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第十二章 魔蛇の旋律
第三節 無冠闘士王
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奇跡か偶然か、それとも狙ってやったのかは分からないが、紀田の頭突きは失敗に終わった。
蛙が潰れたような悲鳴を、紀田の口が発した。
その悲鳴はすぐに、押さえ付けられた。
雅人の分厚い掌が紀田の口を覆って、悲鳴を空気の流動に変えていたのだ。
その人差し指と中指が、紀田の鼻の孔に潜り込んでいた。
人差し指などは、鼻頭を突き破って、爪先が涙袋に触れている。
紀田は顔を反らして、痛みから逃れようとした。
だが、雅人の指はその程度では抜く事が出来ない。鼻に指を突き入れられた紀田は、勿論それが奥まで入り込む事を厭うだろう。しかし止められなかった。
止められなければ今のように鼻頭を突き抜け、しかも頭突きの威力は大して弱まらず、雅人の指は紀田の鼻腔内でぐちゃぐちゃに折れていた。
折れた指が鼻粘膜に引っ掛かり、抜く事をさせないのだ。
紀田は顔を左右に振るったりしたが、それでも抜けない。
ホースから手を放し、雅人の手首を掴んで、引き抜こうとした。
雅人は紀田の顔面を鷲掴みにした。残った親指と、薬指と、中指とで顔の皮膚に爪を立てて、自分の手の中に収めてしまおうとする。
紀田がより大きく身体を反らし、マウントさえ解いて、離れようとする。
繊維を引き裂く音がして、紀田は、背中にしていた階段に倒れ込んだ。
頬や顎の肉が、毟り取られていた。左の鼻の孔は裂けてしまっている。
雅人は、頸に絡み付いたホースを右手で取り払い、立ち上がった。
人差し指と中指の関節を、普通ならば曲がらない方に曲げた左手には、紀田の顔面の皮膚と脂肪と肉とがこびり付いていた。
「……ったねぇな……」
掠れた声で、雅人は言った。踊り場に、ピンク色の泡と、折れた歯の欠片を吐き出す。
張り詰めたジーンズの太腿で、紀田の顔肉を拭った。それを見ていると、紀田は無性に腹が立ち、頭の血管が切れる程の怒りに襲われた。
「えぎゃああああああっ!」
真皮ばかりか、頬骨まで見えてしまいそうな顔で、ガマガエルの怪獣は雄叫びを上げた。
何も考えずに、雅人に飛び掛かる。
相手が並みの格闘家なら、それで良い。ボクシングのヘヴィ級チャンピオンでも、張り倒す事が出来るだろう。
しかし相手は明石雅人だ。
段位もチャンピオンベルトも持っていない代わりに、誰よりも強い。
雅人は殆ど感覚を失った足で、けれど紀田の突進を躱して壁にぶつけさせた。
そして振り向いた紀田の、肉の弛んだ頸に右手を叩き込んだ。
拳ではない。
親指から人差し指に掛けてのラインを、虎口という。
相撲でいうのなら咽喉輪だ。
雅人は紀田を壁に押し付け、紀田が右手で雅人を押し返そうとすると、指先が明後日の方向を向いた左腕を腕に巻き付け、脇に挟んだ。
「……ンとの、頸……は、……じゃ、な、……な」
雅人は何かを言っているらしいが、咽喉が潰れて声が出ない。
雅人は紀田を壁から引き剥がした。雅人の後ろは階段だ。
捕まえた紀田の右腕と、右手で掴んだ紀田の頸とを支点に、雅人が階段の手前で後ろにジャンプした。この時、雅人の膝が紀田の胴体に押し付けられており、二つの肉塊は縦に半回転しながら階段を落下した。
紀田は、頭頂を階段の角に激突させられ、足を下に向けて、階段をずり落ちてゆく。
その右腕が、左腕よりも長く垂れ下がっていた。雅人にロックされていた肘が、関節を外されてしまったのである。
雅人も、階段に逆さの大文字を描いていたが、投げを打った側であるだけあり、ダメージは少なくて済んでいる。しかし、それまでの頸絞めや頭突きで蓄積された負担は、変形の巴投げを行なった彼に休息を必要とさせた。
階段に腰掛けて、荒く息を吐く雅人。
血の味がする空気を、腹いっぱいに吸い込むと、酸素を吸い尽くして血液を活発化させ、蒸気機関車さえ連想させる量の二酸化炭素を口からひり出した。
それで、立ち上がれるようになる。
雅人は階段を下り始めた。
紀田が、むっくりと上体を起こしているその背後に近付くと、気配を感じて振り向いた所にサッカーボールキックを喰らわせる。
紀田が二階の廊下に転がった。
雅人は階段から降りながら、左手を持ち上げた。
蒼黒く変色し、普通は曲がらない方向にぐにゃぐにゃと折れ曲がった指を、右掌で包み込むと、無理矢理に手の中に押し込んでしまう。
めき、めぎょ……という音を鳴らしながら、左手を青紫色の拳に作り替える雅人。
「糞が」
紀田はそう言うと、一階への階段を下り始めた。
戦いを放棄して、逃げる心算なのだ。
「逃、す……か、よ」
血の絡んだ声で、雅人が囁いた。
蛙が潰れたような悲鳴を、紀田の口が発した。
その悲鳴はすぐに、押さえ付けられた。
雅人の分厚い掌が紀田の口を覆って、悲鳴を空気の流動に変えていたのだ。
その人差し指と中指が、紀田の鼻の孔に潜り込んでいた。
人差し指などは、鼻頭を突き破って、爪先が涙袋に触れている。
紀田は顔を反らして、痛みから逃れようとした。
だが、雅人の指はその程度では抜く事が出来ない。鼻に指を突き入れられた紀田は、勿論それが奥まで入り込む事を厭うだろう。しかし止められなかった。
止められなければ今のように鼻頭を突き抜け、しかも頭突きの威力は大して弱まらず、雅人の指は紀田の鼻腔内でぐちゃぐちゃに折れていた。
折れた指が鼻粘膜に引っ掛かり、抜く事をさせないのだ。
紀田は顔を左右に振るったりしたが、それでも抜けない。
ホースから手を放し、雅人の手首を掴んで、引き抜こうとした。
雅人は紀田の顔面を鷲掴みにした。残った親指と、薬指と、中指とで顔の皮膚に爪を立てて、自分の手の中に収めてしまおうとする。
紀田がより大きく身体を反らし、マウントさえ解いて、離れようとする。
繊維を引き裂く音がして、紀田は、背中にしていた階段に倒れ込んだ。
頬や顎の肉が、毟り取られていた。左の鼻の孔は裂けてしまっている。
雅人は、頸に絡み付いたホースを右手で取り払い、立ち上がった。
人差し指と中指の関節を、普通ならば曲がらない方に曲げた左手には、紀田の顔面の皮膚と脂肪と肉とがこびり付いていた。
「……ったねぇな……」
掠れた声で、雅人は言った。踊り場に、ピンク色の泡と、折れた歯の欠片を吐き出す。
張り詰めたジーンズの太腿で、紀田の顔肉を拭った。それを見ていると、紀田は無性に腹が立ち、頭の血管が切れる程の怒りに襲われた。
「えぎゃああああああっ!」
真皮ばかりか、頬骨まで見えてしまいそうな顔で、ガマガエルの怪獣は雄叫びを上げた。
何も考えずに、雅人に飛び掛かる。
相手が並みの格闘家なら、それで良い。ボクシングのヘヴィ級チャンピオンでも、張り倒す事が出来るだろう。
しかし相手は明石雅人だ。
段位もチャンピオンベルトも持っていない代わりに、誰よりも強い。
雅人は殆ど感覚を失った足で、けれど紀田の突進を躱して壁にぶつけさせた。
そして振り向いた紀田の、肉の弛んだ頸に右手を叩き込んだ。
拳ではない。
親指から人差し指に掛けてのラインを、虎口という。
相撲でいうのなら咽喉輪だ。
雅人は紀田を壁に押し付け、紀田が右手で雅人を押し返そうとすると、指先が明後日の方向を向いた左腕を腕に巻き付け、脇に挟んだ。
「……ンとの、頸……は、……じゃ、な、……な」
雅人は何かを言っているらしいが、咽喉が潰れて声が出ない。
雅人は紀田を壁から引き剥がした。雅人の後ろは階段だ。
捕まえた紀田の右腕と、右手で掴んだ紀田の頸とを支点に、雅人が階段の手前で後ろにジャンプした。この時、雅人の膝が紀田の胴体に押し付けられており、二つの肉塊は縦に半回転しながら階段を落下した。
紀田は、頭頂を階段の角に激突させられ、足を下に向けて、階段をずり落ちてゆく。
その右腕が、左腕よりも長く垂れ下がっていた。雅人にロックされていた肘が、関節を外されてしまったのである。
雅人も、階段に逆さの大文字を描いていたが、投げを打った側であるだけあり、ダメージは少なくて済んでいる。しかし、それまでの頸絞めや頭突きで蓄積された負担は、変形の巴投げを行なった彼に休息を必要とさせた。
階段に腰掛けて、荒く息を吐く雅人。
血の味がする空気を、腹いっぱいに吸い込むと、酸素を吸い尽くして血液を活発化させ、蒸気機関車さえ連想させる量の二酸化炭素を口からひり出した。
それで、立ち上がれるようになる。
雅人は階段を下り始めた。
紀田が、むっくりと上体を起こしているその背後に近付くと、気配を感じて振り向いた所にサッカーボールキックを喰らわせる。
紀田が二階の廊下に転がった。
雅人は階段から降りながら、左手を持ち上げた。
蒼黒く変色し、普通は曲がらない方向にぐにゃぐにゃと折れ曲がった指を、右掌で包み込むと、無理矢理に手の中に押し込んでしまう。
めき、めぎょ……という音を鳴らしながら、左手を青紫色の拳に作り替える雅人。
「糞が」
紀田はそう言うと、一階への階段を下り始めた。
戦いを放棄して、逃げる心算なのだ。
「逃、す……か、よ」
血の絡んだ声で、雅人が囁いた。
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