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1・必死に仕事して殺されるとか理不尽な現実

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1・必死に仕事して殺されるとか理不尽な現実


「お疲れさんでーす」

 午前0時過ぎ、息吹(いぶき)が職場を後にしようとしたら、このタイミングを待っていた的な感じで店長が声をかける。

「家満登(やまと)くん、今日もおつかれさま。いや、ほんとうにきみがこの店に来てくれて助かってる。だから少ないけど感謝の意って事で、これからも大いなる活躍に期待しているよ」

 35歳の男はそう言うと23歳にして売れっ子爆進中たる家満登の手に大変分厚い封筒をにぎらせた。

「どうも。ではちょっとの間失礼します」

「しっかり寝て休んでね」

「うぃーっす」

 こうして息吹はまぶしい明かりがまだ消えていない店を出て、夜の繁華街道路から自分のお城たる高級マンションへ向かって歩き出す。

「このペースで行くと……2年以内に貯金2億円が達成できそうだな」

 彼が持つ当面の目標は売れっ子として仕事をこなしながら、売れっ子に見合う報酬を積み重ねて貯金を2億円にすること。その後は? なるようになる! という考えの息吹、どうしてかちょいと妙なフィーリングになったので歩く道を裏通り方面へと変更した。

「なんだ……なんでか落ち着かない」

 真っ暗な夜空の下、電気によって明るさをアピールしている自販機で缶コーヒーを買い誰もいない公園に入った。

「売れっ子になると気が休まらないからなぁ、なんか誰かに見張られているような気が抜けなくなってしまう」

 そんな事をつぶやきつめたい缶コーヒーをグイっとやったときだった、突然に彼を呼ぶ名前が明け方の空気に混じる。

「マーキュリー」

 それは年齢30歳という女性の声であり、マーキュリーというのは息吹の源氏名である。彼はマーキュリー息吹という名前で仕事をしている。マーキュリーという名前に潜む「雄弁家・職人」などの意味を息吹が自分のホスト人生に当てはめたいという考えによる。

「姫か、どうした?」

 姫というのは公園内に入ってきた30歳の女。マーキュリー息吹にぞっこんしている女の一人。

「今日も仕事、おつかれさま」

 小畑比佐美という名前の女は7つ年下の息吹にねぎらいの言葉をかける。だがソワソワおちつかない様子というのは明らかに不穏であり、息吹が店を出てからずっと感じていたモノと一致する。

「どうした、姫」

 姫というのは息吹が比佐美に対して放つ呼び名。愛しているとかいうピュアな精神ではなく、とっても稼がせてくれるであろう女だからこその姫だったりする。

「わたし……決めたの」

「なにを?」

「わたしと結婚して。そのために家を出る、ちゃんと置き手紙もしてきた」

「家を出る? 結婚? それはおれと駆け落ちってことか?」

「えぇ、あなたとならいっしょにやっていけると思って」

「やっていけるって、姫……おまえ、金持ってんの?」

「お金はないわ、でも……愛があれば」

「愛? 愛ねぇ……」

「ど、どうしたの?」

「どうしたもこうも、姫……おまえは優秀な客だと思っていたが、転落してしまったか。おまえみたいな客が一番困る、いや、一番迷惑だ」

「め、迷惑?」

「あぁ、そうだ。午前0時過ぎに駆け落ちを誘う女が迷惑でなくてなんだ」

 ったく……と小声で言った息吹、グイっと缶コーヒーを飲み干す。そうしてひとまずとして空っぽの青い缶を足元に置いたら、すっかり板についた身のこなしでスーツからタバコを取り出し咥える。

「マーキュリー、あなたわたしの事をいい女と言ってくれているじゃない」

「あぁ、言った。その言葉にウソはない」

「だったらわたしを愛してくれているわけでしょう?」

「姫、おまえはバカか?」

「え、え?」

 息吹は目の前の女が信じていた展開にならず動揺しているって顔を冷静に見ながら教えてやるのだった。

「仕事をやるときの感情にウソはない。プロとはそういうモノだ。ましてこういう仕事はふつうとちがう。例えるならアーティストが平和の歌をつくるときと同じだな。人間性が平和的でないとしても、その歌やメッセージをつくるときの自分に偽りなどない。だから真心が作品からあふれてリスナーに伝わって感動を生む。ホストの仕事もそれと同じ。ホストは女という生き物自体を愛している。そして接客において最高の夢時間が形成されるよう全力を尽くす。姫、おまえはおれにいい女と言われていいキブンだっただろう? それはおれが本心かつ仕事に命をかけて言ったからだ。でもそれとプライベートのおれは異なる。それくらい30歳にもなればわかると思っていた。姫、おまえはあれだ、自分の好きなアーティストがイメージ通りでなければ勝手に失望したあげく、アーティストを殺そうとする低レベルな類。ちがうというなら素直に回れ右して帰れ。いまなら間に合う、まだ十分間に合う」

「ま、間に合うってどういう意味?」

「人は誰でも失敗を犯す。今ならおれは姫を許せる。しばらくして姫が客としてやってくれば、そのときは全力でもてなすよ」

「だ、ダメなのよ、それじゃぁダメなのよ!」

「どうして?」

「だ、だって……わたし……もうお金がないんだもの」

 小畑比佐美、30歳。マーキュリー息吹がいる店に通い始めたのは半年前。当初はホストクラブを危険視しており、こんな世界に自分が染められるはずがないとタカをくくってもいた。

 しかし息吹の放つ、普段どこで生活しているのかわからない夢の人みたいなオーラにやられてしまった。こうなると比佐美はホストクラブに足しげく通う。あの夢時間が忘れられず、息吹に持ち上げられるよろこびを脳から追い出す事ができず、いっしょに飲む酒が信じられないほどおいしいという記憶を薄める事ができない。だからしてものすごいスピードでお金というモノが消えていく。大量の金が背中に翼を生やして異次元へと飛んでいってしまう。

「貯金は全部使った、200万円全部」

「そうか、でも200万円に見合う夢は見られたんだろう?」

「両親といっしょに暮していて……親のお金もいっぱい盗んだりしてしまった」

「それは姫個人の話だ」

「このままでは自分が止められない。でも……」

「でも、なんだ?」

「マーキュリーがわたしといっしょになってくれたら、わたしは元の生活に戻れるという気がして」

「ずいぶんと自分本位だな。姫は病院に行くべきだ」

「お、お願い……だって、わたしがこうなったのは元々はマーキュリーのせいでしょう、ちがう?」

「姫、おまえはもう30歳なんだから、しっかりしろよ。仮におまえがおれの足元にある缶コーヒーを売った者だとしよう。おいしいとか精いっぱいアピールして売って、それを買ったおれが飲んでおいしいと思った。オーケー、そこまではみんなハッピー。でもおれがおいしいと思うのを止められず中毒を起こし病気になったとき、この缶コーヒーを売ったおまえが悪いと言い出したら、そしたらおまえはどう思うんだ?」

「そ、それは……」

「おれがホストして働くのは自分の意思。姫がおれの店に来たのだって自分の意思。姫が自分の貯金を下ろしたのも、親の金を盗んだのも自分の意思。だったら自分の意志に対して自分で責任を取れ」

「お、お願い、わたしはもう後戻りとかできないの」

 ここで比佐美が突然に肩にかけていたバッグから包丁を取り出した。柄を両手でギュッと握り、ブルブル震えながら息吹を見る。

「姫、おまえに捧げたい言葉がある」

「な、なに?」

「自業自得」

 息吹、足元の缶を拾い上げると中に短くなった吸殻を押し込む。それからゆっくり前に向かって歩き出す。すると包丁を向けている比佐美が足をガクガクさせながら後ずさり。その姿はただ一言、哀れ。

「ま、マーキュリー」

「姫、失敗したらやり直せばいい」

 感情定かではない真夜中の公園において今2人がすれ違いかける。もしこれがテレビドラマのワンシーンだったら、視聴者はハラハラしたり手で目を隠す用意をするところだろう。

「あばよ」

 息吹が無事に通り過ぎ、最後の一言を比佐美に渡した。これでするどい物語は発生せず静かな夜が続くと思われた。

「マーキュリー!」

 突然に比佐美から発狂したような声が上がる。

「うん?」

 さすがに無視できず振り返る息吹。そしてその次の瞬間、ブス! っとひどく鈍く印象的な音が沸きあがる。

「ぁ……く……ひ、姫……」

 息吹の腹にブッ刺されたどでかい包丁。それはもうキズという表現で済まされないほど立派に突き刺されている。

「いっしょになれないなら死んで!」

 ズブズブっとさらに深く力強く押し込まれる刃物。これは完全に息吹の油断であった。まさか姫が刺すはずがないという、女を知っていてしかるべき稼業においては致命的に甘い考えを抱いた報いでもある。

「ブッ……」

 ふるえる息吹の口からブワっと大量の血が噴き出す。そして刺されたホストは、やばい、死ぬかもしれない! と思う余裕すら持てないので、自然に仰向けとして地面に倒れる。なんのガードも受け身もなく、ガン! と後頭部を固い地面にぶつけて横たわる。

「く……クソ女……」

 それが息吹にとって最後の言葉となった。息ができずに苦しいをはるかにしのぐ脱力と心地よさが、生への執着を男から完全に奪い取る。圧倒的、神がかり的、そういう快感に誘われ息吹の両目は閉じられていく。

「マーキュリー、マーキュリー、マーキュリー」

 小畑比佐美30歳、絶望と哀しみと興奮の3つがありえないスケールで混じったことにより、拡声器でも使っているのかと思うような大声を出しながら、何度も何度も包丁でめった刺しを繰り返す。ざっくり、ざっくり、肉をえぐり出血で絵を描くかのように、かなり後になってやって来る警察官に止められるまでの間、彼女はそのふるまいを一度してやめなかったのである。
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