超神曼陀羅REBOOT

石動天明

文字の大きさ
上 下
98 / 232
第七章 魔獣、集結

第十二節 超 越 者

しおりを挟む
「貴様……」

 蛟の身体は、グラスたちが破裂した血液で汚れていた。だが、その白い頬にぱっくりと開いた傷口から溢れ出したのは、蛟自身の血液である。加えて、雅人に掴まれた右手首は、彼が身体を浴びせて来た時に無理に引き抜いた為か、関節が外されていた。手の骨と腕の骨の間が、単にだらりと力なく引き延ばされた腱だけで繋がっているのではなく、肉を巨大なミノで削られたようであった。

「人間如きが、俺を舐めやがって……」

 それまでの口調と一変、乱暴な言葉遣いで吐き捨てた蛟は、河川敷に降りて雅人に歩み寄る。

 雅人は、既に家主のいなくなった段ボール小屋を支えに立ち上がった。
 眼球の毛細血管が破裂し、雅人は頬に血涙を滴らせている。鼻からも口からも血をこぼしており、胸の傷跡も赤い液体をひり出していた。又、垢だらけのズボンも、血液交じりの糞尿に汚されている。――しかしそれでも、雅人は生きている。

「貴様ら人間如きが、……私に刃向かうなどあってはならない事です……」

 蛟は口調を戻したが、溢れ出る怒りを隠す事は出来ていないようであった。

「貴方たちに出来る事は、私を恐れ、おののき、怯え、額を地に擦り付けて崇め奉り、涙と精液をこぼしながら命乞いをする事だけなのですから……」
「……まるで、神さま気取りだな……」

 雅人は唇の端に、血のあぶくを作りながら言った。
 蛟はその感想に満足いったらしく、唇にV字の笑みを取り戻した。

「私は超越者……貴方たち人間とは、棲む世界が違う……」

 雅人にとどめを刺すべく、蛟は右手を前に出して近付いた。

 その距離が、蹴りの間合いよりも少し遠い場所まで縮まった時、雅人は段ボール小屋の傍に置かれていた一斗缶を蹴り飛ばした。

 一斗缶の中では、新聞紙や落ち葉、雑誌などが燃えている。その火が、蛟の前に降り掛かった。
 火は河川敷の芝生に燃え移った。湿気を含んだ芝生はすぐに燃え広がるような事はなかったものの蛟の注意を逸らす事は出来た。

 蛟が僅かでも怯んだその時、夜の風を切り裂いてサイレンの音が聞こえた。警察だ。

 蛟は拗ねたような顔になって、河川敷から血まみれの通路まで跳躍した。すると橋の下に横たえた杏子が意識を取り戻しており、手に携帯電話を握り締めていた。どうやらそれで、警察を呼んだらしい。

 例え勝義会の犯罪を取り締まる事が出来なくとも、通報があれば駆け付けざるを得ない。そしてこれだけの被害を出した現場にいる人物ならば、保釈が容易であっても連行しない訳にはいかないのであった。

 蛟は杏子の手から携帯電話を奪い取ると、これも川に投げ捨ててしまった。そして杏子に当て身を喰らわせて気絶させると肩に担ぎ、その地点から橋の上までジャンプしてしまった。

 橋の端に停めてあった車の後部座席に杏子を乗せ、運転席のドアを開けて車内に滑り込み、エンジンを掛ける蛟は、集結するパトカーを尻目にその場を後にした。

 現着した警官たちは、その場の惨劇に眼を見張った。堤防と河川敷の間の通路が、血の池地獄へと変貌していた。首のない死体、血まみれの死体、土下座するように後頭部を陥没させた死体、転がった腕、脚、内臓、腹を引き裂かれた女の死体……

 趣味の悪いスプラッター映画さながらの光景は、とても現実のものとは思われなかった。
 それでも警察官として、現場検証を怠る訳にはいかなかった。

「すみません、遅れました!」

自転車でやって来た若い巡査が、現場を仕切っている刑事に駆け寄った。

「飛岡か」
「うッ……何ですか、これは」

 交番勤務だった飛岡は、野外だと言うのに血と死体で満たした密室に閉じ込められてしまったような気分であった。しかも河川敷には、倒れた一斗缶から漏れた火が燃え移っている。

 飛岡は遅ればせながら河川敷に降りて、消火を行なった。
 段ボール小屋の中に人間が残っていないかも、確かめなければいけない。

 その段ボール小屋の傍に、一人の男が倒れている。血まみれだ。

「君……」

 と、声を掛けようとした飛岡の手を、髪まで血濡れた赤に染めた男は弾いた。

 そうして、立ち上がると、異常な現場の検証に手間取る警官たちの眼を掻い潜るようにして、河川敷を離れ始めた。

 飛岡はその背に声を掛けようとしたのだが、その巨大な肉体に圧倒され、声を出す事が出来なかった。その内に同僚に呼ばれ、現場を検証する作業が与えられたので、結局赤毛の男の事は飛岡の意識から消え去る事となったのだ。
しおりを挟む

処理中です...