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それぞれに懸命

12、千晶のはからい

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 とっぷり暮れてから千晶の家に着いた。手土産にはアイスクリームを買った。
 
 彼女はスケジュールに余裕があって「楽だよ」と言うが、仕事部屋をのぞかせてもらえば、そう暇でもなかった様子がうかがえる。
 
 清算しつつある三枝さんの社の仕事も詰まっているはずだ。
 
「邪魔じゃない?」
 
「平気。大きいのは終わったから、後はぼちぼち。ほとんどうち専門のアシで結婚する子がいて、少し休みがほしいって言うから、二、三日休むよ。ちょうどいいんだ」
 
 千晶が総司にちょっかいをかけながら、結婚するといったアシの女の子の話を続けた。
 
「相手が、あの先生だよ、あの…」
 
「うわすごい。名前知ってる」
 
「いい人だよ。その先生がアンパンマンによく似ててね。業界じゃ、裏でみんなそう呼んでる。その子と喋ってて、あのアンパンマンが~」って言いそうになっちゃうよ」
 
 その女性は結婚後も千晶の元でアシを続けるという。
 
「アンパンマンの仕事場が男ばっかりでか、しょっちゅうピリピリしてるんだって。でもアシの絆が半端ないって。アンパン夫人でも居心地悪いらしいよ。バタコさんが5人いるって感じかな。居場所がなさそう、きついよね」
 
「あはは」
 
「うちもわたしのイライラが充満して、いや~な雰囲気のときもあるんだけどね~」
 
 千晶はそう笑うが、人を何人も使ってこれまで仕事をしてきたのは、すごいことだと思う。自分だけで同人を好きなペースでやっているわたしには、ちょっと想像が難しい世界だ。
 
 わたしたちが喋る傍らで、総司にはテレビを見せてのんびりしていた。夫とのことを聞いてもらいたかったが、総司がいてはとても口にできない。
 
 九時に近くなりあくびを連発し出したので、慌ててお風呂を借りた。一緒に急いでシャワーを済ませ、ぬれ髪を拭き拭きリビングに戻った。テーブルに千晶がグラスを出し、ワインの用意をしてくれていた。

「総司、アイス食べる? あ、あげてもいいの?」
 
「うん、ありがとう」
 
 冷えた白ワインがおいしい。
 
 アイスを食べ終えた総司が部屋中を駆け回る。来た当初はおとなしかったのに。二度目で慣れたらしい。
 
「こら、あんまり騒がないの。どんどんしちゃ駄目」
 
「いいよ。子供だもん。すごいね、雅姫もママなんだ~」
 
 言葉にほんのりと寂しさが残るような気がした。だから、彼女が子供を欲しがっているのだ、とは飛躍しない。
 
 他人が当たり前に持つ自分の手にないものに、ちょっと羨望を感じるのは、ごく自然なことだろう。けれども、それを真実望んでいるかはまた別だ。その場その場での自分とは違う、といった単純な区別なのかもしれない。その上でのちらっとした好悪なのかも、とも思う。
 
「色々言い訳して適当にしてるよ。叱らないでおこうと思った端から「こらっ」って言ってるし。ははは」
 
 きゃっきゃとあちこち駆けまわる。床に眠そうに転がっている。
 
「こっちの部屋使えばいいよ」
 
「うん、ありがとう」
 
 アシさんたちが仮眠室に使う部屋に総司を寝かせた。とろとろと寝そうなのにわたしがちょっと身を離すとパチッと目を開ける。やはりよその家は勝手が違うのだろう。
 
 肘枕をし添い寝をしているとドアが開いた。千晶だ。
 
「マンションの組合の積立金のことで書面を出せって言われてたの今日までだった。管理事務所のポストに入れてくるだけだから、ちょっとごめん」
 
 すぐ戻るね、と出ていく。
 
 千晶が帰る頃には総司が寝てくれてるといいな。常夜灯の薄暗い部屋に横になっていると、疲れが身体からにじみ出てくるようだ。途端に眠くなってくる。このまま寝てしまい、寒さに夜中目を覚ますことだってよくあった。
 
 ついうとうとした。
 
 はっと目を覚ます。総司が気持ちよさ気に寝息を立てている。頬に触れしっかり寝入っていることを確かめてから起き上がった。
 
 まぶしさに目をこすりつつリビングに戻る。どれほど時間が経ったのか、棚の時計に目をやったときだ。思いがけないものを見つけてぎょっとなった。十時十分を知らせる針の前辺りに、沖田さんがいた。
 
 人の家で、家主も知らぬ間に上り込んだくせに寛いだようにネクタイを緩めている。
 
「寝たのか? 子供は」
 
「うん…、どうしたの?」
 
 そう言えば千晶がいない。総司を寝かしに別室に行ってから二十分は経つはずだ。ちょっときょろきょろした。お風呂か、トイレかもしれない。
 
「千晶なら出かけたぞ。遅くなるんじゃないかな」
 
「え?」
 
 はあ?
 
「会ったの?」
 
「さっき、エントランスのロビーで。そのまま出てったぞ、タクシー呼んで」
 
「ええ?! 管理事務所に行くだけって言ってたのに…」
 
 そこで気づく。もしや、二人は示し合わせていたのでは…、と。
 
 何なのこれ。そうにしたって。「沖田さんに声かけたからもう来るよ」ぐらい一言、言ってくれたって…。タクシーって、どこまで行ったんだろう。いつ帰って来るんだろう。
 
 いきなりの二人きりに照れ臭いやら面食らうわで、ごまかしに唇を噛んでいた。
 
「そんな顔するなよ。なかなか会えないから、俺が頼んだんだ、あいつに」
 
 前に電話したとき、夫に関係を知られているかもしれないと伝えたのは、わたしだった。
 
 千晶は思いやりとノリで沖田さんの話に協力してくれたのだろうし、こうして時間を作ってくれる彼の気持ちは絶対に嬉しい。二人の企みを知っていたらわたしは素直にのめなかった、多分、きっと。
 
 ひっかけられてちょっとむくれたくなる、わずかな抵抗感をわきに置いた。
 
 ともかく、今のこの時間は、とても貴重なはず。
 
「飲む?」
 
「ああ、うん」
 
 グラスを一つ、キッチンから持ってきた。テーブルの白ワインのボトルを注いだ。互いに少し口をつけ、短い沈黙に似たような感慨がわくのを感じている。
 
 彼とお酒を飲んだのはもう十三年も前のことになる。千晶と二人して、たっぷりごちそうになった(きっと会社の経費)記憶は、まだ色あせていない。
 
 適当でいい加減で、それでもノーテンキに楽しかったあの頃。そして、胸の愚痴をため息で吐き出すような今が、確かにつながっている。細い細い糸でなのか。そうではなく、昔がどこかで『今』に色や形を変えただけなのか…。
 
「人生って、わからないね」
 
 心の声がふと言葉になって出た。沖田さんは顔を上げ、つまみチョコが散らばったテーブル越しに、わたしの手をつかんだ。
 
「なあ、何かあったんだろ?」
 
 わたしのつぶやきが嘆きに聞こえたのだろう。悪い意味ではないのに。何かの覚悟をもって彼はここに来てくれたのかもしれない。わたしから嫌な展開を耳にするかもしれないと。
 
 きっと酔いだろう。ろくに飲んでもないのに。ほろろっと涙があふれ、指でぬぐう間もなく、頬をこぼれ落ちた。
 
「雅姫」
 
 彼の顔に注がれる視線を感じた。ぽっと頬に照れがのぼる。
 
 空いた手で頬こすり、羞恥交じりに思う。前に夫との対面であの人が見せた思わせぶりな長い溜めだ。今のわたしがそうなのかもしれない。あれは、うざい。
 
「あのね…」
 
 彼の手を外し、ティッシュで目を抑えながら話した。総司が夫の子供ではないこと。多額の和解金を夫が隠して、病院との話を終えてしまったことまで。ほぼ全てだ。
 
 事実を耳にし、しばらく沖田さんの声がなかった。
 
 ちょっと自棄に付け足した。
 
「できるだけ、あっちからお金を取ってやろうと思ってる。総司のためにもお金はほしいし。それで、向こうと話がこじれてるみたい」
 
 ちらりと彼をうかがう。きっと赤いはずのわたしの目の向こうで、彼は舌で頬を突くような仕草をしている。驚いたのだろう。
 
 どれほどかの後で、彼が訊く。
 
「相手の人とは会ったことは?」
 
「だから、わたしはノータッチだよ。何にも知らない間に夫が全部病院側と話を終えちゃって、念書みたいなのまであるの。もうぐだぐだ言わない…」
 
「そうじゃなくて、その…、父親のことだよ」
 
「え?」
 
 沖田さんが何を言っているのかやっと気づいた。生物学的な総司の『父親』のことを指しているのだ。
 
 わたしは首を振った。相手の知識が全くない。
 
「病院と交わした約束事に含まれてるの。相手方の家族と連絡を取らないって」
 
「そりゃ、もし被害家族同士が連帯されたら病院は厄介だろうな。でかい訴訟にだってなりかねない」
 
そういったことを踏まえての一億円だった。夫の母はまるで息子の手柄のように吹聴していたが、そうではないのだろう。病院は法外に思える金額を支払うことで、こちらの口を自ら閉じさせた。
 
 思ったことを口にすると沖田さんは頷いた。
 
「だろうな。万が一、それでもどこかに話したりしたら、非難を受けるのは病院だけじゃない、自分たちもだな。多額な金でその買収に乗ったんだから」
 
 気づいているのかそうでないのか。夫とその母のしたり顔がまるで馬鹿に思えてしまう。心の中で二人に短く毒づいた。
 
 大事があったときその人にとって真実大切なものがわかる…。ダグも父も似たようなことを言っていたっけ。夫にとって何より重いのは突然湧いて出た大金だった。慈しんで育てた総司でもその月日でもなく。
 
 嘆きながら、それでも今がほんのり心地いと感じた。沖田さんを前に黙り込むのも、こうして思いをさらすのも、彼への甘えになることをわかっているから。
 
 一口ワインを飲んだ。
 
「もう総司は要らないんだって。「勘弁してくれ」って言われた。信じられない…」
 
 総司に聞こえるはずがないのに声がひどくひそまった。
 
 あの温厚なダグが、夫のその言葉に表情を硬くさせたのを覚えている。家族である我々にとって、あの言いぐさは許せない。
 
 テーブルに置いたグラスをいじるわたしの指に、彼の指が触れた。それは慰めのように見えた。言葉ではないが「頑張ったな」とか「そうだな」とか、優しい同意のようなものに。
 
 だから、沖田さんが次につないだ言葉は、和らいだわたしの心を不意にぱちんと打った。
 
「しょうがない」
 
 そう彼は言った。
 
 見返せば、同じようにわたしを見ながら、
 
「気持ちはわからないでもない。男は自分で子供を産まないからな。血を分けたとか、そういった面を重視するやつもいるだろう…」
 
「ダグは違うじゃない」と言葉が出かけて、飲み込んだ。先に、沖田さんに言葉を継がれたからだ。
 
「ダグはそうじゃないだろう。でも、違ったタイプもいるってことはわかれよ。これは生理的なもんだ。受け入れられる受け入れられない。それだけの違いだろ。だから悪じゃない。そう俺は思う」
 
 いまだに触れている指先をすっと外した。卑怯なだけな夫を庇う彼が腹立たしい。いつかも、沖田さんはいっかなやる気を出してくれない夫の肩を持ったことがある。
 
 総司にこれから何て言ってやればいいのか。パパがいつの間にかフェードアウトするようにあの子の世界から消えたことを、何て…?
 
「無責任に子供を見捨てるのが悪じゃないの?」
 
「その点は旦那と話しても無駄だと思う。血がつながらない以上、元から子供はいなかったって解釈じゃないか。だから責任も悪意もない。「勘弁してくれ」も俺には自然に聞こえる」
 
 だから、許せと言うのか?
 
 わたしはかすかに首を振る。とても、そんな言葉をのみ込めない。
 
 指で目を抑えた。瞳にはわずかに涙がにじんでいる。
 
「許すんじゃない」
 
 え。
 
 頭にぽんと手が置かれた。温もりが伝わる。大きな手のひらだと思った。髪を彼の指がすくいながら、
 
「要らないだろ? もう逃がしてやれ」

 と言う。子供が飽きたカマキリか何かみたいだと思った。
 
 そのたとえが意外でそしておかしい。逸らした目を戻せば、彼と目が合った。
 
 髪から指が頬に落ちた。その手が耳をちょっとだけくしゃっと包む。
 
「なあ」
 
「え?」
 
 引き寄せられ、身体が彼の方へ傾いだ。とんと額が彼の胸に当たった。照れもそのための抗いも浮かばない。驚いたのだ。そして、胸がおかしなほどにときめいた。
 
「惜しいみたいに、むくれるな。馬鹿」
 
 惜しくなんかない。
 
 むくれてなんかない。
 
「そんなんじゃ…」
 
「わかってる」
 
 抱きしめながら、わたしがいい匂いがすると言った。「中学生かよ」と胸の中で突っ込んだ。
 
「千晶と同じ匂いだよ。お風呂で高そうなサロンのシャンプーとか借りた」
 
「げっ、ありがたみが減る」
 
 ありがたみだって。
 
 あはは。
 
 さっき彼を中学生みたいと面白がったくせに、自分だって同じようなものだ。ただ嬉しい。彼の言葉が。きゅんと、胸にしみるように。
 
 それから、初めてわたしたちは短く唇を重ねた。
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