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第三章 潜伏する狼
第八節 交錯の予兆
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「――そう言えば、昨日、治郎くんに会いましたよ」
唐突に純が言った。
「治郎って、確か玲子ちゃんの幼馴染みの? 空手の彼か」
「ええ。後を尾行て来る人がいるから、誰だろうと思っていたら……」
「その言い方じゃ、喧嘩でもしたみたいじゃないか」
「まぁ、ちょっとだけ」
「怪我なんかさせてねぇだろうな?」
「花巻さんみたいな事を言わないで下さいよ。大体、男同士ならちょっとの怪我くらいは怪我の内には入らないって、おじさんが良く言ってたじゃないですか」
純は治郎と神社で戦った直後、“ハードコア”に踏み込んだ刑事の一団にいた玲子と出会い、その事を話している。
「うむむ。しかし、今まで、姿を晦ましていたって話じゃないか。何をしてたんだ?」
「さぁ。そういう話はしなかったから……」
カップの半分くらいを飲んだ所で、純の眼が昨日まではなかったものを見付けた。
カウンターの端の卓上ラックに、見た事のない小冊子が置かれている。
『おさんぽ画報』だ。
「これは?」
「ああ、昨日、来てくれたお客さんが置いて行ったんだ。うちの事を紹介してくれるってよ。一気に人気店になっちまうなぁ」
お気楽な様子で、緑川。
純はぺらぺらと、『おさんぽ画報』の頁を捲ってゆく。
「ほら、ここ、このコーナー。このお姉ちゃんが来てくれてなぁ」
緑川は渋江杏子が執筆している部分を指差した。
純は杏子の写真を見て、何か思う所があるようであった。
「この人……何処かで……」
「そう言えばその人、前にこっちに来た事があるって言ってたな。その時に会った人を探しているとか……若しかして、お前の事か? この色男め」
けらけらと緑川が笑う。
純は、表面的には例の仏像の笑みを絶やす事はなかったのだが、内心、渋江杏子を何処で見掛けたのか思い出そうとしているようであった。
その渋江杏子は、市内のネットカフェに泊まり、一夜を過ごした。
田舎という事で夜でも空いていたので、フルフラットシートの個室を借りる事が出来た。
ここで一休みした後、“こんぴら”についての記事を一通り纏めてみた。後は、緑川の方から連絡を入れて貰えれば、この原稿を見せに行って、もっと詳しく取材をする予定だ。その連絡がなければ、この話はなかった事になる。
ひと眠りして日が変わり、朝陽が昇ってから、店を出て町の銭湯へゆく事にした。朝の一〇時に開店し、翌日の九時に閉まるスーパー銭湯だ。
そこまでの広さが必要だろうかと思う駐車場があり、その割に小さめの建物の銭湯である。
荷物をロッカーに入れて、入浴券と貸し出しのタオル、使い切りのボディソープとリンスインシャンプーにコンディショナーを自動券売機で買い、番台さんから受け取って、赤地に“女”と白抜きされた暖簾をくぐった。
男湯の方は兎も角、女湯を利用するのは一部の水商売の女たちであった。水場で化粧を落としている様子をちらりと見ると、そこまで変わるか、というくらいの変化を見せた。
ナチュラルメイクを心掛けている杏子としては、あそこまで分厚くファンデーションを塗りたくらなくてはならない職業の人たちが大変そうに感じた。まるで悪魔が来たりてヘヴィメタる様相だ。
浴場には、大風呂と、小さな水風呂、それと露天風呂があった。身体と頭を洗った杏子は、大風呂で温まった後に露天風呂へゆき、サウナに入ってから水風呂へ入り、身体をお湯で温めて出た。
更衣室から出るとマッサージチェアが並んだコーナーがあり、空いている一つを見付けて座った。凝り固まっている肩や、歩き疲れた脚がほぐされてゆくのが心地良い。
うとうとしそうになったので顔を叩いて上体を起こす。すると隣のチェアに、杏子と同じくらいのタイミングで座った女性も同じように瞼を落としそうになっていたので、肩を叩いて声を掛けた。
「ここ、一人一〇分くらいみたいですよ」
「あ――そ、そうですね。お恥ずかしい」
白い歯を見せる笑顔の眩しい女性だった。スウェットの襟から、こぼれ落ちそうな乳房の谷間が覗いている。
杏子は銭湯から出ると、朝食を採ろうと店を探した。と言っても、こんな時間から空いているのはファミレスか牛丼屋、カフェなどのチェーン店くらいのもので面白みがなく、そうでなければコンビニで弁当を買ってネカフェに戻るくらいしかない。“こんぴら”のモーニングも気になるが、催促しているようで気まずさを感じる。
仕方なく杏子は、ハンバーガーショップで朝のセットを頼み、適当な時間までパソコンを開いていた。
唐突に純が言った。
「治郎って、確か玲子ちゃんの幼馴染みの? 空手の彼か」
「ええ。後を尾行て来る人がいるから、誰だろうと思っていたら……」
「その言い方じゃ、喧嘩でもしたみたいじゃないか」
「まぁ、ちょっとだけ」
「怪我なんかさせてねぇだろうな?」
「花巻さんみたいな事を言わないで下さいよ。大体、男同士ならちょっとの怪我くらいは怪我の内には入らないって、おじさんが良く言ってたじゃないですか」
純は治郎と神社で戦った直後、“ハードコア”に踏み込んだ刑事の一団にいた玲子と出会い、その事を話している。
「うむむ。しかし、今まで、姿を晦ましていたって話じゃないか。何をしてたんだ?」
「さぁ。そういう話はしなかったから……」
カップの半分くらいを飲んだ所で、純の眼が昨日まではなかったものを見付けた。
カウンターの端の卓上ラックに、見た事のない小冊子が置かれている。
『おさんぽ画報』だ。
「これは?」
「ああ、昨日、来てくれたお客さんが置いて行ったんだ。うちの事を紹介してくれるってよ。一気に人気店になっちまうなぁ」
お気楽な様子で、緑川。
純はぺらぺらと、『おさんぽ画報』の頁を捲ってゆく。
「ほら、ここ、このコーナー。このお姉ちゃんが来てくれてなぁ」
緑川は渋江杏子が執筆している部分を指差した。
純は杏子の写真を見て、何か思う所があるようであった。
「この人……何処かで……」
「そう言えばその人、前にこっちに来た事があるって言ってたな。その時に会った人を探しているとか……若しかして、お前の事か? この色男め」
けらけらと緑川が笑う。
純は、表面的には例の仏像の笑みを絶やす事はなかったのだが、内心、渋江杏子を何処で見掛けたのか思い出そうとしているようであった。
その渋江杏子は、市内のネットカフェに泊まり、一夜を過ごした。
田舎という事で夜でも空いていたので、フルフラットシートの個室を借りる事が出来た。
ここで一休みした後、“こんぴら”についての記事を一通り纏めてみた。後は、緑川の方から連絡を入れて貰えれば、この原稿を見せに行って、もっと詳しく取材をする予定だ。その連絡がなければ、この話はなかった事になる。
ひと眠りして日が変わり、朝陽が昇ってから、店を出て町の銭湯へゆく事にした。朝の一〇時に開店し、翌日の九時に閉まるスーパー銭湯だ。
そこまでの広さが必要だろうかと思う駐車場があり、その割に小さめの建物の銭湯である。
荷物をロッカーに入れて、入浴券と貸し出しのタオル、使い切りのボディソープとリンスインシャンプーにコンディショナーを自動券売機で買い、番台さんから受け取って、赤地に“女”と白抜きされた暖簾をくぐった。
男湯の方は兎も角、女湯を利用するのは一部の水商売の女たちであった。水場で化粧を落としている様子をちらりと見ると、そこまで変わるか、というくらいの変化を見せた。
ナチュラルメイクを心掛けている杏子としては、あそこまで分厚くファンデーションを塗りたくらなくてはならない職業の人たちが大変そうに感じた。まるで悪魔が来たりてヘヴィメタる様相だ。
浴場には、大風呂と、小さな水風呂、それと露天風呂があった。身体と頭を洗った杏子は、大風呂で温まった後に露天風呂へゆき、サウナに入ってから水風呂へ入り、身体をお湯で温めて出た。
更衣室から出るとマッサージチェアが並んだコーナーがあり、空いている一つを見付けて座った。凝り固まっている肩や、歩き疲れた脚がほぐされてゆくのが心地良い。
うとうとしそうになったので顔を叩いて上体を起こす。すると隣のチェアに、杏子と同じくらいのタイミングで座った女性も同じように瞼を落としそうになっていたので、肩を叩いて声を掛けた。
「ここ、一人一〇分くらいみたいですよ」
「あ――そ、そうですね。お恥ずかしい」
白い歯を見せる笑顔の眩しい女性だった。スウェットの襟から、こぼれ落ちそうな乳房の谷間が覗いている。
杏子は銭湯から出ると、朝食を採ろうと店を探した。と言っても、こんな時間から空いているのはファミレスか牛丼屋、カフェなどのチェーン店くらいのもので面白みがなく、そうでなければコンビニで弁当を買ってネカフェに戻るくらいしかない。“こんぴら”のモーニングも気になるが、催促しているようで気まずさを感じる。
仕方なく杏子は、ハンバーガーショップで朝のセットを頼み、適当な時間までパソコンを開いていた。
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