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色眼鏡
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人生は本当に上手く行かない。見たくもないものを見せられて、聞きたくもないことを聞かされて、言いたくもないことを言わなければならない。私は本当にどこにでもいる、ありふれた人間なのに、どうしてこうも理不尽な世の中なんだと嘆くばかりだ。そんな厭世的な帰り道、紳士服の老爺が声を掛けてきた。
「これ、そこのお嬢さん。お困りでしょう」
困ってなんかいない。生きているだけで、歩いているだけで、人生に不足があると見られるなんて私の人生が劣っているとでもいいたいのか。こんな、どこにでも居る人間に声を掛ける物好きもいるものだ。なによりも怪しいが、それが反って虚無的な人生における生きる刺激に感じられた。
「お嬢さん、これをお使いなさい」
老爺が取り出した小箱には、色取り取りのレンズが付いた眼鏡がいくつも入っている。
「なんですか、これ。その前に怪しいですよ、貴方」
私の反応は社会一般的な反応である。どこにでもいる、ありふれた人間なのだから当然のこと反応もありふれたものになるのは必然の帰結だ。
「いえいえ、怪しい者ではありません。お嬢さんの目には世界が暗く淀んだ風に見えていますね。それは例えれば灰色の世界。そこで、これをお試し下さい」
老爺はオレンジ色のレンズが付いた眼鏡を私に差し出した。
「こんな眼鏡でなにが変わりますか。私の物の見方を貴方が決めるのは失礼なことです」
文句をいいながらも、眼鏡を掛けるぐらい容易いものだ。能動的に世界に関与もせずとも、受け手でいる内は文句のすべては正当化される。しぶしぶ私が眼鏡を掛けると、世界がオレンジ色になった。
「どうでしょうか、お嬢さん」
これは凄いことだ。なんと世界に期待が満ちているではないか。こんなにも期待に溢れた世界で今まで生きていたのに、まったく私は嘆いてばかりいたのか。
「どういうことですか。まったく世界が違う風に見えます。そんなことがあるでしょうか」
ただ眼鏡を掛けただけ、それだけで世界が変わるなんて誰も思わない。でも、どこにでもいる、ありふれた人間の世界は実際に変わっているのだ。
「もちろんでございます。これは色眼鏡。人はものを見るときに、必ずと言っていいほど色をつけて見てしまうものでしょう。お嬢さんにとっての恨めしい人も、別の人には愛する相手かもしれません。同じ事実にも、例えば同額の給料でも、足りないと言う人もいれば、満足という人もいるでしょう。それは偏に、世界の見方が違うからというものでしょう」
なるほど、眼鏡を外すと、世界は今まで私が見ていた世の終わりだった。なにも変わらず、そこにただあるだけの世界。でも、さっきまでの期待に溢れた世界を見ている人も世には居るということなのだ。
「これ、お嬢さん。次はこれをお掛けなさい」
今度は赤いレンズの眼鏡を取り出して、私が外した眼鏡と交換した。私は期待に溢れた世界に魅せられていた。そんな私に些かの躊躇もない。次の瞬間には世界が真っ赤になっていた。
呻きながら沸々と怒りが湧き上がってくる。この世界は怒りに満ちている。両の手を握りしめて顔を上げる。私はそのままの握り拳で老爺を殴りつけた。老爺は重力に引かれて倒れると、煙となって消えた。煙になったことにも酷く怒りが込み上げてきたので、その怒りを壁に打ち付けた。バリッと音がして、眼鏡が割れて額から血が流れた。痛い。またしても世の終わりが訪れたのだ。怒りが消え去ったので、冷静に眼鏡を踏みつけた。どうして私が怪我をしなければならないのか。もう一度、赤いレンズを踏み砕いてから家に帰った。
あれから数か月、変わらぬ日常に変化があった。あの老爺の小箱を持ち帰った私は緑色のレンズが付いた眼鏡を掛けている。私は人生を変えたのだ。全ての人が信頼出来る。全ての言葉が信頼出来る。そんな日常に以前の不安などあろうものか。今、声を掛けてくる軽薄な男共の言葉も信頼出来る。そうして同意の上の強姦の末に自殺を決意するも、死に切る勇気があればとっくの昔に死んでいる。
春夏秋冬、世が恨めしい。したくもない仕事を一日八時間、生きる意味もなく、同じ毎日を繰り返すだけ。電車の中吊り広告の安っぽいキャッチコピーに書いてあった「人生を変えるには環境を変えること」を実践してみる。何か変わるとは思えなくとも、何か変えようとしなければ何も変わらない。寝るだけのアパートで荷造りをしていると、何時かの小箱が出てきた。良いこともあれば悪いこともあったものだ。埃を払って小箱を開く。黄色のレンズの付いた眼鏡を手に取り天井を透かして見る。喜びだ。そこには喜びが溢れていた。そのまま眼鏡を掛けて部屋を見まわしてみる。使い古しのケトル、ガタが来たベット、時代遅れの服に冴えない自分。それでも全てに喜びがあって嬉しくなってしまう。そうだ、私の世界には喜びがなかったのだ。
もう悲しまなくてもいいように、眼鏡のモダンに接着剤を付けた。世界が黄色い。しかし、喜びは計り知れない。何があってもこれで幸せだ。途端に自分も世界も愛おしくなってくる。退去の手続きは済ませてある。何処へ行こうか、スーツケースを転がして気の向くままに歩き出す。
何もかもが嬉しい。通勤の為だけの道も、自由人になった今では懐かしくもある。街灯のない道外れで歩き疲れてしまった。何処かの橋の下でも私は嬉しいのだ。いつまでも嬉しい。いつまでも楽しい。スーツケースに詰め込んだ食べ物が無くなっても嬉しい。お金がなくても、家がなくても、使い古しのケトルがなくても、ガタが来たベットがなくても、時代遅れの服がなくても、この世界には喜びだけが存在するのだから。
「これ、そこのお嬢さん。お困りでしょう」
困ってなんかいない。生きているだけで、歩いているだけで、人生に不足があると見られるなんて私の人生が劣っているとでもいいたいのか。こんな、どこにでも居る人間に声を掛ける物好きもいるものだ。なによりも怪しいが、それが反って虚無的な人生における生きる刺激に感じられた。
「お嬢さん、これをお使いなさい」
老爺が取り出した小箱には、色取り取りのレンズが付いた眼鏡がいくつも入っている。
「なんですか、これ。その前に怪しいですよ、貴方」
私の反応は社会一般的な反応である。どこにでもいる、ありふれた人間なのだから当然のこと反応もありふれたものになるのは必然の帰結だ。
「いえいえ、怪しい者ではありません。お嬢さんの目には世界が暗く淀んだ風に見えていますね。それは例えれば灰色の世界。そこで、これをお試し下さい」
老爺はオレンジ色のレンズが付いた眼鏡を私に差し出した。
「こんな眼鏡でなにが変わりますか。私の物の見方を貴方が決めるのは失礼なことです」
文句をいいながらも、眼鏡を掛けるぐらい容易いものだ。能動的に世界に関与もせずとも、受け手でいる内は文句のすべては正当化される。しぶしぶ私が眼鏡を掛けると、世界がオレンジ色になった。
「どうでしょうか、お嬢さん」
これは凄いことだ。なんと世界に期待が満ちているではないか。こんなにも期待に溢れた世界で今まで生きていたのに、まったく私は嘆いてばかりいたのか。
「どういうことですか。まったく世界が違う風に見えます。そんなことがあるでしょうか」
ただ眼鏡を掛けただけ、それだけで世界が変わるなんて誰も思わない。でも、どこにでもいる、ありふれた人間の世界は実際に変わっているのだ。
「もちろんでございます。これは色眼鏡。人はものを見るときに、必ずと言っていいほど色をつけて見てしまうものでしょう。お嬢さんにとっての恨めしい人も、別の人には愛する相手かもしれません。同じ事実にも、例えば同額の給料でも、足りないと言う人もいれば、満足という人もいるでしょう。それは偏に、世界の見方が違うからというものでしょう」
なるほど、眼鏡を外すと、世界は今まで私が見ていた世の終わりだった。なにも変わらず、そこにただあるだけの世界。でも、さっきまでの期待に溢れた世界を見ている人も世には居るということなのだ。
「これ、お嬢さん。次はこれをお掛けなさい」
今度は赤いレンズの眼鏡を取り出して、私が外した眼鏡と交換した。私は期待に溢れた世界に魅せられていた。そんな私に些かの躊躇もない。次の瞬間には世界が真っ赤になっていた。
呻きながら沸々と怒りが湧き上がってくる。この世界は怒りに満ちている。両の手を握りしめて顔を上げる。私はそのままの握り拳で老爺を殴りつけた。老爺は重力に引かれて倒れると、煙となって消えた。煙になったことにも酷く怒りが込み上げてきたので、その怒りを壁に打ち付けた。バリッと音がして、眼鏡が割れて額から血が流れた。痛い。またしても世の終わりが訪れたのだ。怒りが消え去ったので、冷静に眼鏡を踏みつけた。どうして私が怪我をしなければならないのか。もう一度、赤いレンズを踏み砕いてから家に帰った。
あれから数か月、変わらぬ日常に変化があった。あの老爺の小箱を持ち帰った私は緑色のレンズが付いた眼鏡を掛けている。私は人生を変えたのだ。全ての人が信頼出来る。全ての言葉が信頼出来る。そんな日常に以前の不安などあろうものか。今、声を掛けてくる軽薄な男共の言葉も信頼出来る。そうして同意の上の強姦の末に自殺を決意するも、死に切る勇気があればとっくの昔に死んでいる。
春夏秋冬、世が恨めしい。したくもない仕事を一日八時間、生きる意味もなく、同じ毎日を繰り返すだけ。電車の中吊り広告の安っぽいキャッチコピーに書いてあった「人生を変えるには環境を変えること」を実践してみる。何か変わるとは思えなくとも、何か変えようとしなければ何も変わらない。寝るだけのアパートで荷造りをしていると、何時かの小箱が出てきた。良いこともあれば悪いこともあったものだ。埃を払って小箱を開く。黄色のレンズの付いた眼鏡を手に取り天井を透かして見る。喜びだ。そこには喜びが溢れていた。そのまま眼鏡を掛けて部屋を見まわしてみる。使い古しのケトル、ガタが来たベット、時代遅れの服に冴えない自分。それでも全てに喜びがあって嬉しくなってしまう。そうだ、私の世界には喜びがなかったのだ。
もう悲しまなくてもいいように、眼鏡のモダンに接着剤を付けた。世界が黄色い。しかし、喜びは計り知れない。何があってもこれで幸せだ。途端に自分も世界も愛おしくなってくる。退去の手続きは済ませてある。何処へ行こうか、スーツケースを転がして気の向くままに歩き出す。
何もかもが嬉しい。通勤の為だけの道も、自由人になった今では懐かしくもある。街灯のない道外れで歩き疲れてしまった。何処かの橋の下でも私は嬉しいのだ。いつまでも嬉しい。いつまでも楽しい。スーツケースに詰め込んだ食べ物が無くなっても嬉しい。お金がなくても、家がなくても、使い古しのケトルがなくても、ガタが来たベットがなくても、時代遅れの服がなくても、この世界には喜びだけが存在するのだから。
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