恋だけがそれを知っている

羽田宇佐

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イルカと猫

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 二年生最後で、来年はない三学期の期末テストは良くも悪くもない成績だったけれど、試験勉強をした量を考えれば良くやったと褒めても良いのかもしれない。
 私の机の上にちょこんと腰掛けて、返ってきた何枚かのテスト用紙をぺらぺらとめくっている鈴も変わらないような成績だった。

「今日、美術室に寄ってから帰りたいんだけどいい?」

 クラスメイトたちがあらかた帰り、中途半場に静かになった放課後の教室、断られるとは思っていない声で鈴が言う。

「いいけど、テストが終わったら行きたい場所って美術室だったの?」
「うん」
「何しに行くの?」
「行けばわかる」

 机の上からぴょんっと降りて、鈴が私を見る。
 美術室。
 放課後。
 そして、鈴。
 この三つが揃えば嫌な予感しかしないし、美術室へ行くのは気が進まない。けれど、断るつもりもない私は『行けばわかる』の内容が穏便なものであることを祈るしかなかった。

「美術室に先輩いるの?」
「たぶん」

 随分とぼんやりとした言葉が返ってくる。でも、たぶんではなく、先輩は確実にいるに違いない。
 その場所に何故、私が一緒に行かなければならないのか。
 疑問はオブラートにくるりと包んで、鈴に投げかける。

「先輩がいるなら、私は一緒じゃない方がいいんじゃないの?」
「一緒の方がいいから、ついてきて」

 鈴は白い紙を色鮮やかな絵の具で塗り潰したような明瞭さを持つ声できっぱりと言うと、テスト用紙を鞄の中にしまう。鞄の外では、イルカと猫のキーホルダーが揺れていた。

「……できれば、晶に聞いていてもらいたいから」

 付け足すように告げられた言葉には、これから起こることの一端が含まれていてごくんと私の喉が鳴る。

「いこっか」
「うん」

 鈴に促されて教室を出て、廊下を歩く。
 もう三月だというのに、雪が降ってもおかしくないほど寒い。窓の外では、風がびゅーびゅーと情け容赦なく吹いている。悪戯な風は何人かのスカートをひらりとめくり、校舎の中にまできゃーきゃーという甲高い声を響かせていた。

「帰り、寒そうだね」

 春が遠そうな景色を見ながら鈴に話しかけると、「そうだね」と気のない返事が投げかけられる。心ここにあらずという声に彼女の方を見ると、薄い鞄が規則正しく揺れていた。けれど、赤い上履きはいつもよりも歩みが遅くて美術室が遠く感じる。

 ゆっくりと階段を下りて、下駄箱を通り過ぎる。
 三年生の教室がある校舎に入り、一階の端を目指す。一ヶ月ほど前には青い上履きが行き交っていた校舎は、がらんとしていて今は私たちが立てる足音くらいしか聞こえない。

 自由登校になった三年生がいない廊下は静かすぎて、私は何となく息を潜める。悪いことをしているわけでもないのに、悪いことをしているみたいな気分になる。鈴も黙ったままだった。

 キュッキュッと上履きが鳴らす音がやけにうるさく感じて、心臓が少しだけ早くなる。鈴の足は重りでもついているのか、さっきよりも遅くなっていたけれど、目的地に辿り着かないなんてことはない。その場所は確実に近くなっていき、寂しそうな廊下の突き当たり、鈴が美術室の扉を開けた。

咲恵さきえ

 教室の中から、返事はない。
 頭の中に鈴が呼んだのは誰のことだろうという疑問が浮かんで、すぐに消える。鈴は先輩がいると言っていたのだから、美術室で呼ぶ名前は先輩以外のものであるはずがなかった。その事実は、鈴が普段は先輩を名前で呼んでいるのだということを気付かせ、気持ちが少しばかり沈む。
 放っておくと、底なし沼の底を探すようにずぶずぶと心の奥の奥にまで潜ってしまいそうで、私は渇きかけた喉を無理矢理動かす。

「いないみたいだけど、どうするの?」
「ちょっと待ってもいい?」
「いいよ」

 美術室に入って扉を閉めると、鈴が鞄の中からスマートフォンを取り出す。珍しく電話をかけていたけれど、鈴は口を開くことなくすぐにメールを打ち始めた。

 先輩は来ないのかもしれない。

 そんなことを考えながら、そう広くもない美術室の中を歩く。
 厳めしい顔をした石膏像にイーゼル。
 誰が描いたのかわからない何枚もの絵。
 教室をぐるりと回って戻ってくると、鈴が一枚の絵を指さした。

「あれ、雪花ちゃんが描いた絵」
「この海の絵?」

 鈴の指の先、壁に飾られた絵の前へ行って見上げる。そこには、夕暮れ時の青と赤が入り交じった世界が切り取られていた。
 選択授業は音楽を選んでいるから、美術室にはそれほど来る機会がなかった。だから、この絵のことは記憶にないし、意識したこともなかったけれど、鈴の言葉によって“雪花ちゃんが描いた絵”が美術室の記憶に書き加えられる。

「そう。卒業前に描いたみたい」
「上手いね」

 絵の評価基準というものがわからない私には、上手いか下手かくらいしか感想が出てこない。ただ、本人が卒業した後にも美術室に飾られているくらいだから、私が口にした言葉は間違っていないのだと思う。

「これ、どこの海なの?」

 いつの間にか隣に来ていた鈴に問いかける。

「わかんない。雪花ちゃん、聞いても教えてくれなかったから」
「そっか」

 もしかすると、鈴は美術室にこの絵を見に来て先輩と出会ったのかもしれない。そう思うと、綺麗なはずの絵が呪術的な何かに見えてくる。鈴も先輩も、そして私も、この学校に残る“雪花ちゃん”に囚われているような気がした。
 私は絵から離れて、手近な机に腰掛ける。気を紛らわせるために足をぶらぶらと遊ばせていると、教室の扉が開く音が聞こえた。

「お待たせ」

 今日、学校へ来ていたのか、呼び出されたから来たのかはわからないけれど、制服姿の先輩が姿を現す。長い髪は、結んでいない。陶器のような白い肌に、涼しげな目は何度か会った中で一番冷たく見えた。

「遅い」
「来るつもりなかったから」

 事も無げにさらりと言って、私の隣にやってくる。行儀悪く机の上に座っていた私は、重くなっていく空気に逆らうように静かにそこから降りた。

「で、話って? 予想はつくけど」

 淡々と事務的に言葉を繋いで、先輩が私が座っていた机の上に鞄を置く。海の絵を背にした鈴は「咲恵」と名前を呼んだけれど、すぐに口をつぐんだ。
 言いかけた言葉が消えた美術室は、校舎から切り離されたみたいに静まり返っている。鬱々とした雰囲気に染まった教室は、ぬかるんだ道を歩いた後みたいに気持ちが悪くて落ち着かない。

「代わりはもういらなくなったって話だよね?」

 何も言わない鈴のかわりに、先輩が無機質な声で言った。
 その声は、私の中に沈んでいた言葉と重なる。何らかの答えが出されるということがわかっていたから、この場所に来ることは気乗りがしなかった。先輩だって、呼び出しに応じたくはなかっただろうと思う。

 結果がどうなろうと先輩との関係に答えを出して欲しいとは願っていたけれど、こういう形は望んでいなかった。
 誰かを選ぶということは、誰かを選ばないということで、すべての人の願いが叶うわけじゃない。私が鈴を選んだように、鈴にも私を選んで欲しいとは思っていた。でも、選ばれない誰かを見たいわけではなかった。

「……悪かったと思ってる」
「随分と酷いね。わざわざ晶ちゃんまで連れてきて。一人だと、気持ちが変わりそうだった?」
「一人でも気持ちは変わらない」
「じゃあ、晶ちゃんに聞いていて欲しかったってことかな。まあ、どっちにしても趣味が良いとは言えないね」

 淡々と言葉を紡ぐと、先輩は一呼吸置いてから柔らかく言った。

「鈴、好きだよ」
「なんで、そういうこというの。そんなこと、今まで言ったことないのに」

 鈴の声は泣いているのかと思うほど、上擦っていた。それは今まで私が聞いたことのないもので、胸の奥が痛くなる。

「言わなかったけど、あたしは鈴のことずっと好きだった。知ってたでしょ?」
「どうして、今さら」
「言ってほしくなさそうだったから。……もし、もっと前に言ってたらどうなった?」
「どうにもならない」

 躊躇うことなく鈴が言う。
 その言葉が本当なのかどうかは、私にはわからない。けれど、先輩は「だよね」と乾いた声で答えると、自嘲するように笑って教室の壁を見る。視線の先には“雪花ちゃんが描いた絵”があった。

「今度は、晶ちゃんをかわりにするの?」

 先輩の声に、悪意は感じられない。感情というものが欠落していて、単純な疑問を口にしただけのように聞こえた。事務的とも言ってもいい声は、私の頭の中に菜都乃の言葉を浮かばせる。彼女はあのとき、言うべきことは言った方が良いと言った。

 私は、先輩を見る。
 問いかけられたのは、鈴であって私ではない。
 でも、菜都乃の言葉に背中を押されて、私は鈴よりも先に口を開く。

「私は雪花ちゃんのかわりになるつもりはないし、かわりは嫌です。鈴には、私のことをちゃんと好きになってもらいます」

 きっと、先輩がずっと言いたくて、言えなかったこと。
 口にしていれば、未来が変わったかもしれない言葉。
 それを私が先に形にした。
 先輩が長い髪が揺らして僅かにうつむく。けれど、すぐに顔を上げると、小さく息を吐き出してから鈴に問いかけた。

「晶ちゃんはこう言ってるけど、鈴は?」
「晶はかわりじゃない」
「傷つくなあ。……わかってたけど」

 あはは、と乾いた笑いを最後につけて、先輩がぺたりと上履きを鳴らして鈴に近づく。

「まあ、でも、これで終わりにしてあげる。そのかわり、最後にキスさせて」

 その言葉は、ある記憶を私の中から引き出す。
 再生されるのは、この教室で見たあの日の光景。
 先輩とキスをしている鈴。
 今、先輩がどんな顔をしているのかは、見ることができなかった。
 でも、先輩がどんな顔をしていたとしても、あの光景をもう一度見たいとは思えなかった。
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