死ぬ前にしたい1のコト

中嶋 まゆき

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After kiss syndrome

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『いってらっしゃい。仕事頑張るのもいいけど、俺のことも忘れないでね』

『忘れるって……一日も離れないのに』


実くんは、出掛けに私の手首に口づけてそんなことを言った。


『どうかな。拒まれちゃった身としては、目に見えるものがないと不安なんだよね』


――たとえば、こんなの、とか。

くるりと裏返された手首の内側。
実くんの唇が離れると同時に、夏でも日焼けしにくい部分にサッと広がって見えたそれは。


『長袖だから大丈夫。自分も、他の誰にも見えないよ? ……一華さんが、意識しなかったらね』


キスマーク、なんて。
そんな可愛く呼べないほど、艶かしい色だ。
恥ずかしくて隠しておきたいのに、赤ともピンクとも言えない色が気になって、つい袖を捲って確認してしまいたくなる――……。


「異動、申請したんだって? 」

「あ、うん」


すぐに返事をした私、グッジョブ。
妙な間なんて置こうものなら、ユウは絶対にぼーっとしてた理由をつっこんでくるし、一度始まればすべて吐き終わるまで尋問は続く。


「そっか。偉い偉い。やーっと気持ちに正直になった。けど、結構寂しいかな」

「異動しても会えるよ? むしろ、会う機会増えそうだけど」


あれから今まで、ユウがこうやって暇を作って様子を見に来てくれる以外、会いようがなかった。
そりゃそうだ。
優秀な若手社員と、落ちこぼれの年齢だけ中堅社員。
明らかに私の方が暇だから、こっちから彼のところに寄る勇気もそんな仕事もない。
今だって、急にお茶だしを頼まれたのをユウが見つけてくれて、給湯室に付き合ってくれただけだ。


「そうじゃなくて、今までだったらさ。イチ、俺に相談してたのに」

「あ……」


スプーンで掬ったはずの粉末が、不自然に宙に舞う。
慌てて側にあった布巾でシンクを拭いたけど、余計に散って汚してしまった。


「ま、相談されても、自分で考えなって言ってたと思うけど」

「そ、そうだよね」


もう一度、今度はゆっくり。
お茶を入れるだけで息を止めるとか、自分ですら怪しさ極まりないと思うのに。
何とか無事に急須から湯のみに注げたくらいでホッとするのは、詰めが甘かったんだ。


「でも、あーだこーだグチグチ言ってるの見るの、結構好きだったんだよね」

「……ユウ、変わってるよね。ありがたいけど」

「それが意外とそうでもない。自分で嫌になるくらい、普通の感情持ってるよ。ありがたいと思ってるお前がおめでたいの」


――挙動不審な私を、彼が見過ごすわけないじゃない。


「袖、濡れてるよ」


雑に使った布巾を洗おうとして、躊躇ったのがまずかったのかな。
思いきりレバーを上げた蛇口から、水が跳び跳ねて袖がびしょ濡れだった。


「あ……」

「……捲らないの? 」


チラッと見たのに、捲らないから?
それとも、無意識に袖の上からそこに触れたりしたんだろうか。


「……ああ、塞がってるもんな。それに、手はもう濡らしちゃってるし。やってあげるから、じっとしてて」

「あ、や、大丈……」


何にせよ、一歩踏み込まれただけで後ずさったのは、確信でしかなかったんだと思う。
じゃなきゃ、そんなふうに睨むと同時に笑って、そんなこと言わない。


「聞く前に肯定されると困るんですけど? その反応、せめて、俺が聞いてからにしなよ」

「な、なに……」


時間稼ぎは無意味。
往生際が悪いと、その笑みは更に歪んで。
濡れそぼった袖の上から、そっと手首の裏側を撫でられる。


「こーこ。……言える? 見せれる? ……俺に、さ」


――ここに、どんなイケナイこと隠してんの。先輩?









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