『0.00%の革命』

テケテケ

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最終話:醸化(じょうか)する世界

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その日、太陽はいつも通りに昇った。
 〈公衆衛生省〉のクリーンな高層ビル群に反射する朝陽は、完璧に計算された角度で街を照らし、国民はウェアラブル端末のアラームによって一秒の狂いもなく目覚める。
 午前八時。
 人々は一日の活動を開始するために、蛇口をひねり、水を飲む。
 あるいは、最適化された栄養素を溶かしたコーヒーを淹れる。
 それが、「最後の日」の始まりだった。
 地下五階、モニターが並ぶ暗室。
 俺と神谷、そして老醸造家・佐伯は、数千枚の監視カメラ映像が「色付いていく」のを黙って見つめていた。
「……始まったわ」
 神谷が低く呟く。彼女の指先は、コンソールの上でかすかに震えていた。
 画面の中では、変化は静かに、しかし確実に波及していた。
 最初に現れたのは、街角の停留所でバスを待つ、ごく普通のサラリーマンだった。
 彼はマイボトルから一口の水を飲んだ。数秒後、彼の背筋がわずかに伸びた。次に、彼は首を傾げ、自分の手を見つめた。
 いつもなら、彼は無機質な液晶画面を眺めて無表情でいるはずだった。だが、彼は隣に立つ見知らぬ女性に、不意に話しかけた。
 マイクが拾った音声は、ノイズ混じりだが、確かな温度を持っていた。
『――いい天気ですね。今まで、気づかなかったな』
 それが、最初の「感染」の言葉だった。
 八時十五分。
 異変は加速度的に拡大した。
 〈ゼロ局〉の指令室では、かつてないパニックが起きていた。
 全国から送られてくるバイタル・インデックスが、ことごとく「異常値」を示す赤色に染まっていたからだ。
「心拍数上昇! アドレナリン放出量、通常の四倍を検知!」
「各地区の精神安定指数が急落しています! 市民が……市民が歌い始めています!」
 指令室のモニターに映し出される映像は、もはや悪夢のようだった。
 厳格な規則で知られる官庁街で、エリート官僚たちが窓を開け放ち、書類を紙吹雪のように散らしている。
 公園では、ジョギングをしていた人々が立ち止まり、面識もない者同士で手を取り合って踊り始めた。
 それは、暴力的な暴動ではなかった。
 むしろ、重い甲冑を脱ぎ捨てた者たちが、互いの肌の温かさを確かめ合うような、あまりに人間的な混乱だった。
 佐伯の作った「高活性型酵母」は、人々の体内にある糖分を、情熱という名の燃料に変えていた。
「神崎、見て。……あそこに」
 神谷が指差したモニターには、都市の中心部、〈大清浄化記念塔〉の広場が映っていた。
 そこには、即座に派遣された治安維持部隊が展開していた。
 彼らは完全滅菌の防護服に身を包み、暴徒(と彼らが定義した幸福な人々)を鎮圧するために銃を構えていた。
 だが、異変はその部隊にも起きていた。
 防護服のフィルターは空気中の細菌は防げても、隊員たちが朝食時に飲んだ「水」までは防げなかった。
 一人の隊員が、構えていたライフルを地面に落とした。
 彼はヘルメットを脱ぎ捨てた。若すぎるその顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
 彼は叫んだ。
『……私は、何を捕まえようとしていたんだ! 私は、母さんに会いたい!』
 その叫びを皮切りに、部隊の隊列が崩れた。
 銃を捨て、市民と抱き合う兵士。
 コンクリートの地面に座り込み、ただひたすらに笑い続ける指揮官。
 国家の「秩序」という名の巨大な機械が、数ミリグラムの微生物によって、内側から溶かされていく。
「……じいさん、見てるか」
 俺は画面に向かって呟いた。
「これが、あんたの求めた革命か。……ひどいな。ぐちゃぐちゃだ」
「ああ、最高にひどいな」
 佐伯が、骨ばった手で俺の肩を叩いた。
「不潔で、騒がしくて、予測不能だ。……これこそが、世界のあるべき姿だよ」
 しかし、革命には「毒」も伴う。
 
 正午過ぎ、ゼロ局のトップであり、この国の清浄化を主導してきた高木長官が、最後の非常放送を試みた。
 画面に映る彼の顔は、皮肉なことに、酔いと怒りで真っ赤に充血していた。
『……愚かな国民どもめ! お前たちは今、汚染されている! その……その多幸感は偽物だ! 統計学的な死へと向かっているのだぞ! いますぐ……いますぐ、浄化薬(0.00%)を飲め!』
 だが、彼の言葉は誰にも届かなかった。
 放送の背景では、長官秘書がデスクの上で空瓶(おそらく備蓄されていた高級酒の旧時代の残党だろう)を掲げてラッパ飲みし、高らかに歌っていたからだ。
 管理する側が、管理される側よりも先に「解放」されていく。
 もはや、誰が正気で、誰が狂っているのか、その境界線すらも発酵の中に消えていた。
 午後三時。
 地下室の重い扉が、外側から激しく叩かれた。
 治安維持部隊の生き残りが、あるいは正気に戻った者が、主犯である俺たちを捕らえに来たのか。
 神谷が腰のホルスターに手をかける。
 だが、俺はそれを制した。
「……もう、そんな必要はないよ。神谷」
 俺は自ら、扉を開けた。
 そこに立っていたのは、武装した兵士ではなかった。
 俺の同僚だった、あの若手の三浦だった。
 彼は防護服を脱ぎ捨て、シャツのボタンをいくつも外していた。
 その手には、研究室から持ち出したと思われる試験管が握られている。
「……神崎さん。……見つけましたよ」
 三浦はふらふらと歩み寄り、俺の前に立った。
 彼は泣き笑いのような表情で、俺を抱きしめた。
「最高……最高ですよ。この試験管の中の菌。……僕が、僕が今まで作ってきたどの0.00%よりも、ずっと……ずっと美しい。……神崎さん、これ、失敗の味がしますね」
 三浦の背後からは、さらに多くの職員たちが流れ込んできた。
 彼らは逮捕に来たのではない。
 ただ、この熱狂の源流を見に、そして、共に「溺れる」ために来たのだ。
 それから数ヶ月が経った。
 世界は、完全な崩壊を免れた。
 しかし、かつての「清浄」な姿に戻ることもなかった。
 政府は事実上、アルコールの禁止を撤回した。
 いや、撤回せざるを得なかったのだ。一度「酔い」を知り、感情の機微を取り戻した国民は、二度と「無機質な幸福」には戻れなかったから。
 もちろん、問題も起きた。
 依存症の再発、二日酔いによる経済損失、酒場での喧嘩。
 統計データは、寿命の短縮と医療費の増大を冷酷に示している。
 だが、街には「音楽」が戻った。
 詩が書かれ、意味のない議論が夜を徹して行われ、恋人たちは計算された相性ではなく、ただ衝動的に抱き合うようになった。
 街の片隅。かつての〈ゼロ局〉から数ブロック離れた場所に、一軒の小さな店がある。
 看板はない。ただ、入口の横に、小さな麦の束が吊るされているだけだ。
 店の中は、琥珀色の光と、かすかな麦芽の香りに満ちている。
「……はい。三日目の、まだ若いヤツだ」
 俺はカウンター越しに、グラスを差し出した。
 かつての白衣を脱ぎ、エプロンを締めた俺の手は、今や麦芽の汁と酵母で少し汚れている。
 グラスを受け取ったのは、一人の女性だ。
 彼女はもう、漆黒の制服は着ていない。柔らかな素材のセーターを身にまとい、短く切り揃えていた髪を少し遊ばせている。
「ありがとう。……神崎マスター」
 神谷はグラスを光に透かし、美しく立ち上る不揃いな泡を眺めた。
「今日の数値はどう?」
「計測してないよ。……神谷監査官」
「……もう監査官じゃないわ。今は、ただの『酔っ払い予備軍』よ」
 彼女はいたずらっぽく笑うと、ゆっくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
 その頬が、自然な、美しい朱色に染まっていく。
「……最悪な味」
「ああ。最高の失敗作だ」
 店の外では、夜風が人々の笑い声を運んでくる。
 遠くで、誰かが調子の外れた歌を歌っている。
 
 完璧な世界(0.00%)は、もうどこにもない。
 ここにあるのは、濁り、淀み、揺らぎ、そして発酵し続ける、愛おしい不完全な世界だ。
 俺は自分の分のグラスを注ぎ、彼女のグラスに軽く当てた。
 小さな、しかし澄んだ音が、夜の空気に溶けていく。
「革命に」
「……自由な二日酔いに」
 二人は、笑いながら飲み干した。
 
 発酵は、これからも続いていく。
 この不完全な命が、尽きるその日まで。
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