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第一章 炎の記憶
第二節 腐 敗
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力の入らない腕を何とか伸ばし、胸を床から引き上げる。ぽたぽたと、ガラス混じりの赤い色が落ちてゆく。
しかし、痛みは感じない。
肉体の頑強さは自負している。とは言え、ガラスの破片で皮膚をこすられれば痛い。
我慢する事は出来るけれど、それは我慢しなければならないくらいの痛さを感じているという事だ。
それがない。
だから、自分の胸から赤いインクが滴ってゆくだけのようにしか、見えない。
結露が窓ガラスの表面を滑り落ちるような、少量且つ緩やかな血の落下に伴って、鼻孔を貫くような鉄の匂いがなければ、自分が怪我をしたという事さえ分からなかっただろう。
雅人は上体を起こし、その場で正座をするような形になった。
金属バットさえ曲げられる脛にも、ガラス片は刺さっている。その痛みもない。
全身の感覚が薄いのである。
そのくせ、触覚を除いた残りの五感などは異様なまでに冴え渡っており、床に落ちたガラス片の一つ一つ、自分に胸からこぼれた血の一滴一滴を、それぞれ見分ける事さえ出来そうだった。
又、それとは別の、訳の分からぬ焦げるような感覚がある。
身体の何処かで感じているというのではなく、頭の芯の方に直接、何かが語り掛けて来ているような……
脳の中で鈴が鳴っているような、不愉快なイメージであった。
雅人はこれを押し殺すべく、正面の景色に注目した。
一八五センチを超える身体をへたり込ませた雅人の正面には、一本のガラスの円筒が置かれていた。
縦に二メートル弱、直径は八〇から九〇センチといった所か。
基部を、鉄色をした台座に支えられており、上にも似たような形状の蓋が被さっていた。
円筒は蛍光グリーンの液体で満たされている。いや、液体自体は透明に近いのだろう。円筒内部に備え付けられた照明が、緑色をしているのだ。
縦長の水槽だ。
これらは雅人の正面以外にも左右に複数並んでおり、雅人が座っている通路を挟んで、やはり複数並んで向かい合っていた。
雅人も亦、その水槽の中にいたのである。
──何だ? これは。
雅人は訝った。
眼の前の水槽の中身は、緑色の液体だけではない。
人の足のようなものが、液体の中に浮かんでいた。勿論、足だけではなく、目線を上げてゆけば脛があり、膝があり、太腿があり……五体満足な人体が浸されている。
床から雅人は、ゆっくりと、生まれたばかりの小鹿のような不安定さで立ち上がり、水槽と向かい合った。
柔らかいお腹。
膨らんだ乳房。
槽内をたゆたう長い髪。
蓋から伸びたレギュレータが顔の大半を隠しているから、容姿の特徴を言えと言われても難しいが、女である。
女は、小さな気泡を瑞々しい皮膚に張り付けながら、水槽に浮かんでいる。
わざわざレギュレータなどを取り付けているのだから、ホルマリン漬けとは違うのだろう。だが、生気を感じさせない様子であった。
雅人は、女の裸身に引き寄せられるように手を持ち上げた。
ひたりと掌をガラスに密着させると、先程と同じように亀裂が生じ、慌てて手を引くも割れたガラスから水が溢れ出した。
ガラスではないのか。
固まり切っていないコンクリートに、悪戯で手を突っ込んだ時のような具合であった。
薬液は水槽から吹き出して、女は水の浮力を失い、水槽の底に落下した。
両膝を突くようなスペースはないので、膝が水槽の下の方に引っ掛かり、レギュレータに繋がった管がぴぃんと伸び切ってしまう。
雅人がそうであったようには、ガラスは壊れなかった。液体も半分くらい残っている。
がっくりと項垂れた女は、冷たい外気に触れて意識を取り戻したようだった。ゆっくりと顔を上げ、ガラス越しに雅人を見る。
その顔は、高い酸性の液体を振り掛けられたように爛れていた。
レギュレータを噛まされていた歯が、入れ歯のように歯茎から外れた。
髪の毛はぼろぼろと抜け落ちて、頭皮も爛れたようになり、皮膚であったらしい泡の内側から白い頭蓋骨が剥き出しになった。
たちまち全身の皮膚が溶け落ち、筋肉がほどけ、委縮した内蔵が腐敗し、骨同士の接合が外れた。
さしもの雅人も驚いて、よろよろと後退した。
その時、さっきから感じていた足音の正体が、ようやっと雅人の前に現れた。
「Don’t move!」
しかし、痛みは感じない。
肉体の頑強さは自負している。とは言え、ガラスの破片で皮膚をこすられれば痛い。
我慢する事は出来るけれど、それは我慢しなければならないくらいの痛さを感じているという事だ。
それがない。
だから、自分の胸から赤いインクが滴ってゆくだけのようにしか、見えない。
結露が窓ガラスの表面を滑り落ちるような、少量且つ緩やかな血の落下に伴って、鼻孔を貫くような鉄の匂いがなければ、自分が怪我をしたという事さえ分からなかっただろう。
雅人は上体を起こし、その場で正座をするような形になった。
金属バットさえ曲げられる脛にも、ガラス片は刺さっている。その痛みもない。
全身の感覚が薄いのである。
そのくせ、触覚を除いた残りの五感などは異様なまでに冴え渡っており、床に落ちたガラス片の一つ一つ、自分に胸からこぼれた血の一滴一滴を、それぞれ見分ける事さえ出来そうだった。
又、それとは別の、訳の分からぬ焦げるような感覚がある。
身体の何処かで感じているというのではなく、頭の芯の方に直接、何かが語り掛けて来ているような……
脳の中で鈴が鳴っているような、不愉快なイメージであった。
雅人はこれを押し殺すべく、正面の景色に注目した。
一八五センチを超える身体をへたり込ませた雅人の正面には、一本のガラスの円筒が置かれていた。
縦に二メートル弱、直径は八〇から九〇センチといった所か。
基部を、鉄色をした台座に支えられており、上にも似たような形状の蓋が被さっていた。
円筒は蛍光グリーンの液体で満たされている。いや、液体自体は透明に近いのだろう。円筒内部に備え付けられた照明が、緑色をしているのだ。
縦長の水槽だ。
これらは雅人の正面以外にも左右に複数並んでおり、雅人が座っている通路を挟んで、やはり複数並んで向かい合っていた。
雅人も亦、その水槽の中にいたのである。
──何だ? これは。
雅人は訝った。
眼の前の水槽の中身は、緑色の液体だけではない。
人の足のようなものが、液体の中に浮かんでいた。勿論、足だけではなく、目線を上げてゆけば脛があり、膝があり、太腿があり……五体満足な人体が浸されている。
床から雅人は、ゆっくりと、生まれたばかりの小鹿のような不安定さで立ち上がり、水槽と向かい合った。
柔らかいお腹。
膨らんだ乳房。
槽内をたゆたう長い髪。
蓋から伸びたレギュレータが顔の大半を隠しているから、容姿の特徴を言えと言われても難しいが、女である。
女は、小さな気泡を瑞々しい皮膚に張り付けながら、水槽に浮かんでいる。
わざわざレギュレータなどを取り付けているのだから、ホルマリン漬けとは違うのだろう。だが、生気を感じさせない様子であった。
雅人は、女の裸身に引き寄せられるように手を持ち上げた。
ひたりと掌をガラスに密着させると、先程と同じように亀裂が生じ、慌てて手を引くも割れたガラスから水が溢れ出した。
ガラスではないのか。
固まり切っていないコンクリートに、悪戯で手を突っ込んだ時のような具合であった。
薬液は水槽から吹き出して、女は水の浮力を失い、水槽の底に落下した。
両膝を突くようなスペースはないので、膝が水槽の下の方に引っ掛かり、レギュレータに繋がった管がぴぃんと伸び切ってしまう。
雅人がそうであったようには、ガラスは壊れなかった。液体も半分くらい残っている。
がっくりと項垂れた女は、冷たい外気に触れて意識を取り戻したようだった。ゆっくりと顔を上げ、ガラス越しに雅人を見る。
その顔は、高い酸性の液体を振り掛けられたように爛れていた。
レギュレータを噛まされていた歯が、入れ歯のように歯茎から外れた。
髪の毛はぼろぼろと抜け落ちて、頭皮も爛れたようになり、皮膚であったらしい泡の内側から白い頭蓋骨が剥き出しになった。
たちまち全身の皮膚が溶け落ち、筋肉がほどけ、委縮した内蔵が腐敗し、骨同士の接合が外れた。
さしもの雅人も驚いて、よろよろと後退した。
その時、さっきから感じていた足音の正体が、ようやっと雅人の前に現れた。
「Don’t move!」
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