘れて淫行に耽るなど、何をやっているんだ。
「莫迦は俺だ……」
独りごちると、手と顔を洗った。それでも、身体中にキリマの匂いが染み付いている気がした。
「それで、腹ぁ決まったか」
数日後の談話室で、バッティスタとキリマは向かい合っていた。
「はい。勿論対価は払います」
長い睫毛を伏せて、キリマは答えた。
「エルザの代理人として、……いえ、エルザ・ルイージャ・フォルギエーリとして、正式に協力を依頼したい。――エルザのパパを殺します」
「……いいだろう。渡りをつけてやる。おい、聞いたなレンツォ?」
物陰に隠れていたレンツォは飛び上がった。
「! は、ボス……」
「てめえのやることは解ってるな? フォルギエーリを洗え。徹底的にだ」
「は!」
ビッと背筋を伸ばして、レンツォは応じる。
その日、晩秋のアントネッリを幾人ものバッソ・ファミリー準構成員(アソシエーテ)が出立した。
更に数日。
「間違いないようです」
ぱらりと写真付きの書類をめくって、レンツォは部下の報告を聞いた。
「リカルド・フォルギエーリには反感を持つ者がいくらか居ます。特に、顧問(コンシリエーレ)のマッフェオ・ヴァッリは、その立場上公にはできませんが『エルザ』と懇意にしていた過去があり、今回のことには相当参っているようです」
「それで、エルザ・フォルギエーリの葬儀は?」
低いレンツォの問いに別の部下が答える。
「やはり、出ていません。住民の証言も教会の記録も洗いましたが、それらしきものはなかったと。『キリマ』の供述通りならエルザは三週間前に死亡しているはずです」
「解った。キリマを呼んでくれ。お前たちは下がっていい」
「は」
「どうする?」
レンツォの問いかけに、キリマは肩を強張らせた。リカルドを殺害することを決めた以上、「どうする」とはつまり、キリマ自ら手を下すかどうかを尋ねているのだった。
そこまでの段取りは、バッソ一家と一部のフォルギエーリの者が道筋をつけてくれる。あとはキリマが自分の手を汚す覚悟があるかどうかだ。キリマは椅子に座ったまま、レンツォの目を真っ直ぐに見た。あんな――破廉恥な出来事があって尚、レンツォはその視線にたじろぐことはなかった。彼の持つ自制心は仕事に関わるほど冴え渡る。
「……わたし、やります」
「人を殺したことは?」
キリマは唾を嚥下して言った。
「ない。けど、エルザと相談したから」
「相談?」
「はい。わたしはエルザじゃないし、エルザはわたしじゃない。けどエルザのことはわたしが一番よく知ってる。わたしのことはエルザが一番よく知ってる。わたしたちはお互いが、お互いになりたかったから。エルザが出す答えが、わたしには判る。もしも、死んだのがエルザじゃなくてわたしだったら、エルザは迷わず父親を殺したでしょう」
すべてが終わってしまったら、還る場所などどこにもない。
それでも、キリマの決意は揺るがなかった。
その地域一帯が、リカルド・フォルギエーリの資産だった。豊かな牧草地に囲まれた別荘。そこにキリマは電話を掛けたのだった。『エルザ・フォルギエーリは間もなく貴方の元に帰ります』と。
リカルドに、それが復讐だと判らなかったはずはないだろう。しかし彼の誤算は、館に存在するほとんどの人間がキリマに通じていたことだった。或いは、彼女にリカルドを殺すことはできないと踏んでいた。
ありふれた盗難車が別荘の前に止まる。おんぼろのフィアット・パンダだったが、誰も不審に思うものはいなかった。リカルドの支配する街にはそんなものいくらでも走っている。
一人の女が、運転していた黒いスーツの男のエスコートで車を降りた。
艶やかな黒い髪を風に晒し、黒いワンピースを身に付けて。
女は軽快に階段を駆け上がり、パラッツォ風の廊下を歩いた。
やがて一つのドアの前で足を止める。
「わたしがいない間、何を考えていたの?」
女はノブに手を掛ける。
「戻ってくると思っていた?」
女はノブを回す。
「それとも殺すべきだと判断した?」
女はドアを開ける。
「帰ってきたよ」
女は椅子に座る男を見据えた。
「――パパ」
ドアは閉じられなかった。
だがレンツォは部屋に背を向け周りに気を配っていたから、部屋の中で銃声が響いたときキリマがどんな顔をしているのかその一切を見なかった。
引鉄は三回引かれた。
終わったのだろうかとレンツォが思っているとき、背後でもう一回轟音が鳴った。
血の匂い。漂ってきたそれをレンツォは懐かしく思う。
彼の父もまたマフィアだった。そして敵対者に殺された。幼少のレンツォを拾って育ててくれたのがバッソ・ファミリーの先代ボスで、バッティスタの父親だった。血の憧憬に身を委ねていると、俄かに館が騒ぎ始めた。銃声を聞きつけた親リカルド派の構成員たちが慌てている気配がする。
そのとき、キリマが口を開いた。
「我々にとって」
それは冷徹な声だった。
「父殺しは許されざる、最も忌むべき大罪ではないか?」
震えてすら、いなかった。
エルザと名乗った女は血まみれの己が手を見つめていた。
部屋の外に彼がいるのを、女は知っていた。
彼に届くように、澄んだ声で。
「リカルド・フォルギエーリは死んだ」
裁きを求めるように、穏やかに。
壁に、キリストを磔にした十字架が掛かっていた。
「わたし――」
「チヨコ」
レンツォは遮った。
部屋の中に進み出でて、女の言葉の続きを蹴散らした。
「“チヨコ”、用は終わったな」
“チヨコ”は凝然と彼を見ていた。
床に崩れたリカルド・フォルギエーリの側に寄り、レンツォはその生死を今一度確認する。
女は彼が自分をチヨコと呼んだのだとやっと理解した。
そう、エルザではない……。
だから、そこで死んでいる男は、自分の父ではない。
「キリマ」
レンツォは立ち上がる。
「追っ手が掛かるぞ。早くしろ」
途中で乗り捨てるための盗難車に、喪服の二人は乗り込んだ。
レンツォの家で、キリマは血に汚れた手を洗った。指紋の隅々まで付着した血液は、まるでリカルドの執着を表しているようになかなか取れなかった。
「わたし、もうどこへ行ったっていいのね」
キリマはどうしたいのか分からないのだった。
エルザの父の支配から逃れ自由を手にしても、彼女はその自由の使い方を知らない。
「最初の自由を頂戴」
キリマはレンツォに縋りついた。
「ひゃ、あ、あうん、ああっ」
節くれ立った二本の指がキリマの中で跳ね回る。レンツォはキリマの片足を持ち上げ、より鮮明にその部位が自分の前で蠢くよう一層光に晒した。
キリマはもう喘ぎを潜めたりせず、思う様声を上げる。
「あ……っ、そこ、あ、あ」
キリマの身体には無数の傷痕が残っていた。まだ生々しい噛み痕から引き攣れた火傷まで、様々な傷が。
レンツォはキリマの脚の間に顔をうずめ、太ももの切り傷を舐めながら奥に近付き、指を入れたままの膣の腹側を舌で探った。
「あっ、あ、やだ、だめぇ」
力なく拒絶するキリマの身体に説得力がない。肉芽を探り当て、強く吸うと小さな悲鳴とともに白い肢体が瞬時に緊張した。短い痙攣の後じわじわと脱力し、絶頂に達したことを身体がレンツォに知らせる。その余韻を楽しませる間もなく、レンツォは指を引き抜き今度こそ硬く屹立した自身をあてがった。「あ」キリマが息を呑む。大きな期待とわずかな不安。リカルドによって幾度となく馴らされたであろうそこに、レンツォは自分を上書きするように沈み込む。
「い……っ、ん……っ、ふ、はぁ」
緊張がキリマの内部に一瞬の痛みを引き起こしたが、媚薬のように互いを高めあう粘膜に、それもすぐに消え去った。ぬちゅ、と音がして、一度最奥まで突き入れられる。キリマは自分の体内に埋め込まれた肉の杭が動くたびに齎す、抗いがたい快感に呑み込まれた。
「あっ、あ、あン、はあ、あぁ」
「キリマ……っ」
解るか。レンツォはキリマの身体に問う。自分が今誰のものなのか。誰のベッドで、誰に傷を舐められ、誰に快楽を刻み込まれているのかを。深く、浅く、何度も突いた。
「ひっ、ああ、はぁん、んんっ」
唇を自分のそれで塞ぎ、舌を貪った。何度も歯があたる、寡黙な男の不器用なキス。唾液を吸い取りながら、自分にしがみつくキリマの細い身体を、腰を押さえつけ、
「あ、ひっ、」
「キリマ、出すぞ……っ」
離した唇から嬌声が聞こえなくなるまで揺すぶって――、レンツォは、キリマの柔らかな身体の奥に精液を注ぎ込んだ。
睫毛を濡らして、キリマはまだ熱い身体を横たえていた。
「レンツォ……」
「……む」
今更ながら恥ずかしくなってきたと思われるレンツォに、キリマは優しく口付けた。
「……ありがとう」
レンツォは行為の最中よりも顔を赤くして、押し黙ったが、何度か空中とキリマの間に視線を彷徨わせ、言った。
「その……『最初の自由』と言ったな」
「……? はい」
「…………、『最後の自由』も、俺が貰っていいだろうか」
果たして、元から紅潮していたキリマが、耳まで真っ赤になった。
「リカルド・フォルギエーリの思惑通りになってしまいました」
バッティスタに報告するとき、キリマはそう言って少し寂しそうに笑った。
「彼は最後に、自分を壊したかったのに違いありません」
キリマがエルザの復讐に来ることを、場所の指定をすることでリカルドは知ったはずだ。
それでも別荘でキリマを待ったのは、自分の運命を受け入れていたためか。それとも、エルザ――或いはキリマに対する情が残っていたのか。
いずれにせよ、エルザもリカルドもいなくなったことで、キリマは永遠にその宿命から解放された。
キリマの身体に残る傷のことを、もはやこの世に一人しか知る者はいない。
「エルザの遺体は散骨されてしまったようです」
「葬式は出すのか?」
ドン・バッティスタは彼にしては珍しく神妙に訊いた。
「はい、そうしようと思います」
「棺には何を入れる」
「わたしの髪を。これはわたしが“エルザ”として生きた時間の長さでもありますから」
キリマは自分の長い髪を、指で作った鋏で切る真似をした。
「ふん。それをそこの唐変木は納得したのか?」
「えっ」
暗に二人の関係を見抜いているぞと言われ、キリマはともかくレンツォは大いに慌てた。
「い、いや、ドン! 俺は女が出来たからといって鎬を疎かにはしない! 信用してくれ!」
「誰もてめえのザーメン頭のことなんざ心配しちゃいねえんだよ、愚図が」
そう言いながら、バッティスタはニヤリと笑った。
アントネッリの教会の墓地に、“エルザの遺髪”を納めた軽い棺が運ばれていく。
喪服を着た数人ばかりの小さな葬列だった。
秋も終わりに近い、肌寒い日のことだった。
晴れた空は、どこまでも青く澄んでいた。
墓碑にはこう刻まれた。
『神は秩序を欲する』
ここに、エルザ・フォルギエーリは葬られた。
-------------------------
★地名、人名、出来事などすべてフィクションです。
★マフィアは秘密主義です。絶対にこんなに簡単にボスにお目通りはできません。
★マフィアは秘密主義です。絶対にこんなに早く余所のファミリーの内情は知れません。
★エロ成分もマフィア成分も中途半端で申し訳ありません。
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颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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