青年と母と娘、大凶の恋

羽翼綾人

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【第18話】やがて不登校になり

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「……ごめんなさい。嘘なんです」

 僕がそう言うと、桐子さんは、額に手を当てたまま、僕を見つめた。

「嘘、といいますと?」
「熱なんてありません。仮病です。……本当は、あなたに会うのが怖かったんです」

 僕は正直に打ち明けた。
 露西亜を騙して、その母親と二人で会うことへの罪悪感があったこと。
 自分が、二人の家族関係に割り込んで、何かを取り返しのつかない方向に歪めてしまいそうな予感。
 もちろん、先日のことは伏せた。

「よかった……お熱はなかったのですね」

 さっきまで、暗い表情だった彼女の顔色に、輝きが広がった。けれどもすぐに、申し訳なさそうに俯いた。

「それにしても……私の配慮が足りておりませんでした」

 彼女は、姿勢を正して、丁寧にお辞儀をした。

「小田原さんに、そこまでお気を使わせてしまうなんて……。娘のことで焦るあまり、あなたまで巻き込んで、あの子へ嘘を作ってしまっていました。でも、お食事は本当にちゃんと取れていますか? よかったら、持ち帰れませんので、もらっていただけますか?」

 彼女がスーパーの袋を見せて、少し困惑したような微笑みを浮かべた。

「せっかくここまで来ていただいたんです。こんなところですけど……よかったら、上がりませんか。ここで、露西亜さんのこと、お話しさせてください」
「ですが、そんな。私から押しかけてきたのに……悪いです」
「いえ、悪いのは僕の方ですから。それに……僕からも、聞きたいことがあるんです。露西亜のこと」

 僕が食い下がると、彼女は少し躊躇った後、「では、お邪魔いたします」と靴を揃えて部屋に上がった。
 僕は冷蔵庫から、未開封のペットボトルのお茶を二本取り出した。
 グラスなんて気の利いたものがなくて、とても悪い気がした。
 しかし、彼女は渡されたペットボトルを、両手で丁寧に受け取り、何一つ不快な顔をしていない。
 こんな男臭い部屋に、ダークネイビーのスーツを着た美女が正座して、しかも安堵したような落ち着いた表情でいる。
 ここで彼女は「それ……」と、僕が言う前に口を開いた。

「それ……あの子の、『設定』についてですよね?」

 プライベートな空間に、パブリックな口調の声が響いた。
 ここがまるで会議室であるかのように、滑らかで聞き取りやすい言葉遣いだった。

「はい。露西亜さんはなぜ、あんなに頑なに軍人や貴族みたいな振る舞いをするんでしょうか。ただのアニメ好きみたいなのとは違う、何か執念のようなものを感じるんです」
「……主人の影響があると、思います」

 彼女は、少しだけ躊躇うような声で、語り始めた。

「夫は、理想主義だったんです。自衛官として、国家や市民のために全てを捧げる人でした。そして、歴史小説とプラモデルを愛して……現実を、自分の理想で塗り替えたいと考えて、本当にそれを実行する人でした。露西亜は、父親っ子でしたから」
「じゃあ、お父さんの真似をしていると?」
「ええ。そして、そのために……あの人は亡くなりました」

 桐子さんの話によると、ご主人は、老人が道路を走る米軍トラックにぶつかりそうになった時、それを庇って、事故死してしまったのだという。
 聞いているうちに、思い出した。
 僕が中学生の頃、ワイドショーで報道されていた事件だ。基地問題で荒れるきっかけになったが、自衛官の自己犠牲により、世論は基地の存在を是認する流れになっていった。
 彼は桐子さんが言うように、まさに理想のために、現実の議論を変えたのだった。

「でも、それだけではありません」

 桐子さんは、少しだけ視線を伏せた。長い睫毛が影を落とす。

「夫が亡くなった時……私、すぐに彼の書斎を整理してしまったんです。プラモデルも、蔵書も、すべて処分いたしました」
「えっ、すべて?」
「はい。不必要なものですから。それに、過去の遺物が残っているのは、私にも、露西亜にも、よくないと考えまして」

 さらりと言った。
 彼女にとっては整理整頓という正しい行いだったのだろう。
 彼女自身も、愛していた家族の喪失を視覚化する遺品を管理するのが辛かったのだろう。
 だが、幼い露西亜にすれば、それが残ることよりも、失われることの方が辛かった。
 解釈違い、というところだろう。
 露西亜は実のところ、ミリタリー知識が深いわけではない。報道される軍事や戦争のニュースに関心を寄せることはなく、彼女のいう軍事用語もかなりデタラメだ。
 それでも少女趣味の強い自分の部屋に、父親の趣味を重ねて、あの空間に父親の影を再現しようとしている。
 あの書籍や模型も、父親からの遺産ではなく、彼女の記憶に残る父親の感覚を復元しようとしているものなのだ。

「露西亜さんは、怒らなかったんですか?」
「はい。あの子は、泣きも喚きもしませんでした。『お母さんの言う通りです』って、手伝ってくれたんです。けれども、やがて不登校になり……」

 彼女は幼い時から、不登校児となっていたのだ。

「しばらくして、学校には復帰できたものの、その時にはもうあの口調となっていました。以来、あの子は家の外では、ずっとあんな感じなんです」

 僕は腑に落ちた。

「そうだったんですね……なるほど」

 露西亜は、母親の「正しさ」を理解できないほど鈍感ではなかった。だが、それは自分の思いを押し殺してまで守るべき「正しさ」なのだと思い込み、それを信じて実行したことで不登校となってしまったのではないか。
 そして、彼女が見つけた「正しさ」が今の姿なんだろう。
 その証拠が、あの部屋。
 捨てられた「父親の形見」の物理的復元、それに加えて彼女は自分自身をも「形見」にした。
 自分の言葉、自分の振る舞いは、父親がその生き様で自分の理想を通したように、彼女自身も自分の理想に自分を合わせて生きているのだ。

「私には、理解できないのです。形のない空想や、役に立たない設定を現実よりも大事にする気持ちが。……小田原さん。あなたはあの子のそういう部分を、受け入れているのですね?」

 彼女が上目遣いに僕を見た。

「……はい。不器用だけど、自分に素直で、可愛いと思います」
「そうですか。……羨ましいです」

 彼女は頬を緩め、ペットボトルに口をつけた。
 淡いピンク色の唇が、プラスチックの飲み口を濡らす。喉が動いている。
 あの家では母親の肉体に見えたものが、今は一人の大人な女性の肉体に見える。

「私は、私が正しいと思うことしかできません。……だから、あの子にとっての『正解』にはなれないのです」

 彼女は、僕に何を求めているのだろう。
 露西亜の恋人として、彼女を受け入れて欲しいと思っているのだろうか。それとも、前とは違う父親のようになって、あの子を変えて欲しいと思っているのか。
 あるいは、一個の女性として、娘の悩みを共有して、弱音を聞いてもらいたいのか。
 彼女の笑顔は、少し寂しそうに見えた。

「正しいと思うことの幅を広げてみたらいいんじゃないですか?」

 彼女は「幅?」と、それまで通りの微笑みを崩すことなく、僕の顔を見た。
 ペットボトルを置いた桐子さんの手に、手を重ねる。
 彼女の動きが止まった。
 だが、手を振り払わない。微笑みも動かしていない。
 正しいことしかできない彼女に、正しくないことを教えてみたらいい。
 その美しい笑顔に、僕の真剣な顔を寄せていく。
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