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楽園になったソファ

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 ある晴れた昼下がり、市場へ続く道。私の目の前を一匹のアナグマが横切っていった。

『ちょっと失礼しますよ』

 と言いながら。
 ……あれも、神の使いだったのだろうか?

「神の使いってその辺に居るもんなの?」

 食材の仕入れから戻ってきた私はキッチンから、キャットタワー周辺に居る猫ちゃんたちに声をかける。

『生き方は皆それぞれですのでその辺で気ままに生活しているものもいらっしゃいますねぇ』

 そう答えてくれたのはモニカだった。
 ということは、あのアナグマは自由気ままな神の使いだったのか。

「神の使いって、なんで神の使いって呼ばれてるんだろう?」

『そう呼び始めたのは人間ですので我々にはなんとも』

「そりゃそうか」

 神の使いがなんなのか、近所の図書館とかに行けば詳しく書かれた文献があったりするのだろうか?
 今度行ってみようかな。
 あぁでも長時間外出するとダイダイが寂しがるよなぁ。

「ンー」

「はい」

 私は現在、ねこカフェを開くことを想定して、そこで出すメニューを考えている。
 そして猫ちゃんたちはキャットタワー周辺でわちゃわちゃしているのだが、ダイダイだけは私の肩に乗っている。
 この子本当に私のこと大好きだな。
 ダイダイは口を開けるのが面倒なのかただ甘えているのか知らないけれど、小さな声で口も開かずに私の耳元で「ンー」と鳴いている。わりと定期的に。
 そして私はその鳴き声に対して「はい」と返事をしている。言葉は聞こえないけれど、話しかけられた気がして律儀に返事をしてしまうのだ。かわいいし。

「ンー」

「はーい」

 いやぁかわいいが過ぎる。
 じゃなくて。とりあえずメニューを考えなければ。
 猫ちゃんたちのおやつは充実させたい。だから人間に提供するメニューの原価は抑えなければならない。
 私は人間よりも猫を優先したいのだ。許せ人間。
 そんなことを考えていると、呼び鈴が鳴った。

「イリスちゃーん」

 と、女性の声がしたので、お隣さんだろう。

「はいはーい」

「ンー」

 ダイダイも返事したな、今。

「こんにちは、ヴェロニカさん」

「頼まれてた猫の形の金型が出来上がったから届けに来たわよおぉ可愛いー!」

 お隣の調理器具屋さんの娘さんことヴェロニカさんは、私の肩に居るダイダイに気が付いてテンションを上げた。

「可愛いでしょ! 他の子もいるんだけど、この子だけ妙に私にべったりで」

「そうなんだぁ。撫でても大丈夫?」

「大丈夫ですよ」

「ミー」

 ダイダイが久しぶりに口を開くタイプの鳴き声を零していた。

 猫型金型の代金を支払うと、ヴェロニカさんは「仕事さえなければもっとなでていたかった」とぼやきながら帰っていった。
 猫型金型は色んなサイズのものを作ってもらったので、あれこれ活用できるはずだ。
 まずは猫型オムライスなんかを作るのもいいだろう。
 猫型サンドイッチも作れるし、あれこれ猫の型抜きで猫型にしてしまえば可愛い料理が量産出来る。
 元々は成り行きでねこカフェを開こうと思い至っただけだが、可愛い料理を作って人に提供できると思うと、少しだけ楽しみになってきた。
 できれば、私は楽しく働きたいし、楽しく働いている様子を他人に見せたいのだ。
 なぜなら私は前の職場から捨てられたのだから。
 というか、捨てられたという噂が少なからずそこらへんに漂っているはずだから、と言ったほうがいいのかもしれない。
 私自身は資金をごっそり手にしてここにやってきたし、今はもう仕方なかったと思っているけれど、世間の目は違うかもしれない。
 下手したら三角関係の末私だけが追い出された、みたいな噂もあるかもしれない。
 捨てられた可哀想な子だと思われているかもしれない。
 だから、私は可哀想なんかじゃなく、楽しく働いているのだと態度で示したいわけだ。

「ンー」

「はぁい」

 ダイダイかわいい。
 これはきっとンーって言ったら私が返事するってわかってて言ってる。だから多分ダイダイは天才。
 もう猫ちゃんたちがかわいければ私に関する噂なんてどうでもいいかぁ。

「お、焼けてる焼けてる」

 少し前からオーブンに突っ込んでおいたスフレチーズケーキが上手く焼けていた。

「美味しそうだねぇ」

「ミー」

「ただお店で出すとなると手間がかかるから面倒だねぇ」

「ミー」

 ダイダイが返事をしてくれた。やっぱこの子天才か?
 もふもふの猫ちゃんを眺めながらふわふわのスフレケーキを食べる贅沢を想像しながら焼いたけれど、量産出来る気がしない。
 とはいえどのくらいお客さんが来るかわかんないし数量限定みたいな感じでなら出せるか?

「耳元でぺろぺろしてるみたいだけどダイダイちゃんはこれ食べられないねぇ」

「……」

 え、返事しないってことは不服ってこと? 天才か?

「でも猫ちゃん用のケーキも作ったからそっちは食べられるからおやつの時間にしようか」

「ミー」

 はい天才。
 猫ちゃん用のケーキって言ってもちびっこたちはまだ離乳食を食べ始めたばかりなので丸くて可愛い器に盛っただけなんだけれども。
 キャットタワー周辺、ごはんスポットに器を並べると、皆仲良く並んでおやつを食べ始めた。
 ただそれだけでかわいい。

『美味しいです』

 と、サリーが言う。

「それは良かった。じゃあ私も食べようかな」

 ホールで焼いてしまったので一人で食べきれる気はしないのだが。
 でも食べなきゃもったいないし。お隣におすそ分けでもするか。

『イリスさんは美味しいですか?』

 そんなボニーの問いに、私は大きく頷きながら笑顔を返した。
 もふもふを眺めながらふわふわを食べる、最高の贅沢です。

「そういえばこないだ作ったジャムが残ってたはず」

 チーズケーキの上にジャムなんかトッピングしちゃおうかな、そう思って立ち上がると、離乳食を食べていたダイダイがてちてちとこちらに向かって突進してきた。
 どうやら私が離れるのが不服らしい。
 私は即座にジャムを諦めた。

「どこも行かないから食べてていいよ」

『イリスさん、すみません』

 ダイダイの母であるモニカが言う。

「いいよいいよ超かわいいから」

 むしろご褒美ですありがとうございます。

 皆が食べ終えたのを確認してから、私はまたダイダイを肩に乗せて食器の片づけを始めた。
 ダイダイは私の耳元でゴロゴロと喉を鳴らしている。そろそろ眠くなってくる頃合いかもしれない。
 色々考えたり作ったりしてたし、私もこの片づけが終わったら休憩しよう。

『イリスさん、休憩ですか?』

 片づけを終えてソファに向かうと、サリーたちの視線が一斉にこちらに向いた。

「うん。なんやかんやでずっとキッチンで立ちっぱなしだったから一旦座ろうかと」

 そう言いながらソファに座ると、サリー、ボニー、モニカの三匹も私の隣にやってきた。

『なでなでしてください』

「喜んで」

 三匹が私の右隣に綺麗な猫団子を作ったので、順番になでなでしていく。
 ゴロゴロと喉を鳴らし、三匹のかわいいおててがもみもみと動いている。かわいい。
 お母さんになったとはいえ、こうして甘えたくなる時もあるのだろう。
 かわいい三匹を撫でていると、ちびっこたちがミーミー鳴きながら足元に集まってきた。
 ちびっこたちはまだソファには登れないのだ。

「皆もソファに乗せちゃう?」

『乗せても大丈夫なら』

 おっけー全員乗せてやろう。
 はいおいで、と呟きながら足元に手を伸ばすと、皆大人しく捕獲されてくれる。
 とりあえず私の右隣はママたちが猫団子を作っているので左隣に乗せればいいかな。

「ミー」

「お?」

 どうやら左隣はお気に召さなかったらしく、ちびっこたちは私の膝によじ登ろうとし始めた。
 よじ登られるとスカートに爪が引っ掛かって「爪が取れない」ってじたばたしたりするので掬い上げるように膝の上に乗せる。
 するとサリーの子であるアカとミドリが私の膝の上でもみもみを始めた。かわいい。
 ボニーの子、アオとキーロもそれに続くようにもみもみを始め、くつろぐ態勢に入る。
 モニカの子は基本的に皆甘えん坊らしく、私の膝の上だけでは足りないのか、私の太ももと母猫たちの隙間を狙って潜り込み始めた。
 そして私の肩の上に居たダイダイは、今は肩の上よりも膝の上のほうが撫でてもらえると判断したらしく膝の上に降りてきた。天才。

「……はぁ」

『イリスさん、ため息ですか? なにか悩み事ですか?』

 と、サリーに問われた。

「悩み事ではないよ。幸せだなと思って」

 そもそもこんなにかわいいもふもふに取り囲まれていれば多少の悩みなど消えてしまうというものだろう。

『幸せですか』

「うん。皆がこんなにもかわいい」

 そう言うと、三匹がえへへと照れ笑いを零していた。はぁかわいい。
 しばらく思う存分なでていると、皆眠り始めたようだ。
 起きてる時もかわいいけど寝てる時もかわいい。
 何気なく、寝ているダイダイの肉球をちょんちょんと触ると、きゅっと握り返してきた。
 生きててよかったと思えるレベルでかわいい。

 それからしばらく、私もソファの背もたれに体を預けてうとうとしていた。
 横にはなれなかったけど、そして首とお尻が痛いけど、すべては猫ちゃんたちのため。
 そんなことを考えていた時のこと、絶対に立ち上がれない状態なのに呼び鈴が鳴った。
 立ち上がるには子猫たちを起こして膝の上から降ろさなければならない。それは嫌だ。
 どうしたもんかと思案していると、外から「イリスさーん」という男性の声がした。
 この声はステファンさんだ。
 ステファンさんならいいや、そう判断した私は、大きな声で言った。

「今手が離せないので勝手に入ってきてくださーい」

 と。
 この扱いの雑さ、アランが見たら絶対に怒るのだろうな。ステファンさんはすごい人なんだと言っていたし。

「不用心では?」

 ステファンさんの第一声がそれだった。

「た、確かに」

 扱いの雑さとか考えている場合じゃなかった。さっきヴェロニカさんに猫型金型を届けてもらった時から開けっ放しだった。

「女性が一人と猫しかいないのですから、戸締りはきちんとしたほうがいいと思います」

「はぁい」

「ンー」

 私の「はい」に反応したダイダイが返事をした。寝ているはずなのに。

「あ、じゃあ今日みたいなことになった時のためにステファンさん、ここの合い鍵持っておきます?」

「……それはそれで不用心かと」

「……そうですかね。でもほら、今膝の上がこんな状態で。この子たちを起こして立ち上がる勇気あります?」

「ないですけど。いやでももしも今日のような状態になっていたら、俺が出直せばいいだけですので」

 真面目な人だな、ステファンさんって。

「ところでステファンさん、今日は何をしにきたんですか?」

 私がそう尋ねると、彼はちょっぴり照れ臭そうに笑って、紙袋を差し出してきた。

「出掛けた先でこれを見付けて、買ってきてしまったんです」

 と、紙袋から出したのは、猫用のおもちゃだった。しかもそこそこの量の。

「子猫たちが喜ぶかなと思ったら、つい」

「……猫用のおもちゃって買いたくなっちゃいますよね」

「……はい」

 面白い人だな、ステファンさんって。

「皆起きたら遊んでくれると思います」

「だといいのですが」

 そう言ったステファンさんの表情が、どこか嬉しそうだったので私もつられて嬉しくなった。

「これは想定外だったな」

 皆が起きだして、徐々にテンションが上がってきたところでおもちゃを見せると、子猫たちがわちゃわちゃと騒ぎだす。

「そうですね。まさか一番人気がおもちゃを入れてきた紙袋とは」

 買ってきたおもちゃよりも紙袋を気に入ってしまったようで、子猫たちは順番にそして楽しそうに紙袋に飛び込んで遊んでいたのだった。

「まぁ、楽しそうならそれでいいか」

「ですね」




 
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