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過去と現在
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授業は長いくせに、考え事をしているとあっという間に終わってしまう。遠かったはずの放課後はすぐにやってきて、私は一人で教室を出る。
昇降口までやってくると、三年生の青い上履きが目にとまった。何人かが靴に履き替えて学校を出て行き、忘れ物でもしたのか一人が戻ってくる。髪をなびかせ、足音を立てて廊下を走っていく。
私の記憶がその青い上履きを追い越し、美術室へと向かう。
あまり思い出したくない記憶を辿っている理由は、鈴が私よりも早く教室を出たから。それだけだ。もしかしたら、先輩と会っているかもしれないという思いが気持ちを乱す。
私は浅く息を吐き出して、目を軽く閉じて開ける。
体を置いて美術室へと駆けだそうとする足をなだめ、ローファーがしまってある下駄箱へ向かう。踵を揃えて置いてあった靴を引っ張り出すと、後ろから声をかけられた。
「晶ちゃん、だったかな」
馴染みのない声と呼び方に振り向くと、そこには美術室にいるべき先輩がいた。切れ長の目が細められ、にこやかな笑顔が作られる。
「晶ちゃんであってる?」
返事をしなかったせいか確認するように問われて、私は「あってます」と小さく答える。
「帰るところ?」
「そうですけど……」
「電車かバス? それとも歩き?」
常に先輩が美術室にいるとは思っていない。
鈴が先に帰って、先輩に会わない日だってあるはずだ。今日がそういう日でもおかしくはない。でも、先輩が私に話しかけてくる意味がわからないし、交通手段を聞かれる理由もわからなかった。
そもそも、先輩に話しかけられるなんて想定外の出来事だ。聞いてみたいことはいくつもあった。ただ、それを口にする準備が出来ていないし、準備をしていたとしても聞くような勇気を持ち合わせていない。
このまま話続けてどうなるのか予想がつかない私は、靴を履けずに半歩下がる。視線を下げると、先輩は青い上履きではなくよく手入れがされたローファーを履いていた。
「晶ちゃん?」
返事を促すように、先輩が私を見る。着地点が見えないまま会話を続けることは面白くないことだったけれど、答えを待たせ続けるわけにはいきそうもなかった。
「電車です」
閉じていようとする口を無理矢理開いて、返事をする。すると、先輩が楽しげに私の腕を引っ張った。
「あたしも駅の方なんだよね。一緒に行ってもいい?」
一つどころか、三つか四つくらい上に見える先輩が、軽薄と思えるくらい明るい声を出す。その言葉は疑問形ではあったけれど、私から手が離れる気配がない。
そうなると、与えられた選択肢は一つで、それを選ぶしかなかった。意思を奪われた私は機械的に上履きをしまって靴を履き、先輩と一緒に学校を出る。
朝の予想に反して、雪は積もらなかった。外は、青空が広がっている。それでも、冬の空気は冷たい。太陽が光を落としているにも関わらず、私は肩を震わせる。
葉を落とした街路樹を目の端に映しながら、鈴と何度も通った駅への道を先輩と歩く。
久しぶりに誰かと見る景色は、それほど良い物ではなかった。先輩の隣というのは、あまり居心地が良くない。
「白川咲恵。知ってると思うけど、三年生。ついでに言うと、元美術部」
決まりの悪さが顔に出ていたのか、先輩が空気を変えるように名乗りを上げる。おかげで、私はクエスチョンマークを顔一杯に貼り付けながら隣を見ることになった。
「自己紹介。晶ちゃんは?」
「鈴木、です」
「二年生だよね?」
「そうです」
勢いに押されるように答えると、先輩が上履きの色でわかっているであろう事実にふんふんと頷く。
「鈴の友達?」
「そうです」
「嘘つき」
その言葉は滑らかに先輩の口から飛び出し、私を刺す。暴力的に突きつけられた“嘘”という単語に友達という関係性を否定され、その根拠を考える。そして、すぐに鈴に行き当たった。
先輩に何かを言うとしたら、鈴しかいない。
けれど、その考えは先輩によって否定された。
「初めて会ったときも、鈴の友達って聞いたらそうだって言ったけど、友達じゃないでしょ」
ほんの少しだけ弱まった口調に、先輩は私と鈴の関係を知らないのではないかと考える。でも、考えただけで確証はないから、探るように問いかけた。
「――どうしてそう思うんですか?」
「鈴って、友達いないから。だから、彼女か、そうじゃないなら知り合い。晶ちゃんは、彼女って感じだよね」
先輩がいとも簡単に口にした“彼女”という単語に、呼吸が止まりかける。そして、私は他人から聞いた言葉で、鈴が彼女と呼ばれる存在であることに初めて気付いた。
今は恋人だと言い難い関係で、不透明な関係になってしまっていると思う。それでも、少し前までは鈴のことを恋人だと思っていた。でも、彼女だと思ったことはなかった。
同性だということをそれほど意識したことがなかったことが、その理由なのかもしれない。恋人も彼女も、言い方だけのものだとも思う。
ただ、先輩から言われると、心が一枚めくられたようで落ち着かない。
「で、どっちなの?」
温度のない先輩の声に、気持ちを閉じ込めていた殻にヒビが入る。
「先輩は……。先輩なんですか?」
鈴にとってどういう存在なのか。
足りない言葉のせいで要領を得ないものになった質問に、先輩が頬をぴくりと動かす。考えをまとめるように唇に触れて、「うーん」と唸ると口を開いた。
「質問に質問を返すの、よくないなあ。……と言いたいところだけど、いいか。晶ちゃんが友達だって言うように、あたしも鈴の先輩かな」
そう言うと、先輩は一つにまとめた長い髪を揺らして小さく笑った。そして、付け足すように不穏な言葉を私に向ける。
「一言で友達や先輩って言っても、色々な意味があるとは思うけど」
色々に、どんなものが込められているのか。
それを聞く隙はなかった。私は、先回りした先輩に「色々は色々だよ」と答えを押しつけられる。
風に舞い、行き先が定まらない木の葉のようにつかみ所がない人だと思う。そのとらえどころのなさは、鈴に似ている。いや、鈴が先輩に似ているのかもしれない。
一緒にいるうちに影響し合って似てくるなんて、よくある話だ。でも、そういった掃いて捨てるほどよく聞く話になるには、どれくらいの時間が必要なんだろう。
私は相手に似てしまうほどの時間を考え、足が止まりそうになる。思考が出口のない迷路を彷徨い始めて、私は慌てて先輩と同じ速度で足を動かした。
「あの、何か用があるんじゃないんですか?」
ひらひらとどこへ向かうのかわからない先輩に巻き込まれかけた会話を断ち切るように、声を出す。
「用がないと話しかけちゃいけないタイプ? 用事が必要なら、何か考えるけど」
道が二つあるなら当たり障りのないの方を選ぶ私は、用事がないなら先に行きます、とは言えない。ふにゃりと頼りない意思は、会話を断ち切ろうとしたことを忘れ去って喉に言葉を詰まらせる。
私は、先輩の隣という立ち位置に収まりの悪さを感じながらも黙々と歩く。短いけれどとても長く感じた沈黙の後、先輩が内緒話をするように私の方へ寄ってくる。
「晶ちゃんは、鈴のこと好き?」
聞こえてきた声は、胸の奥にあるものを咎めるような低い声だった。後ろめたいことでもしているような気持ちにさせられて、近寄ってきた先輩から少し離れる。
「それ、答えないといけないんですか」
「答える必要はないね。でも、知りたい」
「……先輩は好きなんですか?」
知りたいという先輩を退けるようにもう一度質問に質問を返すと、緊張感のない声が聞こえてくる。
「好きだって言ったら、どうする?」
「どうもしません。どうするかは、鈴が決めることだと思うから」
「それは、鈴が私を選んだらそれに従うってこと?」
従う。
従わなければならない。
鈴の意思をねじ曲げるようなことをしてはいけないと思う。そう思ったのに、それは言葉にならない。頭の中で蠢いているだけだった。首にぐるりと先輩の声が巻き付いて、私は言葉を形にすることができない。
「できないことは、口にしない方が良いよ」
先輩が挨拶をするくらいの気軽さで言う。
柔らかな口調は、責めるようなものではなかった。けれど、それを笑って流すこともできずに先輩を見る。
「怒らせたいわけじゃないから、そんな顔しないで。仲良くしたいわけでもないけどね」
握られたままこちらに来そうにない会話の主導権は諦めて、私は歩く速度を上げた。
初めて会ったときと同じだ。
先輩のペースに巻き込まれて、考えをまとめる暇もない。
「もう少しゆっくり行かない?」
先輩の声が少し後ろから聞こえてくる。
「一応、用事あるから。スピード落として」
「どんな用事ですか?」
歩調を緩めると、ぱたぱたと靴音が聞こえて隣に私よりも少しだけ背が高い先輩がやってくる。
こほんと、わざとらしい咳払いを一つ。
次に、大切なことを告げるようにゆっくりと言った。
「鈴が珍しく沈んでるから、晶ちゃんにもう少し愛想良くして欲しいなって用事」
沈んでる?
鈴が?
先輩から見えている鈴と、私が見ている鈴が重ならない。私には、機嫌が悪そうにしか見えなかった。
「私が愛想良くしても、鈴は変わらないと思います」
先輩が言うように鈴が沈んでいるとしても、私が彼女を引っ張り上げられるとは思えない。
「やってみないとわからないでしょ。にっこり笑ってあげれば、つられて楽しい気分になるかも」
「先輩がにっこり笑った方が喜ぶかもしれません」
私の言葉に、先輩が困ったように笑った。
「じゃあ、あたしが頑張ろうかな。って、実は、かなり頑張った後なんだけどね」
「――何が目的なんですか?」
「人には、出来ることと出来ないことがあるからね。適材を適所に配置したいってところかな」
やっぱり二人は似ている。距離が測れないところも、頭の中が見えないところも鈴と先輩は似ている。遠慮なしに心の中に入り込もうとするところも同じだ。
分類すれば苦手なタイプで、出来れば先輩とは同じ時間を過ごしたくない。それでも、拒絶することを忘れて時間を共有してしまうのは、鈴によく似ているからなのかもしれなかった。
そんな先輩に出来なくて、私に出来ること。
それは何だろうと考えていると、駅が見えてくる。
冬の乾いた風が皮膚を切り裂くように吹く。寒さにコートのポケットへ手を突っ込むと、先輩が私に背を向けた。
「と言うわけで。あたし、帰るね」
「え?」
「反対方向だからさ、家。じゃあね」
来た道を指さしてから、先輩が二歩、三歩と足を進める。けれど、すぐに振り返った。
「あ、そうだ。大事なこと聞くの忘れてた。美術部に入部したくなった?」
今までの会話を消し去るように告げられた大事なことは、全くもって大事なことではなくて、私は素っ気なく答える。
「なりません」
断言すると、先輩が「残念」と言い残して歩き出す。私は、さして残念ではなさそうな先輩を見送って、寂しそうな駅を見上げた。
適材適所という言葉が浮かんで、私は鞄からスマートフォンを取り出す。先輩の言葉を信じたわけじゃない。でも、鈴にメールを送る。
『冬休み、初詣に行こうよ』
返事はすぐに来た。
『時間決まったら教えて』
予定を初詣にしたことは後悔したけれど、すぐに来た返事に気持ちが少しだけ軽くなった。
昇降口までやってくると、三年生の青い上履きが目にとまった。何人かが靴に履き替えて学校を出て行き、忘れ物でもしたのか一人が戻ってくる。髪をなびかせ、足音を立てて廊下を走っていく。
私の記憶がその青い上履きを追い越し、美術室へと向かう。
あまり思い出したくない記憶を辿っている理由は、鈴が私よりも早く教室を出たから。それだけだ。もしかしたら、先輩と会っているかもしれないという思いが気持ちを乱す。
私は浅く息を吐き出して、目を軽く閉じて開ける。
体を置いて美術室へと駆けだそうとする足をなだめ、ローファーがしまってある下駄箱へ向かう。踵を揃えて置いてあった靴を引っ張り出すと、後ろから声をかけられた。
「晶ちゃん、だったかな」
馴染みのない声と呼び方に振り向くと、そこには美術室にいるべき先輩がいた。切れ長の目が細められ、にこやかな笑顔が作られる。
「晶ちゃんであってる?」
返事をしなかったせいか確認するように問われて、私は「あってます」と小さく答える。
「帰るところ?」
「そうですけど……」
「電車かバス? それとも歩き?」
常に先輩が美術室にいるとは思っていない。
鈴が先に帰って、先輩に会わない日だってあるはずだ。今日がそういう日でもおかしくはない。でも、先輩が私に話しかけてくる意味がわからないし、交通手段を聞かれる理由もわからなかった。
そもそも、先輩に話しかけられるなんて想定外の出来事だ。聞いてみたいことはいくつもあった。ただ、それを口にする準備が出来ていないし、準備をしていたとしても聞くような勇気を持ち合わせていない。
このまま話続けてどうなるのか予想がつかない私は、靴を履けずに半歩下がる。視線を下げると、先輩は青い上履きではなくよく手入れがされたローファーを履いていた。
「晶ちゃん?」
返事を促すように、先輩が私を見る。着地点が見えないまま会話を続けることは面白くないことだったけれど、答えを待たせ続けるわけにはいきそうもなかった。
「電車です」
閉じていようとする口を無理矢理開いて、返事をする。すると、先輩が楽しげに私の腕を引っ張った。
「あたしも駅の方なんだよね。一緒に行ってもいい?」
一つどころか、三つか四つくらい上に見える先輩が、軽薄と思えるくらい明るい声を出す。その言葉は疑問形ではあったけれど、私から手が離れる気配がない。
そうなると、与えられた選択肢は一つで、それを選ぶしかなかった。意思を奪われた私は機械的に上履きをしまって靴を履き、先輩と一緒に学校を出る。
朝の予想に反して、雪は積もらなかった。外は、青空が広がっている。それでも、冬の空気は冷たい。太陽が光を落としているにも関わらず、私は肩を震わせる。
葉を落とした街路樹を目の端に映しながら、鈴と何度も通った駅への道を先輩と歩く。
久しぶりに誰かと見る景色は、それほど良い物ではなかった。先輩の隣というのは、あまり居心地が良くない。
「白川咲恵。知ってると思うけど、三年生。ついでに言うと、元美術部」
決まりの悪さが顔に出ていたのか、先輩が空気を変えるように名乗りを上げる。おかげで、私はクエスチョンマークを顔一杯に貼り付けながら隣を見ることになった。
「自己紹介。晶ちゃんは?」
「鈴木、です」
「二年生だよね?」
「そうです」
勢いに押されるように答えると、先輩が上履きの色でわかっているであろう事実にふんふんと頷く。
「鈴の友達?」
「そうです」
「嘘つき」
その言葉は滑らかに先輩の口から飛び出し、私を刺す。暴力的に突きつけられた“嘘”という単語に友達という関係性を否定され、その根拠を考える。そして、すぐに鈴に行き当たった。
先輩に何かを言うとしたら、鈴しかいない。
けれど、その考えは先輩によって否定された。
「初めて会ったときも、鈴の友達って聞いたらそうだって言ったけど、友達じゃないでしょ」
ほんの少しだけ弱まった口調に、先輩は私と鈴の関係を知らないのではないかと考える。でも、考えただけで確証はないから、探るように問いかけた。
「――どうしてそう思うんですか?」
「鈴って、友達いないから。だから、彼女か、そうじゃないなら知り合い。晶ちゃんは、彼女って感じだよね」
先輩がいとも簡単に口にした“彼女”という単語に、呼吸が止まりかける。そして、私は他人から聞いた言葉で、鈴が彼女と呼ばれる存在であることに初めて気付いた。
今は恋人だと言い難い関係で、不透明な関係になってしまっていると思う。それでも、少し前までは鈴のことを恋人だと思っていた。でも、彼女だと思ったことはなかった。
同性だということをそれほど意識したことがなかったことが、その理由なのかもしれない。恋人も彼女も、言い方だけのものだとも思う。
ただ、先輩から言われると、心が一枚めくられたようで落ち着かない。
「で、どっちなの?」
温度のない先輩の声に、気持ちを閉じ込めていた殻にヒビが入る。
「先輩は……。先輩なんですか?」
鈴にとってどういう存在なのか。
足りない言葉のせいで要領を得ないものになった質問に、先輩が頬をぴくりと動かす。考えをまとめるように唇に触れて、「うーん」と唸ると口を開いた。
「質問に質問を返すの、よくないなあ。……と言いたいところだけど、いいか。晶ちゃんが友達だって言うように、あたしも鈴の先輩かな」
そう言うと、先輩は一つにまとめた長い髪を揺らして小さく笑った。そして、付け足すように不穏な言葉を私に向ける。
「一言で友達や先輩って言っても、色々な意味があるとは思うけど」
色々に、どんなものが込められているのか。
それを聞く隙はなかった。私は、先回りした先輩に「色々は色々だよ」と答えを押しつけられる。
風に舞い、行き先が定まらない木の葉のようにつかみ所がない人だと思う。そのとらえどころのなさは、鈴に似ている。いや、鈴が先輩に似ているのかもしれない。
一緒にいるうちに影響し合って似てくるなんて、よくある話だ。でも、そういった掃いて捨てるほどよく聞く話になるには、どれくらいの時間が必要なんだろう。
私は相手に似てしまうほどの時間を考え、足が止まりそうになる。思考が出口のない迷路を彷徨い始めて、私は慌てて先輩と同じ速度で足を動かした。
「あの、何か用があるんじゃないんですか?」
ひらひらとどこへ向かうのかわからない先輩に巻き込まれかけた会話を断ち切るように、声を出す。
「用がないと話しかけちゃいけないタイプ? 用事が必要なら、何か考えるけど」
道が二つあるなら当たり障りのないの方を選ぶ私は、用事がないなら先に行きます、とは言えない。ふにゃりと頼りない意思は、会話を断ち切ろうとしたことを忘れ去って喉に言葉を詰まらせる。
私は、先輩の隣という立ち位置に収まりの悪さを感じながらも黙々と歩く。短いけれどとても長く感じた沈黙の後、先輩が内緒話をするように私の方へ寄ってくる。
「晶ちゃんは、鈴のこと好き?」
聞こえてきた声は、胸の奥にあるものを咎めるような低い声だった。後ろめたいことでもしているような気持ちにさせられて、近寄ってきた先輩から少し離れる。
「それ、答えないといけないんですか」
「答える必要はないね。でも、知りたい」
「……先輩は好きなんですか?」
知りたいという先輩を退けるようにもう一度質問に質問を返すと、緊張感のない声が聞こえてくる。
「好きだって言ったら、どうする?」
「どうもしません。どうするかは、鈴が決めることだと思うから」
「それは、鈴が私を選んだらそれに従うってこと?」
従う。
従わなければならない。
鈴の意思をねじ曲げるようなことをしてはいけないと思う。そう思ったのに、それは言葉にならない。頭の中で蠢いているだけだった。首にぐるりと先輩の声が巻き付いて、私は言葉を形にすることができない。
「できないことは、口にしない方が良いよ」
先輩が挨拶をするくらいの気軽さで言う。
柔らかな口調は、責めるようなものではなかった。けれど、それを笑って流すこともできずに先輩を見る。
「怒らせたいわけじゃないから、そんな顔しないで。仲良くしたいわけでもないけどね」
握られたままこちらに来そうにない会話の主導権は諦めて、私は歩く速度を上げた。
初めて会ったときと同じだ。
先輩のペースに巻き込まれて、考えをまとめる暇もない。
「もう少しゆっくり行かない?」
先輩の声が少し後ろから聞こえてくる。
「一応、用事あるから。スピード落として」
「どんな用事ですか?」
歩調を緩めると、ぱたぱたと靴音が聞こえて隣に私よりも少しだけ背が高い先輩がやってくる。
こほんと、わざとらしい咳払いを一つ。
次に、大切なことを告げるようにゆっくりと言った。
「鈴が珍しく沈んでるから、晶ちゃんにもう少し愛想良くして欲しいなって用事」
沈んでる?
鈴が?
先輩から見えている鈴と、私が見ている鈴が重ならない。私には、機嫌が悪そうにしか見えなかった。
「私が愛想良くしても、鈴は変わらないと思います」
先輩が言うように鈴が沈んでいるとしても、私が彼女を引っ張り上げられるとは思えない。
「やってみないとわからないでしょ。にっこり笑ってあげれば、つられて楽しい気分になるかも」
「先輩がにっこり笑った方が喜ぶかもしれません」
私の言葉に、先輩が困ったように笑った。
「じゃあ、あたしが頑張ろうかな。って、実は、かなり頑張った後なんだけどね」
「――何が目的なんですか?」
「人には、出来ることと出来ないことがあるからね。適材を適所に配置したいってところかな」
やっぱり二人は似ている。距離が測れないところも、頭の中が見えないところも鈴と先輩は似ている。遠慮なしに心の中に入り込もうとするところも同じだ。
分類すれば苦手なタイプで、出来れば先輩とは同じ時間を過ごしたくない。それでも、拒絶することを忘れて時間を共有してしまうのは、鈴によく似ているからなのかもしれなかった。
そんな先輩に出来なくて、私に出来ること。
それは何だろうと考えていると、駅が見えてくる。
冬の乾いた風が皮膚を切り裂くように吹く。寒さにコートのポケットへ手を突っ込むと、先輩が私に背を向けた。
「と言うわけで。あたし、帰るね」
「え?」
「反対方向だからさ、家。じゃあね」
来た道を指さしてから、先輩が二歩、三歩と足を進める。けれど、すぐに振り返った。
「あ、そうだ。大事なこと聞くの忘れてた。美術部に入部したくなった?」
今までの会話を消し去るように告げられた大事なことは、全くもって大事なことではなくて、私は素っ気なく答える。
「なりません」
断言すると、先輩が「残念」と言い残して歩き出す。私は、さして残念ではなさそうな先輩を見送って、寂しそうな駅を見上げた。
適材適所という言葉が浮かんで、私は鞄からスマートフォンを取り出す。先輩の言葉を信じたわけじゃない。でも、鈴にメールを送る。
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