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私に送る、私が奏でる鎮魂歌

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 彼女は既に一度、死んでいた。
 薄れかかった足が、それを示している。

 そんな彼女は、廃墟の中でピアノを弾いている。
 ただ一つ奇妙なくらい綺麗に残ったピアノが、美しい音色を奏でる。

 人間の観客は誰一人居らず、物陰から覗くリスやキツネ、それに崩れかけた塔の上から見下ろす鳥だけがそれを聴いている。
 これは、静かな幽霊の演奏会。

 一国が滅んで既に何十年と時が経ち、風化した城には人がここに文明を築いていたその残滓ざんしのみが残っている。
 建物の隙間から雑草が乱雑に生え、もはや人の生きる領域ではない。

 ピアノを弾いているのは、一人の女性。
 ウェーブのかかった金髪に青い瞳、とても美しい女性だった。

 人の声どころか、息の音一つ・・・・・しない空間の中で、月光がまるでスポットライトのように彼女とピアノを照らしていた。

 今となっては誰一人知らないはずの楽曲、その五線譜をまるで機械のように緻密になぞる。
 しかし、その音色はただ機械的なだけでなく、感情的な抑揚も付けられていた。
 これを聴いている者が居たとすれば、間違いなくその者の心を震わせたことだろう。

  しばし時間が経って、演奏が終わった。

 彼女はす、と手を戻し、目を伏せる。
 目を開け、見上げるは星。

「――私はいつまで、こうやっているんでしょうか」

 ◇

 私は幽霊。

 滅んだ国のピアノに縋り付く、醜い幽霊。
 いつからそうなったのか、魔女に呪いでも掛けられたのか。

 それは分からないけれど、私は今日こんにちまでここに居る。
 昼は意識も存在もほぼなくなってしまうけれど、夜になればまたもとに戻る。

 私はここで、どこか空いた心の穴を埋めるために、もうずっと演奏を続けている。
 もっと上手に演奏すればいいのか、それとも誰かに評価してもらえればいいのか。

 もう何年、何十年、いやそれとも何百年こうしているのだろうか。

 届かない星を見上げ、今日も嘆息する。

 私は独りだ。
 誰かに、聴いてもらいたかった。

 私を評価して欲しいのか、もっと上手く弾けるようになりたいだけなのか。それとも、ただ単に誰かと会いたいだけなのか。
 それは分からないけれど、とにかく誰かに私の演奏を聴いてほしかった。

「静か、ですね」

 呟いた。

 それから、ピアノに近づいた。
 金色の彫刻が為された文字を撫でる。

『アヴィリウム・ジェーン・レッテルズ』

 私の名だ。
 王宮の職人に、夫が大金と共に頼み込んで作ってもらった品。
 結局、家に届かずここに保管されたままだったけれど。

 私はピアノ椅子に座った。
 静かな夜は、ピアノをこう。

 引いている間だけは、私は自由だ。何にも縛られない、何も考えなくていい時間。
 ただ、五線譜のとおりに音をなぞるだけ。

 弾き慣れた曲の音色がピアノから奏でられる。
 月光に淡く照らされただけの、薄暗い鍵盤でも私は弾ける。

 私にはもうピアノしかない。
 生前、ピアノしかできなかった私を許してくれた、愛してくれた家族ももう居ない。
 それに、私の愛する人も、もう居ない。

 祖国も滅び、今ではこの廃墟となってしまった。

 ああ。
 今の私の演奏は――私の家族に、そして星に捧げるだけの価値があるのだろうか?

 気がつけば、曲は終わりに向かっていた。
 私は最後の一音を奏でた。

 すると、驚くべきことに拍手の音が聞こえた。
 まさか、と思って音の源の方へ振り返る。

 そこには、金と黒で美しく装飾された肩章かたしょうを付けた、精強な顔つきの男性が居た。
 腰に豪華な装飾がされた剣を差している辺り、それも高い地位の貴族だろう。

 しかし服はところどころ破れており、その腰の剣も肩に掛けた突撃銃も、もうボロボロになっていた。
 さらにその汚れや傷の目立つ顔から、彼が相当な戦場を抜けてきたのであろうことが分かった。

 白髪に髭を生やした壮年の彼は、口を半開きにして、驚いたような表情をしていた。
 そして、その瞳からは、涙が静かに流れていた。

 私は何か声を掛けようと思ったけれど、上手く言葉が出ない。こういう時、何を言うべきだっただろうか。
 そもそも、彼はどうして泣いているのだろうか。

 人に聴いてもらえて嬉しいとか、人が居ることに驚くとか、それよりも先に困惑が私を襲った。

 分からないことずくしだったので、とりあえず挨拶をすることにした。

「ありがとうございます。見知らぬ人。私の演奏を聴いてくれて――」

 スカートの裾を上げ、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。
 すると、彼は正気に戻ったかのように一瞬目を見開き、涙を拭った。

 それから、何かをこらえるようにしてから、敬礼をした。

「――とても美しい音色で、良い演奏だった。ありがとう」
「そうですか。その、お褒めに預かり光栄です」

 いざ褒められると、何を言えばいいか分からなくて、適当な言葉を返す。
 彼は高い地位の人間に見えたし、こういう言葉遣いが良いかもしれない、と思った。

「ああいや、やめてくれ。私はそんな偉い人間じゃないんだ」

 彼は目を伏せた。
 どうやら、あまり好みじゃなかったらしい。

「――それにしても、ここは静かな場所だな。人の気配が何一つしない」

 私の方に歩み寄りながら、彼は周囲を見渡した。
 それが少し怖くて思わず身じろいでしまう。

 いや、長らく人と会っていなかったせいなだけでこの怖さはただの幻想だ。

 そもそも、求めてやまなかった観客なのだから、快く受け入れるべきだろう。

「私も不思議に思っております。今まで、ここでは人を見たことがありません」
「そうだな。しかし、悪くはない。最期さいごに骨を埋める故郷が、ここだというのは――悪くない」

 噛みしめるように彼は繰り返す。
 骨を埋める場所、とはなかなか物騒な話だ。

 いや、そもそも私も死んでいるのだし、言い返せはしないだろう。

「骨を埋める……ですか。だとすると申し訳ありません。私は幽霊なもので、最後の晩餐は用意して差し上げられませんね」

 何かしてあげた方がいいかと思うが、私には何もできなかった。

 私の言葉に彼はハッとした。
 私が幽霊だということに気がついたのだろうか?

「ああ、すまない。変なことを言ってしまったね。気分を悪くしたかな?」

 どうやら、そっちのことではなかったらしい。
 それにしても、幽霊と聞いても驚かないのは凄いな、と他人事のように思った。

「いいえ。見ての通り、私も死んでいるものですから――悪くなる気分がありません」
「はは、それは面白いジョークだ。それにしても、君が幽霊だというのは本当なのかい? 確かに足が透けているが……」

 ジョークのつもりではないのだけれど。

「ええ、見る限りでは。魔女の呪いか、何かは分かりませんが、私はずっと昔からこのピアノに憑いているのです」
「――それは、ずっと一人で辛かったろう。いつも、ここで演奏を?」

 私の言葉に、考え込んでから答えた。

「ええ。常に暇ですので、いつもそうしております。一人で辛いかと言えば――誰も私の演奏を聴いてくれないのは、悲しかったですね」
「そうか……なら、しばらくは私が観客となっても、問題はないかな?」

 優しげに笑みを浮かべ、彼は手を差し出した。
 それが、私が昔愛したあの人に少しだけ似ていた。

 懐かしくて、私は思わず手を取る。

「――えぇ、もちろんです」

 にこり、と私は微笑んだ。

 ◇

 この崩折れた廃墟でも、座れる場所くらいならある。
 私はピアノから離れすぎると段々動けなくなるから、その範囲で椅子に座った。

 私が幽霊になった話、この場所の話なんかをダラダラしていた。
 人と話すのは久しぶりで少し難しかったけれど、しばらくすると慣れた。

 そういえば、私が幽霊であることに驚かなかったのは、彼がもう死にゆく身だからなのだろうか。

 そして、彼と話していく中で、そういえばここは敵国に滅ぼされたんだということも思い出した。
 私は昔のことすぎて忘れていたようだ。
 それに、誰に滅ぼされたかなんて覚えていても仕方ない。

 にしても、植民地にされていないのは妙だ、と彼は言っていた。
 噂だけれど、この場所には人が住み着けなかったらしい。

 なんとも不思議な話だ、と思いつつ、同時にこうも思った。

「もしかすると、私がピアノを弾いているせいかもしれないですね」
「はは、そうかもしれないね。例えば君の音色が生者を追い払う、とか。私はもう死んでしまう身だから近づけたのかもしれないね」

 彼は笑って答えた。

「……死んでしまう身とのことですが、何があったんですか?」

 私はふと気になって、訊いた。

「――この国は、もう滅んでしまってね。この街を滅ぼした国と同じ国に、攻め滅ぼされたんだ」
「……そうですか」

 パチパチ、と煙を上げる炎を眺めながら私は呟いた。

「そこまで悲しくはなさそうだね」

 少し不思議そうに訊いた。

「祖国が滅んだことは悲しいです。ですが、私はそれよりも――私の家族に、愛する人に何も返せなかったことが一番の心残りですから」
「そうか。確かに、国に執着するものじゃないかもしれないな」

 彼は悲しげに笑った。

「あなたは、戦ったのでしょうか」
「ああ、最後までね。祖国のために。その一心で私は何も残らなくなるくらい戦ったさ。だけど、結局――味方も家族も、何もかも失っただけだったがね」

 自嘲気味に笑う。

「そう、ですか。でも、何かのために命を尽くせるのは、凄いことだと思います」

 私は、今私ができる最大限の励ましをした。

「そう言ってくれると嬉しいね」

 彼は微笑んだ。

「さて、私はそろそろ食料と水を探さねばいけないな。しばらくは死ねない用事ができたものでな」

 彼は切り替えるように立ち上がった。
 その言葉が少し気になって、私は声を掛けた。

「――あの」
「なんだい?」
「いつまで、私なんかのために生きているつもりなんでしょうか?」

 まるで私が彼を現世に縛り付けているような気がして、少し申し訳なくなったのだ。

「ふむ、それは私が死ぬまで、だろうか」

 彼は少し考え込んでから、答えた。

「答えになっていないような気がしますが……」
「はっはっは。確かにそうかもな」

 それから彼はおおらかに笑い、どこかへ去っていった。

 ◇

 次の日。
 彼の姿が見当たらなかったもので、私はあれだけ言ったのに帰ったのか、とどこか寂しくなった。

 だけど、やることは変わらなかった。

 今日は少し、別の曲を弾いてみることにした。一年くらいは同じ曲を弾いていた気がするし。
 曲はクライマックスに差し掛かり、盛り上がる。
 ここをどう演奏するか、が大事だ。

 けれど、もう既に私の手に馴染んだこの楽曲は、スラスラと感情の流れを持った音色を弾き出す。

 それから、アウトロ。
 そのウイニングランを終えて、私は手を止めた。

 その瞬間、最初に聞いたときよりも早い拍数で拍手が聞こえた。

「いやぁ、今日も良かったよ」

 彼はニコニコと人のよさそうな笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます」

 どうやら、まだ居たらしい。勝手ながら帰ったと思ってしまったことに少し申し訳なくなる。

 私も立ち上がって礼をして、ニコリと笑った。

「どうして、君はずっとピアノを弾いているんだい? 生前好きだったとは聞いているが……」
「どうして、でしょうかね。私でも分かりません。足りない何かを求めて、私はずっと弾いています」
「……なるほどな。すまない、変なことを聞いたな」
「いえ、私はもう死んでいますからね。なんでも構いませんよ」

 私は、本当にそこはどうでもよかったので、安心させるために微笑んだ。

「はっはっは、ユーモアセンスもあるんだな」
「ふざけたつもりはないのですが……」

 笑う彼に、私は困惑する。
 すると、彼は懐かしそうにしながら目尻を下げた。

「そうだったか、すまないな」
「――私の演奏は、どうでしたか?」

 私は演奏の感想を聞いていなかったことを思い出し、そう質問した。

「おっと、やけに急だね」
「あっ、すいません。私は昔からこうでして……申し訳ない」

 私は話の流れを考えずに発言することが多かったのだ。

「いや、いいんだ。それで感想、だったか――そうだね、良い演奏だった。ノスタルジーを感じたよ」
「そうですか……他には何かありませんか?」
「他? うーん……やっぱり、良い演奏だったとしか言えないね。ははは」
「……そうですか」

 それはとってはあまり十分な感想ではなかった。
 でも、彼にそこまで求めるのも良くないと思って、口をつぐんだ。

「おや、何か不満だったかな? すまないね。あまりこう――演奏について口を出すのは好きじゃないんだ。知らない曲だったしね」

 すると、見透かされたかのように訊かれてしまった。

「い、いえ、大丈夫です。別にあなたに一人にそこまで求めるわけにもいきませんから。それに、好きじゃないというなら仕方ありません」

 なんだか少し申し訳なくなって、私は謝った。

「はは、それはありがとう。なんというか――妻に似ているね、君は」
「そうなんでしょうか――まあ私の夫は、演奏を聞いた時に子供のようにはしゃいでいましたし、凄く感想を言っていたので別人だとは思いますが」

 記憶の中の夫と、彼はあまりにも違いすぎる。一瞬だけ、似ているような気はしたけれど、それ以外が違いすぎるのだから。

 私の言葉に、彼は少し考え込んだ。

「そうだったか……すまないね、似ているというだけの話さ」

 面白そうに笑った。

 ◇

 私はピアノのそばに立っていた。
 辺りはいつも通り暗い。

 それから、しばらくすると声がした。

「……ーい! おーい!」

 それは、白馬に乗った夫だった。
 笑顔でこちらに手を振っていた。

 私はそれが嬉しくって、笑顔で手を振り返す。

「ケルテス!」
「アヴィリウム! 俺が助けに来たぞ!」

 腰に剣と銃の両方を差した彼は、自信満々な表情で馬をヒヒーンと鳴かせた。
 頼もしいな、と私は思った。

「それじゃあ、手を取って!」
「――はい!」

 私は喜んで手を取った。
 同時に、一気に日が昇る。辺りは明るくなった。

 それから、馬に乗って駆け出した。

 ふと、後ろを見た。
 すると、先程一台しかなかったはずのピアノが二台に増えていた。

 どこか悲しげに、佇むその二つのピアノ、その片方は両親が買ってくれたもので、片方はケルテスが買ってくれたもの。

 両親が私に買ってくれた一台。一度大規模コンサートに出て、そこで失敗して、それっきり小さな演奏会にしか出してあげられなかった一台。
 そして、彼との約束を果たすために買ったものの、結局約束は叶えてあげられなかった一台。

 それを見ていると、なんだか急にとても悲しくなった。
 そんな風に私がそちらを見ていると、なんだかまぶたが重たくなってきた

 ――
 ――――

「あ……」

 どうやら、夢だったらしい。
 ボロボロな天井を見上げると、カサカサと虫が這っていて少し嫌な気分になった。

 幽霊も夢を見る。朝日が昇る時に強制的に寝させられるのだが、その時は普通の人間のように夢を見るのだ。
 床で起きるとなんだか気分が悪いから、かろうじて残った部屋のベッドにいつも横たわっている。

 廃墟と化した部屋のベッドは、少しガサガサしている。
 手入れは多少しているが、これ以上はどうしようもない。

 けれど、幽霊は感覚が鈍いのか、そこまで気になったことはない。

 幽霊だからと言って物が持てなくなるわけでもないのだけれど、どうも感覚は鈍い。
 さらに、小さな物体などは意識しなければすり抜ける。だからなのか、服も含めて汚れたり濡れたりはしない。

 改めて不思議な体だ。

 部屋の外に出て空を見上げると、無数の星が瞬いていた。

 ◇

「君のこと、聞かせてくれないかな」

 パチパチ、と私の目の前で焚き火が音を立てる。

 幽霊でも火に当たったら弱るわけでもないらしく、久々に見た暖かな光に私は軽く感動していた。
 火が炊けないわけではないのだけれど、どうもそういうことをする気は起きなかった。必要もないわけだし。

 仕留めた獲物を焼いたり、井戸水を沸騰させるための火だ。
 今もイノシシか何かの肉を焼いている。

「なんですか? 急に」
「いや、どうせもう私も長く生きられないし、君だって死んでいるだろう? せっかくだから冥土の土産にでも聞こうと思ってね」

 彼はおおらかに笑った。

「……まあ、いいですが」

 自覚はしているはずなのに、人から『死んでいる』と言われるのはなんだか居心地が悪かった。

 とはいえ、彼の言った通り身の上話をすること自体に抵抗はない。相手が聞きたいというのなら、言っても構わないと思った。

 私は話した。
 生まれが貴族だったこと。

 それから、英才教育をされたのだけれど、私は何一つできなかったこと。
 両親は、そんな私でも根気よく励ましてくれたこと。
 私は、ピアノだけは上手かったこと。

 それから、両親に許嫁いいなずけとお見合いをさせられた。
 最初は嫌だったけど、結局は上手くいったこと。

 だけど、ピアノの能力を多くの人に買われて、調子に乗ったこと。
 それからコネでコンサートに出たんだけれど、緊張のせいで音を何度も間違えて、そのまま退場させられたこと。
 以降はコンサートには出られず、小さな演奏会程度の場所でしかまともに演奏できなくなったこと。

 その後は、許嫁の人と結婚して、家内として生きたこと。
 ピアノは続けたけれど、それ以降演奏会なんてものには行かなかった。

 隣国の襲撃の時、私がそれに巻き込まれて死ぬまで、私は普通の女として生きていたこと。

「――そんなものですが。特段面白い話でもないですよ」
「そうか……一つ訊いてもいいかな?」

 彼は、いつになく真剣な表情をしていた。
 何か変なところでもあっただろうか。

「ええ、いいですよ」
「……結婚生活はどうだったかい?」

 彼は仕留めた野生のリスらしき肉を焼いている手を止め、訊いた。

「良かったんじゃ、ないでしょうか――ですが、夫にあまり家に居てもらえなかったのが残念ですね」

 私はあまり自信がなかった。
 彼には何もしてあげられなかった。
 ついでにまあ、ちょっとだけ寂しかった。

 私の演奏を聞いて喜んでくれる人はあまり家に居なかった。
 それに、彼と話しているのが一番楽しかった。

 やっぱり、もっと一緒に居たかった。

「そうか。それは残念だな」

 彼は数秒瞑目してから、再度肉の焼き加減を確認し始めた。

「あなたは、どのようなことがあったんですか?」

 私は少し気になってそう訊いた。

「……私は、貴族として国に貢献しようとして戦に向かった。だが、家族は誰一人守れず、部下も全て死んだ。さらには、国そのものすらも失くして敗走しただけの愚かな老人だよ。それ以外に話すことはないさ」

 悲しげに目を伏せた。

「……そうですか」

 私もそれ以上は追求しなかった。

「もっと故郷に帰るべきだったかもしれないな。結局、家族の最期すら見届けてやれなかったことを後悔しているよ」

 朽ち果てたこの城を見上げた。
 彼の見るその景色は、知る故郷とは大きく違っているのだろう。

 最期を見届けられなかったことが後悔、か。

 私にも、同じような後悔があった。

 それは、夫が戦地に向かった時、二人で星に誓った『私と夫だけの二人だけで最高の演奏会をしよう』という約束を果たせなかったことだ。
 本来なら夫が作曲した曲を、私はそこで弾くことになっていた。
 このピアノも、そのために買ったはずだった。

 結局、その願いは叶わなかった。
 恐らく、彼は私の知らない戦地で死んでいったのだろう。

 あの日から、ずっと私は星に向かって演奏している。

 ◇

「あなたのために、ですか」

 私は訊き返す。
 自分のために一曲演奏してはくれないか。それが彼の願いだった。

「ああ、そうだよ――ダメかい? なら、別にいいんだけどね」
「いえ、やりますよ」

 断る理由もないし。
 それに、彼は死にゆく者なのだから、願いの一つくらい叶えてあげたかった。

「曲は――そうだね。『今日は月が街に降る』という曲を知っているかい?」

 少し驚いた。
 それはとてもマイナーな曲だったから。けれど、夫が好きな曲だった。
 私はそうでもなかったけれど。

「よく知っていますね。いいですよ。演奏します」
「おお、それは有り難い」

 私は、ピアノ椅子に座った。
 ピアノの蓋は汚れないように普段は閉めているから、まず蓋を開ける。
 汚れを軽く確認し、それぞれの鍵盤を鳴らして異常がないことを確認する。
 ペダルも動作確認を行う。

 ちら、と彼の方を見ると、ニコニコしながら不思議な顔一つせずにこちらを見ていた。
 姿勢を整え、鍵盤に手を伸ばす。

「行きます。『今日は月が街に降る』」

 どこか物悲しいこの曲は、優しく演奏するべきだろう。

 スローテンポのAメロに合わせ、優しく鍵盤を叩く。

 けれど、タイトルの『月が降る』というイメージなのか、サビの部分は特に『強さ』がよくでる曲だ。
 そこはテンポも少し変えながら、演奏していくことになる。

 悲しく、美しく。
 けれど、中に力強さを込めて。

 私は、いつものように譜面通り曲を演奏した。

 盛り上がるBメロ、そして力強く演奏するサビ。
 私はただ曲と一体化するようにして集中し、鍵盤を叩いた。

 それから、気がつけば演奏は終わっていた。

 遅れて、パチパチという拍手が聞こえる。

「いやぁ、やはり素晴らしい演奏だよ……本当にね」

 彼は少しだけ目尻に涙を浮かべた。
 そんなに感動的だっただろうか。私は訝しむ。

 なんというか、会ったときから変な人だとは思っていたが――身の上話や好みの話もどこか聞き覚えがあるし、引っかかる。

「ありがとうございます」

 私の言葉に、彼は無言で微笑んでから、を眺めた。
 ……その目線が向かう先は月ではない、はずだ。

 普通なら月を見ると思うのだけれど――ただの見間違いだろうか。

「随分良い曲を演奏してくれた。最初の部分は優しく、ゆったりと始まる。それで、サビからは荘厳な雰囲気の曲になる。さらには、その中にある美しさまで緻密に表現してくれた。本当にありがとう」

 彼はぺこりとうやうやしく礼をした。

 その言葉に、私は少し驚く。
 昨日はああも言っていたのだが、案外感想を言ってくれた。私の言葉が届いたということだろうか。

 それにしても、褒められるとやっぱり嬉しいものだ。
 少し浮かれてしまう。

 けれど、掛ける言葉だけは丁寧さを意識した。

「いえ、私がピアノを弾くものとしてできることをしたまでですよ――それ以外は、何もできていませんから」

 私は微笑んで礼をした。

「それ以外、か。確かに君は、ここに縛られてどこにも行けないのだったな」

 私はそれを聞いて、少し違う、と思って訂正したくなった。
 別にここに縛られているのが嫌とか、そういうわけではない。
 私は、もっと別の理由でここに居たからだ。

「……それだけではありません。ただでさえ両親は私に期待を掛けていたのに、私は何一つ応えられませんでした。それに、与えてくれたピアノだって、失敗して以降お金にすらなっていません」

 言ってから、少し話し込みすぎたな、と思った。
 私は寂しすぎたのかもしれない。

「そうかな? ……君の両親が君に掛けていたのは、才能への期待ではなく、楽しく生きることへの期待に感じるが」

 私も薄々分かっていた。私は才能を期待されていなかった、と。
 でも、逆にそれがどこか苦痛だったのだ。私には何も価値がない、と言われているような気がして。
 だから、ピアノにしがみついてしまったのかもしれない。昔も、今も。

 そして、彼がそうやって否定してくれたのが妙に嬉しかった。
 赤の他人なはずなのに。

 いや、一応彼がここに来られた時点で何らかの繋がりがある可能性は高いのだけれど。

「そうかもしれませんね」

 私は笑った。

「それにしても、楽曲への造詣が深いのですね」

 話題を変えるべく、私は訊いた。
 事実、気になっていた。昨日は口を出したくない、と言っていたのに。
 とはいえ、今日もあくまで曲に対する感想を言っていただけではあるのだけれど。

「ああ、昔――そうだな、作曲をやっていてね」

 言うかどうか悩んだのか、少しの間を置いてから彼は答えた。
 なんと、彼も作曲ができるのか。

 ケルテスも、作曲ができた。
 そう思った時、ケルテスと二人は性格はかなり違うはずなのに、私はどこか似ていると感じた。
 合ったら、案外話が合ったりするのかもしれない。

「なるほど、そうだったんですね。道理で凄いわけです」

 私は微笑む。

「世辞はよしてくれ。確かに軍人で作曲できるものは少ないだろうが、実力は大したことないのだ。はっはっは」

 彼は面白そうに笑う。
 謙遜はしているが、そこまで本気で言っている気もしない。掴めない人だ。

 私はしばらく考えて、今日は一度これで終わりにすることにした。

「……今日は、ありがとうございました」
「おや、今日はこれで終わりかい?」
「ええ、あなたに沢山聞いてもらいましたし。今日は満足しました。もちろん、お望みであれば明日も演奏いたしますよ」

 にこり、と微笑んだ。

「それはありがたいな。そうだな――私も、少し辺りを見てくるとしよう。狩りには準備も必要だからな」

 肩をすくめ、彼はどこかへ向かった。

 ◇

 彼は一体何者なのだろう。
 最初から気になっていたが、今日でさらに疑念が増した。

 彼はここが故郷で、家族も国も失った。
 夫――ケルテス・ジェーンも、ここが故郷だったはず。
 ケルテスは国の貴族で、国を失えば家族も失うだろう。
 亡命していた可能性もあるけれど、それは低いはず。

 父は……ここが故郷だっただろうか。そんな気もするが、あまり覚えていない。
 けれど、ここに住んではいたはずだ。
 では私の父なのだろうか? 確かに、少し、ほんの少しだけ似ているような気もする。

 ベッドの上で考えるが、あまり思考がまとまらなくて、私は外に出た。
 部屋から一歩出れば天井はなく、夜空が広がっている。

 白い三日月が一つ空に浮いており、周囲を埋め尽くすように星々がいくつも輝いている。
 星座も何も分からないけれど、キラキラと大小様々にまたたく白星はとても美しくて――

「あ……」

 そこで、思い出した。

(私達は、あの曲を聴いた後に星に誓った)

 だから、月ではなく星を見ていた。
 いや、もしかすると単なる勘違いかもしれない。

 けれど、もしかしたら彼がケルテスなのかもしれない、と思ってしまった。
 そういえば、彼は作曲もしていると言っていたし、ケルテスも作曲をしている。
 これは大きな共通点だろう。

 容姿が違うとも思ったが、よくよく考えてみれば、あれから何十年も経っているはずだ。
 あれだけの年齢になってもおかしくはないし、容姿も変わっていてもおかしくはない。

「どうなんでしょうか……」

 心のモヤモヤが収まらなくて、私は俯いた。
 ケルテスだったとして、私はどんな言葉を掛けたらいいんだろう? また会えて嬉しいって?
 でも、今の私は死んでいる。ここから動くことはできない。
 一緒に行くことだって無理だろう。

 しかも、彼だって死のうとしているところだった。
 思えば、彼は何もかも失ったのだ。

 私の死んだ後、私の知らないところで。

 それは聞いていたし、分かっていた気でいたけれど、現実味がなかった。
 けれど、今考えてみて、それがどれほど辛いことだっただろうかと共感してしまった。

 彼の死に際、何もすることができなかったそんな私が、今正体を明かしてどうするんだろうか?

 彼を妻として看取ること? それとも私が成仏すること?

 そもそも、彼は私のことに気がついているのだろうか?
 ――思い返してみれば、少し変な言動は多かった。確信ではないにせよ、薄々気づいている可能性は高い。

(最初に、正体を知るべきなんでしょうか)

 名前を訊いて、違ったらそれまで。
 合っていたら――時間の流れも、お互いの感覚も、大きく異なったまま、彼を看取ることになるのだろう。
 私が成仏する方法も分からないのだから。

 けれど、なんだかそれが分かってしまったら、色々なものが壊れてしまう。
 直感だけれど、そんな気がしてしまった。

「あっ」

 それから、ハッとした。
 私には、やるべきことがあったはずだ。

(そうだ――演奏。ケルテスと二人だけの、演奏会)

 弾くはずだった、彼の曲。

 私は部屋に戻って、ボロ机の引き出しを引いた。
 そこにあるのは、少しボロついた譜面。
 羊皮紙に書かれていることと、私が丁寧に保管したことによって、未だ五線譜が明確に読み取れる程度に形が残っている。

『星の音色をもう一度』

 書かれたタイトルは、それだった。
 私はそれを取り出し、パッパとほこりを払う。

「これをやれば……全てが分かる」

 彼がケルテスなのか、それとも別人なのか。
 そして、私は何をすればいいのか。

 全て分かるのなら、これをやればいい。
 それに、これは確実にやらねばならないことだ。

 これが私にできる、最後の家族への恩返しなのだから。
 彼という家族に対してもそうだし、両親という家族に対してもそうだ。

 両親はピアノの道へと背中を押してくれた。
 なら、せめて最期くらいはこうしてやらないと、両親が私にしてくれたことは何も残らないということになってしまうような気がした。

 それが、嫌だった。

 ◇

「――本日は、私から演奏したい曲が一曲あるのです」
「ほう、演奏したい曲、か。その譜面のことかね?」

 彼は私が脇に挟んだ譜面に視線を移した。

「ええ、その通りです。よろしいでしょうか?」

 私は微笑む。

「もちろん、いいさ。君のような素晴らしい奏者の選ぶ曲ならば、間違いはないだろう」

 彼は目尻を下げた。

 なんだか、特に感づいている様子はない。

 私は会釈をして、ピアノの方へ向かう。
 椅子に座り、いつもの動作テスト。

 問題はない。

 譜面を広げる。
 彼は、少し離れたところで静かに見ていた。

 一度深呼吸する。

「行きます。『星の音色をもう一度』」
「そ、それは――いったいいつから気づいていたんだ?」

 驚き目を見開く彼を見て、私は確信した。
 彼は、ケルテス・ジェーンだ。

 気分が高揚する。
 もう一度会えたのか。

 もう一度、彼に演奏を聴いてもらえていたのか。

 でも、随分変わってしまったみたいだった。

 そう思うと、私は取り残されたみたいで少し悲しかった。
 いや、そんなことは今更か。

 彼が戦争に行ったときから、私は既に取り残されてしまっていたのだろうから。

 でも、嘆いたってしょうがない。戦争は、誰が悪いわけでもないのだから。
 それに、もう過去のことだ。

 じゃあ、今私ができる最適解は。

「最高の演奏を、お届けいたします」

 それだけだ。

「アヴィリウム……」

 あの時、帰ってきて二人で最高の演奏会をすると言ったのだ。
 私は、それを果たさねばならない。

 ――いや、ずっと果たしたかった。
 私は、彼に最高の演奏を届けたかった。

 これは、何度も練習した曲だ。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。

 今まで無駄だと思っていた練習は、今日このためのものだったのだから。
 鍵盤に手を添える。

 凪の状態から、段々と波が押し寄せるようにして音が強くなっていく。
 次第にアップテンポになった楽曲は、美しい音色を奏でる。
 力強いイントロは、この曲の雰囲気を表している。

 イントロが終わった後のAメロは、テンポは早いままだけれど、どこか優しく物悲しさの残る雰囲気になっている。

 それから、Bメロに入ると力強さが出てくる。
 この曲の本質は物悲しさではない。
 前を向く力、自身が美しいと信じるものへ迷わず突き進む力強さなのだ。

 ケルテスが、そう言っていた。

 サビに入れば、それが明確になる。
 悲しみも、後悔も全て振り払って、前へ進む。
 星に届けと願い奏でる。
 できないならば、もう一度。

 音階一つ違わず、ピアノからは音色が零れる。
 私は、最高の演奏を届けるのだ。その一心で弾いた。

 しばらくして、サビが終わってまたAメロに戻る。
 同じように優しく進んでいき、Bメロに入る。

 また力強さが戻り、そこからサビ。
 盛り上がっていく楽曲と共に、私の気分も高揚する。

 しかし、そのまま弾いているとすぐにサビは終わってしまう。
 それから、音が弱まり、ソロパートになる。

 Aメロと同じように優しい音色だけれど、物悲しさはなくすように意識する。
 嵐の前の静けさ。
 最後の大サビに向かうための準備。
 人が飛ぶ時に体をかがめるように、大きく跳躍するときにはそれだけの準備が必要だ。

 これが、その準備。
 ただの前座だが、だからこそ丁寧に演奏しなければならない。

 しばらくして、最後のサビが始まる。

 これが最後だということを強く意識し、だからこそ最高の演奏を届けるように意識する。
 力強く、また美しい音を彼に、そして星に捧げよう。

『気づいたんだ。幸せってのは気づくもんだって。星の美しさだって、意識しなきゃ気づかない。綺麗な星を見て、綺麗だ幸せだと言えることが本当の幸せだと思うんだ』

 ああ、私は今、彼に演奏を聞かせている。
 はるか昔、約束したけれど叶わなかったあの願いを、今叶えている。
 幸せの意味も忘れ、自分がしたいことすら忘れてしまった私の音色は、あの私達が願った星へと届いているだろうか。
 いや、届いていなくてもいい。

 今、彼に演奏して、それで届いた気になっているだけでいいのだ。
 私の演奏も、星も、いつだって彼にとっては美しいのだから。
 それでいい。

 なんだかせいせいした気分だった。
 思わず口の端に笑みが浮かび、体温のないはずの体が熱を帯びたような気がした。

 幽霊になってから、私はピアノを楽しめていなかったのだろう。
 『彼が居ない』という心の穴はどうしても埋められなくて、ただ演奏を続けていた。
 そこに幸せなんて感じる余地はなかった。

 けれど、今はどうしようもないくらい嬉しかった。
 今までやってきた全てが無駄じゃないと思えて、それでかつて寂しかったことすらもどうでもよくなってきた。

 ついに最後のサビが終わり、曲は終わりへと向かう。
 一気に静かになってから、さらに段々と音が弱くなる。

 優しい音色が、ついに曲の終わりをもたらした。

 ついにやり切った。今まで感じたことのない、大きな達成感が胸を満たす。
 手を引いて、瞑目した。

 ふと、しばらく拍手が聞こえないことを不思議に思って、ケルテスの方を向いた。
 汚れたナプキンで涙を拭いながら、彼は笑っていた。

 私も笑顔を向ける。

「ああ、ありがとう。アヴィリウム……私は、一度も帰ってやれなかった。それなのに、それなのに君は……すまない、本当にすまない」

 それから、感情がぐちゃぐちゃになったかのように彼は崩れ落ちた。

「謝らないでください……私は充分幸せでした。今も、約束を果たせて嬉しいです」

 私も嬉しくて、目尻に涙が浮かぶ。

「私はッ……君がアヴィリウムだと知っていたのに……もしかして君に嫌われているんじゃないかと怖くて何も言わなかったんだ……こんな、こんな私に……こんな幸せを受け取る権利なんて、あるのか……?」

 悔しそうに地面に手を付きながら、彼は懺悔ざんげするように言い放った。

「あります、ありますよ。幸せは、気づくものだと言っていたでしょう? ――なら、あなたが今幸せに気づけたことそのものが、あなたが幸せを受け取る権利なんですよ」

 泣き崩れる彼の前に座り込んで、私は手を差し伸べる。

「そうか、そうだな……本当に、すまなかったアヴィリウム――だが、ありがとう。かつて私がいくさに向かってから一度すら君の顔を見ることすらできなかった私に、こんな最高の演奏を届けてくれて。本当にありがとう」

 彼は顔だけを上げ、私の手を取りながら泣き笑いを浮かべた。

「いいんです……私がしたかったんですから。ずっと叶えたかった願いを、叶えられて私も嬉しいです」

 なんだか、初めて本当の意味で自分の演奏に満足できた気がする。
 ようやく、私はあの日の約束を果たせたのだ。

「私も、ずっと後悔していました。幽霊になったあの日から、ずっとあなたに演奏を聞かせられなかった。どこか心の穴が空いていたみたいで――でも、今日聞かせられました。ありがとうございます」

 私は満足した。
 なんだか安心したような気がして、心がふっと軽くなった。

「私もずっと聞きたかった……ありがとう」

 彼は笑ってから、ハッとした顔で私の足を見た。

「アヴィリウム、その足は……?」

 訊かれて、見下ろす。
 すると、そこにはいつもより薄れかけた足があった。

 私はその時、直感的に理解した。

 これは成仏するのだろう、と。

「これは……成仏、でしょうか」

 さっきの演奏で、私は満足したのだ。今まで、埋まらなかった心の穴が、あれで埋まってしまった。
 ケルテスに演奏を届けられなかったことが、私の唯一の心残りだったのだろう。
 それはただ単に最高の演奏を行うことでも、誰かに演奏を届けることでもなかったのだ。

 ケルテスに、最高の演奏を届けることこそが、私の望みだったのだ。
 それが今、叶ってしまった。

 いや、これは喜ぶべきことなのかもしれないけれど――少しタイミングが悪いな、と思った。

 しかし、不思議と悲しさはなかった。
 あるのは達成感と満足感だけだ。

「アヴィリウム? まさか消えてしまうのか……なぜ今なんだ。もっと話したいことが沢山あったのに……」

 彼は絶望を浮かべてすがりつくように私の肩を掴みながら言った。

 けれど、そんな彼を見ていると、ちょっぴり申し訳無さと寂しさが出てきた。
 最期に見るのが、彼の悲しそうな顔というのは嫌だった。

 だから私は――

「すみません……でも、私はもう満足してしまったみたいなんです」

 悲しい顔を浮かべるケルテスの頬を両手で優しく包み込んで、語りかけた。
 多分、後何十分もここには居られないんだろう、だから私は大事なことだけを話すことにした。

「ケルテス……私は最初から最後まで、あなたを愛していました。嫌ったことなどありません――ずっと、幸せでした。ですから、あなたも最後は、笑って送ってください」

 彼は俯いて、噛み締めた。

「――あぁ、そうだな。今までありがとう、アヴィリウム。愛してる」

 それから涙を拭い、顔を上げて満面の笑みを彼は見せた。

「もちろん、私もです」

 私は彼を抱擁した。
 最期に見られたのが、彼の笑顔で良かった。

 なんだか安心感が胸を襲ってきて、段々と意識が薄れていくような感覚があった。
 本当に終わるのだろう、私は。

 でも、私が居なくなった後も彼は生きることになる。
 なら、その時にずっと私に執着しないような言葉を掛けなければ。

「私は、あなたとの約束から開放されました。あなたも、開放されていいんです――あなたがこれから何をしても、私は恨むことも嫌うこともしません。ケルテス、これからはあなたの自由なように、生きてください」

 言葉はなく、私の体を強く抱きしめる腕だけが返答だった。

 ああでも、最期にこれだけは言わなければ。

「――さようなら」
「さよう、なら」

 彼の言葉を聞き届けた後、私の意識は海に沈んでいくかのようにして消えていった。

 ◇

 一人の男が、ピアノに寄りかかっていた。

「……星が綺麗だな」

 男は、ここしばらくのこと空を見上げる余裕もなかった。
 だが、今はそうではないようだ。

「アヴィリウム……最初からここに書かれていたんだな」

 金色の文字を撫でる。

 彼は、それがアヴィリウムのために買ったものである、ということを今初めて明確に認識した。

(アヴィリウムの願いは、最初から最後まであの日約束した『私に最高の演奏を届ける』というものだったのか。だからこのピアノに何十年も――)

 何がそうさせたのかは分からない。
 ただ、彼女がそうであったという事実だけがそこに残った。

「……ありがとう。やはり、優しいな、君は」

 虚空に呼びかけた。

 それから、もう一度星を見上げる。

「これからどうしようか……あぁ、それにしても星が綺麗だな」

 空を見上げ、彼は儚げに笑った。
 彼の行方は、誰も知らない。
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